水上陽平の独善雑記

水上陽平流の表現でいろいろな事を書いています。本館は http://iiki.desu.jp/ 「氣の空間」

「氣使い・18」

2007-01-21 21:24:47 | Weblog



ワシは根性無しだ。
自分の意識を捕まえておけない。
意識を守る根性が無い。
どうせ意識なんて変わる。
寺山修司氏も指摘した。
だけど~心は~すぐ変わる♪

そんなアテにならない意識だ。
本気で使えない。
一般的な中国気功はエライのだ。
意識で「氣」を使っている。
ワシには出来ない、わけでないが・・・
本気で使えない。

アテにならない意識を除ける。
すると「何も無い結界」が出来る。
そこを通る「氣」がある。
(注:周波数合わせは必要)
そいつ(氣)を自動的に働かせるわけだ。
ワシは他人?のフンドシ(氣)で報酬をいただく。
フッ・・・わるくない仕事だぜ。。。


(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。)
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「氣使い・17」

2007-01-20 22:38:00 | Weblog



通常「氣」は固定してない。
だが「氣」は「気マグレ」ではない。
気マグレなのは、意識の方だ。
「氣」は自由なのだが、変わるわけじゃない。
「氣」が変質するわけじゃない。
意識に対応する「氣」と入れ替わるのだ。
「変わる」のではなく「替わる」のだ。

ワシの扱う「氣」は別物だ。
「調和の氣」は「替わる」必要がない。
「氣」が変わるわけでもない。
「氣」によって、その結界内が変わるのだ。
調和に向かって変わるのだ。

意識で呼び出さない「氣」だ。
意識を使わない時に飛び込んでくる。
だから意識によって替わることもない。
もともと意識は隅っこで大人しい・・・。


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「氣使い・16」

2007-01-19 20:02:44 | Weblog



未来を今の階段から判断している。
今の概念の範囲で想像している。
それは間違いだろう。
下手な想像は未来を縮小するだけだ。
(未来については、改めて書くつもりだ)

「氣」を使っているわけじゃない。
「氣」がワシの身体を使って(通って)いるのだ。
それでも長年親しむから影響を受ける。
この「氣」は明るい。
ある意味、未来からのモノだ。
未来は・・・ノーテンキな性質がある。
ある、ような気がする。
ワシが未来を信じられるのは、この「氣」の影響がある。

何かが観える。
それが当たっているかどうかは知らない。
だが、その人の未来が判るわけじゃない。
現時点が観えるだけだ。
先のことなど、判らない。

判らないという事が、解ってくる。
ますます、ワシは判らない事が増えている。
だから
未来は愉しい。


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「氣使い・15」

2007-01-18 21:29:16 | Weblog



遥か彼方に続く階段だ。
自分がいる階段からしか観る事はできない。
それを概念という。
だから、その時点の概念は誰でも持っている。
だが、概念(階段)を固定したらそれまでだ。
他の景色を観る事はできない。
階段を上がる機会を放棄してしまう。

自分の考えなどアテにしない。
他人の考えもアテにしない。
社会の常識など、もっとアテにしない。
科学の常識など、アテにする方が無謀だ。

アテにしないが、現時点での判断はする。
もっと素敵な未来を信じている。
信じるのは未来であり、現在ではない。
現在は仮の通過点なのだ。
未来の別名を「神」といってもいい。
(自分の未来ではない。全ての未来だ)


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「氣使い・14」

2007-01-17 21:33:08 | Weblog


使う範囲?量?。
それはワシの意識で広がる。
ワシの固定概念が外れた分が可能になる。
簡単というか、難しいというか・・・。

この「氣」に限らない。
あらゆる能力などは、そんなものだ。
使えないのは、自分が鍵をかけている。
どんな人も同じだ。
能力は誰でも最初から備わっている。
自分で規制しているだけだ。

ワシは多少、常識外の世界に触れてきていた。
異世界に通じていた母方の祖母の血が流れている。
その分、常識は外しやすい。
それでもワシなりの固定概念がある。
その概念で解析してしまう。
(自分の)解析をするのは仕方ない。
だが、その解析を固定しまっては先に進まないのだ。


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「氣使い・13」

2007-01-16 21:37:06 | Weblog



「氣使い」といえば、そうとも言える。
自由に使えるか、となると・・・半分だけ。
ワシの身体と意識を貸しているのだ。
ある意識状態で(氣は)勝手に降りて来る。

意識で自由になる分だけは使える。
自由にならない分は使えない。
身体は基本的にワシの分野だ。
だから何処に行くのもワシが主体だ。
その分はワシが使える。

だが「氣」を働かせようとしても無理だ。
「ワシの氣」ではないからだ。
例えば・・・
宝くじを当てる・・・
無理(実は・・・やってみた・・・)。
他(人や動物)を操る・・・。
これも無理(やったことはない)。


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「氣使い・12」

2007-01-15 22:06:46 | Weblog



使っているワシだって解らないことだらけだ。
使っているうちに少しだけ解る事もある。
それを説明するのは難しい。
これは理屈などではない。
体験だけでもない。
一瞬にして解る分だけ解る。

理解してもらおうなんて思わない。
理解をさせたくても出来ないのだ。
理解しなくても認めてくれる人が依頼人だ。
理屈でなく、結果で示す。
結果は簡単に出る場合と、長くかかる場合がある。
(結果まで待ってくれる人ならいいんだけど・・・)

ワシへの依頼人の多くが、そのままで依頼する。
アレコレ理屈を聞かない。
何だかわからないけど、必要な人は来るようだ。
最近は、双方とも理解出来ない事を理解してくれている。
ありがたい。


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「氣使い・11」

2007-01-14 21:11:54 | Weblog



出来るだけ余計なマネをしない。
依頼されてないのなら手を出さない。
引き受けてなければ口も出さない。
観えても、見てない。
何とか、それが普通に出来るようになった。

ワシの氣ではないが「氣使い」だ。
特殊能力に属する、ともいえる。
まだまだヒヨッコとはいえ、プロ側だ。
特別隠すわけではないが、矢鱈に使わない。
通常は無能力者だ。
まして、人一倍ナマケモノだ。

故御師匠様は言った。
「出来るだけ、普通にしなさい」
そうでなくてもアヤシゲな仕事だ。
ヘタな「氣」は出さない。
出さない事が出来て、プロだ。
どうにか、ここまで来た。


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「氣使い・10」

2007-01-13 19:06:33 | Weblog



通常の「気づかい」は「気遣い」と書く。
相手の心を読んで自分の心を配る、という意味だろう。
相手を思いやる、という行動だろう。
浅い「気遣い」は、返って(少し)迷惑になる場合もある。
深い「気遣い」が出来る人は少ない、という現実もある。

だが、ワシの「氣使い」は逆だ。
相手の心は読まない。
読めない、というより、読もうとしない。
相手の心に興味が無い。
自分の心だってワケが解んない。
心を相手にすると、迷宮入りだと知っている。

当然、自分の心も配らない。
自分の「氣」も配らない。
「ワシの氣」なんてロクデナシだ。
配られても迷惑だろう・・・。
だから使うのはワシの氣ではない。


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「氣使い・9」

2007-01-12 21:52:14 | Weblog



相手を観るのではない。
この「氣」は調和力だ。
どうやら一定の空間を調和状態にする。
(結界を自動的に張るようだ)
しようとする。
すると違和なモノが浮かび上がってしまう。

病(闇)は調和状態で浮かび上がる。
原因など知らない。
どうでもいいとは思わないが。
違和なモノであるのは確かだ。
だから苦しむし、困る・・・。

違和なモノは形になった病だけではない。
形になる前の病も違和なモノだ。
その他にもいろいろある。
心(意識)の状態とか、余計な霊とか・・・。
(ワシの)曲がった根性とか・・・。

違和には違いないが、絶対治すモノでもない。
違和は
いろいろな「気づき」の元でもある。
活かせば「学び」にも「幸運」にもなる。
治すより「活かす」が優先する。
と、ワシは思っている。



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