前回からの「マーラー談義」がさらに続く。
さっそく「ジャズ愛好家」から返信メールがあったので再掲させてもらおう。
「ご回答ありがとうございました。早速「大地の歌」を聴きなおしました。(バーンスタイン・ウィーンフィル・キング・ディースカウ)
この曲は最終楽章だけでもひとつの作品として充分ですね。ということは、全楽章の作品としての在り方・必然性が薄いということにもなります。
今回、お話を伺って、なぜマーラーの交響曲を巨大な室内楽と感じてしまうのか、理由が少し見えてきました。
素晴らしい素材を内包している割には、交響曲としては構成に難がある(失礼!マーラーさん)ということでしょうか。
そこで、演奏家に素材を生かして欲しい・・・「室内楽」を聴きたい、となってしまうようです。
似たようなことを、チャイコフスキーにも感じます。また、パガニーニに対しては、誰もが思うことではないでしょうか。
もっとも、パガニーニの5番・6番の協奏曲のオーケストレーションは後世の作曲家の手によるもののようですが、あまり良くないですね。オーケストレーションには大変な才能が必要ということでしょう。
以下は、門外漢であるジャズファンの、世間知らずの戯言とお聞き流しいただきたいのですが、現代作曲家は、オリジナルの作曲もいいけれど、古典のアレンジをもっとしてみたらどうかと思います。
ジャズやポップス風ではなく、クラシック音楽の現代の技法を用いてです。新たな楽しみが生まれると思います。私が知らないだけで、音楽界では行われているのかも知れませんが。
今回はありがとうございました。クラシックには「曲」と「演奏」という2面があるのでまだ嗜好が分散していいのですが、ジャズでうかつにこのような嗜好をいうと、人間関係が悪くなりかねません。ジャズには演奏=演奏者しかありませんので。」
クラシックとは畑が違うジャズ愛好家からのご意見に対していろいろと示唆をいただくことが多い。
たとえば、「楽譜」の有無によるジャズとクラシックの決定的な違い、そして再生する音楽の違い。
前者では「勢い」が重視され、後者は「ハーモニー」が重視されるので両者に対してオーディオ的には異なるアプローチが必要だと気付かされるのもその一つ。
ジャズの再生は「何でもあり」のようでオーディオ的には欠点になるところが聴感上ではむしろ長所になったりして、「個性」という言葉で片付けられるのでとても楽ちんだ。
その一方、クラシックとなると人間の耳は押しなべてハーモニーの違和感にはとても敏感に感じやすいので、家庭で十全に聴こうと思ったら、まず泥沼の世界を覚悟しなければならない。
音楽愛好家がまったくオーディオに言及しない例をちょくちょく見かけるがどうも不思議でならない。
「この人、ほんとうに音楽を愛好しているの?」といった具合。
もちろん「コンサート主義」の方もいるだろうが、グールド(ピアニスト)が言うように「コンサートで一度聴いたくらいでは、たとえばゴールドベルク変奏曲の微妙な変奏の具合なんぞは分かるはずがない。したがって自分はスタジオ録音に専念する」というのが正鵠を射ていると思う。
こんなことを書くと強烈なバッシングを受けるかもしれませんね(笑)。
最後に「マーラーを語る~名指揮者29人へのインタビュー~」から引用しよう。
大好きな指揮者「ベルナント・ハイティンク」が「いちばん親しみを覚えるマーラーの作品は?」の問いに対して次のように答えていた(P139)。
「4番の室内楽的な優しさが素晴らしい」!