今日も晴れ上がった秋空が広がりました。この時期らしい気持ちのいい風も吹いて、日中は暑からず寒からず、何とも過ごしやすい陽気に恵まれました。
そんな中、あざみ野の教室に向かう前に急に寄りたくなって、東急田園都市線の線路を挟んで反対側の新石川という地区にある『驚神社(おどろきじんじゃ)』という御社に参詣しました。
閑静な住宅街にある細い道を歩いて行くと、やがて視界に幟を立てる高い柱と石造りの鳥居が見えてきます。その石造りの鳥居が一の鳥居なのですが、それをくぐったすぐ先に木造朱塗りの二の鳥居が立っています。これには若干面喰らいますが、それをくぐると細目の参道が延び、その先に急角度の石段が現れます。その石段を登りきったところに御社があります。

御祭神は素戔嗚命です。いつ頃の創建かは定かではないそうなのですが、一応延喜式社に数えられていて、この辺りが山内村と称していた頃から一体の鎮守社として崇敬されていたのだそうです。かつては御社の前に旧鎌倉街道があったこともあって、鎌倉幕府の幕臣畠山重忠に篤く崇敬され、近隣には50余町もの広さを誇る馬場を持っていたそうです。
因みにこの『驚神社』という名前は、馬を大切にしたところから『敬馬』の字を冠したことに由来するのだとか。ダジャレのようなそうでないような…。
この御社で有名なのが『牛込獅子舞(うしごめししまい)』というものです。

これは今から300年程前に疫病平癒を願って始められたと言われ、今でも毎年10月の例大祭で披露されています。一人立ての獅子三頭が、それぞれ腹にくくりつけた締め太鼓を打ち鳴らしながら踊るもので、神奈川県の無形文化財に指定されています。
また境内には『力石』という大きな石が置かれています。

これはかつて祭等の度に力自慢の男達によって持ち上げられていたものだそうで、銘文から元文4(1739)年に奉納されたものであることが確認されています。これは徳川吉宗の治世に当たり、全国各地に残されている力石の中でもかなり古いものであるようですが、明治中頃に持ち上げられたのが最後だということでした。
境内や参道には桜の古木が何本か見受けられました。春になったらさぞや美しいことでしょう。できれば来春またここに来て、確認してみようかと思います。
そんな中、あざみ野の教室に向かう前に急に寄りたくなって、東急田園都市線の線路を挟んで反対側の新石川という地区にある『驚神社(おどろきじんじゃ)』という御社に参詣しました。
閑静な住宅街にある細い道を歩いて行くと、やがて視界に幟を立てる高い柱と石造りの鳥居が見えてきます。その石造りの鳥居が一の鳥居なのですが、それをくぐったすぐ先に木造朱塗りの二の鳥居が立っています。これには若干面喰らいますが、それをくぐると細目の参道が延び、その先に急角度の石段が現れます。その石段を登りきったところに御社があります。

御祭神は素戔嗚命です。いつ頃の創建かは定かではないそうなのですが、一応延喜式社に数えられていて、この辺りが山内村と称していた頃から一体の鎮守社として崇敬されていたのだそうです。かつては御社の前に旧鎌倉街道があったこともあって、鎌倉幕府の幕臣畠山重忠に篤く崇敬され、近隣には50余町もの広さを誇る馬場を持っていたそうです。
因みにこの『驚神社』という名前は、馬を大切にしたところから『敬馬』の字を冠したことに由来するのだとか。ダジャレのようなそうでないような…。
この御社で有名なのが『牛込獅子舞(うしごめししまい)』というものです。

これは今から300年程前に疫病平癒を願って始められたと言われ、今でも毎年10月の例大祭で披露されています。一人立ての獅子三頭が、それぞれ腹にくくりつけた締め太鼓を打ち鳴らしながら踊るもので、神奈川県の無形文化財に指定されています。
また境内には『力石』という大きな石が置かれています。

これはかつて祭等の度に力自慢の男達によって持ち上げられていたものだそうで、銘文から元文4(1739)年に奉納されたものであることが確認されています。これは徳川吉宗の治世に当たり、全国各地に残されている力石の中でもかなり古いものであるようですが、明治中頃に持ち上げられたのが最後だということでした。
境内や参道には桜の古木が何本か見受けられました。春になったらさぞや美しいことでしょう。できれば来春またここに来て、確認してみようかと思います。