年間賞に伊尻さん
母への切なる思い込め
2017年に掲載された「はがき随筆」の年間賞に、出水市武本の伊尻清子さん(68)の作品「母の文章」(12月3日掲載)が決まった。また、はがき随筆など毎日新聞への投稿者でつくる毎日ペンクラブ鹿児島の会員が投票で決めるペンクラブグランプリに、鹿屋市新栄町の西尾フミ子さん(83)の「メリー」(10月24日掲載)が選ばれた。
【西貴晴】
ペンクラブグランプリに西尾さん
選評
例年のように、12本の月間賞から、まず別府柳子さんの、劣等感の強い性格や傷害などを乗り越えての現在を描いた「大変身」(1月)、塩田きぬ子さんの、孫の服の墨汁の汚れをご飯粒でとってやった内容の「ひらめき」(7月)、小村忍さんの、「モンシロチョウの宿と夢」(9月)、若宮庸成さんの半睡の意識のままで、米軍の北朝鮮爆撃からの帰路かのジェット機音に驚いた「疑心暗鬼」(11月)、伊尻清子さんの、偶然見つけた母の文章で、子供から見たのとは異なる母親像に驚いたという「母の文章」(12月)の5本を候補として選びました。
その中から「母の文章」を年間賞に選びました。「疑心暗鬼」の暗示する、現在の私たちにとって戦争の影のもつ不安は、非常に深刻なものだと考え最後まで迷いましたが、やや一般性に欠けるかとも考えました。その点で、「母の文章」が広く共感を得るかと考え、選びました。
鹿児島大学名誉教授 石田忠彦
自分史の意味込めて
伊尻清子さん
たまたま自宅の机の中から見つけた母の同窓会報の中に母の思いがけない文章が載っていた。いま93歳になる母だが、当時は現在の伊尻さんと同じ年。そこには年とともに腰が曲がり、徐々に歩けなくなっていく我が身を嘆く切々とした母の言が並んでいた。
母から愚痴を聞かされたことはない。母は勤めをやめてもシルバー人材センターで頑張っていた。今は寝たきりとなったが、四半世紀前の母はこんなつらい気持ちを胸に過ごしていたのか。「もっと大切にしてあげればよかった」という思いを込めて作品にした。
伊尻さん自身は7年前の東日本大震災の年に67歳だった夫をがんで失った。「病窓から」と題し、闘病中の夫のことを書いたのが最初の投稿。同じペンクラブの会員をはじめ、多くの読者に作品を読んでもらっていると思うことが支えになった。
「はがき随筆」というネーミングに魅せられ、今もはがきに定規でけい線を引いて作品をつくる。「その時々に自分が何を考えていたのか、自分史としての意味も込めてはがきに書き残していきたいのです」
「戦争」にこだわり
西尾フミ子さん
受賞作は戦争末期、空襲がひどくなって飼えなくなった愛犬との別れがテーマ。元々栃木県の出身だが、兄が鹿屋の航空隊に配属になり、母も一緒に鹿屋へ。兄は戦死したが、そのまま鹿屋に残った。以前から戦争にこだわった作品が多く、「体験したものが残しておくべきだ。忘れる事は罪だと思う」とその理由を語る。
1991年に鹿児島版ではがき随筆が始まったころかりの投稿ファン。57歳のころ、戦争で苦労した義母のことを書いた作品が初採用となった。10年後にペンクラブ鹿児島が発足したときからのメンバーでもある。「年に1.2本であっても書き続けていきたい」と意欲はやまない。
◆ 年間賞作品
ある時、母の文章を目にした。母は筆まめで、よく便りをくれた。達者な字で、いつも近況を添え私たちの健康や安全を気遣うものだった。
しかし、その文は違っていた。「足、足、足というほど足が痛く……」「走ってみたい」「誰か治療法知りませんか?」とある。25年前、同窓会の会報に寄せられたもの。その頃から腰が曲がり、つえをつき、ついには歩けなくなった。私は見守ることしかできなかった。
娘には言えなかった親の思い、苦しみが母の年になり深く骨身にしみる……静かに時雨が降り秋が行く。
◆ ペンクラブグランプリ
線路わきの草むらを必死に嗅ぎまわるメリーの姿に驚き、思わず声をかけようとして、母に厳しく止められた。
先の大戦末期、空襲が激しくなった街中では犬を飼うことが禁止された。その日私たちはメリーを預けた老夫婦宅を訪ね夢の再会を果たした帰りだった。
子犬のときに別れたのに覚えていた。じゃれついて片時も離れない。大好きなおやつには目もくれずはしゃぎまわっていたが、帰りの列車の時刻も迫り、気付かれぬようにそっと駅に向かったのだった。
列車の窓から小声でさよならしたメリーの思い出はせつない。