じゅくせんのつぶやき

日々の生活の中で感じた事をつぶやきます。

職員室カースト

2019-10-17 10:42:40 | Weblog
☆ 京都新聞の社説、神戸市立小学校教員間のいじめ問題をとりあげ、「職員室カースト」という言葉を使っていた。

☆ もともとは子どものいじめ問題で語られた「スクールカースト」、それが援用されたようだ。最近は、教育評論家の言葉からも多く聞かれるようになった。

☆ ハラスメント問題は教員社会に限ったことではない。教員社会の問題として語られなかったのが今さらながら不思議なくらいだ。

☆ 今回、勇気ある告発によって問題が暴露されたが、これまでも泣き寝入りした多くの人々がいたのではないかと危惧する。一方で教員社会が、あるいは教員個人の資質が変わってきているのかも知れない。

☆ かつては「ナベブタ式」と呼ばれ、校長をトップに教員がそのキャリアに関係なく一様にその職責を果たすのが教員組織だった。専門職としての教職が目指され、「個業」としての矜持をもちつつ、「協業」として教育目標を実現させる、そのために学校経営が機能していた。教員に対しては、大前提として性善説に立ち、主義主張や人間関係の摩擦はあっても、教育目標の実現に向け協力するものだと考えられていた。

☆ しかし、時代の変化の中で、学校に次々と新たな課題が課せられ、コロコロと変わる教育政策に振り回され、教員組織においても職階制が浸透してきた。主事であったり指導教諭であったり。かつての重層構造ー単層構造論争など懐かしい限りだ。職階(キャリアラダー)やメリット・ペイは、単線系(教諭→(主任)→教頭→校長の道しかない)の教員の職能成長にとって、刺激剤となるはずだったが、果たしてどうなのだろうか。

☆ 子どもたちに対しては、異年齢集団や斜めの関係の重要性を説きつつ、教員集団において多様な集団との関りは実現されているのであろうか。

☆ 昔ながらの学校の閉鎖性も気になる。「開かれた学校」などと言われて数十年がたつ。不審者問題で学校の校門が閉められるようになり、地域など他者からの視線を遠ざけてはいないか。行政の締め付けによって校長が委縮し、臭いものに蓋といった隠蔽体質に陥っていないか。この傾向は行政の方がもっと強いように感じるが。

☆ 以前、ある研究会に参加したとき、現役の教員が「行政というものは『敗退』を認めない。『敗退』を『転戦』と誤魔化したかつての日本軍と同じだ」と言っていたのが印象に残っている。結局、無責任体制が温存され、初期対応が遅れる傾向にある。

☆ 教員の幼稚化や人事のあり方も課題だ。ある週刊誌は「女帝」とその取り巻きと言った視点に立っているが、前校長によってリクルートされた女性教員のチカラ、それと教頭として転任し、校長に昇格した現校長との関係はどうだったのか。

☆ 森田洋司・清水賢二著「いじめ 教室の病い」(金子書房 1986年)では、いじめ集団の四層構造(加害者、被害者、観衆、傍観者)を指摘している。教員集団にも当てはまるのであろうか。

☆ 今回の問題は見かけ以上に根深く、現代の教育、教育行政、学校経営の在り方に一石を投じそうな気がする。また徹底に究明することによって今後の学校改善、教育改革への糸口になりそうな気もする。時代の移り変わりに「学校」(あるいは教育行政のありかた)という仕組みが機能障害を起こしつつあるのかも知れない。
コメント