素戔嗚神社の隣に荒川ふるさと文化館があり
その敷地に「橋本左内の墓・旧套(さや)堂」があります。
佐内という人は知らなかったけど"青天を衝け"を見て
「そういう人だったのか」改めてその姿を追ってみました。
幕末の安政の大獄で刑死した橋本左内(1834~1859)を追慕し、
遺徳を広く発揚することを目的として
明治35年に設立された景岳会によって建てられました。
もともと回向院にあった「橋本左内の墓・旧套堂」が荒川区に寄贈され、
平成21年3月に荒川ふるさと文化館前に復元されました。
橋本左内は、越前福井藩の奥医師の長男として1834年に生まれた。
やがて福井藩主の松平春嶽に側近として登用され
春嶽を助け一橋慶喜擁立運動を展開し、幕政の改革を訴えた。
大老となった井伊直弼の手により安政の大獄が始まり
将軍継嗣問題に介入したことを問われて取り調べを受けて
一度は遠島の刑に決まったが、「藩主の命でやった」と言ったことが
井伊の癪に障ったらしく安政6年10月7日、伝馬町牢屋敷で斬首となる。
享年26(25歳没)だった。
江戸時代の処刑場、小塚原の跡に小塚原回向院。
小浜藩医杉田玄白らによる「ターヘルアナトミア」の
翻訳と「解体新書」の刊行を記念し作られた「観臓記念碑」。
小塚原処刑場、伝馬町牢で刑死した人の墓が多くあります。
奥に橋本佐内の墓があります。
橋本左内が斬首された後、福井藩では、
藩主松平春嶽の命を受け福井藩士が遺体を確保しようと飛び回りました。
そして遺体を確保することができ小塚原回向院に埋葬し
「橋本左内」と刻んだお墓が作られました。(景岳は号)
佐内は水戸藩の藤田東湖や薩摩藩の西郷吉之助とも親交を深めていたようです。
隣に明治維新への精神的指導者と云われる「吉田松陰」の墓。
1863年に高杉晋作らによって世田谷区若林に改葬され、
その地に松陰神社が建立されたので、
ここには当時の墓石だけが文化財として保存されています。
相馬大作供養碑。
1821年5月24日に南部藩士・下斗米秀之進(相馬大作)を首謀者とする数人が、
参勤交代を終えて江戸から帰国の途についていた津軽藩主・津軽寧親を襲った
暗殺未遂事件、いわゆる「相馬大作事件」と呼ばれる。
仲間の密告により失敗、幕府に捕らえられ獄門の刑を受けた。
今までとは一味違う人たちのお墓もあります。
江戸時代後期に大名屋敷を専門に荒らした有名な窃盗犯「鼠小僧次郎吉」。
鼠小僧次郎吉の墓はあちこちにあるけど本来の墓は墨田区の回向院で、
この墓石は義賊に恩義を受けた人々が建てたと言われています。
左、「高橋お伝」は明治の毒婦として世に喧伝された女性、
多情、淫婦とされ処刑後は解剖されて身体の一部は保存されているとされる。
右、「腕の喜三郎」。
江戸時代の侠客「腕の喜三郎」の墓です。寛文のころの人物で、
ケンカで斬られて取れかけてしまった片腕を「みっともない」と
言い子分にノコギリで切断させたと言われています。
世間はその放胆に舌を巻き、「腕の喜三郎」と名を改め、
その侠勇は四方にとどろいた。のちに出家して「片板」と号した。
こういった一癖も二癖もある罪人が、
全て小塚原刑場で処刑され、回向院に葬られたのです。
罪人ではありながら、江戸・明治の風俗史を彩る
愛すべきヒールと言えるかもしれません。
data: PowerShot G7X MarkⅡ。 撮影 9月1日 南千住・小塚原回向院