今日は都心に出張ってましたが、こまかに何かと忙しく、
お蔭で引きかけの風邪もなりを秘そめたが、
帰りが遅くなって空腹すら忘れていた。
するとコートのポケットに、日中友達より賜りし
豆に薄く飴をコーティングした姫菓子があった。
それを臼歯でかぷりと崩せば、落花生の香りが跳ね、甘さがひろがった。
時を忘れるこの刹那こそ正に電車カフェTimeと見えて、
ほっぺたを文字通り微笑ませつつ、水筒の澄水を呑む。
カフェという場は、仕事や日常の表層からはトリップさせ
別次元に切り替える装置であるから、
自らが手を掛けてあちこちに指紋が染みついているような場は
カフェにならない。
だからどんなに調度をととのえても、我が家をカフェモードにはし難く、
逆に友達の家であれば、雑然とした部屋であれ
ちいちゃい卓袱台と手作りカレーでカフェに成る。
要するにこれは自分以外の存在と交じり合いたいという
進化のための根源的な欲情にあらむ。
もしも家庭であっても、家族の1人が好きに手をかけた
場なり菓子料理であれば、他者感によって
他の家族にはカフェな風も吹く。
しかしその家族が、自分自身の趣味嗜好無意識をよけ、
誰かに合わせて設えたならば、その誰かは共感によろこびこそすれ
カフェTimeにはならない。
自分らしい空間を造りてそこに自分が居ることは二番煎じだ。
色んな情報やエネルギーに触れること。
カフェは器だけでなく、ここには知らない人も訪れて
見えないエネルギーを醸す。それを知らず受け取りながら、
世界がちょっとずつ広がる。
何だ蟹だ言いつつ、僕にはお菓子だに在れば
どこもみんなカフェ♪
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