どうでもいいこと

M野の日々と52文字以上

なんとなくブラウザ落ちまくり

2016-03-05 01:11:00 | 日記

 

天気もよく暖かかった。泳ぎに行こうかと思っていたのをやめてしまったのは、何か違和感があったからだ。熱は無いし咳も無い。何か違和感だけがあるのだ。それがわからないので、家でケーキを焼くことにする。メレンゲクッキー余りの卵黄で作ると発酵に時間がかかる。かなり卵黄が溜まっていたのだ。ついでにメレンゲクッキーのでの粉も作った。

最近買ったパーヴォ・ヤルヴィー指揮の「春の祭典」とカール・ニールセンの交響曲5番のカップリングのCDを、爆音で聴いてみた。届いてすぐに聞いたときに訳のわから無い気分になった。1946年録音のベイヌムという指揮者の解釈に近い、確かに音色のバランスとかはまったく違う。だが「春の祭典」演奏史で、ある意味特異点すぎるのだ。初期の指揮できるというだけで大変だった時代があって、解釈をどうするのかという流れになってハンガリー帝国が出来上がる。そこにフランス人が徹底したスコア解析で登場、解析結果から自由度の高い解釈が可能になって指揮者が個性豊かな春祭を展開したが、結果は中途半端な者になった。ハンガリー帝国の躍進を許したが、ハンガリー帝国は後継者不足で一気に没落。そこに指揮者コンクール出身という、平気の平左で変拍子を振って解釈できる若手が登場。ロック世代だけあって抜群にうまい。本当の個性豊かな春祭が登場した。

その中である意味楽譜通りの演奏というのは、これいかに。実はこのCD、ニールセンがメインでして、ニールセンの5番という摩訶不思議な曲は分裂したところがあって何が何だかわから無い。ショスタコーヴィッチの方がわかりやすい。ニールセンはとにかくぶっ壊れている。そこを何にもしなかったというのがこのCDとしか言いようが無い。

どうゆうことかといえば、第一次大戦を挟んでの暴力の違いらしい。春の祭典は棍棒と狂乱と再生だが、ニールセンでは規律正しい秩序と破壊し続ける火器に分裂しているのだ。その上再生は無い。夢も希望もほとんど無い中で生活は続く、みたいな終わり方をしている。

とはいえ、何にもしなくとも説得力を持たせるためにはとんでもない技量が必要で、えらく緻密だ。確実に「初めての春の祭典」入門には最高だろう。なおオーディオマニア向けにはデジタル録音のショルティかマイケル・ティルソン・トーマスの96年録音をオススメしたい。ショルティはわかるが、なんでトーマスかといえばこの録音のダイナミックレンジが半端で無いこと。爆音だけだったらドラティのステレオアナログをオススメします。

 

 

高松の池に行くと、キンクロハジロから「コメの人」と思われているようだ。

集まる集まる。カワアイサまで来た。

実は、ここまでで1時間かかっている。なぜかというとブラウザが落ちまくっていたのだ。ものすごい、英文字一文字打っただけで落ちる。gooに移行してから、この現象がひどく、使っているサファリとの相性かとも思ったのだが、多分このブログはクラウド的な、gooのサーバーとその端末というシステムで動いているとしか思え無い。結果サーバーがビジーになっているとかが原因としか思え無い。ウイルスバスターを止めようが再起動しようが、パソコンの電源を安全に落とそうが、何してもどうしようもなくなる。禁則文字や絵文字でも無い。

gooにバグがあるんでは無いのかと思う。もちろんmacだからというのは無きにしも非ずなのだが、過去の世界シェア4%の時代よりは対応せざるを得無いはずです。

 

 

とは言っても、くだら無いことばかり書いているのですから、サーバーが拒否しているのでしょうかね。素晴らしいAIかもしれません。

散々落ちまくっているので、諦めていたのが、今猛然と怒っています。何に怒っているかといえば、今突然にこうして書けることです。