ふろしき王子のブログ◎
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ふろしきマントは、現代の街角でみかけることはほぼない。
ひと昔まえならばパーマンごっこ。
さらに前は子どものチャンバラであろうが、
なぜチャンバラにマントなのか。

侍は別にマントなどしていない。
とはいえ、道中合羽に三度笠というのはある。

子ども心にマントがかっこよく映るのは、古くは
紙芝居の黄金バット、次に月光仮面、木枯し紋次郎、
パーマンやガッチャマン、アンパンマンと至るのか。

マントを羽織っても、なかなかムササビのようには飛ばれないが、
防御力が高まる期待は持てる。
布が一層ふえるし、動き方によっては敵を撹乱できる。

また、自分を大きく見せて威嚇にもなる。

本来我々もふくめて哺乳類は、全身の毛皮がバリアになって
水や乾燥、紫外線、衝撃などから守っている。

ヒトは厚い毛皮が無いかわりに、布をまとっているから、
布にくるまれれば安心感にもつつまれる。

いちまいマントは精神を安定させ、勇氣を得られるのかもしれない。

僕はアンパンマンのようにはふろしきマントを羽織らないが、
隣の角をそれぞれ小さめに真むすびしたのを
背中にしょった形の羽織りは、雨具や防寒具として
しばしば活用している。
古くはマーガレット、今はドルマンスリーブとも呼ばれる
この形は、風が吹いても舞い上がらずに使いやすい。

夏場でも、冷房が効きすぎてさむいときに生かせる。

息子がちいさいときは、帰りみちの夕暮れに寒がると
この風呂敷羽織「ぽかぽかマント」をはおらせて対応していた。

この羽織は、そのまま買いもの袋としてもつかえる。
このように複数の機能を兼ねてしまうのは、
ふろしきはそもそも見立て(ブリコラージュ)であるからだ。

しかし、真に有用な道具とは、あらゆる機能を内包し、
見立てが可能となる。
その最たるものが、手である。
手は使いみちが限定されておらず、
かくも便利なものは無いが、

当たり前すぎて「手が便利ですき」という人も少ないだろう。

僕にとってのふろしきも、手のように一心同体であるから
もはや「ふろしきが好き」という距離感ではない。

好きなうちはまだ、対象と距離があるということになる。
そして、知ればしるほど、分からなさも深まっていくから
安易に語ることが難しくなる。

ふろしきのマントや羽織を正面へまわせば、
赤ちゃんが安心してお乳を吸える。
おっかさんも乳かくしとしてよいのだろうが、
町や電車内で胸をだして授乳させるというのは
ひと昔ふた昔まえには日常風景だっただろう。

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たった1回でおわらずに済みそうです。
以前父が「お菓子なおかしな話」という
おかし道具についてのメルマガを発行したことがありまして、
それは最初の配信きり停まっています。
それこそが「おかしな話」として成立しています。

思うママに書くので長文になりやすいですがご容赦ください。

ふろしきといえば…

・お弁当つつみ
・(泥棒や夜逃げで)背負うもの
・唐草文様

そんなイメージを持たれやすかったりするのですが、

たしかに僕も、中学高校と弁当だったので、
バンダナで包んで持ち運んでいました。
ついでに、僕は横山なので、五十音順では
席が教室のすみっこになりやすく、
すぐ脇にはパイプに温かいガスが流れる暖房設備がありました。

登校して、朝そこに弁当箱を置いておけば、お昼には
フタをひらくと湯氣が立ち昇ってきて、より美味しく
あたたかく食べられたというたのしい思い出もあります。

さて、お弁当の次に「どろぼうが背負う」と書きましたが、
実際に、風呂敷をしょっている泥棒を見た人はどれだけ
いらっしゃるでしょうか。

人に見つからないように行動するために、ますます表に出ない
状況のはずなので、これは、漫画などの影響が大きいでしょう。
その根拠として、海外の人が「風呂敷は泥棒がせおっている」と
述べたことがあり、やはり漫画やアニメで見知ったようです。
もちろん、その柄は唐草文様であります。

結局、一般的な認識として、
お弁当つつみ、背負う、それともう1つ
子どもがチャンバラごっこでマントにするというのが
ふろしき三大イメージでしょう。
僕も、風呂敷を愛用しはじめる二十歳まではそうでした。

きっかけは、使い捨てのごみを減らすためでしたので、
ふろしきが想像以上に便利ということは知らず、
逆に、エコのためなら苦労しても構わないという意思がありました。

それで、嫌でもふろしきしかない状況の武者修行で
身につけようと、風呂敷包みひとつで旅に出たのが
大学3年をまえにした春休みでした。

はじめは、他のむすび方も知らないので
荷物一式をただお弁当包みして、片手で持ってあるいていました。

青春18きっぷをつかって鈍行列車にゆられながら、ユースホステルに
泊ったり、ときには野宿(寒いので一晩中からだを動かして起きている)で
そのうち、京都に着きました。

駅は七条あたりなので、そこから鴨川沿いを上流へ向かって
四条大橋まで歩き、新京極通りとか錦市場を回ります。
おそらくその辺りの土産物屋の店主のおばあさんが、

片手で大きめの風呂敷つつみを握っている僕に
「背負ったほうが楽だよ」とアドバイスがありました。

しかし背負うといっても、風呂敷をしょった経験はなく、
どうしたらよいかも検討がつきません。
するとそのおばあさんがひょいとやってみせてくれましたが、
ものの5秒です。

お弁当つつみのうち、ひとつの結び目をちいさめにむすび直せば
隙間がひろがるので、そこに頭と片腕をとおすだけです。
僕も真似してみると、
こんなに簡単なのに、驚くほど楽で、
それだけでない安心感やたのしささえ全身にみなぎります。

そのときから今にいたるまで、20年近く、徐々にかたちを変えつつも
毎日ふろしきを背負ってあるいていますが、
その中で見えてきたものがあります。

まず、背負うのは、文字通り背中で受け止めるので、肩の一部に
重さが集中することなく、ひろいせなかに分散されて楽というのがあります。
だから、背中にぴったりとフィットするように結び目の大きさを
調整することも大切です。

佳く背負えると、体をやさしく締めつけます。
このほどよい圧は、まるでリンパマッサージのようになり、
「都度、疲れをとりながら歩くことができる」とまで感じています。
もっと上の方に背負うと、斜めうえから体を押してくれるので
前へ前へと自然に後押しされる感じとなり、これは
同じく実践している友人も共通の感覚です。

整体をしている別の友人は、僕の背中をみて
「ふつうではなかなかつきにくい筋肉のバランス」と驚いていました。
普通の筋トレでは、一部の筋肉に負荷が集中するため、
それが偏らないように、様々な筋肉をつかうようにトレーニングの
種類を変えるのですが、
それでも使いきれていない隙間の筋肉があります。

風呂敷は、背中ぜんたいに荷物がくっつくことで、細かい筋肉
ひとつひとつが、その反発で育つのかもしれません。
無数のちいさな筋肉が全員協力して支えるイメージです。
数人の力もちに頼るのではなく、みんながちょっとずつ支え合うから
総体としてはつよくなる。

高校時代にどんなにダンベルで鍛えてもつかなかった
肩の筋肉(僧帽筋)が、いつの間にか発達していました。
見た目の筋肉ではなく、日々の日常の動作が、
必要な筋肉を発生され、くらしに役立っていることがありがたい。

僕は、風呂敷をからう(背負う)ようになってから
下駄をはくようになり、着物をきるようになり、
歩き方が変わって重心が下がり、と
基本的な生き方がすっかり変化してしまいました。

使い捨てをせず使いまわせるからエコでよい、
という部分的な了見を超え、シンプルゆえに無限の引き出しを持つ
宇宙そのものであると感じています。
20年近くむすびつづけても、まだちっとも風呂敷のことが分からない。
わからないままでよいのだと、楽しく役立てています。


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