甲骨文字が発見されたのは1899年とされる。それから120年余を経て、この文字はすっかり有名になった。今では漢字の起源といえば、まず甲骨文字から説き起こすのが当たり前になっている。しかし、日本ではこの文字に関する書物は、これまで研究書や図版が中心で一般の人が手軽に読める入門書がなかったといってよい。
著者の落合淳思氏は、甲骨文字と殷代史の研究者で近年、『甲骨文字に歴史を読む』(ちくま新書)や、『甲骨文字の読み方』(講談社現代新書)などこの文字をやさしく解説した本を出されている。甲骨文字に興味をもつ私は、この二冊を買い求めたが、さらに今回、同じ著者から甲骨文字の小字典が出たのを知り入手した。

何回も読んだので少し汚れてきた私の所蔵本
収録文字は教育漢字の350字
小字典と名付けられているので、どれほどの文字が収録されているのか気になるところだが、教育漢字1000字のうち甲骨文字の段階で存在していた350字とのこと。約4500字といわれる甲骨文字種からすると一割にも満たない数である。いくら小字典とはいえあまりにも少ないのではなかろうか。これはおそらく小学校の先生向けに書かれたのだろう。巻末の字音索引も学年別になっているから引きにくい。
とはいえ、350の甲骨文字が一つ一つ解説されているのであるから大変参考になる。多くは白川静・藤堂明保・加藤常賢の3氏の説を引用したのち自分の意見を述べているから、これまでの説も分かる。そして、3氏の見解と異なる独自の意見を提唱している字も多い。例をあげると、「冊」の甲骨文字は二つの系統があり、ひとつは柵の原文になる文字と、もう一つは木簡や竹簡の「簡」にあたる字で、具体的に文字が示されており参考になった。また、同じように阝の原字となる阜も二系統あり、一つはハシゴを表し、もうひとつは丘を表す字だという。これを読んで「こざとへん」の表す意味がよく分かった。
甲骨以外に文字が書かれた可能性
しかし、落合氏の説は「3氏はこう述べているが、甲骨文字の用法には地名・祭祀名・人名・施設名としての用法しかなく、明らかでない」という文章が多い。例えば「児」「任」「因」「対(對)」「良」などがそうである。また、3氏の説を引用するまでもない文字の「争」は人名、「鼻」は地名、「文」は人名・王名、「欠」は人名、「好」は「婦好」で人名だという。
こういう漢字の用法は日本でもある。ほとんどの漢字は地名や人名に使われる。しかし、甲骨文字で「争」や「文」が地名や人名だけだとしたら、この字の本来的な意味である「争う」や「文身・文様」はどこで使われたのか? 甲骨に刻まれる占卜以外にもっと他の用途で使われたのではないか? たとえば木簡や竹簡に書かれて記録や文書として使われていたのではないか、という想像がはたらく。事実、落合氏も甲骨文字の時代に木簡や竹簡があった可能性を「冊」の説明で指摘している。こう考えると甲骨文字は漢字の母でなく、占いに特化して使用された文字だ、ということになる。大いに刺激をうけた。
「同」の解説が物足りない
逆に、もうひとつ物足りない解説もある。「同」がそれだ。「同は祭祀名として使われ、凡と口から成るが由来は不明で「興」(祭祀名・人名)と同源であるかもしれない」と控えめな解説をしている。音符に興味をもっている私に言わせると、同の由来ははっきりしている。同は「凡(=舟・般・盤。容器)+口(口がまるい)」で、口がまるい形の器である。用途は酒杯。意味は字統にあるように、酒杯で献酬する祭祀。参加者が合一して一体となるので、会同・同一・共同などの意味がでてくる。そして、同が音符に使われるとき、酒杯が空洞であることから、筒(中空になった竹のつつ)・洞(水が大地を穿ってできた洞穴)・銅(穴がある貨幣に使われる金属)・桐(幹の中心に穴がある木)・胴(身体の筒のような部分)など、みな中空という共通したイメージがある。
次は常用漢字対象の中字典を
いろいろ感想を書かせていただいたが、この字典は甲骨文字を一般の読者に分かりやすく解説するとともに、水準の高い学術書でもあることは間違いない。惜しむらくは収録字数の少なさだが、次は常用漢字を対象にした「甲骨文字中字典」を刊行されることを願っている。
①
②
(筑摩書房 2011年2月刊 1900円+税)
著者の落合淳思氏は、甲骨文字と殷代史の研究者で近年、『甲骨文字に歴史を読む』(ちくま新書)や、『甲骨文字の読み方』(講談社現代新書)などこの文字をやさしく解説した本を出されている。甲骨文字に興味をもつ私は、この二冊を買い求めたが、さらに今回、同じ著者から甲骨文字の小字典が出たのを知り入手した。

何回も読んだので少し汚れてきた私の所蔵本
収録文字は教育漢字の350字
小字典と名付けられているので、どれほどの文字が収録されているのか気になるところだが、教育漢字1000字のうち甲骨文字の段階で存在していた350字とのこと。約4500字といわれる甲骨文字種からすると一割にも満たない数である。いくら小字典とはいえあまりにも少ないのではなかろうか。これはおそらく小学校の先生向けに書かれたのだろう。巻末の字音索引も学年別になっているから引きにくい。
とはいえ、350の甲骨文字が一つ一つ解説されているのであるから大変参考になる。多くは白川静・藤堂明保・加藤常賢の3氏の説を引用したのち自分の意見を述べているから、これまでの説も分かる。そして、3氏の見解と異なる独自の意見を提唱している字も多い。例をあげると、「冊」の甲骨文字は二つの系統があり、ひとつは柵の原文になる文字と、もう一つは木簡や竹簡の「簡」にあたる字で、具体的に文字が示されており参考になった。また、同じように阝の原字となる阜も二系統あり、一つはハシゴを表し、もうひとつは丘を表す字だという。これを読んで「こざとへん」の表す意味がよく分かった。
甲骨以外に文字が書かれた可能性
しかし、落合氏の説は「3氏はこう述べているが、甲骨文字の用法には地名・祭祀名・人名・施設名としての用法しかなく、明らかでない」という文章が多い。例えば「児」「任」「因」「対(對)」「良」などがそうである。また、3氏の説を引用するまでもない文字の「争」は人名、「鼻」は地名、「文」は人名・王名、「欠」は人名、「好」は「婦好」で人名だという。
こういう漢字の用法は日本でもある。ほとんどの漢字は地名や人名に使われる。しかし、甲骨文字で「争」や「文」が地名や人名だけだとしたら、この字の本来的な意味である「争う」や「文身・文様」はどこで使われたのか? 甲骨に刻まれる占卜以外にもっと他の用途で使われたのではないか? たとえば木簡や竹簡に書かれて記録や文書として使われていたのではないか、という想像がはたらく。事実、落合氏も甲骨文字の時代に木簡や竹簡があった可能性を「冊」の説明で指摘している。こう考えると甲骨文字は漢字の母でなく、占いに特化して使用された文字だ、ということになる。大いに刺激をうけた。
「同」の解説が物足りない
逆に、もうひとつ物足りない解説もある。「同」がそれだ。「同は祭祀名として使われ、凡と口から成るが由来は不明で「興」(祭祀名・人名)と同源であるかもしれない」と控えめな解説をしている。音符に興味をもっている私に言わせると、同の由来ははっきりしている。同は「凡(=舟・般・盤。容器)+口(口がまるい)」で、口がまるい形の器である。用途は酒杯。意味は字統にあるように、酒杯で献酬する祭祀。参加者が合一して一体となるので、会同・同一・共同などの意味がでてくる。そして、同が音符に使われるとき、酒杯が空洞であることから、筒(中空になった竹のつつ)・洞(水が大地を穿ってできた洞穴)・銅(穴がある貨幣に使われる金属)・桐(幹の中心に穴がある木)・胴(身体の筒のような部分)など、みな中空という共通したイメージがある。
次は常用漢字対象の中字典を
いろいろ感想を書かせていただいたが、この字典は甲骨文字を一般の読者に分かりやすく解説するとともに、水準の高い学術書でもあることは間違いない。惜しむらくは収録字数の少なさだが、次は常用漢字を対象にした「甲骨文字中字典」を刊行されることを願っている。
①


(筑摩書房 2011年2月刊 1900円+税)