毎日いろんなことで頭を悩ましながらも、明日のために頑張ろうと自分を励ましています。
疲れるけど、頑張ろう!
痛み
自分は痛みに強いと思っていた。迂闊にここが痛い、あそこが痛いなどと言ったら、医者に行けとうるさく言われてしまう。医者にはできる限り行きたくはないから、たいていのことなら我慢してきた。不思議なことにしばらくすればそんな痛みが消えてしまったから、神通力でもあるかしらなどと高をくくったりもしてきた。だが、そんな物はただの思い違いであることが今回の歯痛でよく分かった。単に今までの痛みなど我慢できる程度のもので、本当の痛みなどではなかったのだ。そうでなければ自他共に認めるヘタレの私が激甚な痛みを我慢できるはずがない。ほんのちょっと一線を越えてしまうだけで、もうだめだ。泣き言ばかり言ってすぐに助けを求めようとする、本当に情けない・・。
確かに虫歯の痛みもきつかった。最後のほうはじっとしていても脂汗がにじんできたほど、絶えず左下の奥歯が痛んだ。キリキリと痛む、というような痛みではなく、絶えずどーんと重い物が奥歯に乗っかっているような鈍痛にシャープさを少し加えたような痛みがずっと続いていた。この痛みさえ取れるならどんなことも我慢するぞ、と3本奥歯を抜いたときも満たされた気持ちでいた。だが、そんなものは抜歯のときの麻酔が効いていたのと、帰宅後すぐに飲んだ痛み止めの薬が効いていたのを勘違いしたに過ぎなかった。麻酔が切れた夕方からは抜く前とは違う、一段と厳しさを増した痛みが絶えず続いた。辛抱できずに2錠目の痛み止めを飲んだのが4時過ぎ。それでしばらくは授業に打ち込むことができたが、6時過ぎたあたりから、徐々に痛みが戻ってきて、7時頃にはもう耐えられなくなってきた。家に痛み止めを取りに戻ったら、「痛み止めは4時間くらい空けたほうがいいから、もうちょっと我慢しなさいよ」と妻に言われてしまった。痛み止めを飲んだりすると、激しい眠気に襲われる私であるから、できるだけ飲みたくはないが、これ以上我慢すると授業にも集中できなくなってしまいそうだ。それでも妻の忠告に従って思いっきり我慢して、何とか8時になったときに3錠めを飲んだ。
しかし、すぐには効いてくれない。30分ほど経って、やっと効き始めた時には心底ほっとした。痛みで声も弱くなりがちだった私が、いきなり大きな声で話し始めたものだから、教室の子供たちは少し驚いたようだ。「今日さあ、歯を抜いてきたんだよ、3本も!」と自慢げに言ってやると、けらけら笑出だす生徒や「痛い?」と同情してくれる生徒までいて、反応も千差万別だ。とは言え、同情を買おうなどと甘ったれたことを考えたわけではなく、何とか歯医者に行けた充実感を子供たちと分かち合いたかっただけのことだ。だが、そんな幸せな時間も長くは持たなかった。薬を飲んで3時間経った頃から、ゆっくりと痛みが戻ってきた。まるでひたひたと波が押し寄せるように着実に私の口を痛みが占領するにはさほど時間が必要ではなかった。「4時間空けなくちゃ・・。あと30分我慢しよう」と、人知れず心の中で葛藤が始まる。なんだか、麻薬常習者にでもなったように痛み止めを求めてしまう。苦しかった・・。
こんなことが丸2日続いた。あまりに痛くてその間ずっとビールを飲んでいない。飲みたいという気持ちはまったく浮かばなかったし、下手に飲んで痛みが倍化してしまっては堪らない。そんな思いから、水・木・金・土と4日間ビールを一滴も飲んでいない。思いも寄らないところで、ゴールデンウィークで疲れた肝臓を休めることができた。その代わりに薬漬けになっているからどちらがいいのか分からない。抜歯後2日間で、処方してもらった鎮痛薬がとうとう切れてしまった。いくらなんでもまだまだ痛み止めなしでは不安だと思って、金曜日に痛み止めをもらいに行った。「売るほどあるからいくらでもあげるよ」という従兄弟の歯科医は軽口を言いながらも、「夜になると痛くなるかもしれないから、痛くなったらすぐに飲んだほうがいいよ」とちょっとしたアドバイスをくれた。
しかし、専門家はやはりすごい。昼の間はさほど痛まなかったのに、夜になって授業をやっているときに鈍痛が始まった。「予言どおりだ」と感心しながら急いで薬を飲んだ。痛みで苛ついていては授業にならない。我慢せずに飲もう!と思いたって、金・土の二日が過ぎた。さすがに痛みのパワーも半減したようで、ひょっとしたら薬を飲まずにいても我慢できるかな、などと思えるようになってきた。まだ飲んでいるにはいるがその間隔がずいぶん長くなった。あと少しの辛抱だろう。
決して我慢強くない私が何とかここまで頑張ってきた。水曜日に2回目の歯医者に行く予約がとってある。それまでには痛みもきっと引くだろう。まだまだ治療すべき歯は何本もあるから大変だ。頑張ろう!!
確かに虫歯の痛みもきつかった。最後のほうはじっとしていても脂汗がにじんできたほど、絶えず左下の奥歯が痛んだ。キリキリと痛む、というような痛みではなく、絶えずどーんと重い物が奥歯に乗っかっているような鈍痛にシャープさを少し加えたような痛みがずっと続いていた。この痛みさえ取れるならどんなことも我慢するぞ、と3本奥歯を抜いたときも満たされた気持ちでいた。だが、そんなものは抜歯のときの麻酔が効いていたのと、帰宅後すぐに飲んだ痛み止めの薬が効いていたのを勘違いしたに過ぎなかった。麻酔が切れた夕方からは抜く前とは違う、一段と厳しさを増した痛みが絶えず続いた。辛抱できずに2錠目の痛み止めを飲んだのが4時過ぎ。それでしばらくは授業に打ち込むことができたが、6時過ぎたあたりから、徐々に痛みが戻ってきて、7時頃にはもう耐えられなくなってきた。家に痛み止めを取りに戻ったら、「痛み止めは4時間くらい空けたほうがいいから、もうちょっと我慢しなさいよ」と妻に言われてしまった。痛み止めを飲んだりすると、激しい眠気に襲われる私であるから、できるだけ飲みたくはないが、これ以上我慢すると授業にも集中できなくなってしまいそうだ。それでも妻の忠告に従って思いっきり我慢して、何とか8時になったときに3錠めを飲んだ。
しかし、すぐには効いてくれない。30分ほど経って、やっと効き始めた時には心底ほっとした。痛みで声も弱くなりがちだった私が、いきなり大きな声で話し始めたものだから、教室の子供たちは少し驚いたようだ。「今日さあ、歯を抜いてきたんだよ、3本も!」と自慢げに言ってやると、けらけら笑出だす生徒や「痛い?」と同情してくれる生徒までいて、反応も千差万別だ。とは言え、同情を買おうなどと甘ったれたことを考えたわけではなく、何とか歯医者に行けた充実感を子供たちと分かち合いたかっただけのことだ。だが、そんな幸せな時間も長くは持たなかった。薬を飲んで3時間経った頃から、ゆっくりと痛みが戻ってきた。まるでひたひたと波が押し寄せるように着実に私の口を痛みが占領するにはさほど時間が必要ではなかった。「4時間空けなくちゃ・・。あと30分我慢しよう」と、人知れず心の中で葛藤が始まる。なんだか、麻薬常習者にでもなったように痛み止めを求めてしまう。苦しかった・・。
こんなことが丸2日続いた。あまりに痛くてその間ずっとビールを飲んでいない。飲みたいという気持ちはまったく浮かばなかったし、下手に飲んで痛みが倍化してしまっては堪らない。そんな思いから、水・木・金・土と4日間ビールを一滴も飲んでいない。思いも寄らないところで、ゴールデンウィークで疲れた肝臓を休めることができた。その代わりに薬漬けになっているからどちらがいいのか分からない。抜歯後2日間で、処方してもらった鎮痛薬がとうとう切れてしまった。いくらなんでもまだまだ痛み止めなしでは不安だと思って、金曜日に痛み止めをもらいに行った。「売るほどあるからいくらでもあげるよ」という従兄弟の歯科医は軽口を言いながらも、「夜になると痛くなるかもしれないから、痛くなったらすぐに飲んだほうがいいよ」とちょっとしたアドバイスをくれた。
しかし、専門家はやはりすごい。昼の間はさほど痛まなかったのに、夜になって授業をやっているときに鈍痛が始まった。「予言どおりだ」と感心しながら急いで薬を飲んだ。痛みで苛ついていては授業にならない。我慢せずに飲もう!と思いたって、金・土の二日が過ぎた。さすがに痛みのパワーも半減したようで、ひょっとしたら薬を飲まずにいても我慢できるかな、などと思えるようになってきた。まだ飲んでいるにはいるがその間隔がずいぶん長くなった。あと少しの辛抱だろう。
決して我慢強くない私が何とかここまで頑張ってきた。水曜日に2回目の歯医者に行く予約がとってある。それまでには痛みもきっと引くだろう。まだまだ治療すべき歯は何本もあるから大変だ。頑張ろう!!
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朴葉寿司
水曜日に抜歯した後の痛みが少し弱まったのに気をよくして、お千代保稲荷に出かけた。とは言え、痛み止めはしっかり飲んでのことではあるが・・。
ゴールデンウィークが終わったばかりに金曜日なので、きっと人手は少ないだろうと目論んでいたら、参拝客は思いのほか多かった。しかし、参道に並ぶ店のいくつかが休業していたのは少々寂しかった。いつも昼食を食べるうどん屋も閉店していた。一緒に行った伯母は、そこで食事をするのが一番の楽しみらしく、ひどくがっかりしていた。仕方なしに別の店を探して入ったが、あまり美味しくなくて、みんなでがっかりした。いくら参拝が主旨だとは言え、楽しみがなくては詰まらない。やはり日曜に参拝したほうが活気があっていいのかもしれないが、今月の残りの日曜は、中間試験対策の補習をしなければならないので、もう平日にしか参拝できない。楽しみを来月まで持ち越したと思うことにしよう・・。
「先月行ったスーパーに行ってみようか」と参拝を終え、車に乗ったら伯母が誘った。そう言えば、先月お稲荷さんを参拝した帰り道、高速道路のインター付近にあったスーパーに立ち寄って買い物したのを思い出した。「あっ、朴葉寿司ね」と妻も思い出したようだ。朴葉寿司と言うのは、ちらし寿司を朴の葉に包んだ寿司のことで、木曾地方を中心に5月から6月にかけて作られる郷土料理のことだ。「朴の葉には殺菌効果があるといわれ、昔木曽義仲が戦いに出陣するときに携帯食として、米や味噌を朴の葉で包んで持っていったといわれています。ほんのりと香る朴の葉の香りが食欲をそそります」などとPCで検索したら書いてあったが、先月から売られていたのだから、ずいぶん早いお目見えだったようだ。それをスーパーで見つけて買い、すぐに車の中で妻と二人で食べた伯母は「美味しい、美味しい」と舌鼓を打っていた。あれだけ嬉しそうだったから、また食べたくなるのも当然だろう。まっすぐスーパーに向かった。

すぐにこのパックを見つけた伯母は、2つ買って1パックを私たちにくれた。すぐに食べるのかなと思っていたら、今回は家に持ち帰ってから食べると決めていたようで、車の中ではお稲荷さんで買った鬼饅頭を食べていた・・・。
ここまで傍で眺めていた私はブログに朴葉寿司のことを書こうと決めていた。家に帰って寿司の中身の写真を撮り、作り方を調べて載せれば簡単に記事ができあがる、とほくそ笑んでいた。しかし・・、家に帰っても妻がパックをあけようとしない。「今日は食べない」などと言って私に写真を撮らせてくれないのだ。なんて意地悪だ・・。私は白米を食べないから、自分で封を開けて「食べるぞ!」ということができない。心の中では地団太を踏む思いだったが、「ふ~~ん・・」とやせ我慢してその場を去った。どうやって記事を誤魔化そうか?ちょっと困ってしまった。
ところがお稲荷さんの霊験あらたかとはこのことだろうか、塾が終わって家に戻ったら、妻が「これの写真を撮ったら?」と皿を指差した。そこにはなんと朴葉寿司が乗っているではないか!

「どうしたの?」と少々不思議に思った私は妻に尋ねた。「これは○○さんちが持ってきてくれたの」と親戚の名前を言った。「へえ、不思議なこともあるもんだな」「そうでしょう、私も不思議・・」その親戚から朴葉寿司をもらうなんて初めてだ。しかも、選りによって偶然朴葉寿司をスーパーで買ってきた日に・・。なんて奇遇なんだろう。「こんなこともあるんだな」などと言いながらもあまりの幸運さに内心躍り上がらんばかりだった!早速写真に収めた。

「しかし、どうしよう・・」妻が浮かない顔をした。そりゃそうだろう、私は食べないし、父も「朴葉寿司は嫌いだ」とずいぶん前から宣言しているから、きっと見向きもしないだろう。だから結局妻が全部食べることになる・・。せいぜい頑張ってくれ・・。
参考までに「朴葉寿司の作り方」。
ゴールデンウィークが終わったばかりに金曜日なので、きっと人手は少ないだろうと目論んでいたら、参拝客は思いのほか多かった。しかし、参道に並ぶ店のいくつかが休業していたのは少々寂しかった。いつも昼食を食べるうどん屋も閉店していた。一緒に行った伯母は、そこで食事をするのが一番の楽しみらしく、ひどくがっかりしていた。仕方なしに別の店を探して入ったが、あまり美味しくなくて、みんなでがっかりした。いくら参拝が主旨だとは言え、楽しみがなくては詰まらない。やはり日曜に参拝したほうが活気があっていいのかもしれないが、今月の残りの日曜は、中間試験対策の補習をしなければならないので、もう平日にしか参拝できない。楽しみを来月まで持ち越したと思うことにしよう・・。
「先月行ったスーパーに行ってみようか」と参拝を終え、車に乗ったら伯母が誘った。そう言えば、先月お稲荷さんを参拝した帰り道、高速道路のインター付近にあったスーパーに立ち寄って買い物したのを思い出した。「あっ、朴葉寿司ね」と妻も思い出したようだ。朴葉寿司と言うのは、ちらし寿司を朴の葉に包んだ寿司のことで、木曾地方を中心に5月から6月にかけて作られる郷土料理のことだ。「朴の葉には殺菌効果があるといわれ、昔木曽義仲が戦いに出陣するときに携帯食として、米や味噌を朴の葉で包んで持っていったといわれています。ほんのりと香る朴の葉の香りが食欲をそそります」などとPCで検索したら書いてあったが、先月から売られていたのだから、ずいぶん早いお目見えだったようだ。それをスーパーで見つけて買い、すぐに車の中で妻と二人で食べた伯母は「美味しい、美味しい」と舌鼓を打っていた。あれだけ嬉しそうだったから、また食べたくなるのも当然だろう。まっすぐスーパーに向かった。

すぐにこのパックを見つけた伯母は、2つ買って1パックを私たちにくれた。すぐに食べるのかなと思っていたら、今回は家に持ち帰ってから食べると決めていたようで、車の中ではお稲荷さんで買った鬼饅頭を食べていた・・・。
ここまで傍で眺めていた私はブログに朴葉寿司のことを書こうと決めていた。家に帰って寿司の中身の写真を撮り、作り方を調べて載せれば簡単に記事ができあがる、とほくそ笑んでいた。しかし・・、家に帰っても妻がパックをあけようとしない。「今日は食べない」などと言って私に写真を撮らせてくれないのだ。なんて意地悪だ・・。私は白米を食べないから、自分で封を開けて「食べるぞ!」ということができない。心の中では地団太を踏む思いだったが、「ふ~~ん・・」とやせ我慢してその場を去った。どうやって記事を誤魔化そうか?ちょっと困ってしまった。
ところがお稲荷さんの霊験あらたかとはこのことだろうか、塾が終わって家に戻ったら、妻が「これの写真を撮ったら?」と皿を指差した。そこにはなんと朴葉寿司が乗っているではないか!

「どうしたの?」と少々不思議に思った私は妻に尋ねた。「これは○○さんちが持ってきてくれたの」と親戚の名前を言った。「へえ、不思議なこともあるもんだな」「そうでしょう、私も不思議・・」その親戚から朴葉寿司をもらうなんて初めてだ。しかも、選りによって偶然朴葉寿司をスーパーで買ってきた日に・・。なんて奇遇なんだろう。「こんなこともあるんだな」などと言いながらもあまりの幸運さに内心躍り上がらんばかりだった!早速写真に収めた。

「しかし、どうしよう・・」妻が浮かない顔をした。そりゃそうだろう、私は食べないし、父も「朴葉寿司は嫌いだ」とずいぶん前から宣言しているから、きっと見向きもしないだろう。だから結局妻が全部食べることになる・・。せいぜい頑張ってくれ・・。
参考までに「朴葉寿司の作り方」。
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さくらんぼ
塾バスで週に3回ほど通る道筋に、毎年この時期になるとつつじが見事に咲き誇る場所がある。企業団地と呼ばれる地域で、広大な敷地にいくつかの会社が工場を集めているところだが、その会社の周囲や土手面に赤やピンクや白のつつじが、見る者みなに感嘆の溜息を漏らさせるほどの見事さで咲き乱れている。毎年その写真をこのブログに載せたいとは思っていたものの、どういうわけかタイミングが合わず今まで載せることができなかった。その無念さを晴らすため、今年こそは!と少し前から意気込んでいた。だが、生来の迂闊さでデジカメを持っていくのを忘れてばかりで、仕方なく携帯のカメラで撮った写真を載せておく。

妻もここのつつじの見事さは知っていて、私がその話をした時、「今年はつつじがどこでもきれいらしいね」と言っていた。どこで仕入れた知識なのかは知らないが、確かに今年はバスでどこを走っても、つつじの花が目に付く。こんなにつつじって植えられていたっけ、と驚いてしまうほどだ。そう言えば少し前に我が家の庭にもつつじが咲いていた。今はもう散ってしまったが、きれいだった。

などと妻とつつじの話をしていたところに父が戻ってきて、「車庫の横の八重桜にさくらんぼが生っているぞ」と特ダネを掴んだ記者のような顔をして教えてくれた。「ほんとう?」と言いいながら急いで見に行ったところ、確かにたくさんの実が生っていた。

植えてからもう20年以上経つが、さくらんぼが生っているのに気づいたのは初めてだ。早速妻が手を伸ばして、赤く熟しかけた実をひとつ捥いで食べたが、「う~ん」と唸っただけなので、食べるにはまだ早いのかもしれない。枝をじっと見ると結構虫がたかっていたので、どちらがいいタイミングで美味しい実をゲットできるか、虫との一騎打ちになりそうだ。
そんな思いで家に戻ってきたところ、庭先の鉢を見てちょっと驚いた。「シンビジュウムが咲いている!!」

たった一輪だけだが、たぶん今年はこれだけしか咲かないだろう。どうせなら、母の命日に合わせてもう一日早く咲けばよかったのに・・。


妻もここのつつじの見事さは知っていて、私がその話をした時、「今年はつつじがどこでもきれいらしいね」と言っていた。どこで仕入れた知識なのかは知らないが、確かに今年はバスでどこを走っても、つつじの花が目に付く。こんなにつつじって植えられていたっけ、と驚いてしまうほどだ。そう言えば少し前に我が家の庭にもつつじが咲いていた。今はもう散ってしまったが、きれいだった。


などと妻とつつじの話をしていたところに父が戻ってきて、「車庫の横の八重桜にさくらんぼが生っているぞ」と特ダネを掴んだ記者のような顔をして教えてくれた。「ほんとう?」と言いいながら急いで見に行ったところ、確かにたくさんの実が生っていた。


植えてからもう20年以上経つが、さくらんぼが生っているのに気づいたのは初めてだ。早速妻が手を伸ばして、赤く熟しかけた実をひとつ捥いで食べたが、「う~ん」と唸っただけなので、食べるにはまだ早いのかもしれない。枝をじっと見ると結構虫がたかっていたので、どちらがいいタイミングで美味しい実をゲットできるか、虫との一騎打ちになりそうだ。
そんな思いで家に戻ってきたところ、庭先の鉢を見てちょっと驚いた。「シンビジュウムが咲いている!!」

たった一輪だけだが、たぶん今年はこれだけしか咲かないだろう。どうせなら、母の命日に合わせてもう一日早く咲けばよかったのに・・。
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3本
連休前から歯が痛くて、家族には内緒で痛み止めを飲んだりしていた。いつもならそうやって3・4日も我慢すれば痛みが引いてくれるのに、今回ばかりは引くどころか、日に日に痛みが増してきた。5日に美術館巡りをしていた頃には最悪の状態になって、とうとう妻にずっと歯が痛かったことを告げた。「まったく・・」と呆れられてしまったが、それでもすぐに薬局で痛み止めを買ってくれたから、それを飲んだらずいぶん楽になった。しかし、もうこれはいくらなんでも限界だ、歯医者に行って治療しなけりゃならない、と痛感した。家の近くに従兄弟が開院している歯科があるのでそこへ行けば何とかしてくれるとは思うが、あいにく連休の真っ只中で休診しているだろうから、世話になることができない。休日診療をしている当直の歯科医に行こうかとも思ったが、従兄弟に任せたほうが安心に決まっているから、連休明けまで薬を飲みながら何とか我慢することに決めた。
だが、どんな痛み止めを飲んでも徐々に効果が鈍くなり、絶えずジンジン痛むようになってしまった。最後の手段とばかりに、正露丸を虫歯に詰めて、一生懸命耐えた。食欲もわかず元気がなくなってきたが、せっかくの連休を悲しい気分で過ごすのも馬鹿らしいと、よくないことは承知の上で、ビールはいつものように飲んだ。痛みが酷くなるかな、と心配したがさほどのこともなく、酔いで気が紛れただけよかった。
私は歯医者が嫌いだ、というよりも椅子に座ってしばらくじっとしていなくちゃならないのが、我慢できない。大学生の頃まではそんなことはまったくなかったが、結婚する少し前に通っていた歯医者で突然じっと治療を受けているのが耐えられなくなってしまい、それ以来ずっとそうした心の弱さを克服できないできた。結婚式の披露宴で乾杯するまで来賓の挨拶を長々と座って聞いているのが嫌でたまらず、披露宴の招待状が届くと、なるべく妻に代理をしてもらうようにしてきた。ほんのたまにやむを得ず出席すると、じっと座っていなければならない間の心の葛藤が激しくてへとへとになってしまったものだ。これらは、嫌なことから逃げようとする私の本質がそもそもの元凶なんだろうが、さすがに今度の歯痛だけはもうこれ以上逃げることはかなわないと悟って、一念発起して7日の朝、妻に歯医者に電話をしてもらった。
「10時半に来いって」妻がうれしそうに言う。「分かった・・」と言った瞬間から気分がどーっと暗くなり始めたが、もうサイは投げられた、あれこれ考えずに行こう!と己を鼓舞することに集中した。それでもさすがに狭い待合室で待つのだけは勘弁してほしいと妻に言ったら、「仕方ないなあ」と私に代わって待合室で待ってくれることになった。その間私は外でぶらぶらしていたが、連休明けだけあって患者が多く、30分以上待った。その間もずっとそわそわして落ち着かず、緊張感に押しつぶされそうな気にもなったが、かえってそれがよかったのかもしれない。やっと診察の順番になって診療室に入って行ったときには少しばかり落ち着いていた。従兄弟が私の顔を見て、「なんだか笑っちゃうなあ・・」と言って私の気持ちをほぐしてくれたのも嬉しかった。きっと見たこともないくらい固まった顔をしていたんだろう、情けない・・。
従兄弟は私の口の中を見た瞬間に「これは抜くしかないね」と言った。私は痛みさえ取れれば何をされてもいいと思っていたので、「はい」とだけ頷いた。レントゲンを撮って「一気に3本抜いちゃうね」と私に言った後、麻酔をして抜歯に取り掛かった。もうこうなるとまな板の上の鯉の状態で、ただただ口をあけ続けるしかない。心配したほど私の気が動転することもなく、思いのほか淡々としていることができた。さすがに従兄弟はベテランだけあって、手際よくさほど時間もかからずに3本抜いてしまった。「はい、お疲れ様」と抜歯後の処置をしたうえで、この日の治療は終了した。その瞬間「なんとか切り抜けた!」などとほっとした思いでいっぱいになったが、同時に「歯痛からこれで解放されるんだ!」とものすごく気が楽になった。
「ありがとうございました」とお礼の言葉にも力がこもったが、診療所を出たときの爽快感は素晴らしかった。「何とか我慢できた」と妻に自慢げに言ったら、「本当だね」と珍しく同意してくれた。難関を乗り越えたときの充実感で満たされていた私は、抜歯後の痛みなんてまるで感じなかった。よかった、よかった。
でも、抜いてから半日以上経った今はものすごく痛い。何で?
だが、どんな痛み止めを飲んでも徐々に効果が鈍くなり、絶えずジンジン痛むようになってしまった。最後の手段とばかりに、正露丸を虫歯に詰めて、一生懸命耐えた。食欲もわかず元気がなくなってきたが、せっかくの連休を悲しい気分で過ごすのも馬鹿らしいと、よくないことは承知の上で、ビールはいつものように飲んだ。痛みが酷くなるかな、と心配したがさほどのこともなく、酔いで気が紛れただけよかった。
私は歯医者が嫌いだ、というよりも椅子に座ってしばらくじっとしていなくちゃならないのが、我慢できない。大学生の頃まではそんなことはまったくなかったが、結婚する少し前に通っていた歯医者で突然じっと治療を受けているのが耐えられなくなってしまい、それ以来ずっとそうした心の弱さを克服できないできた。結婚式の披露宴で乾杯するまで来賓の挨拶を長々と座って聞いているのが嫌でたまらず、披露宴の招待状が届くと、なるべく妻に代理をしてもらうようにしてきた。ほんのたまにやむを得ず出席すると、じっと座っていなければならない間の心の葛藤が激しくてへとへとになってしまったものだ。これらは、嫌なことから逃げようとする私の本質がそもそもの元凶なんだろうが、さすがに今度の歯痛だけはもうこれ以上逃げることはかなわないと悟って、一念発起して7日の朝、妻に歯医者に電話をしてもらった。
「10時半に来いって」妻がうれしそうに言う。「分かった・・」と言った瞬間から気分がどーっと暗くなり始めたが、もうサイは投げられた、あれこれ考えずに行こう!と己を鼓舞することに集中した。それでもさすがに狭い待合室で待つのだけは勘弁してほしいと妻に言ったら、「仕方ないなあ」と私に代わって待合室で待ってくれることになった。その間私は外でぶらぶらしていたが、連休明けだけあって患者が多く、30分以上待った。その間もずっとそわそわして落ち着かず、緊張感に押しつぶされそうな気にもなったが、かえってそれがよかったのかもしれない。やっと診察の順番になって診療室に入って行ったときには少しばかり落ち着いていた。従兄弟が私の顔を見て、「なんだか笑っちゃうなあ・・」と言って私の気持ちをほぐしてくれたのも嬉しかった。きっと見たこともないくらい固まった顔をしていたんだろう、情けない・・。
従兄弟は私の口の中を見た瞬間に「これは抜くしかないね」と言った。私は痛みさえ取れれば何をされてもいいと思っていたので、「はい」とだけ頷いた。レントゲンを撮って「一気に3本抜いちゃうね」と私に言った後、麻酔をして抜歯に取り掛かった。もうこうなるとまな板の上の鯉の状態で、ただただ口をあけ続けるしかない。心配したほど私の気が動転することもなく、思いのほか淡々としていることができた。さすがに従兄弟はベテランだけあって、手際よくさほど時間もかからずに3本抜いてしまった。「はい、お疲れ様」と抜歯後の処置をしたうえで、この日の治療は終了した。その瞬間「なんとか切り抜けた!」などとほっとした思いでいっぱいになったが、同時に「歯痛からこれで解放されるんだ!」とものすごく気が楽になった。
「ありがとうございました」とお礼の言葉にも力がこもったが、診療所を出たときの爽快感は素晴らしかった。「何とか我慢できた」と妻に自慢げに言ったら、「本当だね」と珍しく同意してくれた。難関を乗り越えたときの充実感で満たされていた私は、抜歯後の痛みなんてまるで感じなかった。よかった、よかった。
でも、抜いてから半日以上経った今はものすごく痛い。何で?
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一陣の風
5月4日も12時を過ぎ、日付が5日に変わったばかりの頃に娘と息子が連れ立ってタクシーで帰宅した。なんでも苗場でスキー部の合宿が行われていたの中途で抜け出した息子に合わせて、娘が時間を調節して名古屋駅で落ち合って帰ってきたそうだ。いくらなんでもそんな時間に帰ってきた者たちとゆっくり話すわけにもいかず、真っ赤に日焼けした息子とちょっと話したくらいで、結局は娘の顔を見ずにその夜は寝てしまった。夜が明けたらすぐに法事の準備をしなければならなかったので、少しばかり話ができたのは、神事が終わったあとの食事の席でのことだった。
とは言え、ここ数日来歯痛に悩まされている私では、いくらビールをあおっても、なかなか普段の調子が出てこず、一人悶々としている状態であった。それでも、ようやく痛み止めの薬が効いてきた頃になって、なんとか座を盛り上げるだけの気力が回復してきた。法事の後の会食の席として用意してあった料理旅館の部屋には、カラオケのセットがおいてあったため、かなり酔いが回ってふらふらしていた父に「歌う?」と聞いてみたところ、「おお!」と意外にもすっとマイクを受け取ってくれた。その場で自称18番の「かえり船」を熱唱してくれたが、それで火がついたのか、何回か同じ曲を続けざまに歌い、さらには「浪曲子守唄」「芸者ワルツ」「王将」など、懐かしのヒットメドレーを、まさに独演会のように歌い続けた。元来酔っ払って興が乗れば、いくらでもこうした曲を歌う父ではあるが、さすがに母の20年祭の席でここまでハチャメチャになるとは思わなかった。そのはじけぶりを初めて見た娘や息子は驚いていたが、マイクを離さない父の間隙を縫って、こぶしを突き上げながら息子が唄った「都の西北」は力強くて、一瞬のうちにその場にいる者すべてを惹きこんだ。その一部・・。
</script>
「それじゃあ、お前は『紅燃ゆる』を歌えよ」などと娘に言ってみたところ、「知らん」と妙な関西弁のイントネーションで答えられたから、「それぐらい俺でも歌えるぞ」と唸ってみたが、娘には馬耳東風のようだった。ジェネレーションギャップなのかどうか知らないが、つまらない奴だ・・・。
その夜は二人とも地元の友達と会うとかで、深夜遅くにしか帰ってこなかった。自分が20歳前後にやっていたことを振り返れば、まだ帰ってくるだけましかと、自堕落な時間を過ごした記憶しかない父親では何も言えないのが少々残念だった。
それでも6日の朝は親子4人で連れ立って、近所の喫茶店に朝食を食べに行った。相変わらず歯痛が治まらない私は、休みが明けたら必ず歯医者に行くぞ!と気持ちを高めていたが、そんなことはお構いなしに娘も息子も元気にあれこれ話している。特に娘は相変わらずのテンションで、いろんなことを休みなく話し続ける。その後娘の運転で少し離れたコンビニまで二人で行ったときにも、原油高から来る諸物価の値上がりについて 自分の見知ったことをあれこれ教えてくれたが、それだけ言うならお前が役人になって頑張ってみろよ、とやけくそ気味にいった父親の言葉など多分娘には聞こえていないだろう。
それからは思い思いの時間を過ごした後で、地元の名物料理「味噌カツ」を食べに行った。前日のはしゃぎすぎを一人反省する、などと意味不明の言い訳をする父は参加しなかったが、京都や東京では味わえない地元の名物を堪能した娘と息子はいたく満足気な顔をしていた。その後すぐに、翌日の講義がある二人を電車の駅まで送っていったから、合計43時間ほどの帰省にしかならなかったが、私から見ても結構中身の濃い時間を過ごしたのではないかと思う。もちろんもう少しゆっくり話ができる時間があったらなあ、と思わないでもないが、お互いが元気でいることさえ確認できたら、それで十分じゃないかとも思う。私が歯痛でいつもの元気がなかったのは自分では面白くなかったが、それくらいのほうがかえって子供たちにはよかったのかな、と思わないでもない。
早く歯医者に行かねば・・。
とは言え、ここ数日来歯痛に悩まされている私では、いくらビールをあおっても、なかなか普段の調子が出てこず、一人悶々としている状態であった。それでも、ようやく痛み止めの薬が効いてきた頃になって、なんとか座を盛り上げるだけの気力が回復してきた。法事の後の会食の席として用意してあった料理旅館の部屋には、カラオケのセットがおいてあったため、かなり酔いが回ってふらふらしていた父に「歌う?」と聞いてみたところ、「おお!」と意外にもすっとマイクを受け取ってくれた。その場で自称18番の「かえり船」を熱唱してくれたが、それで火がついたのか、何回か同じ曲を続けざまに歌い、さらには「浪曲子守唄」「芸者ワルツ」「王将」など、懐かしのヒットメドレーを、まさに独演会のように歌い続けた。元来酔っ払って興が乗れば、いくらでもこうした曲を歌う父ではあるが、さすがに母の20年祭の席でここまでハチャメチャになるとは思わなかった。そのはじけぶりを初めて見た娘や息子は驚いていたが、マイクを離さない父の間隙を縫って、こぶしを突き上げながら息子が唄った「都の西北」は力強くて、一瞬のうちにその場にいる者すべてを惹きこんだ。その一部・・。
</script>
「それじゃあ、お前は『紅燃ゆる』を歌えよ」などと娘に言ってみたところ、「知らん」と妙な関西弁のイントネーションで答えられたから、「それぐらい俺でも歌えるぞ」と唸ってみたが、娘には馬耳東風のようだった。ジェネレーションギャップなのかどうか知らないが、つまらない奴だ・・・。
その夜は二人とも地元の友達と会うとかで、深夜遅くにしか帰ってこなかった。自分が20歳前後にやっていたことを振り返れば、まだ帰ってくるだけましかと、自堕落な時間を過ごした記憶しかない父親では何も言えないのが少々残念だった。
それでも6日の朝は親子4人で連れ立って、近所の喫茶店に朝食を食べに行った。相変わらず歯痛が治まらない私は、休みが明けたら必ず歯医者に行くぞ!と気持ちを高めていたが、そんなことはお構いなしに娘も息子も元気にあれこれ話している。特に娘は相変わらずのテンションで、いろんなことを休みなく話し続ける。その後娘の運転で少し離れたコンビニまで二人で行ったときにも、原油高から来る諸物価の値上がりについて 自分の見知ったことをあれこれ教えてくれたが、それだけ言うならお前が役人になって頑張ってみろよ、とやけくそ気味にいった父親の言葉など多分娘には聞こえていないだろう。
それからは思い思いの時間を過ごした後で、地元の名物料理「味噌カツ」を食べに行った。前日のはしゃぎすぎを一人反省する、などと意味不明の言い訳をする父は参加しなかったが、京都や東京では味わえない地元の名物を堪能した娘と息子はいたく満足気な顔をしていた。その後すぐに、翌日の講義がある二人を電車の駅まで送っていったから、合計43時間ほどの帰省にしかならなかったが、私から見ても結構中身の濃い時間を過ごしたのではないかと思う。もちろんもう少しゆっくり話ができる時間があったらなあ、と思わないでもないが、お互いが元気でいることさえ確認できたら、それで十分じゃないかとも思う。私が歯痛でいつもの元気がなかったのは自分では面白くなかったが、それくらいのほうがかえって子供たちにはよかったのかな、と思わないでもない。
早く歯医者に行かねば・・。
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20年祭
母が亡くなって今年で20年になるので、7日の命日に先立って20年祭を催した。と言っても、20年も経てば大袈裟なことをする必要もなく、私の妹と弟の家族、そして母の長姉を集めただけのごく内輪の式だった。私の娘と息子も前日夜遅く戻ってきて、久しぶりに一族郎党が集まったため、私の父は朝早くから上機嫌だった。いつの間にかお神酒を飲んでいたらしく、式が始まる前からやたらテンションが高く一同かなり閉口したが、父にとってはひとつの節目の日でもあろうから、苦笑いするしかなかった。
父の従兄弟である禰宜が式を執り行ってくれた。私たちが準備したものは、海の物として黒鯛・するめ・昆布、山の物として大根・人参・椎茸など、母の葬儀のときに供物として並べた物を思い出して供えた。これで本当に大丈夫なのか?と心配にもなったが、内輪の式だから・・と無理に納得しておいた。

掛(かけ)まくも畏(かしこ)き伊邪那岐大神(いざなぎのおほかみ)筑紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小戸(おど)の阿波岐原(あはぎはら)に禊祓(みそぎはら)へ給(たま)ひし時(とき)に成(な)りませる祓戸大神等(はらへどのおほかみたち)諸諸(もろもろ)の禍事罪穢有(まがごとつみけがれあ)らむをば祓(はら)へ給(たま)ひ清(きよ)め給(たま)へと白(まを)す事(こと)を聞食(きこしめ)せと恐(かしこ)み恐(かしこ)も白(まを)す
禰宜の祝詞に合わせて拝礼を繰り返すうちに、玉串を捧げる段になった。一人一人祭壇に進み、玉串を捧げて拍手を2度打った。弟の小さな子供たちも可愛い手を合わせて、祭事は滞りなく終わった。仏式の法事と比べたら、拍子抜けするほど短時間で終わってしまった。しかし、それぞれが母が亡くなってからの20年を心の中で思い起こしたであろうから、きっといい供養になったはずだ。私も久しぶりに生前の母の姿が瞼に浮かんできて、少しばかり胸が熱くなった・・。

神事が終わって、母のお墓に詣でた。私は月命日には欠かさず詣でているが、身内一同揃っての参拝は実に久しぶりだ。これだけの人が一度に来てくれて、さぞや母も嬉しかったことだろう。
母が亡くなったのは52歳、私もあと3年ほどしたらその歳になってしまう。その時も「死ぬにはまだ早い」と嘆き悲しんだものだが、実際に自分がその年齢に近づいてみると、本当に短い一生だったなあ、と思う。私があと3年しか生きられないとしたら、どうだろう。特にこれがやりたいとか、何かやり残したことがあるなどとは思わないが、いくらなんでももうちょっと生きていたいとは思う。今までと同じようにダラダラ過ごすだけだろうが、それでも生きていたいと思う。そう思えば、母はきっと多くの思いを残して死んでいったことだろう。死に際に途切れ途切れの声で私に言った、「お父さんを・・」という言葉は今でも耳に残っている。私が母の思いを十分に果たしてきたかは心もとないが、20年経ってかなり老人となった父を見て、母は何を思っただろう。自分が生きていたら、もっとちゃんと世話をしたのに、と私を怒るかもしれない。そうかもしれないが、それでも、元気で酔っ払って、20年祭を立派に差配してくれた父には感謝しているに違いない、私はそう思っている。
父の従兄弟である禰宜が式を執り行ってくれた。私たちが準備したものは、海の物として黒鯛・するめ・昆布、山の物として大根・人参・椎茸など、母の葬儀のときに供物として並べた物を思い出して供えた。これで本当に大丈夫なのか?と心配にもなったが、内輪の式だから・・と無理に納得しておいた。

掛(かけ)まくも畏(かしこ)き伊邪那岐大神(いざなぎのおほかみ)筑紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小戸(おど)の阿波岐原(あはぎはら)に禊祓(みそぎはら)へ給(たま)ひし時(とき)に成(な)りませる祓戸大神等(はらへどのおほかみたち)諸諸(もろもろ)の禍事罪穢有(まがごとつみけがれあ)らむをば祓(はら)へ給(たま)ひ清(きよ)め給(たま)へと白(まを)す事(こと)を聞食(きこしめ)せと恐(かしこ)み恐(かしこ)も白(まを)す
禰宜の祝詞に合わせて拝礼を繰り返すうちに、玉串を捧げる段になった。一人一人祭壇に進み、玉串を捧げて拍手を2度打った。弟の小さな子供たちも可愛い手を合わせて、祭事は滞りなく終わった。仏式の法事と比べたら、拍子抜けするほど短時間で終わってしまった。しかし、それぞれが母が亡くなってからの20年を心の中で思い起こしたであろうから、きっといい供養になったはずだ。私も久しぶりに生前の母の姿が瞼に浮かんできて、少しばかり胸が熱くなった・・。

神事が終わって、母のお墓に詣でた。私は月命日には欠かさず詣でているが、身内一同揃っての参拝は実に久しぶりだ。これだけの人が一度に来てくれて、さぞや母も嬉しかったことだろう。
母が亡くなったのは52歳、私もあと3年ほどしたらその歳になってしまう。その時も「死ぬにはまだ早い」と嘆き悲しんだものだが、実際に自分がその年齢に近づいてみると、本当に短い一生だったなあ、と思う。私があと3年しか生きられないとしたら、どうだろう。特にこれがやりたいとか、何かやり残したことがあるなどとは思わないが、いくらなんでももうちょっと生きていたいとは思う。今までと同じようにダラダラ過ごすだけだろうが、それでも生きていたいと思う。そう思えば、母はきっと多くの思いを残して死んでいったことだろう。死に際に途切れ途切れの声で私に言った、「お父さんを・・」という言葉は今でも耳に残っている。私が母の思いを十分に果たしてきたかは心もとないが、20年経ってかなり老人となった父を見て、母は何を思っただろう。自分が生きていたら、もっとちゃんと世話をしたのに、と私を怒るかもしれない。そうかもしれないが、それでも、元気で酔っ払って、20年祭を立派に差配してくれた父には感謝しているに違いない、私はそう思っている。
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美術館
塾を月・火と休みにして、私にしては年に1度か2度しかない3連休にした。その初日、一年前に若冲展に行ったのを思い出して、今年も美術館に行こうと柄にもないことを思った。新聞でモディリアーニ展が開かれているのを見たのを思い出して、行ってみようかと妻にお伺いを立てた。すると、「私は松坂屋美術館で開かれているトトロの絵のほうがいい」という返事だったので、どちらにしようと悩むよりも一度に両方行こうと、生まれて初めて美術館のはしごをしようと出かけてみた。モディリアーニ展は名古屋市美術館で開かれているので、松坂屋に車を止めて、先に松坂屋美術館を訪れてから歩いて名古屋市美術館まで行くことにした。

まずは、「男鹿和雄展」。長くジブリ作品で背景を担当してきた「ジブリの絵職人」で、「トトロの森を描いた人」らしい。妻はえらく感心していたが、私は正直さほど面白くなかった。確かに細部まで丁寧に描かれていて、絵としては素晴らしい作品ばかりだ。ただ、あまりにきれい過ぎて、これだけたくさんの作品が並べられていると、きれいな風景を写した写真を見ているようで、途中から見る気が失せてしまった。楽しみにしていた妻には悪い気がしたが、私としてはわざわざ出向くまでもない展覧会かな、などと生意気な感想を持ってしまった。
連休中だけに行楽地に出かける人が多くて、名古屋の中心は人出が少ないかなと思っていたが、かなりの人であふれていた。松坂屋美術館もアニメオタクのような若者の姿も多く見られて、彼らのコメントを漏れ聞くのも面白かった。同じように名古屋市美術館も大勢の人が訪れていた。モディリアーニは、昔よく聞いたハイ・ファイ・セットの
♪モディリアニの女、哀しい眼をして~♪
という歌いだしで始まる「美術館」という曲以来、ろくにその作品を見たことがないのに、私には妙に近しい画家であるように思ってきた。細面で鼻が長く描かれた独特の肖像画は、一目見ればモディリアーニの作品だと分かるものだが、その作品にじかに触れるのが、なぜか懐かしい人に会いに行くような思いで美術館に入った。

モディリアーニのことなどほとんど知らなかった私だが、この展覧会でいくつかのことを知った。イタリアのトスカーナ地方の生まれであること、彫刻家を志していたこと、独特の画風はプリミティブ・アートの影響を受けたものであること、わずか36年の人生しか歩まなかったこと・・、かなり濃密な一生を駆け抜けた画家だったようだ。夭逝の詩人や画家に共通な破天荒な生活を送ったようだが、そんな自堕落さなど垣間見せない珠玉の作品を残すところに、豊かな天賦の才を感じずにはいられない。どだい才能が違うのだと、ダラダラ年月を重ねてきただけの己を恥ずかしく思ったりもするが、自分はこんな生き方しかできなかったのだから繰り言を重ねても仕方ない、などと開き直るしかない・・。

いくつかの展示作品の中で私が一番いいと思ったのは、この「おさげ髪の少女」だ。現在、東京の国立博物館でもモディリアーニ展が開催されているようだが、いったいどうして展覧会が重なったりしたのだろう。私としては名古屋の展示作品だけでも十分堪能できたのだが、できればこんな事態は避けてほしかった・・。

まずは、「男鹿和雄展」。長くジブリ作品で背景を担当してきた「ジブリの絵職人」で、「トトロの森を描いた人」らしい。妻はえらく感心していたが、私は正直さほど面白くなかった。確かに細部まで丁寧に描かれていて、絵としては素晴らしい作品ばかりだ。ただ、あまりにきれい過ぎて、これだけたくさんの作品が並べられていると、きれいな風景を写した写真を見ているようで、途中から見る気が失せてしまった。楽しみにしていた妻には悪い気がしたが、私としてはわざわざ出向くまでもない展覧会かな、などと生意気な感想を持ってしまった。
連休中だけに行楽地に出かける人が多くて、名古屋の中心は人出が少ないかなと思っていたが、かなりの人であふれていた。松坂屋美術館もアニメオタクのような若者の姿も多く見られて、彼らのコメントを漏れ聞くのも面白かった。同じように名古屋市美術館も大勢の人が訪れていた。モディリアーニは、昔よく聞いたハイ・ファイ・セットの
♪モディリアニの女、哀しい眼をして~♪
という歌いだしで始まる「美術館」という曲以来、ろくにその作品を見たことがないのに、私には妙に近しい画家であるように思ってきた。細面で鼻が長く描かれた独特の肖像画は、一目見ればモディリアーニの作品だと分かるものだが、その作品にじかに触れるのが、なぜか懐かしい人に会いに行くような思いで美術館に入った。

モディリアーニのことなどほとんど知らなかった私だが、この展覧会でいくつかのことを知った。イタリアのトスカーナ地方の生まれであること、彫刻家を志していたこと、独特の画風はプリミティブ・アートの影響を受けたものであること、わずか36年の人生しか歩まなかったこと・・、かなり濃密な一生を駆け抜けた画家だったようだ。夭逝の詩人や画家に共通な破天荒な生活を送ったようだが、そんな自堕落さなど垣間見せない珠玉の作品を残すところに、豊かな天賦の才を感じずにはいられない。どだい才能が違うのだと、ダラダラ年月を重ねてきただけの己を恥ずかしく思ったりもするが、自分はこんな生き方しかできなかったのだから繰り言を重ねても仕方ない、などと開き直るしかない・・。

いくつかの展示作品の中で私が一番いいと思ったのは、この「おさげ髪の少女」だ。現在、東京の国立博物館でもモディリアーニ展が開催されているようだが、いったいどうして展覧会が重なったりしたのだろう。私としては名古屋の展示作品だけでも十分堪能できたのだが、できればこんな事態は避けてほしかった・・。
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データ
「大学で何を勉強した?」と問われたら、躊躇なく「麻雀!」と答える。講義には行かずとも、大学の構内には毎日麻雀をしに行っていた。牌をにぎらぬ日はなかったし、徹夜なんてほぼ毎日だった。何でそれほど麻雀ばかりやっていたのだろう?暇な時間がたっぷりあったからだとも言えるだろうし、それより他に面白いことがなかったのかもしれない。だけどやっぱり麻雀が好きだったんだろう。だから、大学を卒業して結婚してからも、しばらくは週末に麻雀をほぼ徹夜でやっていた。娘が生まれるくらいまでは月に2、3回はやっていたように思う。今ほどタイトな時間割で塾の授業をやっていなかったからそんなこともできたのだろうが、時々その頃のことを思い出した妻から嫌味を言われる。妻の言い分も至極もっともなことなので、そんな時は何も言い返さずに黙って聞いている。
そんな私ではあるが、もう10年以上も卓を囲んでいない。誰もが皆忙しくてのんびり麻雀をする時間がない。一人二人ならまだしも、四人が同時にまとまった時間の都合が付くなんてことはそうそうない。だからと言って特に寂しくもない。牌をにぎらぬ日は右手の雀ダコが疼く、などと嘯いていた私の面影など遠い昔のことになってしまった。年を取ったものだ・・。
それでも、先日書店で「科学する麻雀」(とつげき東北著・講談社新書)という本を見つけたときは久しぶりに血が騒いだ。「『数理の力』があなたの麻雀を変える!――裏スジは危険ではない/打ちまわしは無意味だ/ベタオリには法則がある/『読み』など必要ない」などと帯に書いてあるのを読んだら、今まで私が麻雀のセオリーだと信じてきたことが否定されたようで、どういう理論によってこういう大胆な発言が可能になったのか、一読してみなければ気が済まなくなった。お手並み拝見!、という意気込みで読み始めた。
しかし、すぐにがっかりしてしまった。著者はインターネット麻雀で圧倒的な実力を発揮し、「膨大なデータ収集と緻密な解析にもとづく理論は次々と定説を塗り替え、ネット雀士のカリスマ的存在」なのだそうだ。その成果の集大成だと思われる本書では、私にはとても理解できない数式を駆使し、多量のデータを分析した結果、どのような状況であっても迷うことなく、「こう打て!」といった戦術論を説いている。確かに、ツキとかカンとか読みといった不確定要素に満ちたものに頼って勝負していくよりは、数字的な裏づけのある勝つ確率の高い一手を積み重ねていけば、勝利する可能性は高くなるかもしれない。しかし、それはネット麻雀という無機的な空間においてこその話ではないだろうか。実際に麻雀卓を囲んで四人が対峙したとき、麻雀は生き物となる。それぞれ麻雀の実力の異なる四人が、己の知力・体力・胆力の限りを尽くして、卓を囲んでせめぎ合うのが麻雀だ。そこでは一瞬一瞬に状況は変わるのだから、その状況を考慮に入れずに、一定不変の打ち方をしていっても、状況に飲み込まれてしまって、結局は一敗地をなめてしまうような気がする。生々流転の縮図である実戦麻雀では、インターネット麻雀から得た機械的な手法は機能しないのではないか、そんな思いがページを進めるたびに募ってきて、とうとう半分ほど読んだところで、本を打っ棄ってしまった。
データを基にすべてを数字化して客観的に判断することが有効な分野はいくつもあるだろう。しかし、多くの人間の思いが交錯しながら胸が熱くなるドラマを形作るような分野では、このような客観的な指針ですべてを判定しようとするのは無理があるように思う。ヤンキースの新監督、ジラルディーはパソコンによるデータ解析を指揮に取り入れていると聞くが、今のところ、左打者は左投手に分が悪いなどというステレオタイプ化したデータを重要視しているようで、落胆するばかりである。データに向かい合う時間があるならば、もっと自分の目で選手一人一人のコンディションを把握するようにしなければ、ヤンキースのポストシーズン進出の芽は限りなく小さくなってしまいそうだ。
そんな私ではあるが、もう10年以上も卓を囲んでいない。誰もが皆忙しくてのんびり麻雀をする時間がない。一人二人ならまだしも、四人が同時にまとまった時間の都合が付くなんてことはそうそうない。だからと言って特に寂しくもない。牌をにぎらぬ日は右手の雀ダコが疼く、などと嘯いていた私の面影など遠い昔のことになってしまった。年を取ったものだ・・。
それでも、先日書店で「科学する麻雀」(とつげき東北著・講談社新書)という本を見つけたときは久しぶりに血が騒いだ。「『数理の力』があなたの麻雀を変える!――裏スジは危険ではない/打ちまわしは無意味だ/ベタオリには法則がある/『読み』など必要ない」などと帯に書いてあるのを読んだら、今まで私が麻雀のセオリーだと信じてきたことが否定されたようで、どういう理論によってこういう大胆な発言が可能になったのか、一読してみなければ気が済まなくなった。お手並み拝見!、という意気込みで読み始めた。
しかし、すぐにがっかりしてしまった。著者はインターネット麻雀で圧倒的な実力を発揮し、「膨大なデータ収集と緻密な解析にもとづく理論は次々と定説を塗り替え、ネット雀士のカリスマ的存在」なのだそうだ。その成果の集大成だと思われる本書では、私にはとても理解できない数式を駆使し、多量のデータを分析した結果、どのような状況であっても迷うことなく、「こう打て!」といった戦術論を説いている。確かに、ツキとかカンとか読みといった不確定要素に満ちたものに頼って勝負していくよりは、数字的な裏づけのある勝つ確率の高い一手を積み重ねていけば、勝利する可能性は高くなるかもしれない。しかし、それはネット麻雀という無機的な空間においてこその話ではないだろうか。実際に麻雀卓を囲んで四人が対峙したとき、麻雀は生き物となる。それぞれ麻雀の実力の異なる四人が、己の知力・体力・胆力の限りを尽くして、卓を囲んでせめぎ合うのが麻雀だ。そこでは一瞬一瞬に状況は変わるのだから、その状況を考慮に入れずに、一定不変の打ち方をしていっても、状況に飲み込まれてしまって、結局は一敗地をなめてしまうような気がする。生々流転の縮図である実戦麻雀では、インターネット麻雀から得た機械的な手法は機能しないのではないか、そんな思いがページを進めるたびに募ってきて、とうとう半分ほど読んだところで、本を打っ棄ってしまった。
データを基にすべてを数字化して客観的に判断することが有効な分野はいくつもあるだろう。しかし、多くの人間の思いが交錯しながら胸が熱くなるドラマを形作るような分野では、このような客観的な指針ですべてを判定しようとするのは無理があるように思う。ヤンキースの新監督、ジラルディーはパソコンによるデータ解析を指揮に取り入れていると聞くが、今のところ、左打者は左投手に分が悪いなどというステレオタイプ化したデータを重要視しているようで、落胆するばかりである。データに向かい合う時間があるならば、もっと自分の目で選手一人一人のコンディションを把握するようにしなければ、ヤンキースのポストシーズン進出の芽は限りなく小さくなってしまいそうだ。
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思いやり
このブログを始めてまる3年経った。記事も1100を超え、何を書いたのかまるで覚えていないものもある。年輪と言えば言えるかもしれないが、このブログに費やした膨大な時間を考えると、もっと他に活用できたのではないか、と思ったりもする。だが、誰に頼まれるでもなく、ただ自分の意思でここまで続けてきたわけだから、これよりいい時間の使い方はなかったように思う。いったいいつまで続けていくのか、時にはそんな疑問が浮かんだりするが、後で未練が残るのも見苦しいので、「もういやだ!」と心から思い切れるまでは続けていくしかないと思っている。ただやはり日々の暮らしに悪影響が出るのだけは避けなければならない。以前ほどこのブログをどうしても続けていこうという気持は薄れたが、それでも記事を書くのに気を取られてしまい、毎日のことが後回しになってしまうことがないとは言えない。そのあたりの呼吸を常に意識していなければいけないと思っている。
傍目から見ればネットの世界にどっぷりつかっているように見える私だろうが、自分では結構けじめをつけているつもりである。先日もふっとした拍子に見つけた子供用に書かれた「インターネット5つのルール」というものに己を照らし合わせてみたところ、まあうまくやってるんじゃないかと自己診断したばかりだ。
1.「知らない人に自分の名前や住所などを教えないこと」
2.「知らないサイトには注意すること」
3.「相手を思いやること」
4.「情報の発信には責任をもつこと」
5.「使いすぎに注意すること」
ブログに関して言うなら、3と4にもっとも注意しなければならないだろう。4.については、誤字脱字ならまだしも、間違った情報を記載してたとえ少数の訪問者にでも誤解を与えるようなことをしてはいけない。自分が責任を持てる範囲の記事だけにしておけばそうした間違いは起こらないだろうが、少しばかり背伸びをしたりすると危険だ。身の丈を超えた、自分の知らない、よく分からないことは記事にしないように私は常に心がけている。
ブログの大きな楽しみの一つは、自分の書いた記事を読んでくれる人がいて、その感想をコメントとして書き残してくれることだろう。それは大きな励みになるし、他の人はこんな感想を持っているんだ、と勉強になることも多い。もちろん他の人のブログにお邪魔して、コメントを残してくることもあるが、そうしたやり取りを通じてブログ仲間と呼べる人もできたりする。さらには空間を越えた友情にまで発展する場合もあるだろう。幸いにも私はこのブログを通じて、ゴジ健さんや竜虎の母さんをはじめとする何人かの人々と仲良くさせていただいているが、その際最も気にかけていることは、上のルール3.「相手を思いやること」である。もちろん未熟な私であるから、無礼な言葉遣いを思わずしてしまったことが多々あるかもしれないが、自分としては極力注意しているつもりだ。相手の顔を見ずに会話するのがネットでのやり取りであるから、相手の気持ちも自分の気持ちも文字でしか表せない。しかも、一度投稿した文言は簡単には消せない。日常の会話なら相手の表情や声のトーンで気持を推し量り、言い方を変えたりすることもできるが、コメントのやり取りではそうは行かない。文章を書きそれを投稿するだけの手軽さが、かえって取り返しの付かない失敗を引き起こしてしまう場合もある。ネットでの会話は、お互いの心に直接響きあうものであるから、己の言葉にはどれだけ注意を払っても足りないと思っている。「相手を思いやること」は簡単なことではないが、それなくしてはネットの世界では生きていけないと言っても過言ではないだろう。
水のこころ 高田敏子
水は つかめません
水は すくうのです
指をぴったりつけて
そおっと 大切に
水は つかめません
水は つつむのです
二つの手の中に
そおっと 大切に―――
水のこころ も
人のこころ も
これからもそっと大切につつんでいこう。
傍目から見ればネットの世界にどっぷりつかっているように見える私だろうが、自分では結構けじめをつけているつもりである。先日もふっとした拍子に見つけた子供用に書かれた「インターネット5つのルール」というものに己を照らし合わせてみたところ、まあうまくやってるんじゃないかと自己診断したばかりだ。
1.「知らない人に自分の名前や住所などを教えないこと」
2.「知らないサイトには注意すること」
3.「相手を思いやること」
4.「情報の発信には責任をもつこと」
5.「使いすぎに注意すること」
ブログに関して言うなら、3と4にもっとも注意しなければならないだろう。4.については、誤字脱字ならまだしも、間違った情報を記載してたとえ少数の訪問者にでも誤解を与えるようなことをしてはいけない。自分が責任を持てる範囲の記事だけにしておけばそうした間違いは起こらないだろうが、少しばかり背伸びをしたりすると危険だ。身の丈を超えた、自分の知らない、よく分からないことは記事にしないように私は常に心がけている。
ブログの大きな楽しみの一つは、自分の書いた記事を読んでくれる人がいて、その感想をコメントとして書き残してくれることだろう。それは大きな励みになるし、他の人はこんな感想を持っているんだ、と勉強になることも多い。もちろん他の人のブログにお邪魔して、コメントを残してくることもあるが、そうしたやり取りを通じてブログ仲間と呼べる人もできたりする。さらには空間を越えた友情にまで発展する場合もあるだろう。幸いにも私はこのブログを通じて、ゴジ健さんや竜虎の母さんをはじめとする何人かの人々と仲良くさせていただいているが、その際最も気にかけていることは、上のルール3.「相手を思いやること」である。もちろん未熟な私であるから、無礼な言葉遣いを思わずしてしまったことが多々あるかもしれないが、自分としては極力注意しているつもりだ。相手の顔を見ずに会話するのがネットでのやり取りであるから、相手の気持ちも自分の気持ちも文字でしか表せない。しかも、一度投稿した文言は簡単には消せない。日常の会話なら相手の表情や声のトーンで気持を推し量り、言い方を変えたりすることもできるが、コメントのやり取りではそうは行かない。文章を書きそれを投稿するだけの手軽さが、かえって取り返しの付かない失敗を引き起こしてしまう場合もある。ネットでの会話は、お互いの心に直接響きあうものであるから、己の言葉にはどれだけ注意を払っても足りないと思っている。「相手を思いやること」は簡単なことではないが、それなくしてはネットの世界では生きていけないと言っても過言ではないだろう。
水のこころ 高田敏子
水は つかめません
水は すくうのです
指をぴったりつけて
そおっと 大切に
水は つかめません
水は つつむのです
二つの手の中に
そおっと 大切に―――
水のこころ も
人のこころ も
これからもそっと大切につつんでいこう。
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25円(3)
もう腹が立つからガソリンのことなど記事にしたくない。何が悲しくって1日経っただけで、ガソリンが1ℓ30円も値上がりするのか。馬鹿らしくってやるせなくって、あいた口がふさがらない。ふさがらないけど、何か叫ぼうとしても、虚しさしか浮かんでこないから言葉にならない。
このところずっと各マスコミでガソリン税についての解説を目にしたり耳にしたりしてきたが、どうしたって納得がいかないのは、1ℓ25円という金額だ。田中角栄の時代に決められたそうだが、そんなどんぶり勘定がまかり通っていた頃の税率をどうして今も維持しようというのか。どうしても25円必要だという説明を聞いたことがない。このガソリン税によって年間2兆円以上の税収があるそうだが、その金額を守ることだけを至上命題として、愚にも付かない理屈を展開するものだから、どうしたって政府・与党の言説など信用できなくなる。「始めに2兆余円ありき」という前提でそれを死守しようとするばかりだからどうしようもない。なさらには、その巨額の税金を道路整備だけに使っているわけではないことが、次々と明るみにされたのだから、いくら強弁したところで我々国民は鼻白むだけだ。本当に25円も徴収する必要などないことくらい、国民すべてが知ってしまったのにあくまでも突っぱねようという厚顔さ。まったく恐れ入る・・。
道路整備が必要なことはわたしでも分かる。新しい道路がさほど必要だとは思わないが、既存の道路を走りやすいように維持管理することは、自動車の燃費向上にも役立ち、ひいては環境にもいい影響を与えるだろう。だから、そのためにお金が必要だと言われるのなら喜んで出そう。しかし、だからと言って25円も必要だとはとても思えない。歳出を必死の努力で切り詰めた上で、これだけ拠出してください、と我々に示してくれたならば誰もがない袖でも振ろうとするだろう。しかし、この一ヶ月間そんな説明は一切なかった。政府与党の議員は25円の復活を訴えるのみで、15円に下げようとか、10円だけはお願いしますとか、そんなことを言った議員は、私が知る限りでは一人もいなかった。
賃上げ交渉でも、いったん話し合いが決裂したら、労使双方が妥協点を探りあいながら歩み寄るのが常道であろう。それなのに、まったくそんなそぶりを見せず、当たり前のようにして強引に満額回答を押し付けてくるその節操のなさにはほとほとあきれ返ってしまう。一般財源化するというが、どうしてガソリン代に上乗せして払った税金をまったく関係のない分野に使おうとするのか、それもまったく理解できない。毎年多くの余剰金が出て使い道に困っているようだから、別の方面に使えるようにしろと、いうことなんだろうが、それはもともと税金を取りすぎているからじゃないか。要するに25円徴収する必要はないのではないか!と思わざるを得ない。
しかし、今回のことでも再認識できたのが、私たち日本人はなんて大人しい国民なのだという思いだ。ここまで政府に愚弄されても、何も動かない。ただただガソリンスタンドで値上げ前の安いガソリンを求めて長蛇の列を作るのがせめてもの抵抗・・。分別くさくていやになってしまうが、そんな私でも値上げを見越して日曜あたりから、せっせとセルフスタンドでできるだけ多くの車を満タンにするよう走り回っていたから、何をかいわんや、である。ただ、私には大きな目論見違いがあった。私が乗っているバスは最大限安いガソリンを利用しようと思って、火曜の塾が終わってから日付が変わる12時までに給油しようと決めていた。ところが夜9時過ぎにスタンドの前を通ったら、長い車列ができていたので、これはひょっとしたら時間までに給油できないかな、と少しばかり不安になった。それでも何とかなるだろうと高をくくって11時過ぎに生徒を送ってそのスタンド近くまで行ったところ、電気が消えて真っ暗になっていた。「売切れたか・・」と半分近くまで下がっていたガソリンのメーターを見ながら、自分の見通しの甘さを痛感した。あれだけ並んでいたら、無くなって当然だよな、こんなことなら昼のうちに給油しておけばよかった・・・。
明けて水曜の朝、そのスタンドの前を通ったら、前日には122円だったレギュラーが152円だと表示されていた。おお、早くも30円高!!
辛い!!!!
このところずっと各マスコミでガソリン税についての解説を目にしたり耳にしたりしてきたが、どうしたって納得がいかないのは、1ℓ25円という金額だ。田中角栄の時代に決められたそうだが、そんなどんぶり勘定がまかり通っていた頃の税率をどうして今も維持しようというのか。どうしても25円必要だという説明を聞いたことがない。このガソリン税によって年間2兆円以上の税収があるそうだが、その金額を守ることだけを至上命題として、愚にも付かない理屈を展開するものだから、どうしたって政府・与党の言説など信用できなくなる。「始めに2兆余円ありき」という前提でそれを死守しようとするばかりだからどうしようもない。なさらには、その巨額の税金を道路整備だけに使っているわけではないことが、次々と明るみにされたのだから、いくら強弁したところで我々国民は鼻白むだけだ。本当に25円も徴収する必要などないことくらい、国民すべてが知ってしまったのにあくまでも突っぱねようという厚顔さ。まったく恐れ入る・・。
道路整備が必要なことはわたしでも分かる。新しい道路がさほど必要だとは思わないが、既存の道路を走りやすいように維持管理することは、自動車の燃費向上にも役立ち、ひいては環境にもいい影響を与えるだろう。だから、そのためにお金が必要だと言われるのなら喜んで出そう。しかし、だからと言って25円も必要だとはとても思えない。歳出を必死の努力で切り詰めた上で、これだけ拠出してください、と我々に示してくれたならば誰もがない袖でも振ろうとするだろう。しかし、この一ヶ月間そんな説明は一切なかった。政府与党の議員は25円の復活を訴えるのみで、15円に下げようとか、10円だけはお願いしますとか、そんなことを言った議員は、私が知る限りでは一人もいなかった。
賃上げ交渉でも、いったん話し合いが決裂したら、労使双方が妥協点を探りあいながら歩み寄るのが常道であろう。それなのに、まったくそんなそぶりを見せず、当たり前のようにして強引に満額回答を押し付けてくるその節操のなさにはほとほとあきれ返ってしまう。一般財源化するというが、どうしてガソリン代に上乗せして払った税金をまったく関係のない分野に使おうとするのか、それもまったく理解できない。毎年多くの余剰金が出て使い道に困っているようだから、別の方面に使えるようにしろと、いうことなんだろうが、それはもともと税金を取りすぎているからじゃないか。要するに25円徴収する必要はないのではないか!と思わざるを得ない。
しかし、今回のことでも再認識できたのが、私たち日本人はなんて大人しい国民なのだという思いだ。ここまで政府に愚弄されても、何も動かない。ただただガソリンスタンドで値上げ前の安いガソリンを求めて長蛇の列を作るのがせめてもの抵抗・・。分別くさくていやになってしまうが、そんな私でも値上げを見越して日曜あたりから、せっせとセルフスタンドでできるだけ多くの車を満タンにするよう走り回っていたから、何をかいわんや、である。ただ、私には大きな目論見違いがあった。私が乗っているバスは最大限安いガソリンを利用しようと思って、火曜の塾が終わってから日付が変わる12時までに給油しようと決めていた。ところが夜9時過ぎにスタンドの前を通ったら、長い車列ができていたので、これはひょっとしたら時間までに給油できないかな、と少しばかり不安になった。それでも何とかなるだろうと高をくくって11時過ぎに生徒を送ってそのスタンド近くまで行ったところ、電気が消えて真っ暗になっていた。「売切れたか・・」と半分近くまで下がっていたガソリンのメーターを見ながら、自分の見通しの甘さを痛感した。あれだけ並んでいたら、無くなって当然だよな、こんなことなら昼のうちに給油しておけばよかった・・・。
明けて水曜の朝、そのスタンドの前を通ったら、前日には122円だったレギュラーが152円だと表示されていた。おお、早くも30円高!!
辛い!!!!
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