東十条探偵団2

明日は何を撮りに行こうかな?

深川・芭蕉庵を訪ねる

2017-02-28 | 散歩
  芭蕉庵というのは文京区関口にもある、
  芭蕉は若いころ神田上水工事の現場監督みたいな仕事をしていた。
  その時の住まいが文京区の方でそのあと江東区のこの芭蕉庵で過ごした、
  そしてこの地から奥の細道へと旅立って行ったのである。


  

     新大橋を渡ったら信号を右折、万年橋通りへ、
     ちょっと歩いて右に「江東区芭蕉記念館」。




  

     この辺は下町中の下町、この光景は23区内とは思えない。
     そして芭蕉の街、どこを見ても芭蕉が溢れている。




  

     そのまま歩いてすぐ万年橋のたもとを右へ入ると「芭蕉稲荷」、
     芭蕉庵があった所。

     とにかくお江戸は稲荷が多い、どこにでもお稲荷さん
     「伊勢屋、稲荷に犬のクソ」江戸に多いものを詠んだ戯れ句もある。
     伊勢屋は伊勢から来た商人が多かったのね、今でも質屋さんは伊勢屋 !?。

     万年橋もいいね、一日歩いて記事にしたい所だ。




  

     足を踏み入れるのもはばかられるような小さな境内に「芭蕉庵跡」の碑。
     カエルはいるけど飛びこむ池がない。




  

     急な石段を上がると芭蕉の像、
     どこを見ているのだろう、何を見ているのだろう。




  

     上がった所はこんな感じ、いろいろな資料が展示されている。
     芭蕉の背中は「万年橋」、小名木川はここで隅田川に注ぎこむ。
     実は芭蕉は奥州へ旅立つ前に芭蕉庵を売り払いこの近くの仮屋から旅立った、
     それなりの覚悟のもとに旅立ったのだろうか。




  

     芭蕉の場所からは見えないがちょっと移動すると新大橋が見える、
     芭蕉は毎日橋の進行状態を見ていたのかな。




  

     逆光気味なので表情はイマイチだけど柔和な顔みたい。




  

     清洲橋をバックに何思う、
     芭蕉はこの清洲橋の袂あたりから旅立ったと言われている。


     「奥の細道」紀行文によれば、元禄2年(1689年)3月に船で隅田川を北上し千住の地に上陸、
     千住より奥州へと旅立った。矢立初めの句“行く春や 鳥啼き 魚の目は泪”を詠む。芭蕉 46歳だった。

     旅の支度は防寒用の紙子(衣服)、ゆかた、雨具、筆墨 剃りあげた坊主頭に
     墨染めの僧衣姿といういでたちだったという。


     このあと素盞雄(すさのお)神社へ行く予定があるので
     もしかしたらそこから続編を、、、ということになるかも。
                                            2月22日 芭蕉庵を訪ねて
          

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日本橋散歩・新大橋あたり

2017-02-27 | 散歩
  新大橋の最初の架橋は元禄6年(1694年)。隅田川3番目の橋で
  「大橋」と呼ばれた両国橋に続く橋として「新大橋」と名づけられた。
  西岸は中央区日本橋浜町、東岸は江東区のいわゆる深川。
  この深川には芭蕉が住んでいた芭蕉庵がある。


  

     荒汐部屋から10分くらいで新大橋に着いた、
     朝から目まぐるしく変わるお天気は分刻みで青空が出たり曇ったり。




  

     遊歩道わきにドッグランがあった、小さいけどワンコも飼い主さんもイイネ!。
     橋からここまで歩く間に空は変わる、晴れてくれ。




          

          口惜しいけど写真見ているより空模様見ている方が面白い !?。

          新大橋の構造形式は「 2径間連続斜張橋」。
          実にシンプルだ、これだけでこの橋を支えているんだね。




  

     主塔には2枚のレリーフが貼ってある、そのうちの一枚。
     左が橋にあるもの、
     中央は広重が描いた江戸百景の一つ、新大橋「大はしあたけの夕立」、
     右はそれをゴッホが模写したもの。




  

     隅田川はこの辺りで大きく湾曲している、向こうは清洲橋。
     昔この辺りは三また(三股)と呼ばれていた、神田川、隅田川、竪川の
     合流点のことで中州があり月見、花見、夕涼み、花火見物の名所であり、
     全盛期には江戸一番の繁盛を見せたといわれる場所である。
     この辺は「あたけ」と呼ばれ前述広重の「大はしあたけの夕立」となった、




  

     遊歩道へ下りてみた、
     隅田川の清掃船が航行している、前方からゴミをすくい取りながら川をきれいにする。
     バックの清洲橋はドイツのケルン市にあったヒンデンブルグ橋の大吊り橋をモデルにした。




  

     橋の基礎というのかな、取り付け部分。
     ダイナミックやなぁ。




  

     ここから10分くらいの所に芭蕉が住んでいた「芭蕉庵」がある、
     芭蕉はこの橋が出来上がるのを見ながらいろいろな句を詠んでいる。

     工事のの状況を見ながら
     「初雪や かけかゝりたる橋の上」
 
     橋が完成して渡り初めの際には次の句がある。
     「有りがたや いたゞひて踏むはしの雪」

     また、新大橋の完成を感謝して次のような句を詠んでいる
     「みな出て 橋を頂く霜路かな」」


     そんなわけで次回は芭蕉庵を訪ねてみましょう。
                                             2月22日 新大橋あたり
          

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日本橋散歩・明治は遠くなったのか

2017-02-26 | 散歩
  今回の日本橋散歩はテーマを細分化した、3回に分けた、
  1回目は明治の面影を求めて。
  そして歩いたのが2月22日、にゃんにゃんにゃんの日、
  この話題にもちょっとふれてみよう。


  

     この回は小伝馬町から甘酒横丁を抜け新大橋まで歩く、人形町の駅前に「「玄冶店(げんやだな)」跡。
     近くに傷だらけの切られ与三郎のポスターも。

     「与話情浮名横櫛」(よはなさけうきなのよこぐし)
     1853年中村座で初演、以降現代まで歌舞伎の名作として伝えられる。

     他人の妾だったお富と仲よくなった与三郎、
     それがバレて切り刻まれ簀巻きにされて海へドボン!。
     いろいろあって運よく助かった与三郎は無頼の徒に、
     ある日与三郎は借金の取り立てに行ったがそこにはお富の姿が。
     ここであの名台詞、
     「おかみさんぇ、お富さんぇ、いやさお富、久しぶりだなあ」。
     お富さんがいたのが「玄冶店」、この辺りにあったとされる。

     (「玄冶店」は実際の地名、芝居では「源氏店」とされる)




  

     甘酒横丁を明治座方向へ。




  

     甘酒横丁は昭和の香り。




  

     緑道公園、川の跡を埋め立てのは分かるけど川の名前が分からなかった、
     いろいろ調べたら「浜町川」の跡だった、この先で隅田川に合流する辺りが浜町河岸。
     浜町河岸といえば有名な「明治一代女」の舞台。

     明治一代女は実際の事件を基に川口松太郎が書いた小説。
     花井お梅は幕末から大正にかけての女性、芸妓などで生活していたが
     殺人事件を起こしそれが「新派」などいろいろな演芸に脚色され演じられた。
     藤田まさと作詞による「明治一代女」が大ヒットし
     近くは美空ひばりなども歌っている。
     その浜町河岸はこの先あたりだった。

     浮いた浮いたと 浜町河岸に
     浮かれ柳の 恥かしや
     人目しのんで 小舟を出せば
     すねた夜風が 邪魔をする
                             「明治一代女」  作詞:藤田まさと




  

     明治座。
     明治6年に創建されたあといろいろな名前に変わったが
     明治26年初代市川左團次が千歳座を買収してこれを「明治座」とし
     そのままずーっと今日に至っている。




  

     明治座の隣は「浜町公園」。
     浜町公園は関東大震災後の復興事業として作られた公園。
     江戸時代は熊本藩主・細川氏の下屋敷があり、加藤清正を祀る清正公寺もあるが見てこなかった。

     さていよいよ、にゃんにゃんにゃん目指して。
     この通りは清洲橋通り、画面右側へ新大橋通りへ向かいます、
     小さな路地を数えて進みます、1、2、3、三本目の露地を左へ。




  

     三本目の露地を左へ入ってさあ着いたよ、「荒汐部屋」。
     ええ~、相撲部屋じゃん、なんでにゃんにゃんにゃんなの?。




  

     写真はネットから無断借用。
     部屋に棲みついた2匹のにゃんこがバカ受け、写真集まで出てしまった。
     噂が噂を呼んで朝稽古のある日はギャルが十重二十重?、
     部屋もいささか持て余し気味・・・とか。




  

     朝稽古はこの窓から見られるみたい、
     朝早くからギャルたちが押し合いへし合いしている姿を想像してみてね。




          

          さて荒汐部屋を後に清洲通りから新大橋通りを左折して新大橋へ向かおう、
          歩くこと数分橋のたもとにいま話題のホテルが。

          「あの五月蠅い国の人が来ないのなら静かでいいや
          みんなで行って泊まろうよ」・・・
          ネトウヨさんたち大感激、「アパホテルGJ」てな声も聞こえてくる。


          この回は明治を偲んで歩いた、遠くなりにけりじゃなく
          明治は今もしっかりと息づいている感じだ。

          次回は新大橋あたりをあっちからこっちから、
          今回は長くなってしまったので次はシンプルにね。
                                         2月22日 明治は遠くなったのか
          

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千束稲荷の二の午

2017-02-25 | イベント
  樋口一葉ゆかりの千束稲荷は初午より二の午を盛大にやる、
  と言っても小さな神社なので夜になって街の人が集まるくらいかな。
  一葉は若いころ短い間だったけどこの辺りに住んでいたことがある、
  一葉記念館も旧居跡もすぐ近くにある。


  

     24日は二の午の日、ここは職場から徒歩5分くらい、楽ちんだね。




  

     去年はこの鳥居に大きな絵かな行灯かなそんなのが架かっていたし
     外にも地口行灯があったけど今年は無かったな。




  

     お稲荷様のお使い、いろいろな神社みんな顔が違うけど
     ここのおキツネさまはいい顔をしている。




  

     地口行灯は江戸っ子が冗談を楽しんだもの、
     そのダジャレと絵の上手さを競い合った。




  

     江戸期には町内の若旦那かなんかが案を出し提灯屋かなんぞが描いたらしい、
     今は描く人が少なくなって困っているとか。




  

     朝のうち曇っていたけど行った頃には青空が広がってきた、
     青空じゃないと赤い幟が映えないもんね。




  

     境内には樋口一葉の胸像がある、ちょっと怖そう・・・。




  

     胸像に刻まれた碑文の解説と説明、
     一葉の本名は夏というんだね。




  

     ささやかに咲いた紅梅などが二の午祭に色を添える、
     相変わらず風が強かったけど次第に止むということでよかったね。
     夜になったら地口行灯の明かりも点いていいお祭りになりそう。

     昔、五千円札が出たころこの近くの駄菓子屋で五千円札煎餅なるものを売っていた、
     細長いお煎餅は五千円札そのままの形、買って帰って農業公園のみんなに分けたが
     今でも売っているのだろうか。
                                               2月24日 千束稲荷
          

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水戸様の庭先で

2017-02-24 | 風景
  ちょっと年配の人、ちょっとじゃなくもうちょっと年配の人かな?
  後楽園を水戸様と呼ぶ、その伝でいくと隅田公園も水戸様の庭だね。
  池があって水鳥たちの憩いの場、カワセミなども飛んでくる、
  河津桜を撮ったあと少し回ってみた。


  

     いつもはたくさん見かける水鳥もこの日はユリカモメなど数種だけ、
     まだ北へ帰ったわけでもないだろうけど。




  

     ユリカモメたちは賑やかだ、いつも追いかけっこ
     突いたり突かれたり少しもじっとしていない。




  

     松の枝の上にはコサギ、コサギってよく木の上に止まっている。
     風が強いからセットが乱れちゃう !?。




  

     デカいのがのそのそやって来た、アオサギ。
     アオサギとコサギはよく一緒に見かける、ウマが合うのかな。




  

     カモがやって来た、カモホシハジロかなあまり見ないカモで
     冬季に見られるカモ、北海道では夏季にも僅かに見られるらしい。




  

     ユリカモメのつがいかな、仲間から離れここでしばらく二人っきり。


     ユリカモメは東京ではミヤコドリ、都鳥と呼ばれたりしている。
     在原業平が「名にし負はば いざ言問はん都鳥 わが思う人は ありやなしやと」と詠んだ
     ゆえに都鳥と言われるが異論もある。

     その、「いざ言問はん都鳥」、、、から名づけられた言問橋、
     ここはその言問橋のほとり、旧水戸藩の下屋敷の庭。
     やはり言問橋には都鳥がよく似合う。
                                               2月21日 隅田公園
          

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