先日のブログ「野太い高音」(6月11日付)の中で「ツィーター(高域用ユニット)を、使っていないのにあのようなリアルな高音がどうして出るんだろう?」と、記載していたところ、さっそくオーディオ仲間のMさん(奈良)から、次のようなメールが届いた。
「あれっ、この件はたしか瀬川氏が解説していたはずです。118ページの中段に“高音が7~8キロヘルツ・・”と、あります。矢張り基音が美しくなければ化粧しても駄目と同じようですね。」
詳述してみよう。
「瀬川氏が解説していた」とあるのは、つい最近発刊された「良い音とは、良いスピーカーとは?」~瀬川冬樹著作集~(2013・5・31:ステレオサウンド社)という本のことである。
「瀬川冬樹」さん(故人)といっても、ピンとこない人が大半だろうが、古くからのオーディオマニアにとっては非常に懐かしい方で、当時のオーディオ界で非常に大きな影響力を行使した方である。自分なんぞは、他の評論家の記事は参考程度の扱いだったが、瀬川さんのだけは無条件に鵜呑みにしていたほど。
その理由は「オーディオは音楽を聴くためにある」という、音楽優先の姿勢がはっきりしていたことと、スピーカーを何百種類も聴いたうえでの実体験的な記事、そして「AXIOM80」の愛好家(のちに、JBLに転向)だったこともあり、自分の目指す方向と同じだったことが挙げられる。
何をもってその人のオーディオ・レベルを測る目安とするかは諸説あるところだろうが、「(試聴の)場数を踏んだ量に比例する」ことは、誰も異論を挟む余地はあるまい。
当時、瀬川さんはステレオサウンド誌に持論をいろいろ載せられていたが、こうして一挙にまとめられて再び陽の目を見たことはまことにありがたい。
本書には、マニアにとって極めて有益な示唆が満載されているのでまだ目を通されていない方は是非ご一読をお薦めしたいところで、たとえば、Mさんが指摘された118頁の箇所は重要ポイントなので少し長くなるが引用してみよう。
「コダックのカラーフィルムの染色の良さは世界的に知られている。それは映画の都ハリウッドが育てた色だといってもいい。そのハリウッドがトーキーの発達とともに生み・育てたのがウェストレックスのトーキーサウンドであり、アルテックのA7に代表されるシアタースピーカーである。
世紀の美男・美女が恋を語るスクリーンの裏側から、広い劇場の隅々にまで明瞭でしかも快いサウンドをサーヴィスするために、シアタースピーカーの音質は、人の声の音域に密度をもたせ、伴奏の音楽や効果音の現実感を損なわないぎりぎりの範囲までむしろ周波数帯域を狭めて作られている。
大きなパワーで鳴らすことが前提のスピーカーの場合に、低域をことさら強調したり帯域を延ばしたりすれば恋の囁きもトンネルで吠える化け物になってしまうし、低音域のノイズも不快になる。高音もことさら延ばしたり強調すればサウンドトラックの雑音や歪が耳障りになる。
こうしたスピーカ-が生まれたのは、1930年代で、その頃のレコードや蓄音機の性能からみればトーキーのシステムはワイドレンジであり、高忠実度であった。けれど現在の高忠実度の基準からみればシアタースピーカーはもはや広帯域とは決して言えない。
しかしこのことから逆に、音楽や人の声を快く美しく聴かせるためには、決して広い周波数レンジが必要なのではないということを知っておくことは無駄ではない。低音が80ヘルツ、高音が7~8キロヘルツ、この程度の帯域を本当に質の良い音で鳴らすことが出来れば人間の耳はそれを本当に良い音だと感じることが出来るのである。」
周波数レンジを拡大することは決して悪いことではないが、それはMさんの言のように「基音」(80~8キロヘルツ)がしっかりしているのが大前提となっての話。つまり、80ヘルツ以下の低音と、8キロヘルツ以上の高音は「おまけ」と考えれば、実に視界がすっきりする(笑)。先日のブログ「野太い高音」の中で述べたかった趣旨も実はこういうことだったのかと思い至った。
ところで、この抜粋部分だけをとってみても瀬川さんと他のオーディオ評論家との違いがお分かりいただけるのではなかろうか?
両者の比較という意味で、ふと、小林秀雄さん(文芸評論家)の著作「西行」(1942年発表)の一節を思い出してしまった。
古今東西を代表する和歌の名手と謳われた西行法師(平安末期:1118~1190)に関する著述である。
「心なき 身にも哀れは 知られけり 鴫(しぎ)立つ沢の 秋の夕暮」(西行法師)
「見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦の苦屋(とまや)の 秋の夕ぐれ」(藤原定家)
「新古今和歌集で、この二つの和歌が肩を並べているのを見ると、詩人の傍で、美食家がああでもない、こうでもないと言っているように見える」とある。
オーディオの世界も同じことで、評論家やマニアも含めて「オーディオ人種」はどうやら「詩人と美食家」という両極端の間に位置しているように思えてきた。
西行法師のような非の打ちどころのない詩人に成るのは無理としても、頭でっかちの「美食家」だけには偏りたくないものだが、はたして?