はりさんの旅日記

気分は芭蕉か司馬遼太郎。時々、宮本常一。まあぼちぼちいこか。
     

二上山の麓にある鳥谷口古墳の謎

2021-11-25 18:20:20 | 古代史の舞台を歩く
二上山の麓にある鳥谷口古墳(とりたにぐちこふん)を訪ねました。


二上山もすっかり晩秋の佇まいでした。




二上山は万葉集にも謳われた歴史ある山です。右の雄岳頂上には大津皇子の墓もあり宮内庁によって管理されています。




二上山登山口から鳥谷口古墳を望むことが出来ます。




以前に二上山ハイキングの下山時に訪れたことがあります。




ここは昭和58年(1983)工事中に偶然発見されたそうです。




案内板です。




やや横長の四角形の古墳で、埋葬施設は横口式石槨と呼ばれる小さな石室があります。




発見当時は、こんな姿だったようです。




7世紀後半に築造されたことは判明しているようですが、副葬品等がなく、どのような人物が埋葬されたのかはわかっていません。




ところで、二上山といえば、大津皇子(おおつのみこ=天武天皇の第三皇子)のために姉の大伯皇女(おおくのひめみこ)が詠んだ万葉歌が有名です。
「うつそみの人なる我や明日よりは二上山を弟と我が見む」(この世に生きる私は、明日からは二上山を弟として見ることにしよう)




父親の天武天皇が崩じて直ぐに、謀反の疑いで処刑された大津皇子ですが、その亡骸は二上山に葬られたようです。
先の万葉歌の前文に「大津皇子の屍を葛城二上山に移し葬る時に大伯皇女の哀傷して作らす歌」とあることからそう考えられています。
鳥谷口古墳からは遠くに飛鳥を望むことが出来ました。




大津皇子の墓は二上山の頂上にあると書きましたが、どうやらそこも怪しいようです。
研究者の間では鳥谷口古墳こそが真の大津皇子の墓ではないかと考えられています。

大津皇子の話から折口信夫の『死者の書』を思い出し、その話に導かれるように中将姫伝説の残る當麻寺に向かいました。




※訪問日 2021.11.24

植山古墳を訪ねました

2021-08-04 19:15:15 | 古代史の舞台を歩く
今回は地味に古墳の話です。
この日は、藤原宮跡のキバナコスモスやおふさ観音の風鈴まつりを訪ねたのですが、そちらは後回しにします。

明日香には沢山の古墳があり、ほとんどの古墳には行ったのですが、以前から気になっていた古墳がありました。
それは、植山古墳と呼ばれる古墳です。(ここは正しくは橿原市になります。)
ここは現在、植山古墳公園として整備中のようでした。


丘の上に登って見ると、遠くに二上山、近くには畝傍山が見えました。




柱列のことしか書かれていない案内板がありました。




古墳の石室部分は現在も発掘中(整備中)なんでしょうか、カバーがかけられていました。長方形の方墳だったようです。




先ほどの案内板をよく見ると、二つの石室があるのがわかります。ここがこの古墳の大事なところです。




実はこの古墳は、推古天皇と子息の竹田皇子が最初に葬られた古墳だと考えられています。
その後、改葬され(改葬の事は古事記・日本書記に書かれています。)、現在は太子町にある「磯長山田陵」が推古天皇・竹田皇子の合葬陵墓に治定されています。




はじめは、この山のような所が古墳だと思っていました(笑)




推古天皇は最初の女性天皇として知られています。その摂政を務めたのが聖徳太子です。簡単に言えば、その頃のお話です。




すぐ隣には、奈良県最大の前方後円墳の丸山古墳が望めました。画面一杯の大きな古墳です。これは明らかに大王の古墳でしょう。




現在、後円部の所だけが畝傍陵墓参考地として宮内庁により管理されています。しかし、これこそが真の欽明天皇の陵墓と考えている学者も多いようです。




真夏の昼下がり、こんな所を歩いているもの好きは私一人だけでした(笑)




※訪問日 2021.8.2

「飛鳥の八角形古墳」の謎(中尾山古墳のこと)

2021-05-01 10:39:39 | 古代史の舞台を歩く
NHKの番組で「歴史探偵 飛鳥の八角形古墳」が放送されていました。
古墳好きの私としては興味深く視聴しました。
実は中尾山古墳は以前から興味がある古墳で、このブログにも何度か書いたことがあります。
ということで、今回は以前のブログ(2020.3.26)を再編集してみました。(手抜きではありません)

それでは歴史のお勉強をはじめましょう。


中尾山古墳は、なんの変哲も無い小さな小山のような古墳です。



円墳のように見えますが、実は八角形の古墳です。八角形ということは、天皇陵の可能性の高い古墳と考えられています。



石室の大きさからも、この古墳に葬られた人物は火葬骨を納めた墳墓と考えられ、火葬された天皇として持統天皇か文武天皇としぼられます。



研究者の間では、ここが真の文武天皇の墓というのが定説になっています。近くには宮内省が管理する文武天皇陵があるのですが‥。



もしここが真の文武天皇陵だとすれば宮内庁はどうするのでしょう。NHkも踏み込んだ番組を作ってくれました。



ところで、文武天皇とはどんな天皇でしょう。天武天皇の孫に当たり、大宝律令を作らせて施行したことで知られています。東大寺の大仏をつくったことで知られる聖武天皇は文武天皇の皇子です。



中尾山古墳からは、林ごしに高松塚古墳が望めます。高松塚古墳は壁画の発見で一躍有名になった古墳です。



中尾山古墳をあと、高松塚古墳に向かいました。自然が残された素敵な公園を歩きます。



高松塚古墳です。



女子群像は誰もが目にしたことがあると思います。この壁画ですが、保存のミスでカビが生えてしまいまし



整備されているので、きれいな円墳というのがわかりますが、発見当時は木や薮が茂る丘だったようで、村人がショウガを保存しようと穴を掘ったことが大発見につながりました。



発掘調査によって、藤原京期(694〜710)の間に造られたと確定されました。ということは被葬者は誰なのか興味が湧くところですが、特定されておらず、「天武天皇の皇子」「臣下」「朝鮮半島の王族」と、主に3つの説が考えられているようです。



古墳好きの私としては、天武天皇の皇子説が面白いなと思っています。天武天皇にはたくさんの王子がいましたが、高松塚の被葬者と考えられているのは、忍壁皇子・高市皇子・弓削皇子です。このうち有力なのが、忍壁皇子か高市皇子です。出土した被葬者の歯やあごの骨から40代から60代の人物と推測されるからです。



訪れた時は、公園にあるマンサクが花盛りでした。



この森のようなところが、宮内庁によって厳重に管理されている文武天皇陵です。



最後に天武・持統天皇陵を眺めました。ここは被葬者が確実な天皇陵です。もちろん八角形の古墳です。



天武・持統天皇といえば、藤原京を造営した天皇ですが、その藤原京から「聖なるライン」というのがあるそうです。藤原京から南に向かって真っ直ぐに線を引くと、その線上には、天武・持統天皇陵、中尾山古墳や高松塚古墳があるそうです。今回は行かなかったキトラ古墳もその線上にあるそうです。さらに北に伸ばして行くと、山科にある天智天皇に行き着くそうです。なんともロマンのある話ですね。

※訪問日 2020.3.9

道明寺あたりをぶらり(撮り鉄もしました)

2021-04-17 18:15:15 | 古代史の舞台を歩く
藤井寺市道明寺のあたりをぶらりとしました。
近鉄道明寺線に乗ったり、東高野街道を歩いて古墳や遺跡を巡ったりと、コンデジ片手に歩いてきました。


まずは、柏原駅から近鉄道明寺線に乗り鉄です。道明寺線は近鉄電車の中でももっとも歴史が古い路線です。開業当時は河陽鉄道でした。




柏原南口駅が見えてきました。単式ホームの駅です。




柏原南口駅を出ると大和川にかかる橋梁を渡ります。路線の歴史同様に近鉄で最古級の橋梁です。




出発した柏原駅から2.2キロで終点の道明寺駅に到着です。元々は道明寺線が先に出来たのですが、今はあとから出来た南大阪線が大きな顔をしています(笑)
このあたりの話は以前、「近鉄南大阪線がおもしろい」2015.12.18で書きました。




今回のぶらり旅で行きたかったのは河内国府跡ですが、その前に藤井寺の藤の花を見に行きました。(藤井寺の藤は次回にアップします)

藤井寺駅から土師ノ里駅にやって来ました。駅前は古墳だらけです。最近「世界遺産」になったようですが、変わったことといえば「世界遺産登録」の垂れ幕があったくらいでした。
土師ノ里駅前にある手前が鍋塚古墳とその向こうの大きいのが仲ツ山古墳(仲姫命陵古墳)です。この古墳も造られた年代と被葬者が合っていない古墳の一つです。




こちらは市の山古墳(允恭天皇陵古墳)です。今は厳重に守られていますが、江戸時代には綿畑に利用されていたそうです。この古墳の被葬者も?だそうです。




そして、やって来たのが踏切です。ではなく、「東高野街道」です。「東高野街道」も部分的に歩いていますが、まだ未完走です。




特急がやって来ました。「撮り鉄」もしなくてはならないので忙しいです(笑)




雰囲気のある街道を歩きます。




道明寺の地名にもなった道明寺です。




なかなか立派なお寺でした。




その隣には道明寺天満宮がありました。こちらも立派な神社でした。




再び先ほどの踏切に戻ってきて、次は国府遺跡をめざします。嬉しくなるような案内板です。長尾街道というのも古代の官道で、古くは「大津道」とも呼ばれ、堺の港から飛鳥の都をつないでいました。




住宅が建ち並んで昔の面影はありませんが、街道だけが歴史を語っています。この曲がり具合がなんとも魅力的です(笑)




市の山古墳(允恭天皇陵)の陪塚と国府八幡神社です。ここの地名は国府(こう)なので、この辺りが国府のあった所でしょうか。
国府とは奈良時代に各地に置かれた国庁のことです。国府は「こう」「こくふ」「こくぶ」などとして今も各地に地名として残っています。




志紀県主神社(河内国惣社)にやって来ました。今回の旅の目的地の河内国の国府跡です。




右の石碑に河内国府址と書かれていました。




志紀県主神社から少し離れた所にある国府遺跡(こういせき)です。




実は国府遺跡は旧石器時代の遺跡です。残念ながら国府としての施設の跡は発見されてないようですが、国府という地名や惣社などがあることから、ここに国府が置かれていたのは間違いないでしょう。




帰り道は大和川を渡って柏原駅まで歩きました。近鉄道明寺線が歴史のある橋梁を走ります。




実は今渡っている大和川は江戸時代に付け替えられた所です。昔は橋梁のあるあたりをまっすぐに左の方向に流れていました。




この辺りは大坂夏の陣の戦場でもありました。後藤又兵衛が討ち死にしたのもこの近くです。遠くには二上山や葛城山、金剛山も見えました。




久しぶりの街道歩きは、たくさんの歴史に触れることができて楽しかったです。

※訪問日 2021.4.12

平城宮跡を走る近鉄電車

2021-01-21 19:18:55 | 古代史の舞台を歩く
まずは歴史の復習から。
710年に平城京が誕生しました。今から1,311年前の話です。
平城宮はその中心となったところです。
794年に平安京に都が遷るまで、わずか84年の短い都でした。
聖武天皇や光明皇后、藤原仲麻呂、孝謙天皇(称徳天皇)、道鏡、長屋王などが活躍した時代です。
平安京への遷都後は田畑となって土の中に眠っていましたが、最近では整備が進んでいます。


朱雀大路から朱雀門を眺めます。まるで1,300年前にタイムスリップしたようです。




朱雀門の向こうには南門が見えます。南門は現在復元工事中です。南門の奥に大極殿の建物があるのですが見えません。




その朱雀門と南門の間を近鉄奈良線が走っています。




平城宮は世界遺産に登録されています。その世界遺産の平城宮跡の中を電車が堂々と走っていきます。




近鉄奈良線が開業した頃(大正3年)は、一面の田畑が広がっていたのでしょう。




朱雀門や大極殿は最近になって復元されたものです。




朱雀門の前を近鉄電車が頻繁に走ります。




西大寺駅の方から電車がやって来ました。カーブをしながら平城宮跡を横切っているのですが、遺跡に配慮された結果だそうです。




さすがに世界遺産の中を通るのは問題なのか、最近になってやっと線路の移設が話し合われたようです。




整備が進む平城宮跡ですが、その中を近鉄電車が走る風景もいずれは見られなくなるのでしょう。




平城宮跡からは遠くに若草山を望むことができます。若草山の山焼きも近いです。




平城京は唐の長安をモデルにしてつくられましたが、遣唐使たちはこんな船で大海に乗り出して行ったのですね。




奈良時代は短い時代でしたが、歴史として一番面白い時代だと思っています。




※訪問日 2021.1.15