毎日いろんなことで頭を悩ましながらも、明日のために頑張ろうと自分を励ましています。
疲れるけど、頑張ろう!
気絶するほど悩ましい
チャーといえば、ギターリスト。「伝説の」という肩書きが着くくらいのギターの名手らしい。ギターなど弾いたことがない私にはどれほどの名手なのか想像もつかないが、彼の歌なら知っている。1977年に発表された「気絶するほど悩ましい」。私は当時、大学生。長髪のチャーはかっこよく、この歌は今でも時々口ずさむほど私の大好きな一曲である。YouTube で見つけたビデオクリップは布袋寅泰と一緒に歌っていて比較的新しいのだろう、歌い方が昔よく聴いたものとは違う。今風の歌い方をしていて、少々辟易してしまうが、曲自体がいいから、そんなことは大した問題じゃない。
「気絶するほど悩ましい」
鏡の中で口紅を塗りながら
どんな嘘をついてやろうかと考える
あなたは気絶するほど悩ましい
振り向きながら唇をちょっと嘗め
「今日の私はとてもさびしい」と目を伏せる
あなたは気絶するほど悩ましい
ああ また騙されると思いながら
僕はどんどん堕ちてゆく
上手くゆく恋なんて恋じゃない
上手くゆく恋なんて恋じゃない
まつげに涙 いっぱいにためながら
「あなただけは判るはずなの」と訴える
あなたは気絶するほど悩ましい
ああ 嘘つき女と怒りながら
僕は人生傾ける
上手くゆく恋なんて恋じゃない
上手くゆく恋なんて恋じゃない
これは阿久悠の作詞なのだそうだ。びっくりした。そう思えば、「上手くゆく恋なんて恋じゃない」などと、普通の人間には書けない。「騙されると思いながら 僕はどんどん堕ちていく」などと、転落することに快感を覚える描写は、余人の手には無理だ。すごい詞だなあ、とつくづく思う。
今の歌は、歌詞を聴いたらその世界が広がるということはなかなかない。かと言って、演歌のように非現実的であったり、時代錯誤の世界を押し付けられても暑苦しいだけだ。しかし、70年代の歌謡ポップスには、手を伸ばせば触れることのできる現実世界を描きながら、聴く者が自己をその世界に投影できるような奥深さがあったように思う。この歌がいい例だ。リアルタイムでよく聴いた学生時代は、自分と同じ世代の男が、年上の恋愛経験豊かな女性に翻弄されながら、分っていてもどんどん相手の術中に陥っていく心持を、半ば喜びとともに歌い上げた歌詞だと思っていた。そこには私のほのかな憧憬も含まれていたのかもしれない。
しかし、今改めてこの詞を読んでみると私も30年という齢を重ねたのを実感した。 今やこの詞に描かれた「僕」から私が想像するのは、ちょっとしたきっかけで知り合った女性に、利用されていると知りながらも彼女の言うがまま、なすがままにさせてやることに無上の喜びを感じ、ますます彼女にのめりこんでいってしまう中年男だ。なんだか、リアリティーがあってないような設定しか浮かんでこない自分が情けないが、そうした隠微な世界を思い描いてしまうのは、血液がどろどろしているからかもしれないけれど、何か私の深層心理を表しているようで、ちょっと嫌だ。
まあ、常々少年の瞳を持ったオヤジを自認している私なので、好奇心は旺盛ではあるが、根は臆病なので、そうした危険な香りのする大人の世界に足を踏み入れたりなどするはずもないけれど。でも、ちょっとは憧れたりなんかしたりして・・・
「気絶するほど悩ましい」
鏡の中で口紅を塗りながら
どんな嘘をついてやろうかと考える
あなたは気絶するほど悩ましい
振り向きながら唇をちょっと嘗め
「今日の私はとてもさびしい」と目を伏せる
あなたは気絶するほど悩ましい
ああ また騙されると思いながら
僕はどんどん堕ちてゆく
上手くゆく恋なんて恋じゃない
上手くゆく恋なんて恋じゃない
まつげに涙 いっぱいにためながら
「あなただけは判るはずなの」と訴える
あなたは気絶するほど悩ましい
ああ 嘘つき女と怒りながら
僕は人生傾ける
上手くゆく恋なんて恋じゃない
上手くゆく恋なんて恋じゃない
これは阿久悠の作詞なのだそうだ。びっくりした。そう思えば、「上手くゆく恋なんて恋じゃない」などと、普通の人間には書けない。「騙されると思いながら 僕はどんどん堕ちていく」などと、転落することに快感を覚える描写は、余人の手には無理だ。すごい詞だなあ、とつくづく思う。
今の歌は、歌詞を聴いたらその世界が広がるということはなかなかない。かと言って、演歌のように非現実的であったり、時代錯誤の世界を押し付けられても暑苦しいだけだ。しかし、70年代の歌謡ポップスには、手を伸ばせば触れることのできる現実世界を描きながら、聴く者が自己をその世界に投影できるような奥深さがあったように思う。この歌がいい例だ。リアルタイムでよく聴いた学生時代は、自分と同じ世代の男が、年上の恋愛経験豊かな女性に翻弄されながら、分っていてもどんどん相手の術中に陥っていく心持を、半ば喜びとともに歌い上げた歌詞だと思っていた。そこには私のほのかな憧憬も含まれていたのかもしれない。
しかし、今改めてこの詞を読んでみると私も30年という齢を重ねたのを実感した。 今やこの詞に描かれた「僕」から私が想像するのは、ちょっとしたきっかけで知り合った女性に、利用されていると知りながらも彼女の言うがまま、なすがままにさせてやることに無上の喜びを感じ、ますます彼女にのめりこんでいってしまう中年男だ。なんだか、リアリティーがあってないような設定しか浮かんでこない自分が情けないが、そうした隠微な世界を思い描いてしまうのは、血液がどろどろしているからかもしれないけれど、何か私の深層心理を表しているようで、ちょっと嫌だ。
まあ、常々少年の瞳を持ったオヤジを自認している私なので、好奇心は旺盛ではあるが、根は臆病なので、そうした危険な香りのする大人の世界に足を踏み入れたりなどするはずもないけれど。でも、ちょっとは憧れたりなんかしたりして・・・
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