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先住民族関連ニュース

先住民族関連のニュース

アイヌ文化に理解深めよう 高崎でフェス

2021-10-04 | アイヌ民族関連
上毛新聞 2021/10/03 11:00

 アイヌ文化への理解を広めようと、アイヌ文化フェスティバル(アイヌ民族文化財団主催)が2日、高崎市の群馬音楽センターで開かれた。約800人が講演や音楽、舞踊などを楽しみながら理解を深めた。 北海道大アイヌ・先住民研究センターの山崎幸治准教授が基調講演。アイヌ民族が近世盛んに行った交易や、近現代に国家間の争いに翻弄(ほんろう)された歴史などを説明。「全てのものに魂が宿ると考え、魂の循環が続くように生きることが基礎になっている」とアイヌ文化の特徴を伝えた。その後は北海道出身の居壁太さんと星野工さんが民族楽器トンコリを演奏=写真。(平山舜)
https://news.goo.ne.jp/article/jomo/region/jomo-128769644.html

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秘湯「カムイワッカ湯の滝」、15年ぶり一般公開 安全対策検証

2021-10-04 | アイヌ民族関連
毎日新聞 10/3(日) 9:27
 世界自然遺産・知床にある秘湯「カムイワッカ湯の滝」(北海道斜里町)で1日、落石の危険があることから2006年6月以降立ち入り禁止となっていたエリアが約15年ぶりに一般公開された。3日まで期間限定で公開し、利用者にアンケートを取るなどして安全対策を検証する。
アイヌ語で「神の水」を意味するカムイワッカは、知床を代表する観光地。知床硫黄山から湧き出る温泉により滝全体が「流れる温泉」となっている。上流に向け沢を登ると、所々にある滝つぼで「天然の露天風呂」を楽しむことができる。
 通常の公開は入り口から約100メートルの「一の滝」までに限られ、それより先は立ち入り禁止となっている。今回は1日100人限定の完全予約制で、ヘルメット着用などの安全対策をした上で上流にある「四の滝」までの立ち入りを試験的に認めた。
 「一の滝」の先からは勾配がややきつい沢登りになるが、極めて強い酸性のためコケが生えないといい、滑りにくい。「四の滝」までは約30分で行けた。
 「四の滝」で服のまま湯につかった千葉県鎌ケ谷市の山本優芽さん(25)は「源泉が湧いているのが見え、紅葉もきれい。いつでも行けるようになってほしい」と話した。【本間浩昭】
https://news.yahoo.co.jp/articles/56542697074fc9ba235ca4c2f33506d15d0124e6

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あの人気漫画の舞台「樺太」の戦前、戦中、そして戦後

2021-10-04 | 先住民族関連
毎日新聞 10/3(日) 9:59配信(9/23記事全公開)

 明治時代後期の北海道などを舞台に、アイヌ民族の少女と元日本軍兵士のコンビが埋蔵金争奪戦で奮闘する野田サトルの冒険漫画「ゴールデンカムイ」(集英社の「週刊ヤングジャンプ」で連載)が高い人気を集めている。コミックスはシリーズ累計発行部数が1700万部を超え、連載は最終章に入った。
 物語では、北海道の北に位置する旧樺太(サハリン)とそこに生きる先住民族、さらには隣り合う帝政ロシアも重要な鍵を握る。
 日露戦争後から第二次世界大戦終結まで、20世紀前半の40年間にわたって北緯50度以南のサハリンは南樺太と呼ばれ、日本領だった。現地には今でも日本の面影が残り、先住民族や日系人、コリアンも暮らす。第二次世界大戦での日ソ戦が終結したのは76年前、1945年9月5日のことだ。日本領時代に中心都市だった旧豊原(現在はサハリン州都ユジノサハリンスク)を訪ね、「樺太」の戦前・戦中・戦後をたどった(登場する各氏の年齢やデータは2015年8~9月の取材当時)。
 ◇先住民族ニブフの伝統
 カンカン、コン、カンカン、コン――。丸太をつり下げた素朴な打楽器の奏でるシンプルなリズムが青空へと吸い込まれていく。演奏するのは、サハリンに約2000人強が暮らす先住民族ニブフ(旧称ギリヤーク)の人々だ。州立郷土博物館で彼らが自ら手がけた初の文化紹介イベントでの一幕。観光客が興味深そうに演奏に耳を傾けている。
 「私たちニブフはかつて狩猟と漁労、採集によって暮らしていました。主な食べ物は魚やアザラシの肉。例えば、魚と木の実を混ぜ合わせ、芋とアザラシの脂肪分を加えた伝統料理があります。獣や魚の皮を縫い合わせて衣服や靴を作っていたのです」。唐草のような紋様で縁取った真っ赤な伝統衣装姿で、民族活動家の女性アントニーナ・ナチョートキナさん(67)が説明してくれた。続けて、「ニブフは今も健在と示したい」と力を込めた。
 この博物館は樺太庁博物館として日本領時代に建てられた。その外観は、瓦屋根など一部が日本の城のような形をした和洋折衷の「帝冠様式」。サハリンを代表する歴史的建造物だ。敷地内の庭園には島の歴史を象徴する興味深い屋外展示物が並ぶ。帝政ロシアの流刑者収容施設を再現した丸太小屋、戦前の南樺太で天皇の「御真影」を収めたコンクリート造りの「奉安殿」、北千島の占守(しゅむしゅ)島 から運ばれた日本軍の95式軽戦車――。
 そうした中で、がっしりとした高床式の丸太小屋が目を引く。ニブフの夏用の伝統家屋を再現したものだ。半地下構造の冬用の住居や、サケ・マスを保存食に加工するための干し場もある。信仰と結びついたクマの飼育小屋など、アイヌ民族と共通する文化も見て取れた。
 ◇日露に翻弄された先住民族
 アジア大陸のアムール川下流域とサハリンに居住するニブフは、自然と共に生きてきた人々だ。だが、近現代は日本とロシアという大国のはざまで翻弄された。日露戦争後の1905年、ポーツマス条約によってサハリンは北緯50度線で区切られ、南半分は日本へ割譲された。
 「ゴールデンカムイ」でも、主人公たちが国境線を越えてロシア側へ潜入する場面がある。ニブフやウィルタなどの少数民族は南の日本領と北のロシア領(1917年のロシア革命を経てソ連領)とに分断されてしまった。そしてソ連の対日参戦によって第二次世界大戦末期には敵味方に分かれることになり、ニブフの人々は日ソ双方の「スパイ」にもされた。ナチョートキナさんは「私の親戚のおじさんは日本軍の案内人をしたと聞いている。終戦後、『お前は裏切り者だ』と言われた人もいたそうです」と明かした。
 日ソ両国はどちらもその統治下で少数民族に同化政策を押しつけ、文化を奪った。日本は戦前、南樺太の敷香(しすか、現在のポロナイスク)近くに先住民集落「オタスの杜」を造成し、「土人教育所」で日本式の教育を実施した。ナチョートキナさんによると、ソ連側も戦前、先住民族の子供たちを寄宿舎に集め、ロシア語だけで話すよう教育したという。「ニブフ語は家庭内でも使われなくなり、多くの伝統が失われた」と残念がる。
 戦後、ようやく1980年代から一部の学校でニブフ語が教えられるようになり、ニブフ語新聞も発行されるようになった。だが、復興は道半ばだ。ニブフの血を引く女性マリーナ・クラギナさん(50)は魚の皮を使った伝統工芸の技術を数年前に書物で学んだ。ほとんど廃れていた技を身につけようと決めたのは、「先祖の『呼び声』があったから」という。クマやフクロウの紋様を縫い付けた皮の小物を手に載せ、誇らしげに見つめた。
 春、川の氷が解けて最初の漁に向かうとき、ニブフの人々は海の神に供え物をささげた。神の許しをもらってはじめて、船を出したのだという。伝統信仰に基づけば、森にも山にもそれぞれ神がいる。就職や就学のためユジノサハリンスクへやって来る少数民族の若い世代が増えてきた。それでも、サハリン北部に多くの人々が暮らす。クラギナさんは「自然は非常に厳しいけれど、美しいところですよ」と教えてくれた。
 ◇漁業に残る日本領時代の足跡
 日本領時代の足跡は、基幹産業である漁業にも残っている。
 「私たちのサケ・マスふ化場が建てられたのは、日本が統治していた1923年のことです。当時の作業場は木造でした」。内陸のユジノサハリンスクから南西へ下ること約45キロ。広々としたアニワ湾に面したタラナイ村の奥にある国立タラナイふ化場を訪ねた。ベテランの女性職員が南樺太だった当時からの歴史を手際よく解説してくれる。
 タラナイは終戦まで多蘭内(たらんない)と呼ばれた。いずれも「魚の川」を意味するアイヌ語が地名の由来という。その名にたがわず、タラナイ川沿いに整備された施設では90年以上にわたってサケ・マスのふ化事業が続けられてきた。
 所有者は日本からソ連、ロシアへと変遷したが、その目的は変わらない。成魚からイクラを採取して人工授精し、誕生した稚魚をある程度育ててから放流する。漁業資源の枯渇を防ぐための人間の営みだ。地元の水産会社幹部の紹介で内部を見せてもらった。ふ化場への道は鍵の掛かった頑丈な門で閉ざされており、厳格に管理されている。横を流れる川のせせらぎを聞きながらコンクリート造りの水路をのぞくと、繁殖期を迎えたカラフトマスが勢いよく跳びはねた。
 日本領時代の南樺太には19のふ化場があり、その多くは行政機関の樺太庁が経営していた。多蘭内もその一つだった。女性職員は「1945年まではツジさんが場長で、そのあと1947年までイトウさんが場長を務めていた」と語る。終戦に伴ってソ連がサハリン南部を占領した後も、しばらくの間は日本人がふ化場を仕切っていたのだ。イトウ場長はソ連の専門家に人工ふ化の技術を伝え、1948年にようやく日本へ引き揚げたという。管理棟には今も当時の日本語文献が保管されている。
 ふ化場は1950年代以降、何度も改修されており、日本領時代の雰囲気はほとんど残っていなかった。だが、その職人魂は脈々と受け継がれているようだ。現在のサハリンにふ化場は41カ所あり、毎年約8億6000万匹もの稚魚が放流されているという。
 ◇退役軍人が語る北千島の激戦
 「戦争が終わりに向かっていたころ、我々は極東に転戦した。空挺部隊の飛行機でカムチャツカ半島へ送られ、そこからは船だった」。迷彩色の上着に十数個の勲章を下げた退役ソ連軍人、ウラジーミル・モロゾフさん(90)はどっかりと椅子に座り、第二次世界大戦最後の激戦地となった北千島・占守島における対日戦の記憶を朗々と語り始めた。
 ユジノサハリンスクの一角、ソ連時代に建てられた古い共同住宅の自宅で暮らす。壁には政府機関から贈られた退役軍人への感謝のメッセージが何枚も飾ってある。部屋の隅には12キロの鉄アレイが二つ転がっていた。「今でも毎日、筋力トレーニングを欠かさない」と二の腕をさすった。90代とは思えないほど胸板が厚く、がっちりした体格だ。
 モロゾフさんはロシア革命から8年後の1925年、軍人一家に生まれた。父親は旧ロシア帝国軍将校から革命勢力側に転じた経歴を持つ。自身も赤軍の空挺部隊学校へ進み、職業軍人の道を歩んだ。1939年にドイツがポーランドへ侵攻し、第二次世界大戦が始まっていた。1943年に卒業してすぐ、18歳でポーランド付近の対独戦線に身を投じた。そして1945年5月のドイツ降伏後に送り込まれたのが、はるか遠い極東の北千島だった。
 1945年8月18日午前2時過ぎ、千島列島最北端の日本軍の要衝・占守島で始まったソ連軍の上陸作戦。その年2月にクリミア半島で開かれた米英ソのヤルタ会談での密約に基づき、全千島を占拠しようというソ連指導者スターリンの意向が背景にあった。日本政府が8月14日に連合国へ無条件降伏を通告した4日後に始まった戦闘だった。
 「艦船が島に近付いたとき、一帯は濃霧だった。日本人は猛烈な射撃で我々を出迎えた。彼らは岸辺に沿って頑丈なトーチカを設けていたのだ。上陸を始めると犠牲者も出た。わが方は艦上から砲撃を加えた」。モロゾフさんは昨日の出来事のように話に熱中し、身ぶり手ぶりのたびに胸の勲章が小刻みに揺れる。
 戦場は耳をつんざく砲撃音に包まれていた。「一番手前の防御ラインを奪取すると、耳が聞こえなくなった日本兵たちを見つけた」。一つのトーチカには2人の狙撃手がいて、投降できないようにその場に鎖でつながれていた、とモロゾフさんは回想する。ソ連側の上陸は続き、白旗を掲げて降伏する日本軍部隊も現れ始めた。
 停戦までの3日間で日ソ双方とも1000人以上が死傷したとされる。大戦で最後の激戦だった。ソ連軍はその後、千島全島と南樺太の占領を進め、9月5日に歯舞群島で日本軍を武装解除させ、作戦を完了した。
 ◇「日本軍人は勇士だった」
 モロゾフさんは戦闘が終わってから占守島と南隣の幌筵(ぱらむしる)島を見て回り、日本軍の整った設備に驚いたという。占守島の地下施設には会議室や医務室、ディーゼル発電所までそろっていた。また、幌筵では冬でも使えるように滑走路には融雪装置が施されていたという。「日本軍人は勇士だった。勝者となるべく準備していた」とほめ言葉まで口にした。
 モロゾフさんは「終戦」を2回経験している。対独戦の5月と対日戦の9月だ。「戦争中は『せめて翌朝まで生きて太陽を拝みたい』とみんな願っていた。終戦はどれだけうれしかったことか」。おもむろに胸を張り、「これはベラルーシ奪還の勲章、こちらはクリル諸島(北方領土と千島列島)についてのものだ」と指し示した。体には2、3カ所の銃創が残っている。対独戦の際には、あまりの喉の渇きに死体が浮かんだ池の水を飲んだこともあった。赤軍にいながらひそかにロシア正教の信仰を守り、突撃前には仲間と共に十字を切って神に祈ったという。
 戦後はサハリンに移り住んで1962年まで軍務を続け、少佐で退役した。北方領土問題について尋ねると、誇らしげな笑顔は一変し、表情は硬くなった。「この土地のために人々が血を流したのに、引き渡そうなんてことがあろうか。もし日本に島を返せば、ドイツだってカリーニングラード(第二次世界大戦後にソ連が併合した旧ドイツ領ケーニヒスベルク)を要求するだろう。日本は米国の圧力下にある。島の一部でも返せば米軍基地ができ、我らがロシア太平洋艦隊は出口を奪われる」。目には怒りの色が浮かんでいた。日本側から見れば強硬な意見だが、ロシアにおいては決して突出した考えではない。「先人が血を流して得た領土」とのフレーズは多くのロシア人の心を揺さぶる。
 ◇取り残されたコリアン
 ユジノサハリンスクで何気なく乗ったタクシーで、運転する初老のアジア系男性が「少しだけ日本語を知っている」とロシア語で話しかけてきた。ハンドルを握りながら、記憶をたどるようにゆっくりと単語を声に出す。「おいちゃん……。おばちゃん……。あんちゃん、ねえちゃん……」。昭和を思わせる日本語の響き。サハリン南部が日本領・南樺太だった歴史を改めて感じる。この男性、アレクサンドル・テンさん(66)は戦後生まれのコリアン2世だった。「父は1943年に朝鮮からサハリンに渡り、炭鉱で働いた。私は1948年にユジノサハリンスクで生まれた。父は仲間とは日本語で話していたよ」
 人口50万人のサハリン州には現在、約2万5000人の朝鮮系ロシア人が暮らす。8割強を占めるロシア人に次いでコリアンは2番目に多い民族ということになる。その多くは朝鮮半島が日本領だった時代、つまり終戦までに南樺太へやって来た朝鮮人とその子孫だ。日本では1937年に始まった日中戦争、41年からの太平洋戦争によって成人男子の徴兵が進み、労働力不足が深刻化していた。その穴を埋めるために利用されたのが朝鮮人労働者だった。日本本土のみならず、炭鉱業が盛んだった南樺太にも数万人が送り込まれた。テンさんの父親もその一人だ。
 戦争が終わり、南樺太はソ連軍に占領された。約40万人の日本人が引き揚げていく中で、終戦まで同じ日本国籍を有していた朝鮮人は取り残された。ほとんどは1948年に韓国となった朝鮮半島南部の出身者だった。日本もソ連も韓国も彼らを帰還させようとはしなかった。
 米国とソ連の対立を背景に朝鮮半島は南北に引き裂かれ、サハリンのコリアンは厳しい立場に追い込まれた。故郷である半島南部はソ連と北朝鮮が敵視する国になってしまったからだ。冷戦が新たな悲劇を生み出した。
 だが、韓国で1988年にソウル夏季五輪が開催されると、サハリンでは半島南部出身のコリアンに対する厳しい見方が一変したという。ソ連も五輪に参加し、韓国の発展ぶりと豊かさがテレビを通してサハリンでも広く知られたためだ。ソ連では1980年代後半、「ペレストロイカ」(建て直し)を合言葉に社会改革を主導したゴルバチョフ書記長による「新思考」外交が進められていた。ソ連と韓国の国交が1990年に樹立されるのを前に、1989年には日韓両政府の支援によってコリアン1世たちの韓国への帰国事業が始まった。高齢の身を押して、これまでに約4000人が故国の老人ホームへと移った。
 戦後75年以上を経て、サハリンのコリアン社会も転換期を迎えている。ロシア本土への移住や少子化で人口が減り続けるのと同時に、ロシア語で教育を受けた2世、3世がコミュニティーの中心となったためだ。民族の伝統文化をいかに守るかが新たな課題として浮上している。
 ◇「ソ連時代、カレーがごちそうだった」
 夕闇に包まれたユジノサハリンスクの住宅街で、ぽっと温かな明かりが一軒家の窓から外へとこぼれていた。地元ジャーナリストに探してもらった小さな日系人コミュニティーの拠点は、仏教系新宗教の集会所だった。かつて南樺太の「支配民族」だった日系人は現在、全島で200人ほどがひっそりと暮らす。
 1945年8月11日午前9時半過ぎ、北緯50度線に引かれた日ソ国境を越えて、ソ連軍の南樺太への侵攻が始まった。日本軍の抵抗を打ち破って南下し、同25日には豊原を占拠する。翌26日に日本軍は樺太の全ての部隊に降伏を命じ、サハリンでの戦闘は終わった。当時、南樺太にいた日本人は約40万人に上った。引き揚げは、ソ連軍の占領開始から1年3カ月後の1946年12月に始まり、数年かけて北海道や本土へと去っていった。
 だが、ソ連が必要とした技術者、コリアンやロシア人と結婚した女性など残留を余儀なくされた日本人住民も数百人いた。1991年のソ連崩壊を受けて、こうした残留日本人1世の永住帰国が進んだ。今もサハリンで暮らしているのはソ連統治下で育った2世、3世がほとんどだ。集会所で出会ったのもこうした人々だった。
 「昔は日本の年中行事も祝っていましたが、親たちが亡くなった後はこうした伝統も忘れてしまいました。『オシルコ』は大好きでしたよ」。戦後生まれの朴愛子さん(66)=旧姓・長野=はこう振り返った。北海道出身の両親は1938年に南樺太へ入った。戦後はソフホーズ(国営農場)で働いた父マサイチさんは1958年に亡くなり、その後は母ミサさんが8人の子供を育てた。愛子さんは日本語もある程度は話せるが、母語はロシア語だ。「母は日本語を教えたがりましたが、私はここで生活するのになぜ必要なのだろうと思っていました。あとになって後悔して、自分で勉強しました」と語る。
 日本にとって敵国だったソ連での暮らしはどうだったのだろうか。愛子さんは「みんな友好的でしたよ」と語り、「質素だったソ連時代、家ではカレーライスがごちそうだった」と笑顔を見せた。日系人であるとの理由でつらい思いをした記憶はないという。
 1996年に83歳で亡くなった母ミサさんは「桃太郎」など日本の昔話は繰り返し話してくれた。だが、戦争当時の思い出を語ることは一度もなかったという。愛子さんは会計士として働き、コリアンの男性と結婚。2人の子供と孫に恵まれた。「戦争はもう過去のこと。うちには日本と朝鮮、二つの文化があります」
 実は、今回訪問した集会所につどう仲間には日系人のみならず、コリアンも多かった。月に4回の集会の後には、持ち寄った手料理で仲良く食卓を囲む。愛子さんのように両民族からなる家族も少なくないようだ。
 イーゴリ・パクさん(55)もそうした一人だ。父親はコリアンと日本人の間に生まれ、終戦前に召集で南樺太へ送り込まれた。歯科医だったためソ連占領後も残留を求められ、すぐにソ連国籍を与えられたのだという。そして日本人の妻をめとった。ロシア人中心のサハリンで、日系人とコリアンは寄り添って暮らしているように感じられた。【真野森作】
https://news.yahoo.co.jp/articles/98ef4a22ab42cebedfc9abc92d540f05a914bfd4

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子どもが癇癪を起したら……アメリカで大評判! 先住民族に学ぶ育児メソッドとは?

2021-10-04 | 先住民族関連
フィガロジャポン 10/3(日) 21:14配信

子どもは非理性的存在。だから8歳までは癇癪を起こしても親は知らんぷりするしかない?アメリカ人科学ジャーナリストのマイケリーン・ダクレフは、世界中を駆け巡った末、イヌイットの親たち、マヤやタンザニアの先住民族の子育て法を明かした著書『狩猟民、採集民、親』(原題『Hunt, Gather, Parent』Mickaeleen Doucleff 著 Avid Reader Press刊)を執筆。 この本が、アメリカで大きな評判を呼んでいる。
わがまま、なかなか寝ない、言うことを聞かない…。子育てで手こずると、通常は自分の両親や親しい友人たちに話を聞いてもらおうと考えるもの。アメリカ人科学ジャーナリストのマイケリーン・ダクレフはさらに推論を推し進めた。癇癪持ちの3歳の娘を持つ母親であるダクレフは、メキシコ、アラスカ、タンザニアの先住民族の(特に)母親や父親に助けを求めて世界の隅々まで足を運んだ。
おしおきや過剰な褒め言葉はもうおしまい。この旅を経て、彼女はこれまで図書館の育児本コーナーや小児科医の診察室で学んだことをすべて白紙に戻すことになった。先住民コミュニティと接触する中で、親の我慢も『ペッパピッグ』も木のおもちゃもいらない、シンプルでポジティブな育児の原則を発見したのだ。そんな彼女の見聞を1冊の本にまとめたのが、役立つ知識満載の育児バイブル『狩猟民、採集民、親』(原題『Hunt, Gather, Parent』)。『ニューヨーク・タイムズ』の書評をはじめ、アメリカで高い評価を得る同書が、フランスでも8月24日に書店に並んだ(1)。
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――「上手くやろうと思って取り組んだことで、こんなに上手くいかなかったことはこれまでなかった」。あなたの母親としての自己分析は多くの親たちの反響を呼んでいます。親たちはみな途方に暮れています。なぜ私たちはこのような状況に陥ったのでしょうか?
子育てに関して、本当の意味での教師はいなくなってしまいました。20万年以上もの間、私たちの祖先には、祖父母や伯父伯母、隣人、乳母、友人といった教師がついていました。多くの場合、年配の人たちで構成されるこうした集団が若い親たちの指南役となって、子どもと上手にコミュニケーションを取るにはどうしたらいいか、どう子どもの面倒を見たらいいか、親切で優しい子どもに育てるにはどうしたらいいかなどを教えてくれたのです。核家族が誕生して、こうした伝統的な教えを知る機会がなくなりました。西洋の文化は、自分ひとりで困難を切り抜ける方法を見つけられるはずだと私たちに説いてきたのですが、それは不可能。だから私たちはこれほど無力感を覚えているのです。親になることはひとつの能力です。他者の観察や経験を通して、時間をかけて学ぶこと。私の本がきっかけとなって、親たちがこうした先祖代々の教えを再び取り入れてくれればうれしいです。
――親としての役割を担うことは、昔に比べて難しくなっているのでしょうか?
そうです。いまは親も子どもも、とても複雑な状況を生きています。電話やテレビを通して子どもたちは常にスクリーンに晒されており、それが教育における大きな困難のひとつになっています。また長時間一カ所に閉じ込められていることも、子どもたちの成育によくないと思います。子どもは1日平均7時間学校でおとなしく座っていてほしいと私たちは考えますが、子どもたちにとっては本当に大変なことなのです。こうしたことはすべて彼らに備わった自然な本能に反しているからです。
――ユカタン半島のマヤ族の村で、家の仕事を手伝い、ときには大人の監視もなしに、自分の頭で考えて行動する子どもたちを見た時の驚きについて語っています。なぜ彼らは何でもできるのでしょうか?日々忙しく雑事に追われている私たちは一体何が間違っているのでしょうか?
小さな子どもが家事に関心を示した時に、西洋の一般的な親は、子どもを遠ざけて、あっちで遊びなさいと言います。子どもが少し大きくなると、今度は親が手伝うようにと言いますが、子どもの方はすでにやる気を失っています。こうしたすれ違いを避けるために、世界中の多くの先住民族共同体と同様、マヤ族のコミュニティでは、子どもが幼いうちから、やらせてほしいと自分から言った時は必ずそれを聞き入れて、子どもの気持ちを尊重します。たとえば洗濯をしている時に、小さな子どもが洗濯物をあちこちに放り投げて遊んでいたとすると、親はこう言葉をかけます。「こっちに来て手伝ってちょうだい。どうやるか見せてあげる。服は床にばらまかないで、かごに入れるの」と。年齢制限はありません。忍耐が必要なのは最初だけで、その後は子どもにその都度やり方を教えていけば、6~8歳頃には、上手に手伝いができるようになり、家庭の強力な助けになってくれます。洗濯だけでなく、料理をしたり、弟や妹の面倒を見たり、庭の手入れだってできます。最初から自然に子どもたちを家事に関わらせることが、子どもたちのやる気を削ぐのではなく、モチベーションを高めるのです。
――つまり西欧の子どもたちは過度に子ども扱いされ、過保護にされているのでしょうか?
そうだと思います。私たちは子どもたちの身体的、情緒的能力を過小評価しています。子どもは小さなリスクを冒しながら、学び、成長し、そうしてときに才能を開花させるのです。誤解しないでほしいのですが、公園に初めて行った日にさっそく木のてっぺんまで登ろうとする子どもを止めてはいけないと言っているわけではありません。ただ、親は距離を取って、自分の周囲の環境を探索している子どもを落ち着いて見守ればいいのです。際限なく命令するのはやめること。それが私の究極のアドバイスです。子どもが15分間にどれだけの数の指示を与えられているか、自分で数えてみればすぐわかります。私が訪れた共同体では、親が子どもに対して言葉で与える指示は、1時間に2つか3つです。親は子どもたちの間近にいて、決して目を離しませんが、子どもたちが限界ラインに近づくか、超えるまでは介入しません。介入するときも実に穏やかです。そこから、子どもたちは徐々に自主性を身につけ、自分で自分の行動をコントロールしている感覚を持つことができるようになるのです。
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――本の中で、子どもに買い与えたおもちゃを手放すよう親たちに勧めています。これは少々過激なメソッドではないですか?
子どもがおもちゃをほとんど持っていないのなら、やり過ぎでしょう。しかしたいていの場合はそうではありません。多くの家庭では、ぬいぐるみを卒業するとすぐに代わりのおもちゃを買います。じきにまた別のおもちゃを買う。それがずっと続きます。おもちゃを買い与えることは私たちの愛情表現のひとつだからです。ですが実際には、おもちゃには隠れた欠点もたくさんあるのです。おもちゃは家の中が散らかる原因であり、兄弟喧嘩の種です。しかも最後は箱に入れたまま放ったらかし。おもちゃは必要ありません。逆に、鉛筆、マーカー、紙は必要なものです。アラスカのイヌイットの女性のアドバイスに従って、我が家では95%のおもちゃを処分しました。娘は残った5%のおもちゃをとても大切にするようになりました。なぜなら、もうほかに選択肢がないからです。自分のおもちゃをほかの子どもたちに寄付したことも、彼女にとって寛大さについて学ぶ機会になりました。西洋では所有することを重視します。おもちゃを他者にあげることで、おもちゃはモノに過ぎない、人間同士の関係ほど重要ではないということを子どもたちに気づかせるのです。
――子どもたちはフラストレーションを制御できず、時には暴力的な怒りの発作を起こすことがあります。あなた自身も娘のロジーを育てながら、そうした経験をされています。あなたが出会った共同体の人々は彼女の行動をどのように捉えていましたか?
彼らは私の娘のことをまったく気にしませんでした。ロジーが癇癪を起こしても、彼らは顔色ひとつ変えず、平然としていました。北極の親たちは子どものことを、自分の感情をコントロールできない、非理性的で非論理的な存在と考えています。ですから、子どもの行儀が悪かったり、騒いだり、意地悪をしてもしかたがないと彼らは思っていますが、そのことを個人的に受け止めたりはしません。私たち西洋の親はまさに正反対で、こうした行動で子どもは大人を操作しようとしているとか、私たちを追い詰めて、我慢の限界を試しているのだと考える傾向があります。実際のところ、子どもは冷静になってきちんと振る舞うにはどうしたらいいかがわからないだけなのです。多くの文化で、怒りは未熟さの表れと考えられています。こちらも大声を出して子どもをよけいに混乱させるより、落ち着いてやりとりし、接するほうが多くの成果が得られるでしょう。
――あなたの娘がそうだったように、子どもが親に向かって大声を出したり、叫んだり、引っ掻いたりしたときに、冷静さを失わずにいるのは難しいと思います。広い心で受け止めることは、どんな時でも可能ですか?
ええ、どんな時でも。私自身はそのことを理解するのに少し時間がかかりました。まず、娘がわざと私や父親を傷つけようとしていると考えるのをやめました。また、私が怒るとさらに彼女の怒りに拍車をかけてしまうことにも気づきました。ですから娘がイライラし始めたら、私はできるだけ何も言わないように努めます。娘に背中を向けて、”あなたは石よ。何も言ってはだめ”と自分に何度も言い聞かせることもあります。難しいですが、この悪循環を断つことができると、子どもに対して、共感や優しさ、感心など、怒りとは別の感情が湧いてきます。いまは自分の中で怒りが大きくなる兆候を感じたらすぐ、爆発しないように言葉にしています。「イライラしてきたわ。そろそろやめてくれないかな?」というような言い方で気持ちを伝えます。
――タンザニアのいつくかの部族で行われているような共同生活は、疲れ切った親たちにとってとても貴重なものだと思います。あなたは西洋の家族に“アロペアレンティング”を勧めています。これはどういったものですか?
北極で、ある女性に「ロジーはあなたと一緒にいることに疲れている。だから彼女はいつも機嫌が悪い」と言われました。本当にその通りです。子どもたちはさまざまな人と協力しながら成長することで、より一層能力を発揮するのです。先生、ベビーシッター、近所の人、友だち……。こうした人々は一時的にサポートをしてくれるだけではありません。彼らを積極的に家族の輪の中に迎え入れれば、彼らは子どもの人生においてとても重要な役割を果たす存在になります。パンデミックが続くなか、支援してくれる人がいるという安心感を与えてくれる“アロペアレンティング”(編集部注:親以外のたくさんの人が子育てに関わる共同養育)はあらゆる家族にとってますます必要になると思います。
(1)Michaeleen Doucleff著(序文:Isabelle Filliozat)『Chasseur, cueilleur, parent』Leduc出版刊
https://news.yahoo.co.jp/articles/3b1f135b69634d133ef005312d48c76830f3e8bf

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アマゾンの秘境へ、太田光海が挑んだ新しい映像人類学の冒険 映画『カナルタ 螺旋状の夢』

2021-10-04 | 先住民族関連
ニッポンドットコム 2021.10.02
かつての「首狩り族」が暮らすアマゾン熱帯雨林の村へ、日本人の人類学者が単身乗り込み、彼らと生活を共にしながら、日常の細部を映像に収め、異色のドキュメンタリーに仕上げた。「未開」というステレオタイプや「やらせ」を徹底的に排し、部族の「等身大の現在形」を記録した『カナルタ 螺旋(らせん)状の夢』。太田光海監督に話を聞いた。
太田 光海 OTA Akimi
1989年東京都生まれ。映像作家・文化人類学者。神戸大学国際文化学部を卒業後、フランス・パリに渡り、社会科学高等研究院(EHESS)で人類学の修士号を取得。同時期に共同通信パリ支局でカメラマン兼記者として活動した。英国マンチェスター大学グラナダ映像人類学センターに在籍中、アマゾン熱帯雨林の村に約1年間にわたり滞在し、成果を映像作品にまとめ博士号を取得。その初監督作『カナルタ 螺旋状の夢』が2021年10月2日より日本で劇場公開。
私たちは一人ひとり、課題を抱えて生きている。しかし日々それにかまけ、人類が力を合わせて取り組むべき喫緊の課題については、目を向けずに過ごしている。中でも最重要なのが地球環境だ。
北極圏の氷河、海洋のサンゴ礁、アマゾン川流域の熱帯雨林が危機に瀕していることが報じられ、私たちはこれが地球全体の問題であると知りながら、破滅がどこまで深刻に差し迫っているか、いまだ気付くことができずにいる。地理的に遠い地域だからこそ、リアルな映像を通じて現状を知ることがますます重要になってくる。
そんな中、アマゾンに暮らす人々に密着し、映像に記録した日本人がいる。映画『カナルタ 螺旋状の夢』の太田光海監督だ。エクアドル南部、かつて「首狩り族」と呼ばれて恐れられたシュアール族の村をたった1人で訪れ、1年以上にわたって生活を共にしながら撮影した。

村のリーダー的存在、セバスティアン・ツァマライン @Akimi Ota
しかしこれは、いわゆる「ネイチャードキュメンタリー」ではない。1人の研究者が自らの学問的関心に沿って発見していったものの記録であり、その考察を映像に練り上げた作品なのだ。かつてフランスの海洋学者であるジャック=イヴ・クストーが、のちに映画監督として名を馳せるルイ・マルと手を組んで深海の神秘に迫った『沈黙の世界』(1956)というドキュメンタリーがあったが、太田光海はこれを地上に置き換え、単独でやってのけたと言ってもいい。
東日本大震災の衝撃波
日本の大学で、文化一般を学問研究の対象とする「カルチュラル・スタディーズ」を専攻した太田は、卒業後フランス・パリに渡り、社会科学高等研究院(EHESS)で人類学の研究を進める。テーマは、フランス都市郊外とサッカーの関係。移民家庭出身の若者が、なぜサッカー選手を志すのか、郊外に共通するカルチャー的背景とともに探っていく研究だった。
その一方、芸術の都パリで写真文化に触れ、カメラを使って他者と向き合うアプローチに関心を抱く。共同通信パリ支局でカメラマン兼記者として働くうち、フォトジャーナリズムの道に進もうかと考えたこともあった。同時期にシネマテークに通い、過去の名作をはじめ、あらゆるジャンルの映像作品を「浴びるように」鑑賞したという。このように都市文化に親しんだ若い研究者の関心が、なぜアマゾンへと向かったのだろう。
「フランスで自分が外国人として暮らす中で、移民や少数者の疎外といった、社会における人と人の関係に焦点を当てて考えてきました。そのときに東日本大震災と福島第一原発事故が起こった。それ以降、人間同士のことをこれ以上調べても、限界があるような気がしてきてしまいました。それよりも人類が地球上で、人間以外の生物、もしくは生物でもないようなものと、どのような関係を結べるのかという可能性に、より興味が湧いてきました」
パリ、マンチェスターからアマゾンへ
人と自然の関係を考えるうち、人類学の巨人クロード・レヴィ=ストロースに師事したフィリップ・デスコーラの著作に刺激を受け、彼がフィールドワークを行ったアチュアル族らのいるアマゾンへと照準を定めていく。人類学と映像制作をクロスさせた世界でもユニークな研究機関、英国マンチェスター大学グラナダ映像人類学センターに籍を置き、アマゾンに滞在しての映像制作を博士号の研究とする計画を立てた。
「地球、自然との向き合い方を知るために、自給自足生活を送っている部族を研究したいという思いがありました。アマゾンを選んだのは、西洋によって最初に植民地化された土地の先住民を対象とすることで、人類史の深いところに到達できるような気がしたからです」
エクアドルでは、コーディネーターも付けず、現地で情報収集しながら、少ないツテを頼りにたどり着いたのが、シュアール族の村だ。アマゾン熱帯雨林の西端にあたる同国の南部、人口1万人ほどの小さな町から車で3時間くらいの奥地にある。そこで出会ったのが、映画の「主人公」となるセバスティアンとその妻パストーラ。村のリーダー的存在だ。
太田は彼らと慎重に対話を重ね、迎え入れられた。食事を共にし、「チチャ」という口噛み酒を飲み交わして信頼関係を築いていきながら、森で生きる術を教わり、集落の一員となって暮らす。いきなりカメラを回すなどということはせず、常にレンズを向けていたわけでもない。
「結局、カメラを回していたのは、合計で35時間だけ。撮っている瞬間に『これだ!』と思った場面は、後で見直しても映像に力が宿っていました。そういう柱となるシーンがいくつかあって、その前後に何を入れるか考えながら編集を進めました。おのずとテーマの1つになったのが、人間と植物の関係性です」
パストーラは茹でたイモからチチャをつくる。よく噛んでから吐き出したイモをまぜ、発酵させる根気のいる作業だ。男たちはこれを飲んで、仕事に精を出す。ヤシの葉を大量に刈り取って束ね、屋根をふいていく。シャーマンの家系であるセバスティアンは薬草を吟味し、村人の病気やケガの治療に用いる。
「描きたいものが初めから決まっていたわけではなくて、実際に暮らしてから見えてきました。人間も人間以外のものもフラットに共存している。人間が自然から奪うのでも、自然に翻弄されるのでもない。互いに影響し合い、流動的でもある関係です。よく言われる自然との共生といえばそれまでですが、もっとディテールに着目したかった」
太田の研究にとって、ディテールにこそ価値があり、それを描けるのが映画であると考えていた。カメラはこうして、森の生活のさまざまな場面を淡々ととらえていく。
「ディテールとは例えば、彼らが食べ物について、どんな言葉で語るかです。その日に何が食べたいとか、この食べ物はこんな味がするとか、この魚のこの部位が好きだとか。家族や友人と何気なく交わす、取るに足らない会話こそが重要だと考えました」
新しい人類学のアプローチを探る
全編を通じて草木の緑が色鮮やかだが、最新のドローン映像による雄大な美しい風景が出てくるわけではない。昭和のテレビ番組なら好んで取り上げそうな、いわゆる「未開民族」の儀式も登場しない。
「未開社会という視点では語り尽くされているし、80年代以降、人類学者の間でそのように人間を扱う視点は批判されてきました。人類学は儀礼とか神話体系を論じてきましたが、そのようにシステムを彼らの社会に投影して論じる態度は、“上から目線”ではないのかと。だから、それをいったん脇に置いて、もっと彼らの日常から出てくる言葉や、しぐさといった細かいことに目を向けてみよう。そういう意識で彼らと生活を共にしました」
実際のところ、いわゆる「儀式」は、太田が滞在する間、まったく行われなかったという。その代わり、セバスティアンが幻覚性の植物を服用して“ヴィジョン”を見るときに、それに類する「脱自」の体験が垣間見える。しかし彼は、それを明晰な言葉で語ってみせるのだ。
「僕が徹底的に意識したのは、彼らが素朴に発する言葉に耳を傾けよう、その姿を撮ろうということでした。儀礼的なことも、おそらく昔はもっと行われていたと思いますが、いまはそうではないんです。もし特別に依頼してやってくれたとしても、それは現在の等身大の彼らではない。一方で、セバスティアンがヴィジョンを語るシーン。あれはリアルだし、彼らの世界観が表れている。神話の世界が彼らの日常にとって、昔ほど重要性を持っていないかもしれない。でも彼がヴィジョンについて語る中に、神話的なエッセンスが息づいています。現代の文脈でそれを語る姿をそのまま見せたかった」
「なりたい自分」が見つからない人へ
マンチェスター大学で博士号を取得した後、ヨーロッパに残って、映像の道へ進むつもりでいたがコロナ禍で帰国を決意。およそ10年ぶりに日本での生活に戻った太田に、この映画が日本人に何を訴えかけられるか訊いてみた。
「日本も自然を切り崩して経済に利用することで災害に見舞われ、さまざまな危機を生み出してしまっていますよね。ですから、単純に自然が発している“コトバ”、そういう力をもう少しじっくり見つめ直してもいいんじゃないか。それはこの映画を通して伝えたいことで、鮮明に表れていると思います」
『カナルタ 螺旋状の夢』が映し出すセバスティアンとパストーラの言葉や身ぶり、まなざしは、日本人が失いつつある、植物と共に生きる知恵を思い出させてくれるだろう。それと同時に、今回彼らからの学びを世に伝えた太田光海という人物もまた、画面の外から強烈な存在感を放っている。自らの関心事を見定め、自らの意志で行動し、体験を通じて思考を重ね、作品という形にした太田の姿勢は、多くの若者に勇気と示唆を与えるに違いない。これからを生きる若い世代へのメッセージで結んでもらおう。
「徹底的に自分らしくあることを目指してほしいです。単純に将来どんな仕事がしたいかではなく、もっと深いところで、自分が存在している状態そのものにゆっくりと目を向けて、自分が自然体のまま生きたら何がしたくて何ができるか、根源的な自己と向き合ってほしい。同じように、いろいろなものをゼロ地点に戻し、まっさらにしてフラットな状態で見てみる。例えば、いま自分が向かっている机、その木材もどこかから切り倒されてきたものです。この世界を作り出している、さまざまな素材や、自分が吸っている空気、環境、そういうものと直(じか)の関係をすでに結んでいるんだ、ということに気付いてほしいですね」
インタビュー撮影=花井 智子
取材・文=松本 卓也(ニッポンドットコム)
作品情報
監督・撮影・編集・録音・プロデューサー:太田光海
出演:セバスティアン・ツァマライン、パストーラ・タンチーマ
製作年:2020年
製作国:日英合作
上映時間:120分
配給:トケスタジオ
公式サイト:https://akimiota.net/Kanarta-1
10月2日(土)よりシアター・イメージフォーラムほか全国順次ロードショー!
予告編 https://www.youtube.com/watch?v=YrA7JzuA41s
https://www.nippon.com/ja/japan-topics/c030146/

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