水上陽平流の表現でいろいろな事を書いています。本館は http://iiki.desu.jp/ 「氣の空間」
観てしまった事。
伝えるのではない。
活かすのだ。
だから嘘もつく。
正直にも言う。
どっちだっていいのだ。
活かすならば・・・。
アイマイな言い方になる。
口ごもる。
仕方ないじゃないかぁ。
正直に言えるなら楽だ。
でも、一律で言うわけにいかないだろ。
全員が前向きで意思が強いわけじゃない。
生命力は弱っている人が多いのだ。
仮に言っても、理解出来ない事柄も多い。
と、時々、愚痴りたくなる。
観えてしまうのは・・・結構ヤッカイなのだ。
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。)
観えてしまった事。
それを全部相手に伝えるわけじゃない。
これでもプロだ。
伝える状況に相手があるか、どうかも観る。
一律に情報公開する分野じゃないのだ。
病院の方針だから、と何でも話すのはなぁ。
あるいは秘密にするのもなぁ・・・。
どの世界もプロは少ない。
医者もプロは少ないようだ。
公務員じゃあるまいし・・・。
責任逃れをしてはプロ失格だろ?
(とゴマメの治療者はこっそり言うのだ・・・
権威ある医者に楯突くのは、こっそりとだ・・・)
無責任と生涯の友情を誓ったワシだ。
責任なんて持ち出したくないけどね・・・。
本当の事など話せない。
どう話していいのか判らない。
相手の生命力が低下しているのだ。
応援するにはどうするかだ。
観えた事を話しても活かせない。
ワシでも(悩むほどじゃなくても)考えるぜ。
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。)
氣功時、自分が自分を離れる。
勝手に離れてしまう。
どうやら冥想状態に近いらしい。
もちろん高僧のする冥想とは雲泥の差がある。
高僧は上品で深遠な真実を冥想する。
ワシは下品のままだし真実など求めてない。
冥想なんてピンからキリまであるんだ。
まして冥想に至る方法の一つの瞑想法。
これもピンからキリまであるんだ。
やればいいってものじゃない。
瞑想法をして「冥想」をしない人は多い。
瞑想法に「こだわる」人も多い。
本末転倒・・・。
ワシは下品のままだが、自分を離れる。
すると観えてしまう事がある。
勝手に観えてしまうのだ。
ワシは観たいとは思わない。
そんなの興味ない。
自分の役は観る事じゃない。
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。)
使っている「氣」が何処から来るのか知らない。
故御師匠様は宇宙の彼方から、と言っていた。
証明は出来ない・・・。
だが、人のモノでないのは判る。
人の範囲を超えているのは判る。
鍛えて使うようなモノではない。
最初の頃。
ワシはワシの身体を通っているのかと思った。
ラッキー♪
自動的に健康になれる。
しかし、それは間違いだった・・・。
身体を通ってはいない。
身体は止まったままだ。
手の表面だけから発光する。
あるいは、身体の表面から発光する。
表面に扉が開かれるのだ。
決して中の(自分の)氣が反応しているわけではない。
こういう事も10年以上経って、やっと解ってきた。
ワシは何年「氣使い」してもワシの中身が変わるわけじゃない。
むしろ時が止まって、変わらないままなのだ。
ワシは・・・成長しない・・・。
それもラッキーだ。
成長したらラッキーだ。。
成長しなければ、それもラッキーだぜ。
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。)
自分は止まっている。
自分の氣を使わない。
(別な氣を使っているから)
だから生命を使わない。
自分の時が止まっている。
一般的な中国気功は逆だ。
自分の氣を鍛え(練功)て使う。
だから生命を使う。
エネルギーを使う。
腹も減る・・・。
ワシは他のフンドシ(氣)を使う。
エネルギーは使わない。
生命も止まったまま。
(多分・・・歳をとらないのだと思う)
腹も減らない・・・。
疲れて眠くなる事はない。
気持ち良くて眠くはなる。
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。)
自分が自分から離れる。
離れる時もある。
離れるほどじゃないが、薄くなる。
どう説明したらいいのかなぁ・・・
自分を捕まえている力が弛む。
元々しっかりしてないワシだ。
自分にこだわるモノは持ってない。
立派なモノはない。
小ちぇえモノだ。
それでも使えるけどねぇ。
(勘違いするなよ。心だぜ)
氣功時は自分が薄くなる。
誰でも自分の氣を使って生きている。
ところが、この氣功は自分を空にする。
自分のモノは端に寄せている。
空いたパイプの中を(氣が)流れて来る。
その時、自分の氣(元)は使わない。
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。)
正体など判らなくても使える。
性質が判れば使い方は工夫できる。
この世にあるモノなんて、大抵そんなもんだ。
判った、解ったと勘違いしているだけだ。
例えば・・・人間。
夫婦だって、お互いの本当の正体なんて判らない。
本当の心なんて解らない。
それでも性質は判る。
工夫すれば、いい夫婦や家庭は築ける。
工夫とは「思いやり」の別名だぜ。
「氣」は多種多様の性質がある。
荒いのも暗いのも冷たいのもある。
突き刺さるのもあれば、切れるのもある。
柔らかい、暖(温)かい、明るいのもある。
ワシの使えるのは「調和」力だ。
調和は自然でもあり、生命でもある。
だから、こんなワシでも思い切って使える。
調和力なら間違いようがないのだ。
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。)
いいかげんなワシでも気づいてしまう。
見えるわけではない。
感じてしまう、というのとも違う。
思い込み・・・とも違う。
ワシは思い込むほど、他人に関心がない。
解ってしまう・・・のかもしれない。
だが正しいかどうかは知らない。
勝手な解釈だと思う。
当ってるかどうか、なんて知らない。
そう気づいてしまうのだから仕方ない。
これでも微妙な世界の住人だ。
相手はクライアントに限らない。
すれ違う人やTVの中の人の時もある。
身体の状態、全てではない。
もちろん心を読んでいるわけではない。
ワシはリーディングには興味ないのだ。
他人の事など、知りたいとは思わない。
ワシはプロの治療者の自覚がある。
説明なんてどうでもいい。
(どうでもいいわけじゃないけど・・・)
相手が納得する説明をする役目じゃない。
健康に戻すのが役目だ。
それに納得する説明なんて出来ない。
「使っている氣」だって独善解釈だ。
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人類の方向がある。
日本の方向がある。
集団が大きくなるほどハンドルは重い。
道の修正は難しくなる。
個人の方向がある。
個人はいつでも方向を決められる(変えられる)。
個人のハンドルは軽いのだ。
いつでも、やり直しが出来る。
集団の修正は個人から発する。
個人が思い、行動する事から始まる。
集団の修正は難しくても、個人の責任なのだ。
卑怯な政治家は個人個人が選んだのだ。
戦争や自然破壊などの大きな苦しみは
欲得まみれの政治家や官僚だけの責任ではない。
生き方の自立をしないと・・・ヤバイかも。
自立は「共生の自覚」だ。
どんな生き方をしてもいい。
だが共生(人類だけじゃない)の自覚は基本だ。
ワシのようなナマケモノでも共生の自覚はある。
大声は出さない。
立派な生き方も遠慮する。
出来る限り自由に生きたい。
気ままであり独善でもある。
それでも「共生の自覚」は基本だ。
他を犯す(侵す)なら自由も失う。
そのくらいは、知っている。
今年も更に自由に生きる。
より基本を大切にするから自由になれる。
他の自由と自の自由は同じだ。
自分の生き方に自信があるぜ。
ワシはワガママだ。
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。)
毎年、何かが始まる。
誰でも必ず何かが始まっている。
それに気づくか、気づかぬか。
それを活かすか、活かさぬか。
ただ、それだけの違い。
この違いが、一年経つと大きい。
道の仕組みは、そんなもんだ。
分かれ道(始まり)は僅かな角度だ。
同じ道だと思い込めば、同じ道になる。
道は毎年違うと思えば、違う道になる。
先は判らぬ、と素直に認めればいい。
判らない事、解らない事は、面白い。
わからないからこそ、ワクワクできる。
ワクワクしてれば、愉しい事に出会う。
ワシは愉しい事に出会いたい。
そういう道を歩いていたい。
だから、わからぬ道が好きだ。
未熟でいたらぬ自分が好きだ。
大丈夫だ。
今年も充分未熟なままだ。
先は読めない。
愉しい事が待っている。
未来が誰にもわからないのは
神様からの贈り物だと思う。
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。)