「日常」は日々の暮らしだ。
そして・・・ほとんど固定概念で作られている。
「日常」は「生命」を使う。
肉体は時間と共に老化する。
(ある期間までは成長という)
「生命」を使うが、活性も起こる。
消耗と活性を繰り返しているのが「日常」だ。
消耗や活性の変化幅は少ない。
全体的には、穏やかに生命(身体)は老化する。
「日常」において時間は一方向へ一定速度で流れている。
(例外があったり、細かくは一定でないが無視しよう)
「日常」は、この世(物質界)の基本となっている。
基本を受け入れ、大切に扱わないと「意味」も無くなる。
この世に存在する意味は「日常」の中にある。
「日常」があるなら「非日常」もある。
基本があるなら、例外もある。
「例外の存在理由」
それは「基本の補助」だ。
「非日常の存在理由」も然り。
「日常の補助」なのだ。
精神世界スキスキ人間は、ここを理解していない。
「非日常」は「日常」の為にあるのだぜ。
「非日常」を追いかけるのは・・・アホだ。
「日常」が基本。
だが「日常」しか見ない、知らないのもなぁ・・・。
この世を半分しか見ないと同じだ。
固定概念は視野も意識も狭く浅くするだけだ。
「日常を活かす」ことが「生活」なのだぜ。
「生命を活かす」ことが「生活」なのだぜ。
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」