はりさんの旅日記

気分は芭蕉か司馬遼太郎。時々、宮本常一。まあぼちぼちいこか。
     

そうだ京都でも行こう (真如堂)

2015-07-20 22:55:43 | 寺社めぐり
祇園祭の話題が続きましたが、またまた京都です。
京都には多くの寺社仏閣がありますが、まだまだ知らない寺社もたくさんあります。そんな寺社仏閣巡りの手引きとなっているのが、『京都の寺社505を歩く上・下』(山折哲雄監修、槇野修著 PHP新書)です。

今回は、「真如堂(しんにょどう)」を訪れました。正式には「真正極楽寺」というそうですが、一般的には「真如堂」で通っています。
丸太町通りから白川通りに入って北に向かうと、東側は大文字に続く山並み、西側は丘と谷がくりかえされる地形になっています。その一角に黒谷(くろだに)さんと呼ばれる金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)があり、その少し北に真如堂があります。白川通りからは坂を上って、階段を上がっていきます。
(東参道からお参りです)
(大文字山が見えます)
三連休の京都というのに静かなお寺です。「もみじの真如堂」と言われるように、境内はもみじでいっぱいです。ここも秋の寺でした。でも、夏の緑もいいものです。
(緑につつまれた静かな境内)
境内には端正な本堂や三重の塔もあり、木槿(ムクゲ)の花が咲いていました。
(本堂)
(ムクゲの花)
(三重塔)
京都の気温は35度でしたが、この一角だけは緑に包まれ、風が心地よく通り、本堂でもゆっくりとご本尊に手を合わせることが出来ました。

さあ、お腹もすいたので昼食にしましょう。丸太町通りに戻って、岡崎通りを南下すれば、ここは行列が出来る店が三軒も並んでいるのです。お目当ては「小宝」のオムライスでしたが、他に山本麺蔵、岡北など、うどん店がすごい行列になっていました。暑い中、ご苦労様です。
ところで、小宝のオムライスですが、ほんまにおいしいです。小でも十分ですが、大を食べている人がいて、その大きさと言ったら…。いつの間にかグルメ情報になってしまいましたね。
 (小宝のオムライス 小です)

祇園祭 つづきです

2015-07-19 11:31:37 | 京都をぶらり
台風11号が運んできた雨のおかげ?で、お出かけも出来ず、たくさん本を読むことができました
祇園祭の前祭巡航(17日)も雨の中、なんとか開催できたようで良かったですね。
祇園祭は7月1日から31日までの長い期間で行われます。24日には後祭巡航もあり、まだまだ京都の熱い(暑い)夏は続きます。

先日の宵々山で訪れた時の続きがありました。前回は書けなかったのですが、店先には「御神酒」の札が貼られています。これはお酒を奉納した印だそうで、三若社中という御輿巡行への寄付だそうです。祇園祭といえば、山鉾が思い浮かびますが、御輿の巡行も大切な神事ですね。


屋根の上の鍾馗さんのことは前回に書きましたが、自転車屋さんの屋根のうえにも自転車がありました。(当たり前ですか




山鉾巡行が前祭と後祭に分かれたのは去年からでした。(元々は、分かれて行われていたそうですが。)その2013年最後となった、一日で行われていた山鉾巡行を見たのが下の写真です。2014年からは、コースも変更になったので、この写真にあるコースは残念ながら通らなくなりました。








山鉾の先が目の前を通過していきました。蟷螂山(とうろうやま)のカマキリも上から見てしまいました。
「祇園祭 宵々山、宵山を楽しむ会」の仲間のマンションの7階から見た山鉾巡行でした。(2013.7.17)


ちょうど京都では、「大関ヶ原展」が京都文化博物館(~7.26まで)で開催されていました。「関ヶ原合戦図屏風」には以前から興味があったので見てきました。人物も一人ひとり緻密に描かれていて、想像していたよりもすばらしかったです。またまた、関ヶ原に対する歴史ロマンを強く持ちました。
現在進行中のベートウベン先生との中山道を歩く旅ですが、次はいよいよ関ヶ原です。「あの辺りには、石田の本陣があって、あの山から小早川の軍勢が駆け下りてきて…。」と妄想の関ヶ原になりそうです

祇園祭 宵々山に出かけました

2015-07-16 20:46:01 | 京都をぶらり
祇園祭は、千百年以上続く祭りで、日本を代表する祭りと言っても過言ではないでしょう。そんな祇園祭の宵々山に出かけてきました。
(四条通の長刀鉾)
祇園祭は、平安時代のはじめ頃、京の都に疫病が流行した時、神泉苑に66本の鉾を立てて祇園の神を迎えて祭り、祇園社の御輿を神泉苑に送って厄災の除去を祈ったことに由来しているそうです。昔は疫病が流行ったときは、神様か仏様に頼むしか術はなかったのでしょうね。
(新町通の放下鉾)
(放下鉾の胴掛)
(船鉾)

祇園祭が疫病の除去を祈った祭りというのは、先ほど書きましたが、各町内で粽(ちまき)が売られています。この粽は食べるちまきではなく、厄除けのちまきなのです。
(放下鉾の粽)
この粽は、八坂神社の主祭神である牛頭天王(ごずてんのう)に由来します。(スサノヲノミコトの話もあります)牛頭天王が旅をされたとき、一夜の宿を請うた時に、蘇民将来(そみんしょうらい)は厚くもてなしました。それを喜ばれた牛頭天王は、お礼に「今後、お前の子孫は末代まで私が護ってやろう。目印に腰に茅の輪をつけていなさい。」と言い残しました。そのおかげで、後に疫病が流行った時も、蘇民の一族は生き残り繁栄したということです。
そこから、「茅巻」と呼ばれるようになり、それが「粽」となって厄除けのお守りとなったそうです。
粽には「蘇民将来子孫也(そみんしょうらいのしそんなり)」という護符がつけられています。「私は蘇民将来の子孫です。だから、災いから護ってください。」という意味だそうです。
(民家の玄関にある粽)

疫病というのは、よほど恐ろしいものだったのでしょう。古い京町屋の屋根には「鍾馗(しょうき)さん」が居て、疫病が近寄らないように睨みをきかしていました。
(屋根の上の鍾馗さん)

夜になると、烏丸通りは歩行者天国になり、両側には夜店が並び、人また人であふれかえっていました。
鉾や山にも灯りがともされて、祭りも一段と盛り上がってきました。
(烏丸通りのにぎわい)
 (夜の孟宗山)
(夜の山伏山)

もうこうなると飲むしかありませんね。「いただきます。」


御池川と木地師の里のこと

2015-07-15 11:20:54 | 日記
先日、渓流釣りに訪れた滋賀県を流れる愛知川上流の御池川ですが、この川は木地師の里を流れてます。
小椋谷にある、蛭谷(ひるたに)や君ガ畑(きみがはた)が木地師の聖地といわれる所です。
(木地師の里 蛭谷)
木地師というのは、簡単に言ってしまえば、ロクロを用いて碗や盆などの木工品を加工、製造する人たちのことで、山に生きる人たちです。

木工品を作るためには、材料となる木材が必要です。木材は山にあるのですから、山に住みながら作業をします。しかし、しばらくすると周辺の木は無くなります。そうすると、他の場所(山)に移動しての作業となります。そうして次から次へと移動していくことになります。しかし、山といっても、当然その土地の持ち主がいるわけで、勝手に木を切ることができません。そこで、彼らが持っていたのが、朱雀天皇の綸旨(りんじ)や信長の免状などの“お墨付き”なのです。その“お墨付き”には、「諸国の山々に自由に入ることを許す」と書かれていたそうです。
それではなぜ、蛭谷や君ガ畑が聖地なのかというと、平安時代初め頃、惟喬(これたか)親王が、小椋谷に隠棲され、ロクロを発明されて、木器をひく技術を教えられたのが木地師のはじまりということだそうです。
その後、数百年かけて小椋谷にある神社が、氏子狩といって、全国各地に散らばっている木地師に“お墨付き”を与え(有料でしょう)氏子としていったそうです。木地師の方も、自分たちは惟喬親王にロクロを教えられた者の子孫であるという誇りを持っていたことでしょう。
こうして、小椋谷が木地師の聖地となっていったのです。
(ようこそ木地師のふる里へ 君ガ畑)

山にくらす人々のことについては、民俗学者の宮本常一さん『山に生きる人びと』(河出文庫)に詳しく書かれています。宮本常一さんといえば『忘れられた日本人』が有名ですが、日本中を歩いた民俗学者です。宮本常一さんのことはまた別の機会にお話しましょう。

御池川にも古い歴史があったんですね。そこの住む魚も木地師にとっては聖なる魚でしょうね。釣らなくて(釣れなくて)良かったです。
(木地師の里を流れる御池川)

古代史の舞台を歩く 箸墓古墳は卑弥呼の墓か!?

2015-07-13 20:11:06 | 古代史の舞台を歩く
国道169号線を、桜井から北側に進むと大神神社の大鳥居があり、さらに進むと右手に美しい古墳が見えてきます。これが箸墓(はしはか)古墳です。
箸墓古墳は、宮内庁が孝霊天皇の皇女ヤマトトトヒモモソヒメの墓として管理している、墳丘長が280メートルもある大きな前方後円墳です。
(箸墓古墳と三輪山)
この古墳が、あの「魏志倭人伝」に登場する卑弥呼の墓ではないかと考えられているのです。
そう考えているのは、古墳研究の第一人者、白石太一郎さんです。『天皇陵古墳を考える』(学生社 2012年)によると、 「「日本書紀」には、ヤマトトトヒモモソヒメが三輪山の神に仕えた巫女(みこ)であったことが書かれている。この巫女であったということから、卑弥呼ではないかと、考える学者もいたが、当時(大正時代)の古墳研究のレベルでは、箸墓古墳の造られた時期が不分明なため、仮説の域を出なかった。ところが、戦後の研究の成果によって箸墓古墳の造営年代が明らかになり、3世紀の中葉過ぎと考えられるようになってきた。卑弥呼は実在した人物であろうと考えられていて、没したのは247年と考えられる。それでも、造営年代と没年の間には、10年近くの差がある。しかし、大規模古墳造営に10年近くの年月を要したことを考えれば、ほぼ一致する。残念ながら、考古学では墓誌でも出ない限り確定はできない。ただ、これまでの話から、その蓋然性(がいぜんせい)は大きいと考える。」 と述べられています。
この古墳の中に卑弥呼が眠っているのかと考えると、遠い存在であった卑弥呼がぐっと近づいた感じがしませんか。

箸墓古墳の近くに巻向遺跡(まきむくいせき)があり、ここも最近の発掘調査などから、邪馬台国の遺跡ではないかと考えられている所です。そんなことを考えると、箸墓古墳が卑弥呼の墓である可能性は大きいですね。

(山の辺の道から見た箸墓古墳)
歴史のロマンを大いに感じさせる箸墓古墳のお話でした。

おまけです。箸墓古墳のすぐ前に、三輪そうめんの山本があります。おいしいそうめんが食べられますよ。(冬場はにゅうめんです。)少し離れた所にある池利もおいしいですよ。
(にゅうめんと柿の葉寿司 4.11)
(山本のすぐ前に箸墓古墳が見えます)