今回の動画はYouTubeのKANさんのトピックからです。
動画の素性がよくわかりませんので、後日観られなくなる可能性がありますが、公式の動画が動かないものでしたので、せめて動いているものにしたかったためです。観られなくなったら公式の動画に差し替えるかもしれません。その際はご了承ください。
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今回は前回に引き続き中森明菜さんの曲を取り上げる予定だったのですが、急遽予定を変更して、17日に訃報が報じられた、KANさんのご冥福をお祈り申し上げつつ、「愛は勝つ」を取り上げさせていただきます。
初出がこの曲が収録されたアルバム「野球選手が夢だった。」がリリースされた、1990年7月でした。
その後、大阪のFM局FM802(エフエムハチマルニ)で、ヘヴィー・ローテーションされたことがきっかけとなり、同年9月にシングルカットされます。大阪人の僕としてはそれでよく覚えているのかもしれません。
その大阪もバブルの中、この曲はラジオだけでなくテレビもそうでしたし誰もが口ずさみ、替え歌(「必ず最後にチキンカツ~♪」)も聴こえてくるぐらいで、聴こえない日はないぐらいの流行り方でした。
またバイト先の正社員さんが、僕の名前がカンガワなのでKANさんとかけて、よくいじられたりしていました。
当時の僕は写真学校の生徒だった時期で、朝から学校へ行き、夕方からアルバイトで自分の小遣いや写真の資材代を稼ぐ日々でした。
10代最後の2年をいろいろな戸惑いや圧力に苛まれながらも日々を過ごしている中で聴こえてくるこの曲は、どことなく当時の僕を支えてくれていたように思います。
だからこそ、17日に訃報をお伺いし残念感でいっぱいになったのは、単に今年ミュージシャンが多く天上に逝かれた中で、さらに「KANさんも」と思っただけではなかったからでしょう。
またバイト先の正社員さんが、僕の名前がカンガワなのでKANさんとかけて、よくいじられたりしていました。
当時の僕は写真学校の生徒だった時期で、朝から学校へ行き、夕方からアルバイトで自分の小遣いや写真の資材代を稼ぐ日々でした。
10代最後の2年をいろいろな戸惑いや圧力に苛まれながらも日々を過ごしている中で聴こえてくるこの曲は、どことなく当時の僕を支えてくれていたように思います。
だからこそ、17日に訃報をお伺いし残念感でいっぱいになったのは、単に今年ミュージシャンが多く天上に逝かれた中で、さらに「KANさんも」と思っただけではなかったからでしょう。
もしかすると、この当時の僕自身の心根を大きく支えてくれていたのかもしれません。
そのせいなのか、この当時を最初思い出したのはなぜか1990年の春で、この春が当時いちばん生活環境が変わった時期で、いちばんいろいろな戸惑いや圧力があった時期でした。その少しあと、その年の夏に「愛が勝つ」は世に出たことになるので、少し記憶違いだったことを今回調べてわかったのですが、それでも当時の戸惑いなどの記憶はこの曲とセットになっていて、当時のバブリーな世相も一緒になって、本当にいろいろなことがほとばしるほど思い出され懐かしく初心を取り戻す気持ちになります。
「音楽」って、本当に不思議なものだと思います。
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