共 結 来 縁 ~ あるヴァイオリン&ヴィオラ講師の戯言 ~

山川異域、風月同天、寄諸仏子、共結来縁…山川の域異れど、風月は同天にあり、諸仏の縁に寄りたる者、来たれる縁を共に結ばむ

マナーって…

2012年01月26日 23時24分08秒 | 日記
夕食の支度をするのも面倒なので、帰りがけの中華屋さんで食事をとることにしました。

私の隣のテーブルには、スーツを着た50代と思しきオヂサンが座っていました。私より先に座っていたそのオヂサンは、何やら難し気なビジネス本を片手に、真剣な表情で見入っていました。その光景自体はどうってことのないものでしたので、さして気にもしていませんでした。やがて程なくして、そのオヂサンのオーダーした野菜炒め的な定食が運ばれて来ました。

するとそのオヂサンは箸立てから箸を取ったかと思うと、左手に本を持って読み耽りながら、物凄い勢いで食事をしだしたのです。左手は本で塞がっていますから、当然のことながらお茶碗も持たずにご飯を掻き込み、トレーに油をタラタラ垂らしながら野菜炒めを口にねじ込み、箸を持ったままレンゲをとって凄まじいスピードでスープをすすり、またご飯を掻き込み…その間、一度も本から目を離すことはありません。

「このオヂサンって、食事を何だと思ってるんだろうか…」隣で見ていて唖然としました。あんなひたすらワシワシ口に突っ込んでいく食べ方では、恐らく味も何もわからないでしょうね。仮に誰かがちょっとした隙に違うおかずとすり替えても、何も気付かずそのまま食べ進めていくのではないか…と思うような勢いでした。

食事というものはただの栄養摂取ではなく、その日その時に「今日は○○が食べたい」と思って、それを自分で作ったりお店で注文したりして、出来上がったり出てきたりしたものを味わいながら楽しむものだと思うのです。ところがこの方からは「食事というものは、とにかく減った腹に何かを入れて満腹感を得るための一手段」みたいなスタンス以上のものを感じることが、全くできませんでした。

昔、私がオーケストラに所属していた頃、先輩の奏者から「チンタラチンタラ飯食ってんじゃない!早飯も芸の内だ!」と怒られたことがありました。でも、私はそういう考え方には賛同できません。勿論、リハーサルの合間とかの僅かな時間に済ませなければならない場合なんかには極力頑張って食べましたけど、やはり食事というものは味わうものです。

なんてことを思いつつ自分も食事をとっていたら、今度は反対側のテーブルに、レオパード柄のファーコートを来て、恐らくつけまつげを二重に付けているんじゃないかと思うような目元のファッサファッサしたネエチャンが、長いネイルの指でスマートフォンをヒョヒョヒョヒョ操作しながら座りました。注文を済ませるとそのネエチャンは、テーブルにスマートフォンを置いて左手で頬杖をつきながら、相変わらずヒョヒョヒョヒョ画面をいじっていました。

やがて彼女のオーダーの中華丼的なものが運ばれて来ました。すると彼女は左手で頬杖をついたまま、さもかったるそうにレンゲであんかけご飯をグチャグチャ掻き回すと、やおらその姿勢のままご飯を口に運びだしたのです。

私はまたしても唖然としました。折角美味しそうに盛り付けられたものを、ご飯も野菜もあんかけも全てグチャグチャにしてしまった図というものは、ハッキリ言って『汚らしい』の一言に尽きます。ましてや頬杖をついて食事をするなんて…。

しかも、この二人に共通することがありました。それは口を閉じてものを噛めないこと。彼等が口にものを運ぶ度に、店中に咀嚼音がクッチャクッチャクッチャクッチャ…もう耐え難いの一言でした。とりあえずカバンの中からイヤホンを取り出して耳に突っ込んで、何とかその場を凌いだくらいです。

思うのですけど、どういう風に育ったらこんな下品なものの食べ方ができるようになるのでしょうか?もしかしたらこういうオヂサンだって取引先とのビジネスディナーなんかに臨席しなければならないことだってあるでしょうし、こういうハスッパなネエチャンだって好きな男性と食事を共にすることもあるでしょう。そういう場合、こういう品性って隠しきれないものだと思うのです。案外女性の場合には『シラを切って演じ通す』という芸当が出来るつもりでいる人もいるかも知れませんが、それでもボロというものはどんなところに出るかわかりません。

以前、民放のテレビの何かの旅番組で中村雅俊がイタリアを訪れて、トラットリアでパスタをすすって食べた途端、周りのイタリア人のオジサン達から一斉に「すするな!」と注意されて、中村雅俊が固まってしまったのをそのままオンエアしていたことがありました。彼等からしたら、口を開けて咀嚼したり食器をガチャガチャ鳴らしたりといった食事中の雑音というものは何よりも避けるべきものであり、そういうマナーをわきまえない者は恥かしい存在と見なされてしまいます。

また、欧米人が日本に来て驚くことの一つに「日本では女の酔っ払いが街中を平気で歩いている」ということがあります。大人の女性として、そういう『はしたない姿』を世間にさらすということは、彼等にとっては考えられないことなわけです。

かつて私の教室に通っている女子高生の生徒が、ちょっと離れた席で電車の中でメイクをしていたのを見かけて、その場で注意しようと思ったらその子が電車を降りてしまったので、後日教室に来た時に注意したことがありました。その時彼女に「トイレの別名を何で『化粧室(パウダールーム)』って言うかわかる?」と聞いてみたら「?」という反応が返ってきました。「メイクっていうのは本来、人目を忍んでするものだからだよ」と言ったら「そうなの?」と驚いていたのを覚えています。今の子供達はそんなことすら知らずに過ごしているんです。

とかく日本人は『マナー』というワードに対してアレルギー的な拒否反応を示します。昨今は結婚式やパーティなんかでも「堅苦しい形式やマナーにとらわれず」という言葉が受けているようです。しかし、本来マナーというものは『同席した相手や周りの人達に不快な思いをさせない』ために、人間社会の中で時間をかけて培われた文化です。逆に言えば、テーブルマナーやドレスコードが決まっていることによって、それさえ知っていれば、かえって「どうしたらいいんだろう?」なんてあたふたしなくて済むようになっているわけです。

最近何かというと《グローバルスタンダード》という薄っぺらい言葉が横行していますが、どうせなら『脱ゆとり』ついでに学校でテーブルマナーとかメイクの仕方・心得なんかを教えたらいいと思うのです。家庭での躾に期待出来ない以上、真に国際社会に通用するような人材を育成しようと思うのであれば、最低限『世界で恥をかかない人間』を、国の威信と責任をかけて育てることに着手してもいいのではないでしょうか。

コメント
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