突進隊
(さきがけon The Web 2011/01/29 付)
4隊目「南緯80度越え」
白瀬隊の第2次南極探検の目的は、後援会によって「南極点踏破」から「学術調査」へと変更された。隊は内陸部の気象や地形、氷河などを調査しながらできるだけ南進する「突進隊」と、開南丸を拠点に南緯78度付近を調査する「沿岸隊」に分けられた。
突進隊の上陸地点はロス海の鯨湾。氷結期の氷盤に行く手を阻まれた第1次探検に比べ、夏期の南極航海はおおむね順調だった。1911年11月19日にシドニーを出港した開南丸は、翌12年1月16日、鯨湾に達した。
白瀬隊の勇敢さ称賛
鯨湾に入る直前、開南丸の前方に船影が見えた。ノルウェーのアムンゼン隊の帰還を待っていたフラム号だった。翌17日、野村直吉船長らがフラム号を表敬訪問し、ニールセン船長と歓談した。野村は、著名な北極探検家ナンセン博士が設計したフラム号の堅固な造りに感心した。翌18日に開南丸を答礼訪問したニールセンは、逆にその貧弱さに驚き、白瀬隊の勇敢さと野村の操船技術を称賛した。
野村がフラム号を訪問したのと同じ日、英国のスコット隊が南極点にたどり着いた。そこには、アムンゼン隊が前年12月14日に既に到達していたことを記す手紙が残されていた。人類初の南極点踏破をめぐるレースが終わったことを、白瀬矗(のぶ)は知る由もなかった。
突進隊の出発準備が整ったのは19日。メンバーは隊長の白瀬以下5人。2台のそりを引く犬たちを操るのは、樺太アイヌの山辺安之助と花守信吉だ。一行の服装はシャツ2枚、ズボン下1枚、隊服、防寒帽、雪眼鏡、耳当て、毛皮オーバー。足元はかんじきの付いた毛皮靴だった。
翌20日、山辺の発する「トウトウ、カイカイ」という掛け声とともに、犬ぞりは出発した。21日には、南極特有のブリザードに見舞われた。山辺と花守が「樺太でも見たことのない」という暴風雪。雪を巻き上げて、数十センチ先も見えなくさせる吹雪は、隊員の誰もが体験したことのないものだった。
体力限界、南進を断念
以降、断続的に吹き付ける激しいブリザードの中、足元のクレバスを避けながら、隊は体力の限界まで進んでは、テントを張って眠るという日を繰り返した。犬も人間も疲労が蓄積し、食料は減っていく。出発から9日目の28日。白瀬はそりを止め、そこを最終到達地点とする決断を下した。
武田輝太郎学術部長が天測し、南緯80度05分、西経156度37分であることを確認。白瀬は、視界に入る全域を「大和雪原」と命名した。隊員たちは、探検隊の名簿や義援金を寄せた人々の名を記した芳名簿を入れた銅製の箱を埋め、竹竿を立てて日章旗を掲げた。白瀬は「大和雪原を日本領土とする」と宣言、一行は万歳三唱した。
この大和雪原が陸地ではなく、大陸からロス海に張り出した広大な棚氷の上だったことを、白瀬は死ぬまで知らなかった。最終到達地点が陸地でなかったことは、白瀬の偉業を少しも傷つけるものではない。それまで南緯80度以南に進むことができたのは、アムンゼン、スコット、シャクルトンという偉大な探検家が率いる3隊しかいなかったのだから。<第5部終わり>
http://www.sakigake.jp/p/special/antarctica/feature/05/article5_05.jsp