「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

ジョン・コルトレーン

2013年06月14日 | 独り言

前回のブログに記載したように、12日(水)に借りてきた25冊の本を貸出期限内に返そうと、読書のピッチを上げることにして、昨日は朝から没頭した結果、幸先よく3冊を読破した。

はじめに手に取ったのが「サスペンダーの独り言」(矢次 敏)。
                       

出版社の社長さんのエッセイだが、いきなり冒頭の「櫻を待つ」に惹き込まれた。一部を抜き書きすると、

「3月10日は、若くして逝った当社の先代社長の命日である。特にソメイヨシノをこよなく愛していた彼は、この花がほころぶのを待つことなく、急逝した。

私は毎年、この日を「櫻待忌」と勝手に名付けて、独りひそかに供養をしている。といっても、墓参をするわけでもなければ、香を焚いているわけでもない。

ただ深夜、自分の部屋でJ・コルトレーンのCDの演奏を聴きながら酒を飲んでいるだけである。コルトレーンのサックスは、彼と私の共通の憧れでもあった。

その、豊かだが哀切極まりない響きが駆け巡るとき、“樹齢のはかないソメイヨシノではなく、日本古来の山櫻花の方を愛していれば、彼ももっと長生きしていただろうに”などと、まったく理屈に合わない想いが浮かんだりするのである。」

たまたま手に取った本の著者が「音楽好き」だと、何だか思わぬ拾い物をしたような気分になるのはいつものことだが、こういう文章を読むと、無性にコルトレーンが聴きたくなる。

彼のCDはどのくらい持ってるんだろう?

「バラード」、「クレッセント」、「ブルー・トレイン」、「ソウル・トレーン」、「J・コルトレーン&J・ハートマン」の5枚。ほかに、チームの一員として参加したマイルスの「カインド・オブ・ブルー」などもある。

ジャズのいいところは本を読みながら聴けることである。ただし、これはあくまでも自分の場合に限っての話。(クラシックだと、特に追悼の音楽になる「レクイエム」(鎮魂歌)などは、モーツァルトやフォーレの作品が有名だが、絶対に“ながら聴き”は無理。)

そういうわけで、昨日はコルトレーンを聴きながらの読書になってしまった。ジャズは滅多に聴かないので丁度いい機会。通して聴いた結果、一番気に入ったのは「バラード」だった。
            

門外漢があれこれ言っても仕方がないので、「アマゾン」のレヴューを引用させてもらおう。

「一般にジョン・コルトレーンというと、激しくブロウする姿をイメージする人も多いだろうが、その一方で情感豊かなバラード演奏にも真価を発揮した。優れたジャズマンはみなブルースとバラードの名手であり、コルトレーンも例外ではなかった。

バラードを演奏するときのコルトレーンは、シンプル&ストレートにメロディを歌いあげる。シーツ・オブ・サウンドもフェイクもご法度だ。要するに歌手になったつもりで、サックスで歌っているのだ。コルトレーンにとってバラードの演奏は、常に前進することを自らに課した壮絶な戦いの日々のなかで、一瞬その強迫観念から解放される、いわばつかの間の戦士の休息だったようだ。

聴く側にとってもそれは同様で、バラードを演奏するコルトレーンに接していると心が和む。その意味では、最高のヒーリングミュージックといえる。だから本作は、コルトレーンの数多いアルバムのなかで、いつの時代にもファンから支持される人気ナンバー1作品なのである。これぞコルトレーンバラードの極致だ。」

ごもっとも!

さて、ほかの読了した2冊についてだが、

まず「月光蝶」(月原渉)。

横須賀基地内で起きた美人女子将校(アメリカ人)の惨殺事件の謎解きミステリーだが、中盤まではぐいぐい読者を惹き込んで読ませるものの惜しいことに後半がちょっと弱い。

犯人の動機が薄弱だし、トリックにも無理がある。著者の作品では「太陽が死んだ夜」の方がずっと面白かった。次作に期待。

「残夢整理」~昭和の青春~(多田富雄)。

東大医学部教授、免疫学の世界的権威という肩書からは想像もできない内容だった。とにかく、金銭にだらしがなかったり、女性とみれば手当たり次第に手を出す友人たちとの深い交流が昭和の青春時代から老年に至るまで描かれる。

本書の“あとがき”にこうあった。

「この回想記のいずれも昭和を生きた人間のことを思い出したものである。それは紛れもない昭和人の生き様である。私の身近にあった異なった昭和の断片である。それを私は必死になって思い出した。一行書くにも、ひどく長い時間死者と対話したこともある。

この短編を書いている最後の段階で、私は癌の転移による病的鎖骨骨折で、唯一動かすことが出来た左手がついに使えなくなった。鎖骨を折ったことは、筆を折ることだった。書くことはもうできない。まるで終止符を打つようにやってきた執筆停止命令に、もううろたえることもなかった。いまは静かに彼らの時間の訪れを待てばいい。昭和を思い出したとことは、消えてゆく自分の時間を思い出すことでもあった。平成22年2月18日。多田富雄」

人生のおよそ2/3を占める昭和の時代。いささか“遠くなりにけり”だが他人(ひと)ごとではないなあ!


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