毎日新聞 10/3(日) 9:59配信(9/23記事全公開)

明治時代後期の北海道などを舞台に、アイヌ民族の少女と元日本軍兵士のコンビが埋蔵金争奪戦で奮闘する野田サトルの冒険漫画「ゴールデンカムイ」(集英社の「週刊ヤングジャンプ」で連載)が高い人気を集めている。コミックスはシリーズ累計発行部数が1700万部を超え、連載は最終章に入った。
物語では、北海道の北に位置する旧樺太(サハリン)とそこに生きる先住民族、さらには隣り合う帝政ロシアも重要な鍵を握る。
日露戦争後から第二次世界大戦終結まで、20世紀前半の40年間にわたって北緯50度以南のサハリンは南樺太と呼ばれ、日本領だった。現地には今でも日本の面影が残り、先住民族や日系人、コリアンも暮らす。第二次世界大戦での日ソ戦が終結したのは76年前、1945年9月5日のことだ。日本領時代に中心都市だった旧豊原(現在はサハリン州都ユジノサハリンスク)を訪ね、「樺太」の戦前・戦中・戦後をたどった(登場する各氏の年齢やデータは2015年8~9月の取材当時)。
◇先住民族ニブフの伝統
カンカン、コン、カンカン、コン――。丸太をつり下げた素朴な打楽器の奏でるシンプルなリズムが青空へと吸い込まれていく。演奏するのは、サハリンに約2000人強が暮らす先住民族ニブフ(旧称ギリヤーク)の人々だ。州立郷土博物館で彼らが自ら手がけた初の文化紹介イベントでの一幕。観光客が興味深そうに演奏に耳を傾けている。
「私たちニブフはかつて狩猟と漁労、採集によって暮らしていました。主な食べ物は魚やアザラシの肉。例えば、魚と木の実を混ぜ合わせ、芋とアザラシの脂肪分を加えた伝統料理があります。獣や魚の皮を縫い合わせて衣服や靴を作っていたのです」。唐草のような紋様で縁取った真っ赤な伝統衣装姿で、民族活動家の女性アントニーナ・ナチョートキナさん(67)が説明してくれた。続けて、「ニブフは今も健在と示したい」と力を込めた。
この博物館は樺太庁博物館として日本領時代に建てられた。その外観は、瓦屋根など一部が日本の城のような形をした和洋折衷の「帝冠様式」。サハリンを代表する歴史的建造物だ。敷地内の庭園には島の歴史を象徴する興味深い屋外展示物が並ぶ。帝政ロシアの流刑者収容施設を再現した丸太小屋、戦前の南樺太で天皇の「御真影」を収めたコンクリート造りの「奉安殿」、北千島の占守(しゅむしゅ)島 から運ばれた日本軍の95式軽戦車――。
そうした中で、がっしりとした高床式の丸太小屋が目を引く。ニブフの夏用の伝統家屋を再現したものだ。半地下構造の冬用の住居や、サケ・マスを保存食に加工するための干し場もある。信仰と結びついたクマの飼育小屋など、アイヌ民族と共通する文化も見て取れた。
◇日露に翻弄された先住民族
アジア大陸のアムール川下流域とサハリンに居住するニブフは、自然と共に生きてきた人々だ。だが、近現代は日本とロシアという大国のはざまで翻弄された。日露戦争後の1905年、ポーツマス条約によってサハリンは北緯50度線で区切られ、南半分は日本へ割譲された。
「ゴールデンカムイ」でも、主人公たちが国境線を越えてロシア側へ潜入する場面がある。ニブフやウィルタなどの少数民族は南の日本領と北のロシア領(1917年のロシア革命を経てソ連領)とに分断されてしまった。そしてソ連の対日参戦によって第二次世界大戦末期には敵味方に分かれることになり、ニブフの人々は日ソ双方の「スパイ」にもされた。ナチョートキナさんは「私の親戚のおじさんは日本軍の案内人をしたと聞いている。終戦後、『お前は裏切り者だ』と言われた人もいたそうです」と明かした。
日ソ両国はどちらもその統治下で少数民族に同化政策を押しつけ、文化を奪った。日本は戦前、南樺太の敷香(しすか、現在のポロナイスク)近くに先住民集落「オタスの杜」を造成し、「土人教育所」で日本式の教育を実施した。ナチョートキナさんによると、ソ連側も戦前、先住民族の子供たちを寄宿舎に集め、ロシア語だけで話すよう教育したという。「ニブフ語は家庭内でも使われなくなり、多くの伝統が失われた」と残念がる。
戦後、ようやく1980年代から一部の学校でニブフ語が教えられるようになり、ニブフ語新聞も発行されるようになった。だが、復興は道半ばだ。ニブフの血を引く女性マリーナ・クラギナさん(50)は魚の皮を使った伝統工芸の技術を数年前に書物で学んだ。ほとんど廃れていた技を身につけようと決めたのは、「先祖の『呼び声』があったから」という。クマやフクロウの紋様を縫い付けた皮の小物を手に載せ、誇らしげに見つめた。
春、川の氷が解けて最初の漁に向かうとき、ニブフの人々は海の神に供え物をささげた。神の許しをもらってはじめて、船を出したのだという。伝統信仰に基づけば、森にも山にもそれぞれ神がいる。就職や就学のためユジノサハリンスクへやって来る少数民族の若い世代が増えてきた。それでも、サハリン北部に多くの人々が暮らす。クラギナさんは「自然は非常に厳しいけれど、美しいところですよ」と教えてくれた。
◇漁業に残る日本領時代の足跡
日本領時代の足跡は、基幹産業である漁業にも残っている。
「私たちのサケ・マスふ化場が建てられたのは、日本が統治していた1923年のことです。当時の作業場は木造でした」。内陸のユジノサハリンスクから南西へ下ること約45キロ。広々としたアニワ湾に面したタラナイ村の奥にある国立タラナイふ化場を訪ねた。ベテランの女性職員が南樺太だった当時からの歴史を手際よく解説してくれる。
タラナイは終戦まで多蘭内(たらんない)と呼ばれた。いずれも「魚の川」を意味するアイヌ語が地名の由来という。その名にたがわず、タラナイ川沿いに整備された施設では90年以上にわたってサケ・マスのふ化事業が続けられてきた。
所有者は日本からソ連、ロシアへと変遷したが、その目的は変わらない。成魚からイクラを採取して人工授精し、誕生した稚魚をある程度育ててから放流する。漁業資源の枯渇を防ぐための人間の営みだ。地元の水産会社幹部の紹介で内部を見せてもらった。ふ化場への道は鍵の掛かった頑丈な門で閉ざされており、厳格に管理されている。横を流れる川のせせらぎを聞きながらコンクリート造りの水路をのぞくと、繁殖期を迎えたカラフトマスが勢いよく跳びはねた。
日本領時代の南樺太には19のふ化場があり、その多くは行政機関の樺太庁が経営していた。多蘭内もその一つだった。女性職員は「1945年まではツジさんが場長で、そのあと1947年までイトウさんが場長を務めていた」と語る。終戦に伴ってソ連がサハリン南部を占領した後も、しばらくの間は日本人がふ化場を仕切っていたのだ。イトウ場長はソ連の専門家に人工ふ化の技術を伝え、1948年にようやく日本へ引き揚げたという。管理棟には今も当時の日本語文献が保管されている。
ふ化場は1950年代以降、何度も改修されており、日本領時代の雰囲気はほとんど残っていなかった。だが、その職人魂は脈々と受け継がれているようだ。現在のサハリンにふ化場は41カ所あり、毎年約8億6000万匹もの稚魚が放流されているという。
◇退役軍人が語る北千島の激戦
「戦争が終わりに向かっていたころ、我々は極東に転戦した。空挺部隊の飛行機でカムチャツカ半島へ送られ、そこからは船だった」。迷彩色の上着に十数個の勲章を下げた退役ソ連軍人、ウラジーミル・モロゾフさん(90)はどっかりと椅子に座り、第二次世界大戦最後の激戦地となった北千島・占守島における対日戦の記憶を朗々と語り始めた。
ユジノサハリンスクの一角、ソ連時代に建てられた古い共同住宅の自宅で暮らす。壁には政府機関から贈られた退役軍人への感謝のメッセージが何枚も飾ってある。部屋の隅には12キロの鉄アレイが二つ転がっていた。「今でも毎日、筋力トレーニングを欠かさない」と二の腕をさすった。90代とは思えないほど胸板が厚く、がっちりした体格だ。
モロゾフさんはロシア革命から8年後の1925年、軍人一家に生まれた。父親は旧ロシア帝国軍将校から革命勢力側に転じた経歴を持つ。自身も赤軍の空挺部隊学校へ進み、職業軍人の道を歩んだ。1939年にドイツがポーランドへ侵攻し、第二次世界大戦が始まっていた。1943年に卒業してすぐ、18歳でポーランド付近の対独戦線に身を投じた。そして1945年5月のドイツ降伏後に送り込まれたのが、はるか遠い極東の北千島だった。
1945年8月18日午前2時過ぎ、千島列島最北端の日本軍の要衝・占守島で始まったソ連軍の上陸作戦。その年2月にクリミア半島で開かれた米英ソのヤルタ会談での密約に基づき、全千島を占拠しようというソ連指導者スターリンの意向が背景にあった。日本政府が8月14日に連合国へ無条件降伏を通告した4日後に始まった戦闘だった。
「艦船が島に近付いたとき、一帯は濃霧だった。日本人は猛烈な射撃で我々を出迎えた。彼らは岸辺に沿って頑丈なトーチカを設けていたのだ。上陸を始めると犠牲者も出た。わが方は艦上から砲撃を加えた」。モロゾフさんは昨日の出来事のように話に熱中し、身ぶり手ぶりのたびに胸の勲章が小刻みに揺れる。
戦場は耳をつんざく砲撃音に包まれていた。「一番手前の防御ラインを奪取すると、耳が聞こえなくなった日本兵たちを見つけた」。一つのトーチカには2人の狙撃手がいて、投降できないようにその場に鎖でつながれていた、とモロゾフさんは回想する。ソ連側の上陸は続き、白旗を掲げて降伏する日本軍部隊も現れ始めた。
停戦までの3日間で日ソ双方とも1000人以上が死傷したとされる。大戦で最後の激戦だった。ソ連軍はその後、千島全島と南樺太の占領を進め、9月5日に歯舞群島で日本軍を武装解除させ、作戦を完了した。
◇「日本軍人は勇士だった」
モロゾフさんは戦闘が終わってから占守島と南隣の幌筵(ぱらむしる)島を見て回り、日本軍の整った設備に驚いたという。占守島の地下施設には会議室や医務室、ディーゼル発電所までそろっていた。また、幌筵では冬でも使えるように滑走路には融雪装置が施されていたという。「日本軍人は勇士だった。勝者となるべく準備していた」とほめ言葉まで口にした。
モロゾフさんは「終戦」を2回経験している。対独戦の5月と対日戦の9月だ。「戦争中は『せめて翌朝まで生きて太陽を拝みたい』とみんな願っていた。終戦はどれだけうれしかったことか」。おもむろに胸を張り、「これはベラルーシ奪還の勲章、こちらはクリル諸島(北方領土と千島列島)についてのものだ」と指し示した。体には2、3カ所の銃創が残っている。対独戦の際には、あまりの喉の渇きに死体が浮かんだ池の水を飲んだこともあった。赤軍にいながらひそかにロシア正教の信仰を守り、突撃前には仲間と共に十字を切って神に祈ったという。
戦後はサハリンに移り住んで1962年まで軍務を続け、少佐で退役した。北方領土問題について尋ねると、誇らしげな笑顔は一変し、表情は硬くなった。「この土地のために人々が血を流したのに、引き渡そうなんてことがあろうか。もし日本に島を返せば、ドイツだってカリーニングラード(第二次世界大戦後にソ連が併合した旧ドイツ領ケーニヒスベルク)を要求するだろう。日本は米国の圧力下にある。島の一部でも返せば米軍基地ができ、我らがロシア太平洋艦隊は出口を奪われる」。目には怒りの色が浮かんでいた。日本側から見れば強硬な意見だが、ロシアにおいては決して突出した考えではない。「先人が血を流して得た領土」とのフレーズは多くのロシア人の心を揺さぶる。
◇取り残されたコリアン
ユジノサハリンスクで何気なく乗ったタクシーで、運転する初老のアジア系男性が「少しだけ日本語を知っている」とロシア語で話しかけてきた。ハンドルを握りながら、記憶をたどるようにゆっくりと単語を声に出す。「おいちゃん……。おばちゃん……。あんちゃん、ねえちゃん……」。昭和を思わせる日本語の響き。サハリン南部が日本領・南樺太だった歴史を改めて感じる。この男性、アレクサンドル・テンさん(66)は戦後生まれのコリアン2世だった。「父は1943年に朝鮮からサハリンに渡り、炭鉱で働いた。私は1948年にユジノサハリンスクで生まれた。父は仲間とは日本語で話していたよ」
人口50万人のサハリン州には現在、約2万5000人の朝鮮系ロシア人が暮らす。8割強を占めるロシア人に次いでコリアンは2番目に多い民族ということになる。その多くは朝鮮半島が日本領だった時代、つまり終戦までに南樺太へやって来た朝鮮人とその子孫だ。日本では1937年に始まった日中戦争、41年からの太平洋戦争によって成人男子の徴兵が進み、労働力不足が深刻化していた。その穴を埋めるために利用されたのが朝鮮人労働者だった。日本本土のみならず、炭鉱業が盛んだった南樺太にも数万人が送り込まれた。テンさんの父親もその一人だ。
戦争が終わり、南樺太はソ連軍に占領された。約40万人の日本人が引き揚げていく中で、終戦まで同じ日本国籍を有していた朝鮮人は取り残された。ほとんどは1948年に韓国となった朝鮮半島南部の出身者だった。日本もソ連も韓国も彼らを帰還させようとはしなかった。
米国とソ連の対立を背景に朝鮮半島は南北に引き裂かれ、サハリンのコリアンは厳しい立場に追い込まれた。故郷である半島南部はソ連と北朝鮮が敵視する国になってしまったからだ。冷戦が新たな悲劇を生み出した。
だが、韓国で1988年にソウル夏季五輪が開催されると、サハリンでは半島南部出身のコリアンに対する厳しい見方が一変したという。ソ連も五輪に参加し、韓国の発展ぶりと豊かさがテレビを通してサハリンでも広く知られたためだ。ソ連では1980年代後半、「ペレストロイカ」(建て直し)を合言葉に社会改革を主導したゴルバチョフ書記長による「新思考」外交が進められていた。ソ連と韓国の国交が1990年に樹立されるのを前に、1989年には日韓両政府の支援によってコリアン1世たちの韓国への帰国事業が始まった。高齢の身を押して、これまでに約4000人が故国の老人ホームへと移った。
戦後75年以上を経て、サハリンのコリアン社会も転換期を迎えている。ロシア本土への移住や少子化で人口が減り続けるのと同時に、ロシア語で教育を受けた2世、3世がコミュニティーの中心となったためだ。民族の伝統文化をいかに守るかが新たな課題として浮上している。
◇「ソ連時代、カレーがごちそうだった」
夕闇に包まれたユジノサハリンスクの住宅街で、ぽっと温かな明かりが一軒家の窓から外へとこぼれていた。地元ジャーナリストに探してもらった小さな日系人コミュニティーの拠点は、仏教系新宗教の集会所だった。かつて南樺太の「支配民族」だった日系人は現在、全島で200人ほどがひっそりと暮らす。
1945年8月11日午前9時半過ぎ、北緯50度線に引かれた日ソ国境を越えて、ソ連軍の南樺太への侵攻が始まった。日本軍の抵抗を打ち破って南下し、同25日には豊原を占拠する。翌26日に日本軍は樺太の全ての部隊に降伏を命じ、サハリンでの戦闘は終わった。当時、南樺太にいた日本人は約40万人に上った。引き揚げは、ソ連軍の占領開始から1年3カ月後の1946年12月に始まり、数年かけて北海道や本土へと去っていった。
だが、ソ連が必要とした技術者、コリアンやロシア人と結婚した女性など残留を余儀なくされた日本人住民も数百人いた。1991年のソ連崩壊を受けて、こうした残留日本人1世の永住帰国が進んだ。今もサハリンで暮らしているのはソ連統治下で育った2世、3世がほとんどだ。集会所で出会ったのもこうした人々だった。
「昔は日本の年中行事も祝っていましたが、親たちが亡くなった後はこうした伝統も忘れてしまいました。『オシルコ』は大好きでしたよ」。戦後生まれの朴愛子さん(66)=旧姓・長野=はこう振り返った。北海道出身の両親は1938年に南樺太へ入った。戦後はソフホーズ(国営農場)で働いた父マサイチさんは1958年に亡くなり、その後は母ミサさんが8人の子供を育てた。愛子さんは日本語もある程度は話せるが、母語はロシア語だ。「母は日本語を教えたがりましたが、私はここで生活するのになぜ必要なのだろうと思っていました。あとになって後悔して、自分で勉強しました」と語る。
日本にとって敵国だったソ連での暮らしはどうだったのだろうか。愛子さんは「みんな友好的でしたよ」と語り、「質素だったソ連時代、家ではカレーライスがごちそうだった」と笑顔を見せた。日系人であるとの理由でつらい思いをした記憶はないという。
1996年に83歳で亡くなった母ミサさんは「桃太郎」など日本の昔話は繰り返し話してくれた。だが、戦争当時の思い出を語ることは一度もなかったという。愛子さんは会計士として働き、コリアンの男性と結婚。2人の子供と孫に恵まれた。「戦争はもう過去のこと。うちには日本と朝鮮、二つの文化があります」
実は、今回訪問した集会所につどう仲間には日系人のみならず、コリアンも多かった。月に4回の集会の後には、持ち寄った手料理で仲良く食卓を囲む。愛子さんのように両民族からなる家族も少なくないようだ。
イーゴリ・パクさん(55)もそうした一人だ。父親はコリアンと日本人の間に生まれ、終戦前に召集で南樺太へ送り込まれた。歯科医だったためソ連占領後も残留を求められ、すぐにソ連国籍を与えられたのだという。そして日本人の妻をめとった。ロシア人中心のサハリンで、日系人とコリアンは寄り添って暮らしているように感じられた。【真野森作】
https://news.yahoo.co.jp/articles/98ef4a22ab42cebedfc9abc92d540f05a914bfd4