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歯医者

 歯医者で、右上の奥歯を一本抜いた。2週間前に抜いたのと合わせてこれで4本抜いたことになる。こうなることを覚悟の上で今までほったらかしにしてきたのだから、そのツケが回ってきて何本抜かれようとも自業自得だ、諦めるしかない。とにかく歯医者に行くのがいやでいやで、我慢がとうとう限界にまで達して「もうこれ以上痛みを我慢できない」、と自分で思い知るまで動けなかったのだから、後悔しても仕方がない。周りからは、バカな奴だと思われているが、自分としてはここまで追い詰められなければ思い切れなかっただろうし、これより他に手立てはなかったと納得しているのだから、こうなったらもう歯医者に通い続けることだけに気持ちを集中させるしかない。
 何を大袈裟な、たかが歯医者に何をそこまで一大決意が必要なのだ?と笑われそうだが、通院3回目になる昨日も10時半の予約で歯医者に向かう前から気分がどよよ~んと落ち込み、思考回路が停止してしまった。10時過ぎにいつもの喫茶店に寄ってから歯医者に向かうのがここ3回の行動パターンだが、気持ちが落ち着かず、喫茶店で頼んだアイスティーが喉を通らない。前回などは、「まったく・・」と言いながら、妻は私が残したアイスティーを携帯のカメラで撮り、娘に「歯医者に行く前のお父さんの様子」などといったメールを送ったらしい。その返事に「もう50前なんだから一人で歯医者くらい行きなよ」と返信が来たと教えてくれたが、まったく娘の言うとおりだ。だけど、いやなものはどうしようもない。自分としては歯医者の診療椅子に座るだけでも必死の覚悟がいるのに、その前に狭い待合室で自分の名前を呼ばれるのをじっと待つなんてことをしたら、診察室に入る前に緊張の余り失神しているんじゃないか、そんな気にさえなるものだから、妻に頼み込んで、待合室で私に代わって待っていてもらうようにしている。その間、私は病院の駐車場に停めた車の中で、一人心を落ち着けようと悶々としている・・。毎回30分ほど待たなければいけないのだが、もうそれだけでかなり困憊してしまい、妻に呼ばれて診療室に入ったときにはかなり疲弊してしまっている。そのおかげなのか、椅子に座ると力が抜けて、ちょっとは度胸が付く。
 ここまで来ると、「なるようにしかならない」とさすがのヘタレでも思い切れるのか、口を大きく開けてなんとか迷惑を掛けずに治療を終えることができる。従兄弟がさりげなく気を使って、私の治療を先に済ませてくれているようで、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。せめてもの感謝の気持ちを表すために、「有難うございました」と丁寧にお礼を言って、帰っていくことにしているが、本当に心からありがたく思っている。その好意に報いるためにも、とにかく「もう来なくていいよ」と言われるまでは、どんなことがあっても頑張って通わなければ、とややもすると尻込みしてしまいそうな己に喝を入れている。
 それにしてもどうしてここまで情けない男なんだろう。普段は塾の生徒に偉そうなことを言っている男が、歯医者くらい(歯医者だけではなく、医者というところは全て・・)一人で行けずにどうする。「もうこれで3回目なんだからいい加減に一人で行ってよ」と妻も文句を言うが、順番を待って一人待合室で座っている己を想像しただけで心臓がドキドキしてくる。とても自分一人では行けそうもないから、「歯医者だけは我慢してくれ、お願い!」と懇願している毎日である。あ~~あ、本当に情けない。
 思うに、自分の頭の中では十分理解しているはずなのに、どうしてもその通りにできないことはあるものだ。誰にだってあるとまでは思わないが、そうしたものを持っている人は少なからずいるのではないだろうか。それを「甘え」と言えば言えるかもしれないし、「心の弱さ」がその原因なのかもしれない。私の場合、そうした己の「弱さ」を乗り越えようとはせずに、妻に助けを求めてしまう「甘さ」があるのは重々分かっている。分かっているどころか何とか克服したい、しなければと思っているが、今のところはできないでいる。今さらもう手遅れだ、と心の中の悪魔が囁くが、できることなら何とかしたい、もうこれ以上妻に迷惑を掛けたくない、その意気込みだけは忘れたくないと思っている。
 果たして治療が終わるまでに一人で待合室で順番を待てるようになるだろうか?




 きっと無理だろうな・・・。
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落語

 日曜日、WOWOWで録画してあった映画「しゃべれどもしゃべれども」を見た。主演の国分太一の演技が絶賛されていたから、見たいと思っていた映画だ。昨年公開の映画が家のTVで見られるのは嬉しい。塾の授業を終えて、もう後は酔っ払うだけ、そんなだらりとした気分で見始めた。あらすじは次のようだ。

 東京・下町。うだつの上がらない二つ目の落語家、今昔亭三つ葉は、ひょんなことから落語教室を開くことになる。生徒は、美人だが無愛想で口の悪い五月、口は達者だが関西弁のためクラスになじめない少年・村林、そして、元野球選手の湯河原。3人は言い争ってばかりだったが、少しずつ上達していく。ある時、村林はいじめっ子と野球対決をして負けてしまう。悔しがる村林に、いじめっ子を落語で笑わせてやれ、と三つ葉は提案する。


 TOKIO のメンバーはそれなりに知っているが、どことなく影が薄い。SMAP の後塵を拝しているため、それも仕方ないのかもしれないが、バンドとして全員楽器が弾けるし、それぞれ単独でもそこそこ活躍している。決して目立たないわけではないが、どうしてもSMAP という壁を乗り越えられない、私の目にはそう映ってしまう(V6 も同じようなものかなあ・・)。しかし、この映画での国分太一はよかった。TOKIO の国分太一ではなく、一人の役者・国分太一として十分な存在感を示していた。映画の最初の頃は、落語もうまくなく、うだつのあがらない噺家という役柄にぴったりだったが、後半で師匠の十八番「火焔太鼓」を噺す頃になると、まるでいっぱしの落語家のように見え、噺を聞いて私も何度か笑ってしまった。かなりの努力をしただろうが、その成果が立派に現れていたのには感心した。顔つきも次第に自信に漲った男らしいものに変わってきて、この映画によって彼が成長したことが窺われた。SMAP のメンバーがかなり定番化された演技しかできなくなってしまったのに比べれば、今までのイメージを破る国分太一が見られたようで、演技者としての彼のこれからが楽しみになった。
 しかし、映画のストーリーとしてはさほど面白くなかった。三つ葉の落語教室に通ってきた五月(香里奈)と村林(森永悠希)が発表会で落語を披露したのは彼らの努力の成果を表したものとして納得できるが、彼らが落語教室に通い始めたもともとの動機である普段の生活での話し下手を克服できたかどうかがはっきりしないままで終わってしまったのは物足りなさを感じた。元野球選手の湯河原(松重豊)の訥々としたTV解説が教室に通うことでどれだけ改善されたのかが分かるような場面があってもよかったのに・・と少々残念に思った。だから、三つ葉と五月が最後に遊覧船の上で仲良く肩を寄せるシーンをバックにエンドロールが流れ始めたときには、「これで終わるの?」と、しばらく憮然としてしまった。この映画の原作となった佐藤多佳子の小説を読んでいない私には、この映画がどれだけ原作の面白さを表現できたのかは分からないが、結局は国分太一の落語の進歩振りを見るためだけの映画なのかな、などと意地悪な感想を持ってしまった。もう少しだけストーリーを工夫すればもっと面白い映画になったのにな、と偉そうな気持ちにもなった。
 私は普段余り落語を聞かない。噺家次第で面白くも詰まらなくもなるのだろうが、私にとって魅力的な噺家がいない、というのもなかなか落語を聞く気にならない原因なのかもしれない。日曜夕方の「笑点」なら楽しく見られるのだが・・。それに反して妻は落語好きで、最近は時々一人で落語を聞きに行ったりしている。それにならって、私も少しは落語を楽しむようになりたいな、と思ったのがこの映画を見ての一番の収穫だったのかもしれない。
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琴欧洲(2)

 今年はじめに琴欧洲についての記事を書いた。大相撲が盛況になるためには、体力に恵まれた大関・琴欧洲がもっと力を発揮しなければいけない、などと檄を飛ばす内容だったように思うが、今5月場所はやっとその思いが叶うかも、という淡い期待を持てるようになった。何と、初日から8連勝であっという間に勝ち越しを決め、最短でカド番を脱出した。それどころか万が一にも優勝を狙える位置にいるというのが嬉しくて、思わず記事にしてみようと思い立った。
 琴欧洲が序盤連勝しても、すぐに負けがこみ始め、14日目か千秋楽に何とか勝ち越しを決める・・、そんな場所がずっと続いていた。今場所が、大関昇進15場所目というのに、昇進後は低迷を続け、10勝が最高でカド番が早くも2場所目などと、ファンならずとも眉をひそめる成績しか収めていない。大関に昇進した頃の破竹の勢いは影を潜め、ただただ勝ちを欲しがる余りに相撲がずいぶん小さくなっていた。あれだけ立派な体格をしていれば、何もせずとも組み止めてぐっとまわしを引きさえすれば、たいていの相手は動けなくなってしまうのに、と彼の取り組みを見るたびに歯がゆく思ってきた。体に見合った大きな相撲をとるように心掛ければ、あれこれ考えなくとも勝ちは転がり込んでくる、そんな思いをしながら彼の相撲を見てきた。
 それが今場所は前に出る相撲が目立ち、危なげない相撲をとっている。深夜にNHKでダイジェスト放送される相撲中継を時々見ながら、少しずつ琴欧州の相撲に期待が膨らんできた。7日目の稀勢の里戦はあいにく見ることができなかったが、新聞によれば立会いに変わって左上手を取って一気に寄り切った相撲だったようで、評判はあまりよくなかった。それでも今の琴欧州には白星が何よりの薬だろうと、カド番脱出まであと1勝と迫った8日目の大関魁皇戦を楽しみにしていた。魁皇はこれまで4勝3敗と今ひとつ調子に乗れない成績であるものの、やはり地力は横綱に匹敵するものをもっているだけに、この対戦は琴欧洲の好調さが本物かどうかを見るには格好の取り組みだった。
 立会い、一度待ったをした後、立った瞬間に右上手を引いて魁皇をがっちり組みとめた琴欧洲は、間髪いれずに一気に寄り切った、完勝だ。あまりのあっけなさに私は少々戸惑ったほどだが、今場所のお互いの調子がそのまま現れたような結果だった。
 

 さあ、これから5月場所は後半を迎える。果たして琴欧洲はどれだけ勝ち星を重ねることができるだろう、そして優勝までも望めるだろうか?私なりに占ってみた。
 まず第一に問題なのは、琴欧洲の心のもちようだろう。勝ち越して大関という地位をひとまず確保したことに満足してしまったなら、多くは望めない。最終的にはいつものように10勝前後で終わってしまうだろう。もしそうなったら、琴欧洲はそれだけの力士だと思って今後注目するのはやめよう。だが、彼が現状に満足せず、横綱を目指すだけの心意気を持っていたならば、これからの取り組みはかなり楽しみだ。
 その際、どうしたって難敵になるのは白鵬、朝青龍の両横綱である。中日まで白鵬はほぼ完璧な内容できているだけに彼を倒すのは相当厳しい。勿論琴欧洲には白鵬との二大横綱になって欲しいとの私の願望があるだけに、何とか倒して欲しいライバルではあるが、今場所そこまで望むのは少しばかり酷かもしれない。だが、もう一人の横綱朝青龍ならなんとか倒せるのではないだろうか。初日に稀勢の里に力負けして以来白星を連ねているが、私の見るところ付け入る隙は十分にあるように思う。他の力士に取りこぼしをすることなく、両横綱との対戦まで全勝を続けていければ、ひょっとしたらひょっとする、そんな気がしなくもない。
 新鋭の台頭によって再び活気を取り戻しつつある大相撲、今場所は琴欧洲がその存在を大きくアピールする絶好の機会だ。ぜひとも終盤まで優勝争いの中心にいて欲しい。
 
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ピント

 昨年末に買ったデジカメの取り扱い説明書がどこかにいってしまい、ピントの合わせ方がうまくいかない、と不満をこのブログで書いたことがある。その後だましだまし使ってくるうちに、接写モードでのピントの合わせ方は何とかマスターしたものの、少し離れた距離でのピントの合わせ方がどうにもうまくいかない。写真を撮るたびにピンボケの見苦しい写真しかとれなくて、何度も情けない思いをしてきた。
 ところが、先日思わぬところから待望の取扱説明書が出てきて、もうこれでうまくいくかなと意気込んでみたのだが、モードの説明やピントの選び方が簡単に書いてあるくらいで、結局は何の役にも立たなかった。さすがにがっかりしたが、こうなったら自力であれこれ試してみるしかないな、と色々なモード、ピントで写してみることにした。(もっと早くやれよ・・)
 まずは、撮影モードを「風景モード」に合わせる。これには、「風景の撮影に適しています。広い範囲にピントが合うようになっています」との説明がある。ちょっと離れた、ものはこれで撮ればいいのだろうが、問題はフォーカスモード(ピント)だ。まずは、AFモードにしてみた。これは「自動でピントが合う範囲を選ぶ」とあるから一番簡単なんだろう。たまたま行ったデニーズの店内でズームを使いながら何枚か写してみた。

  

  

 私の座ったところから3.5mほど離れたポスターを写したのだが、ズームを使うと3枚目からもうピントがずれてしまう。外の風景を撮るときにはいつもこんな感じで、ボケボケの写真ばかりになってしまう。これの前に使っていた、娘からのお下がりのデジカメはこんなにボケたりはしなかった。いったいどうしてなんだろう・・。
 気を取り直して、次には「遠くのものを撮るときに選ぶ」という無限遠をフォーカスモードにして同じようにズームを使いながら写してみた。

  

  

 どうだろう?一番ズームを働かせた写真はどちらもひどいものだが、それ以外は無限遠フォーカスの方がくっきり写っているように思う。今までは遠景モードでオートフォーカスを使って撮っていた。そのときは、ピントがあったと思った次の瞬間にピントがずれてしまい、写してみてもピントの外れた写真しか撮れなかった。上の結果を見ても明らかなように、もうこれからは、少し離れたものを写す時には、遠景モードで無限遠フォーカスにして写すことにしようと決めた。その際ズームはほどほどに・・。

 そこでまた何枚か練習に撮ってみた。

 

 だいぶはっきりと撮れるようになった。でも、まだまだだ・・。精進あるのみ!!
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援助

 ここ数日気持ちのいい五月晴れが続いている。からっと晴れた今の季節は、暑くもなく寒くもなく快適に過ごせる。みずみずしい青葉に陽光がキラキラ反射して眩しくてたまらない、それもこの時期にしか味わえない喜びだ。
 などと生きている実感、喜びに満たされる毎日だが、そんな小さな喜びさえも味わえない、悲しみのどん底に突き落とされ悲嘆に暮れる時を送っている大勢の人々がいる。ミヤンマーではサイクロン、中国四川省では大地震に襲われて多くの人が亡くなり、行方不明者も数知れないほどだと言われている。ミヤンマーは軍事政権の下報道管制がしかれ、災害の実態はなかなか伝わってこないが、四川省からの報道では日に日に被害の甚大さが明らかになり、そうしたニュースに接するたびに目や耳を覆いたくなる。倒壊した建物の瓦礫に埋まった人々や、必死で救助活動を行う人々の姿を見ると胸が熱くなる。阪神淡路大震災の時は街のあちらこちらで燃え盛る火に地震の恐ろしを見て心が凍り、まるで地獄の業火を見ているようで涙が止まらなかった。四川省では大規模な火災が発生したとの報道はないものの、建物の倒壊は激しく、瓦礫の下に埋もれた多くの人々が救助を待ちながらも力尽きてしまう、まさに地獄絵図のようだ・・。
 
 こうした災害が起きるたびに、「自分はいったいどうしたらいいんだろう」と思う。何かをできるわけでもないのは自分が一番よく知っている。ボランティア精神とはかけ離れたところで毎日暮らしている私が、被災地の人々の生活を救うために・・などと言い出しても、誰も取り合ってはくれないだろう。確かに現地まで救援物資を山盛り担いでいって、救助作業を手伝うことができれば、それなりに役立つかもしれない。しかし、現実にはそんなことはできないし、それだけの互助精神を持ち合わせた男でもない。しかし、それでも何かしなければいけないのではないか、そんな気持ちは沸き起こってくる。だが、それも、被災者を慮ってのことというよりも、苦しむ人たちにのために何かしたい、しなければならないと自分は思ったんだという、謂わば自分自身に対するアリバイ作りのためであるような気がしてしまう。果たして私は、心から現地の人々の生活を案じているのだろうか、と考えてみると、しどろもどろになってしまう。
 実際中国やミヤンマーという自分にとっては縁もゆかりもない土地で苦しむ人々のために、私が心から何かしなければならない、などと思っているとは正直思えない。いくら想像力の欠如だ、と指摘されたとしても、虚心に己の心を覗き込むとそうだから仕方ない。仕方ないのはどうしようもない・・・。だが、やっぱりそれでも何かしなければ!と思うのは、たとえそれが思いやりの気持ちとか、助け合い精神の発露からではなく、人としての義務感や自分自身に対する言い訳、さらに言えば自分は何かしたんだぞ、という満足感を求めての結果だとしても、大事にしなくてはならないと思う。慈愛の心に満ち、傷つき倒れている人々の姿に涙しながらも、それ以上何もしないよりも、たとえ心のどこかでは他人事だと思いながらも、自分でもなぜだかよく分からないけれども、どうしても救援活動の一助となるようなことをしないではいられない方が、現地の人々にとって多少なりとも役立つことではないだろうか。
 そこで、思いついたのが救援募金だ。それなら私にでもできる、というか、それくらいしかできない。調べてみたら、いくつかあった。 

<ミャンマーを襲ったサイクロンと、中国・四川省の地震の被災者救援のための募金>
 ・朝日新聞社と朝日新聞厚生文化事業団・・「ミャンマー救援募金」または「中国・四川大地震救援募金」と明記し、郵便振替(00130・1・9166)で朝日新聞厚生文化事業団「救援募金」係へ。
 ・毎日新聞社と毎日新聞社会事業団・・「ミャンマー・サイクロン救援金」または「四川大地震救援金」と明記して、郵便振替(00120・0・76498)で。

 しかし、一番簡単なのが、「ちょコム」という制度だ。電子マネーを使って一口100円から募金を送ることができ、四川地震とミャンマーのサイクロン被害のどちらにも募金できる。早速試してみた。Pちょコム貯金箱の開設が必要なため、その手続きに少々手間取ったが、郵便局に出向くのと比べたら大したことではない。手続きを終え、四川地震とミヤンマーのサイクロンの両方に募金をした。小額ではあるが、私のせめてもの心だ。
 でも、ミヤンマーの場合、軍事独裁政権を助けることになってしまいそうなのが辛い・・。

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手塚治虫(2)

 昨年11月に『手塚治虫傑作選「瀕死の地球を救え」』を読んだ感想を記したが、その続刊となる「家族」篇を読んだ。10編の短編から成る本書は、それぞれ「親と子」「兄弟姉妹」「夫婦」などを題材にしている。「家族」という私たち一人一人がもつ永久不変のテーマについて、手塚のメッセージが伝わってくる読み応えのある作品ばかりが選ばれている。その中から、ここではブラックジャックを主人公とする3つの短編「勘当息子」「もらい水」「落としもの」に関して少しばかり感想を記したいと思う。



 私が初めて手塚の漫画に触れたのは「鉄腕アトム」だったと思うが、正直言って私はアトムがあまり好きではなかった。あまりに正義の味方過ぎて優等生然としたアトムは少々煙たい存在でもあった。「たとえロボットでもあんないい奴なんかいるはずがない」などとひねくれた見方をしていたのが子供の頃の私だった。(ロボットなら「鉄人28号」の方がずっと好きだった)そんな私であるから、少しばかり長じて「ブラックジャック」を読むようになって初めて手塚の作品の素晴らしさに気づくことができた。世間からは悪徳医師というレッテルを貼られ、無免許医でありながらも高額な手術代を取っては難病患者を治していく・・そんなシニカルなブラックジャックは稀代の「いい子」・アトムなどと比べるとずっと自分に近い存在のように感じられ、「ブラックジャック」全巻を買いこんで何度も繰り返し読んだ。その単行本も、塾生たちに貸したりするうちに散逸してしまい、今では一冊も手元に残っていない。だから余計に、この手塚治虫傑作選によって「ブラックジャック」の世界に再び浸ることができたのは嬉しかった。
 
「勘当息子」・・山間の村で宿を求めてブラックジャックの立ち寄った家は、老婆が一人できりもりする民宿だった。その日はちょうど彼女の還暦の誕生日、都会に出てそれぞれ出世をした三人の息子たちがお祝いにやってくるはずだったが、いつまで待っても誰一人現れない。落胆のあまり持病に倒れる彼女のもとに放蕩を繰り返して勘当したはずの4人目の息子が駆けつける。彼は母の持病を治すために医者になったという・・。
「もらい水」・・町で胃腸病院を営む息子のために、自分の部屋を入院患者用に提供することが常態となっている母親は、そのたびに何人かの知り合いの家に順に泊めてもらっているが、とうとうどこの家も泊めてくれなくなった。ふとしたことで彼女と知り合ったブラックジャックは、その町を襲った大地震で野宿したあばら家の下敷きになった彼女を助け出して、息子のところへ連れて行くが・・。
「落としもの」・・不治の病と宣告された妻を何とかブラックジャックの手によって救ってもらおうと、家屋敷全てを売り払って都合した3000万円の小切手を持ってブラックジャックのところへ向かう男。しかし、その途中駅の構内で小切手を落としてしまった彼は、必死で探したものの見つからず、性も根も尽き果ててブラックジャックに事情を話す。しかし、ブラックジャックは彼と息子の体と引き換えに手術しようともちかける・・。
 
 どの作品も読む者の心をまっすぐに射抜く。古典的な人情話だといえるのかもしれないが、古典的だろうとなんだろうと、人間の根本は今も昔もさほど変わるものではない。これらの物語に流れる親子愛や夫婦愛、さらには人間愛は時空を越えて私たち人間の血の中心を流れているものではないだろうか、手塚はそう信じていたからこそ、こうした作品を書き続けたのだろうし、私たち誰もがその思いを共有しているからこそ、手塚のこれらの作品が今でも読み継がれているのだろう。私もそう信じているし、家族を慈しみ助け合う思いこそ、これからも変わることなく、私たち一人一人の血の中に連綿と流れ続けていくだろうと信じている。
 
 没後20年近くたっても、手塚の残した漫画は輝きを増し続けている・・。


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新聞

 一昨日、こんなニュースが流れた。

『毎日新聞社は13日までに、北海道内での夕刊発行を8月末で廃止することを明らかにした。道内以外での地域では引き続き、夕刊の発行を続けていく。
 毎日新聞北海道支社によると、「読者からの要望やライフスタイルの変化に合わせて、今後は新しいタイプの朝刊を発行する」と話している。9月1日からの新価格は月3007円。道内を管轄する同社の今年3月の発行部数(日本ABC協会調べ)は朝刊6万8000部、夕刊1万4000部で、昨年同月に比べ1年間で約4000部減少している。
 全国紙の夕刊廃止は、産経新聞東京本社が平成14年4月より首都圏での実施に踏み切った以外初めて』

 確かに夕刊は読まずに終わってしまうことがよくある。読んでも、一面と社会面それとスポーツ面をちらり見するだけのことが多く、特集記事などをじっくり読むことは少ない。私には腰を落ち着けて夕刊を読むだけの時間がないことが一番大きな原因だが、夕刊を少しばかり軽く見ているせいもあるのかもしれない。我が家では毎日新聞をとっているが、ここ最近は夕刊の紙面にいろんな工夫がされているのが分かる。一面に数独の問題を載せたり、2面に時の人のインタビュー記事を載せたりと、よく見ればなかなかの読み応えがある記事が並んでいるように思う。要は夕刊を読むための時間があるかどうか、という問題なんだろう。上の報道にもあるように、夕刊が朝刊の約5分の1の発行部数がないことから、世間一般に夕刊を読むだけの時間に余裕のない人が多いことが窺えるような気がする。
 マスメディアとして新聞の役割が相対的に落ちていることは否めないだろう。TV・ラジオを見たり聞いたりしていれば、日本だけでなく世界全体のニュースをほとんど知ることができる。何をわざわざ新聞までとって読む必要があるのか、と言う気がしなくもない。ましてや、パソコンや携帯電話でインターネットを使えれば、どんなニュースでも知ることができるし、個別のサイトを訪れさえすれば、そのニュースの裏側に潜む問題点までも瞬時に知ることができる。それなのにお金を払って、次の日には紙くずとなってしまうような物をあえて買う必要などまるでない、と考える人が多くなっているのは仕方ないように思う。私の子供たちは、それぞれの部屋で新聞はとっていないと言う。「ネットがあるから新聞なんて読まなくてもいい」というのが理由らしいが、それならそれでいいじゃないかと、私はあえて反論していない。
 3月に少し驚いたことがあった。「県立高校の入試問題は解答とともに翌日の新聞に出るからそれで自己採点しておくといいぞ」と私が中3生に言ったところ、一人の生徒が困ったように「ウチは新聞とってないけど、どうしたらいいですか?」とたずねてきた。私は予想だにしていなかったことなので、一瞬戸惑ってしまった。「そうか・・、それなら塾に来たら答えを教えてあげるから、それで採点すればいいよ」などと何とか答えたが、かなり驚いた出来事だった。一般紙をとらずにスポーツ新聞をとっている家は今まで何軒かあったが、新聞をまるでとっていないというのを聞いたのは初めてだった。もちろん今までにもそういう家の子はいたのかもしれないが、そんな話を聞いたのは初めてだったので、少々面食らってしまった。
 新聞をとらない理由はいくつもあるだろう。上に挙げたもの以外には、やはり月々の新聞代が嵩むという面も大きな要素だと思う。我が家でも一年前まではずっと毎日新聞と中日新聞の2紙をとっていたが、経費削減のために中日新聞をとるのをやめた。地元紙だけあって、不自由に思うことも時々あるが、その浮いたお金で喫茶店に行って、店に置いてある新聞を読めばその方が賢明か、などと今は開き直っている。
 しかし、「やはり新聞は読まなくちゃ!」と思ってしまう。耳で聞き、目で見ただけで世の中の動きを理解したような気になるのは、少々早計ではないだろうか。やはり目で文字を追いながら、一つ一つを頭で理解していくという作業を繰り返すことによってしか、錯綜する現代の状況を理解することはできないと思う。そうしたリテラシー能力を高めるためにも新聞は不可欠なものだ。朝刊だけでもいいから、もっとしっかり読むようにせねば・・。
 
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山笑う(2)

 ちょうど一年前に「山笑う」という記事を書いた。晴れ渡って新緑がまぶしい日に書いたものだが、その中で次の写真とともにひとつの疑問を投げかけていた。


 『白っぽく見えるのは花粉が付いている樹木だろうか、それとも白い花が咲いているからなのだろうか。今、家の近くの道路わきにはニセアカシアの花が咲き乱れているが、それとはどうも違う。一体なんだろう。』

 今年も市の郊外を車で走っていると、山の斜面がぼーっと薄黄色に浮かび上がっているのが見えるようになってきた。去年と同じように「何だろう?」と思いながら眺めていたが、先日お千代保稲荷へ参拝した帰り道にその答えらしき物が見つかった。以下にそのときの様子を記す・・。

妻「山のあの薄黄色は何の色なのか、伯母さん分かる?」
伯母「何だろう?」
妻「栗かな?」
伯母「栗はまだちょっと早いと思うよ」
妻「何だろうねえ・・」
・・・・・・・・・・・・・・
伯母「あそこ、あそこに一本生えてるよ」
妻「本当だ。あそこなら車で行けるよねえ?」
私「たぶん行ける」
そう言いながら細い道を車でたどって行ったら、何とかすぐ近くにまで行くことができた。
 そこは小さな神社だった。こんな神社があるなんて今まで知らなかった。

 

 妻が「これだよね、きっと」と言って車を降りたのに続いて私と伯母もおりた。なんだか、栗のような銀杏のような不思議な香りが周囲に立ち込めている。「変な匂い・・」と妻が言いながら、神社のほうへ歩いて行った。すると手招きしながら私に叫んだ。「ここにこの木の説明があるよ」と立て看板を指差した。「ほうっ!」と声を立てながら近づいていった私は、説明を読んでみた。

 『マルバタラヨウ  市指定天然記念物』
 この木はモチノキとタラヨウの雑種で平成8年に新種として学会に報告された。
 モチノキとタラヨウはいずれもモチノキ科に属する常緑樹である。雄木と雌木があり、モチノキは4月中旬、タラヨウは5月中旬ころ開花する。
 マルバタラヨウはタラヨウに類似するが、小枝が細く、葉は短く、葉の周辺の鋸歯が緩やかである点が異なっており、モチノキとは葉が大きく、葉の周囲が鋸歯状になる点で異なっている。
 タラヨウは本来雑種が非常にできにくい種であり、自然の状態で交配し雑種ができたのが確認されたのは、このマルバタラヨウが初めてである。国内はもとより世界的にも例をみず、極めて貴重な木である。

 なるほど・・。この説明どおりに雑種ができにくいのなら、山で開花している木が全てマルバタラヨウだとは考えにくい。でも、薄黄色の花の感じが遠目ながらもこのマルバタラヨウの花と酷似しているし、開花した時期から考えてみても、山の木がタラヨウの仲間であることは間違いないように思う。と言っても、まったくの素人考えだから当てにはならない。だが、一つ賢くなったような気がして気分がいい。

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ゲゲゲの鬼太郎

 日曜日、WOWOWで録画しておいた「ゲゲゲの鬼太郎」を見た。昨年公開された時は映画館まで行こうかなと思ったほどだったし、DVD化されたものを買おうかなとも思ったが、アニメの実写化だけにどうしてもためらいが出てしまった。アニメはアニメで大切にしておくべきだよな、と昨今流行の実写化にはイマイチ賛同できない。「どろろ」のようにそれなりに面白かった映画はあるが、それでもやはり原作を越えたなどとはとても言えないので、実写化された映画を見るのはTVで放送されるまで待ったほうがいいように思う。
 実際、この「ゲゲゲの鬼太郎」も面白くはあったが、わざわざ映画館まで足を運ぶ必要はないと思える出来栄えだった。一応ストーリーを書き出してみると、

 ゲゲゲの森で父親の目玉おやじや仲間たちとのんびり暮らす鬼太郎のもとに、ある日届けられた一通の手紙。それは恐るべき魔力を秘めた<妖怪石>をめぐり、妖怪界と人間界を揺るがすことになる大事件のはじまりだった。ひょんなことから妖怪石を手に入れたのは人間の実花と健太姉弟。石のパワーを手に入れようと、次々に襲い掛かる邪悪な妖怪たちから2人を助けた鬼太郎は、妖怪石を盗んだ張本人として濡れ衣を着せられ、妖怪大法廷にかけられることに。満月の夜までに石を取り戻せなければ命はない。今、善と悪、様々な妖怪たちを巻き込み、史上最大の戦いが始まる!

などという他愛もないものだが、そんな筋立てなどこの映画には付け足しのようにしか思えなかった。唯一最大の見所は「出演者がどれだけ大真面目に妖怪役を演じているか」の一点に絞られている。



 鬼太郎役のウエンツ瑛士には最初から期待していなかったから、別に失望もしなかった。ただ、鬼太郎の左目は髪の毛で隠れて決して見えてはいけないはずなのに、何度も映ってしまったのには興ざめした。あれはダメでしょう!!
 それに引きかえ、ねずみ男役の大泉洋は最高だ。あれだけねずみ男のいやらしさを表現できるなんて彼自身も妖怪じゃないかと思いたくなるほどだった。ずっと前から深夜番組で彼のことは知っていたが、それにしても今どき珍しいインチキくさい俳優だ。映画の前半部は彼の出番が多く、とても愉快だった。
 大泉の次に光っていたのが猫娘役の田中麗奈だ。撮影時は27歳だった彼女が猫娘のコスチュームで動き回るのには少々驚いたが、その手足の細さはまさに特筆ものだ。この映画を見たあとで草剛とのドラマ「猟奇的な彼女」を見たが、猫娘で猫ダンスを踊っている彼女のほうが何倍もキュートだった。(しかし、あのドラマはひどい・・、最悪だ)
 その他にも、子泣き爺役の間寛平はいい味出していたし、砂かけ婆役の室井滋もメイクが強すぎて一目見ただけでは誰だか分からなかったが、いかにも砂かけ婆らしかった。
 さらには、西田敏行、中村獅童、竹中直人、谷啓など一癖ある出演者が目白押しで、彼らの怪演はさすがだった。出演者の誰もが楽しんで妖怪役をやっているように見えたから、余計面白かったのかもしれない。
 忘れるところだった、目玉おやじはCGでの登場だったが、なかなか上手にできていて、まるで生きているようだった・・。あんなペットがいたらいいなと思わないでもなかった。

 また今年の7月に同じ配役で第2作が公開されるようだ。一年待ってTV放送されるのを楽しみにすることにしよう。
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快気祝い?

 日曜日の朝、起きても歯が痛くない。確か寝る前に痛み止めを飲んだはずだからそれがまだ効いているのかな、とも思ったが、久しぶりにさわやかな朝を迎えられて嬉しかった。この調子でいければ、抜歯した痛みは終息したと思ってもいいのかなと思い、もう痛み止めは飲まずにおこうと決めた。中間試験も近づいてきたため、補習を10時から行わなければならない。途中で痛くなり始めたら躊躇わず痛み止めを飲むことにして授業に臨んだのだが、一向に痛みが襲ってこない。これなら授業が終わったあとビールを飲んでもかまわないな、と授業の途中からワクワクし始めた。何といっても水・木・金・土と4晩もビールを飲んでいない。こんなことは、7年ほど前に自宅の階段から誤って転げ落ちて肋骨を3本折り、しばらく呻吟して以来なかったことなので、久しぶりに飲むビールがどんな酔いをもたらすのか想像すらできなかった。土曜の夜にビールを飲まずに寝て、翌日曜の夕方に飲み始めるとひどく酔いが回るのを何度も体験しているだけに、4日も間を空ければ一口飲んだ瞬間に目くるめく快感を味わえるのではないか、などとひそかに期待した。
 ならば、いつも飲む「一番搾り」で酔うのも少しもったいないのではないか、いつもと違うビールを飲んで久しぶりの酔いを楽しんでもいいではないか、などと思いついたので、塾が終わると早速買いに行った。

 

 今まで一度も飲んだことのないドイツビール「ERDINGER」を買ってみた。泡が豊かでフルーティーな味がするなどとビンの裏側には書いてあったが、確かにそんな味わいはした。小瓶で1本500円近くしたが、果たしてそれだけの価値があったかどうか・・、難しいところだ。一口飲んだ妻は美味しいと言ったが、私にはさほどのうまさは感じられなかった、ちょっと残念。このビールを飲む前には、体中にアルコールが行き渡って爽やかな酔いが駆け巡ったりするのかな・・、などと勝手な思い込みをしていた。しかし、いつもどおりの長年連れ添ってきた酔いしか訪れてこなかった。最初の一杯で最高に気持ちよくなろうと、ちょっとばかりはりこんだのに、期待に反していくら飲んでも大して気持ちよくはなれなかった。


 やはり日本のビールのほうが私には合っているのか、と思って、ドイツビールと一緒に買い込んできた、少々値段が高めのビールを何本か飲んでみた。久しぶりの現場復帰で大役を任されたような気分になるが、自分の味覚にうそはつけない。一番に飲んだのはAsahi の「プレミアム 熟撰」。しかし、一口飲んで驚いてしまった。まるで水を飲んでいるようだ・・。どうしてこんなビールを高い値段で売っていて恥じないのか、Asahi の人に聞いてみたい気がした。次は、Suntory の「プレミアムモルツ」を飲んでみた。これは量販店で一箱買ってきたものだが、売れ残り商品なのか、値上げの続くほかの商品と比べて一ダース500円近くも安かったので、思わず買ってしまった。味のほうは可もなく不可もない、といった程度だが、それでもAsahiの製品よりはずっとましだった。三本目のYEBISU の「ザ・ホップ」は何も言うまでもない定番の美味しさで、上の三本の中では間違いなく一番美味しかった。
 
 などとビールの品定めをするつもりなどまるでなかったが、いつの間にかちょっと値段の高いビールの品評会になってしまった。そんなことよりも、やっと歯痛が治まりかけた喜びを表したかったのだが、うまくいかなかった・・、残念。
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