はがき随筆・鹿児島

はがき随筆ブログにようこそ!毎日新聞西部本社の各地方版に毎朝掲載される
「はがき随筆」は252文字のミニエッセイです。

一、二、三、四…

2006-12-19 00:07:04 | かごんま便り
 綺麗なクリスマスイルミネーションが飾られた街を歩けば、いつの間にか歳末商戦も加わっていた。元来がものぐさな性格で、公私とも積み残している事はたくさんある。
 それも期限が年内であることを考えると恐ろしくなり、つい現実逃避してしまう。逃亡中のドライブで立ち寄った霧島市牧園町の山中にある神社にさえ、早くも門松が飾られていた。何だか神様から「もうすぐ新年だぞ。やることはやれ。逃げるな」と告げられたようだ。すると「いち、に、さん、し……」と、数字を数えている自分に気づいた。
 数を数えると気分が落ち着く。十数年前に禅寺のお坊さんから教わった。「人間出来る事は限られています。少しずつ。一、二、三、四……と数えると平常心になりますよ」
 試してみると、なるほど効果があった。私の性分に合っているような気がした。以来、どれから片付けるかなどを考える前に数を数えている。
 江戸時代後期の子供好きの僧、良寛は数字を盛り込んだ歌を残している。持ち物は頭巾、鼻紙、手ぬぐい、扇、手鞠だったという。
 その歌…
 袖裏の毬子値千金 
 謂言(おもえら)く好手にして等匹なしと 
 可中の意旨を若(も)し相問わば 
 一二三四五六七
 意味は「袖の中の手鞠は高い値打ちがある。私は毬つきの名人である。その極意を尋ねられたらこう答えよう。ひい、ふう、みい、よ、い、むう、な」。
 数を数えながら毬をつく。無心について極意を会得するしかないのであろう。最初から上手な人はいない。あわてず、少しずつ。私がお坊さんから教わった「数を数えて平常心になる」に何かつながるものだと解釈している。
 目を閉じて深呼吸しながら数を数え、落ち着いたところで仕事に取り掛かる。数は10までがいいようた。数えすぎると眠くなる。
 一、二、三、四、五……。さあ、今年も皆さんと一緒に年の瀬を乗り切ります。
  ◇   ◇   ◇   ◇    ◇
 ほとんどルールを守って「はがき随筆」に投稿していただいています。しかし、中には字数などを守らず書きっ放しで、自分の作品は月1回は必ず掲載されると勘違いされている人もいらっしゃいます。投稿者が増え、その分、以前より掲載のサイクルが異なっています。皆さんの欄です。よろしくお願いします。
   毎日新聞 鹿児島支局長 竹本啓自 2006/12/18 掲載

錦江湾のイルカ

2006-11-27 23:39:15 | かごんま便り
 鹿児島市から姶良町に向かう海岸線沿いの国道10号。天気が良く、景色も素晴らしい眺めだった。気持ちよく車を運転していると、錦江湾をクロールで泳ぐような姿が見えた。黒色のウエットスーツを着た太い腕で、恐ろしいほど早いスピードで泳いでいる。
 その正体は何だろう。注意して見ると2頭のイルカが並んで泳いでいた。交互に水面に現れる姿が、遠目からはクロールで力強く水をかく腕に見えたのだった。
 かごしま水族館に尋ねてみると、私が見たのはミナミハンドウイルカらしく湾内には約50頭生息しているという。さらに、湾口付近には多数のハセイルカが出入りしていると説明してくれた。
 ついでに以前、この水族館で見た全身に斑点のような模様があるイルカのことも聞いてみた。と、さすがに「多分、ハンドウイルカのクーのことでしょう」と話してくれた。
 色が黒いから「クー」の名前で呼ばれ、体長2.5㍍、体重258㌔のメス。イルカもそれぞれ性格がある、クーはやんちゃ、おてんばという。斑点の数は100近くあり、これはダルマザメが食らいつき、肉をえぐった跡だった。
 調べたら小型のサメで体長は約50㌢。夜になると深海から浅い海域に上がって来る。その姿がイカに似ているそうで、間違って近寄ったイルカに鋭い歯でかみつくそうだ。
 イルカは歯クジラ類の小型種の総称で、古くから人との関係も深い。イルカ、クジラを対象にした「鯨魚(イサナ)取り」は「海」の枕言葉として使われている。
 万葉集に「鯨魚取り 海や死にする 山や死にする 死ぬれこそ 海は潮干(ひ)て 山は枯れすれ」の歌がある。海は死にますか、山は死にますか、死ぬからこそ、海は潮が干いて、山は枯れるのです。
 さだまさしさんの「防人の詩」には「海は死にますか 山は死にますか 風はどうですか 空もそうですか」などの部分があり、万葉集の歌を踏まえて作詞したに違いない。
 鹿児島には、わざわざボートを出してイルカウオッチングに乗り出さなくても、運がよければ錦江湾の岸からイルカが見られる環境がある。しかし「観察するぞ」と、意気込んで眺めてもなかなか姿を現さない。関心がないように思わせ、何気なく見つける方がいいようだ。この気持ちで3回ほど成功した。
   毎日新聞鹿児島支局長 竹本啓自 2006/11/27 掲載
写真はkoba-tanさんよりお借りした「ミナミハンドウイルカ」です。

入院

2006-11-20 22:57:32 | かごんま便り
 胸の検査をしていた医師の表情が急に厳しくなった。「今日は、ご家族の誰かと一緒ですか」の問いに「家族は福岡で、鹿児島は単身赴任です」と答えながら、「こりゃ大変な事になったかも」と思った。
 深夜から続いた初めて経験する胸の痛み。冷や汗、嘔吐感、痛みは歯茎へも広がった。夜が明け近くの内科へ行ったら即、循環器専門の病院を紹介された。診断結果は急性心筋梗塞。集中治療室へ運ばれた。
 主治医は福岡の自宅に電話してくれ、「現在は安定しているが危ない状態です」「病院に(生きて)来られたこと自体がラッキーでした」などと説明したという。家族も突然の電話に驚いたらしい。
 こちらは腕には点滴のチューブ、ベッドで絶対安静状態。後から聞いて、そんなに危険な状態だったのかと知った。歩いて来院したことに医師はあきれた様子で「救急車は考えなかったのですか」とも言った。
 数日間はベッド上で〝座って半畳、寝て一畳〟の生活。医療機器に囲まれて、寝るか座るかしか動けなかった。胸の痛みが取れたら、活字を読みたいという気持ちに駆られた。新聞や本は多分許されないだろう。尋ねるのもはばかられた。あちこち見回すと小さな文字が目に付いた。
 点滴を一定量流す機器の側面に点滴のチューブのセット方法が書いてあった。「①チューブクランプを解除する②強く押し込む③チューブガイドの奥までしっかり入れる④チューブを軽く引きながらまっすぐに⑤ドアを閉める※正しくセットされないとドアが閉まりにくいことがあります」とあった。
 決して自分ではチューブをセットしたり、扱うことはない医療機器だが、何回も繰り返し読んだので暗記してしまった。体調が安定してから足の付け根の血管からカテーテルを入れての検査、そして手首からカテーテルを入れて詰まっている心臓の血管を膨らませる治療をしてもらった。
 入院から退院まで約3週間。今、少しずつ体を慣らしている。まさか、48歳で心筋梗塞になるとは思ってもいなかった。しかし、私より若い30代の人も入院していたし、40代で運ばれる人も多いという。
 少し寂しいが「もう若くはないぞ」と体が音を上げ、警告してくれたのだろう。私もそんな時期を迎えた。
   毎日新聞鹿児島支局長 竹本啓自(2006/11/20 掲載)

秋の夜長

2006-10-02 16:19:55 | かごんま便り
 どれどれ、もう一度。読み慣れない古典の最終章を読み返した。江戸時代前期の俳諧師、浮世草紙作家の井原西鶴「好色五人女」の5話目は鹿児島が舞台だった。当時の町人の心情を描いた「日本永代蔵」が面白く、西鶴の別の作品をと偶然手にしたのが「好色五人女」だった。
 女性ばかりの話だと思っていたが、鹿児島の話は男が主人公。長年愛した美少年が死に、高野山に修行に行く途中に出会った若者にも死なれた男。鹿児島に帰り、世捨て人のような生活をするが、女性に見初められて一緒になる。最後には女性の実家で財産を受け継いだという話。
 文中に「さつまがた浜の町」と出ている。現在、支局がある小川町の近くが舞台の話でもあった。好色五人女はモデルになる話があったそうだ。西鶴は大阪を中心に活躍した人。どのようにして遠く離れた鹿児島の話を仕入れたのだろう。
 福岡県嘉麻市上臼井に「皿屋敷跡」がある。あの「いちまーい、にまーい、…きゅうま-い」の怪談話の発祥の地という。しかし「播州皿屋敷」「番長皿屋敷」として知られている。
 奉公先の皿を割って死んだ女性の許嫁が、魂を慰めるために四国巡礼の旅の途中、播州(岡山県)の旅館に宿泊。哀れな女性の話を聞いた旅館の主人が芝生で興行させたところ、播州であった話のように広まったもの、と説明されている。
 もっと、調べたところ全国各地に皿屋敷伝説があった。女性の名も、お気句、おまさ、お花、お千代など。似たような話が各地にあったのかも知れない。
 当時は各地からあらゆる物資が集まる場所が上方だった。そのゆうな物を運んでくる人たち、商人らが諸国話をし、あるいは伝え、西鶴も又聞きしたのだろう。
 それにしても、4話までは悲惨な結末だったが、鹿児島の話は「めでたし、めでたし」で終わっている。しかし、解説を読むと最終章がハッピーエンドなのは祝儀性を強くする西鶴の傾向とある。また「中興世話話早見年代記」には「寛文三卯 さつま源兵衛お万心中」とあり、実際は悲話であったらしい。
 秋の夜長。何げなく読んだ古典が鹿児島に関係し、しかも支局近辺であった話。仕事柄、西鶴がどにように取材をしたのかまで想像し、つい夜更かししてしまった。
   毎日新聞鹿児島支局長 竹本啓自 2006/10/3 掲載

色づかない葉

2006-09-18 17:29:51 | かごんま便り
 鹿児島に赴任して1年になる。住み始めてすぐ秋から冬を体験し、そこで不思議な光景に気づいた。以前から市街地に住んでいる人は毎年見慣れているであろうが、県外から来た私としては珍しく、興味をひかれる自然現象だった。
 それは街路樹などが、完全に色づかないまま散っていることである。イチョウの葉は、ほんの少し黄色くなるか、あるいは緑のまま地面に落ちていた。秋から冬へ。葉に色の変化を見せながら、名残惜しそうに散る葉に風情を感じるものだが……。
 紅葉に心情を重ねた歌で、私が印象深く思うのが藤原為家(鎌倉時代中期)の「くちなしの一しお染のうす紅葉いはでの山はさぞしぐるらん」だ。
 「くちなし」は、「口に出さない」、「言わで」は「いわずして」にかけてある。クチナシの実から取った染料の一入(ひとしお)染めの淡い色で山は染まった。忍ぶ恋心とまがう時雨のせいで。
 移りゆく季節を少しずつ色づく葉でとらえ、じっと我慢した恋心を詠み込んでいる。為家も鹿児島にいたのなら、こんな歌はとてもつくれないだろう。
 鹿児島の葉は、色づくよりも前に潔くパッと散ってしまう。人が心情を重ね合わせる時間がない。葉っぱからして、どうせ散るのだから「ぎをいうな(理屈、文句を言うな)」だ。錦江町の神川大滝公園を訪ねた時も地元の人から「この辺のカエデは、色づかないうちに散ってしまう」と聞いた。
 なぜ、紅葉しないまま散るのだろうか。フラワーパークかごしま(指宿市)に尋ねたら「昼と夜の温度差、寒暖の差が激しいと綺麗に色づく」のだそうだ。市街地は温度が高いのでそんなに寒くはならない。神川大滝公園は夏でも涼しいから寒暖の差は激しくない。これで納得した。
 ちなみに綺麗に色づく場所の1つは「霧島です」と教えてくれた。ならば、少し早いかなと思いつつ、霧島へ車を走らせた。霧島神宮周辺のカエデは、まだ緑色だった。日光があたって、きれいな葉脈が観察できた。
 ここで目立つカエデを見つけ、自分なりの「指示植物」にした。どんな色になるのか通う楽しみにもなる。自然をめでながら、ゆっくりとくつろぐ時間。今の時代、多くの人が忘れている最もぜいたくな過ごし方と言えると思う。
   毎日新聞鹿児島支局長 竹本啓自 2006/9/18 掲載

桜島探訪

2006-08-28 15:34:28 | かごんま便り
 桜島の表情が面白く、時間を見つけては車で島を周回している。特に島の北川と南側の表情の違いに興味をひかれる。今の季節、北側は緑が多い山の姿。南側はごつごつとした溶岩が海まで流れ込んだ跡があり、荒々しい火山の姿になる。
 車で周回するうちに「かまぼこ形」のコンクリート建造物があるのに気づいた。運転しているので、ほんの一瞬見えるだけだが、通過する度に気になる。
 フェリー乗り場でもらった観光案内図には記載されていない。調べてみたら、戦時中の「特攻艇倉庫」らしい。桜島に特攻艇が配備されていたのだろうか。が、梅崎春生さんの小説「桜島」にそんなくだりがあることを思い出した。
 読み直すと確かに「桜島には、震洋がもう来てるかね」の会話部分があった。ボートに爆薬を搭載した特攻艇「震洋」である。
 こうなったら、今回は歩いて現地まで行き確かめるとにした。フェリー乗り場から赤生原方面へ。車ではわずかな距離だと思っても、歩くとけっこう時間がかかる。この辺だろうと検討を付けた場所に目標物はない。
 通りがかりの年配の女性に聞いたら「この山の上に海軍の基地があった。この先の学校の子どもが海岸で石拾いしていたらアメリカの飛行機の機銃掃射で4人が死んだ。基地から銃を撃つけれど当たらなかった」などと話してくれた。特攻艇の倉庫については「防空壕は知っとるけど、倉庫は知らない」と言う。
さらに進むと桜洲小学校があった。さっきの話の中で、犠牲になった子どもたちが通っていた学校だったかもしれない。その先に目指す建物があった。近づいてみるとかなり古い。近くの男性に聞いたら間違いなく「特攻艇倉庫」だった。いまでも民間の倉庫として使われているそうだ。
 小説「桜島」には、終戦直前に見張りの兵がグラマンの機銃掃射を受けて死に、それに絡めてツクツクボウシが印象深く書かれている。私は15日を過ぎて赴いたが、まだクマゼミとアブラゼミが激しく鳴いていた。
 気がかりな建物の正体が分かった喜びよりも、今でもひっそりと建つ特攻艇倉庫と、子どもが犠牲になった忘れられない思い出を初対面の私に話してくれた女性との出合い。何とも言えない気持ちが交錯した。
   毎日新聞鹿児島支局長 竹本啓自 (2006/8/28日掲載)

童心に帰って

2006-08-15 11:22:00 | かごんま便り
 うだるような暑さが続く。朝からセミのせわしない鳴き声が、今日も暑くなるぞと告げているようで、体感温度も一気に高まる。
 ふと考えた。子どもの時は、暑さに平気だった。むしろ、わくわくしながら外を歩き回っていた。そこで、子どもの時に遊んだ事を今、試したらどうだろう。暑さを忘れる事が出来るかも知れない、と思い実行してみた。
 その一つが、セミの幼虫から成虫になる様子を観察することである。昼間、支局の近くを歩きながら、地面にセミの幼虫が出てきた穴がたくさんある場所を見つけた。
 夕方、ペットボトルに水を入れて穴の周辺にまいた。どうして水をまくのか知らないが、そうした方が「早く幼虫が出てくる」と言われていた。
 多分、暑い土に水をまくと土が冷える。すると土中の幼虫が、夜が来たと勘違いして、早く土から出てくるのであろう。ここまでやっておいて夜7時ごろ、再び現地に行った。すると1匹の幼虫が高さ約1・5㍍の木の枝の所で脱皮を始めていた。
 支局員も脱皮するところは誰も見たことはないと言う。本来なら、幼虫を持ち帰って支局員に自慢したかったが、すでに背中が割れて脱皮を始めていたので1人で観察した。幼虫の腹の中央を見ると小さな突起があるのでクマゼミである。
 ゆっくり、反るようにして脱皮し、縮れた羽が次第に張るのを待った。この間、約2時間。蝉は薄い緑色。まだ全身が柔らかい。虫かごにそっと入れ、支局に持ち帰った。この色と姿だけでも珍しがられた。 抜け殻の体長は約3・5㌢、これから約5㌢の成虫が誕生した。味方によってはグロテスクな幼虫。これが流線型の成虫になる生命の神秘。大人になっても感動、しばし暑さを忘れる時間だった。
 セミを見たせいか寝る時に紀友則(平安時代の歌人)の「蝉の羽の夜の衣は薄けれど写り香濃くも匂ひぬるかな」が浮かんだ。借りた夜の衣は薄かったですが、移り香は濃かったですよ。多分、女性の香りだろう。色っぽい歌だが、私は毛布さえ必要のない暑い夜だった。
 網戸の外に止まらせておいたセミは朝、姿を消していた。これから短い命を懸命に生きるに違いない。脱皮の過程を写真に撮り、観察すれば夏休みの宿題に最適だと思う。
   毎日新聞 鹿児島支局長 竹本啓自 2006/8/15 掲載

最先端の地

2006-07-31 17:18:34 | かごんま便り
 薩摩藩が幕末に鋳造した大砲「150ポンド砲」が復元され、仙厳園に展示された。その大きさ、重厚さ、迫力に圧倒される。長さ約8㍍の木製台車に重量約4・5㍍、重量約8・3㌧の砲身が載っている。当時、日本最大級だったそうだ。
 その姿は復元で見ることが出来た。次は大砲を撃ったらどんな音がするのか興味がわき、「空砲でもいいから撃てませんか」と仙厳園に尋ねた。「それは無理ですよ」との答えだった。
 説明によると大砲は150ポンド(約68㌔)の弾丸を飛ばす能力があり、射程距離は3㌔。さらに1㌔先の4㌔まで空気振動の影響があるそうだ。だから火薬を爆発させるだけで、空気の衝撃波が対岸の桜島まで伝わり、民家の窓ガラスが壊れる可能性があるという。
 鹿児島には祇園洲や天保山などに砲台跡が残っている。大小の大砲が海に向かって備えてあった。薩英戦争(1863年)の時には、150ポンド砲2門をはじめとする大砲が使われた。それほどの威力だから、担当した兵は、耳栓が必需品だったに違いない。英国軍艦も薩摩側も、ありったけの弾丸を撃ち合ったのだろう。
 というのも、私が以前に住んでいた熊本県植木町には、西南の役(1877年)の激戦地・田原坂がある。ここでは薩軍と官軍が一日当たり最多で計32万発の銃弾を使った。
 鹿児島市の私学校跡の石塀には弾痕が残っているが、田原坂には無数の銃弾が壁に埋まっている「弾痕の家」が復元してある。また田原坂資料館には、両軍が撃った弾丸が飛び交う空中で衝突してくっついた「かち合い玉」が展示してある。
 両軍とももっているだけの弾を激しく撃ち合っていることから、薩英戦争の際にも薩軍は備えていた砲弾を惜しげもなく使ったのではないかと思われる。
 幕末の薩摩は、西洋で出版された専門書を翻訳して優良な鉄を生産するための反射炉を造った。それから最大級の大砲が生まれた。国内でも科学の最先端の土地だった。
 ガス灯が磯の別邸内についたのが1857年。ところが、ガス灯の発祥の地とされているのは横浜市である。会社組織で1872年に設置された。薩摩が15年早く、発祥と言えるのでは。県外から来た私は、もっと全国にPRしてもいいと思うものが鹿児島にはたくさんあると思う。
   毎日新聞鹿児島支局長 竹本啓自  毎日新聞鹿児島版 2006/7/31 掲載より

仏の空間

2006-07-04 16:59:25 | かごんま便り
 自然と心が落ち着いてくる場所だった。川辺町にある「清水磨崖仏群(きよみずまがいぶつぐん)」。清水川右岸の高さ約20㍍、長さ約400㍍の岸壁に平安時代の間、仏像や五輪塔、梵字、宝篋印塔(ほうきょういんとう)などが刻んである。その数、約200基という。
 川のせせらぎだけが聞こえる空間で一基、一基を眺めた。長い年月で摩耗が激しいものもある。先に彫られた仏を消さずに離して彫ってあった。山奥だからこそ、平安時代からの空間がそのまま残っているのだろうが、この地を訪れて、磨崖仏を彫るとは並大抵ではない。
 驚いたのは、鎌倉地代中期の「月輪大梵字」。これは1264年に英彦山の僧侶が彫ったとする記録があるという。英彦山は福岡、大分県にまたがっている。以前、私が赴任していた管内にあった。
 修験道で有名な急峻な山である。英彦山神宮の参道は急な石段で、沿道には歴史を感じさせる山伏の家の跡などが連なっているのを思い出した。その英彦山から、川辺町まで徒歩で来て、さらに岸壁に彫るエネルギー。ものぐさな私には、とても理解することはできない。僧侶が彫った文字は梵字の5文字。現在は3文字だけが残っているという。
 もらったパンフレットによると「彫られた前年に月食がおこり、彫られた年に史上最大の巨大彗星が接近していた。不吉な前兆と考えられていたことから、薬師如来を中心とする仏の力で封じ込めようとしたのではないかと言われている」と説明してあった。
 この僧侶は世の安寧を願う一心で、薩摩半島の山中まで遠路はるばる彫りに来たとも言える。幾多の人たちが、それぞれの思いで彫った磨崖仏群。時代が変わっても、気持ちはそのまま伝わって来る空間だった。
 雨上がりの平日だったせいか、私の他に訪れている人の姿はなかった。磨崖仏群から駐車場まで続く小道沿いにはヤマモミジが植えられている。雨に洗われた幼葉の新緑が美しい。ウグイスの声も聞こえた。これも幼く練習中なのだろう。「ホーケキョイ」と中途半端だ。ほほ笑ましくなり、「がんばれよ」と言いたくなった。
 毎日のように社会面に掲載される悲惨な事件、金がらみの事件、保身に走る立場ある者の記事の数々。私にとって、ともすれば殺伐とした気持ちを落ち着かせる仏の群れだった。
   毎日新聞鹿児島支局長 竹本啓自 2006/7/3 掲載

火の島

2006-06-27 13:22:21 | かごんま便り
 噴火活動が活発化している桜島。県外から来た私は「これは大変だ」と、気象台の情報が気になる。
 だが、「これくらいは、まだまだ。ドーンと響く音で窓がガタガタしなきゃ」
 「昼間も降灰で暗くなる。煙の中に稲光のようなものが見える。せっかく鹿児島に来たのだから、あんたにも見せたいね」
 「夜は火が上がって、そりゃきれいよ」
 私が聞いた鹿児島に住んでる人たち感想だ。今の段階では、何てことないらしい。
 桜島の人も「怖くはないですか」の質問に「うちんとこは大丈夫。それより噴火の前に海岸に魚が打ち上げられて、拾いに行ったのよ」と、気象台が噴火を発見する前に地元に現れた異常を話してくれた。
 私も海辺育ち。魚が浜に打ち上げられるのは、台風の後としか知らない。やはり噴火となると、自然界の磁場のようなものがおかしくなり魚が異常な行動をするのであろう。
 噴火が活発化してからより桜島を注視するようにしているが、天気の日でも島の上空はぼんやりとしている。桜島の全容がなかなか観察できないのなら、せめて近くに行ってみようとフェリーで島に渡った。
 周辺を回り、噴煙の写真を撮ったが、空がすっきりしていなくて狙い通りにはいかなかった。時間が余ったのでフェリー乗り場近くを散策、月読神社に行ってみた。
 この神社の創建は和銅年間(708~715年)と伝えられている。祭神は月読命。社殿が新しいのは、噴火で移転しているからだそうだ。木花之佐久夜毘売(このはなさくやびめ)も祭ってあると聞き「火と関係しているな」と思った。
 古事記に、迩々芸能命(ににぎのみこと)にお腹の子は我が子ではないと疑われた木花之佐久夜毘売が「あなたの子なら何事も起こらないでしょう」と、出産する時に、殿の中に入って回りを土で塗り固め、殿に火を付けてその中で子を産んだという記述がある。この子が火照(ほでり)命(海幸彦)だ。
 桜島の名の由来は諸説ある。その一つがコノハナサクヤビメから「サクヤ島」、「サクラ島」になったがある。活動する火山に、歴史ある神社。古人(いにしえびと)の島に寄せる思いをかいま見た感じがした。
 新火口は拡大したという。地元の人は「まだ大丈夫」というが、私としては早く沈静化してほしい。
   毎日新聞鹿児島支局長 竹本啓自 2006/6/26 掲載

小腹を減らして

2006-06-12 17:14:11 | かごんま便り
 発祥の地は広島県呉市か、京都府舞鶴市か。鹿児島市の多賀山公園に建つ東郷平八郎元帥の銅像を眺めて、肉じゃがの発祥地論争を思い出した。
 最初に「肉じゃが」を作らせたのは、東郷さんだという。英国に留学中にビーフシチューの味を気に入り、帰国してからも忘れられない。艦上食として食べようと作らせたがデミグラソースなどは日本にはない。料理長は醤油、砂糖で味付けし、完成したのがビーフシチューとは全く異なる「肉じゃが」だったそうだ。
 これが結構、おいしく軍隊食となった。「海軍厨業管理教科書」(1938年)には、材料=生牛肉、蒟蒻、玉葱、胡麻油、砂糖、醤油。①油入れ送気②3分後生牛肉入れ③7分後砂糖入れ④10分後醤油入れ⑤14分後蒟蒻、馬鈴薯入れ⑥31分後玉葱入れ⑦34分後終了。醤油を早くいれると味を悪くすることがある。計35分と見積もれば充分――とある。
 東郷さんが初めて司令長官として赴任したのが舞鶴鎮守府だから、発祥の地は舞鶴市だ。いや、それより10年前、呉鎮守府の参謀長だったから呉市の方で先に作られた、とするのが両市の主張だ。肉を焼いて、砂糖を絡ませて調理する発想は日本独特のものだろう。
 さて呉市と舞鶴市のどちらが先か。そんな論争には我関せずといった表情の東郷元帥像は、口元を引き締め、海を見下ろしている。インスタントがハバをきかせているいる時代。発祥地よりも、各家庭の味付けをした「おふくろの味」の肉じゃがが大切なのかもしれない。
 銅像を離れて祇園之洲町にはザビエル上陸記念碑がある。この時にクロープなどの香辛料を持ち込んだという。アントニオ・ゴメス神父にあてた手紙にも「それで神父を乗せて来る船には胡椒をあまり積み込まないで、多くても80バレルまでにしなさい」とあるそうだ。日本には胡椒がなく、たくさん持って来ると価値が下がるということだろう。
 肉食の西洋は、香辛料を求めて海外に競って乗り出し、その貿易により富を追求した面がある。だからザビエル上陸記念碑の横に「香辛料伝来の地」みたいな碑もあっていいんじゃない、と勝手に考えた。
 普通に伝わっている先人の業績よりも、今回は〝食〟の方を考えてしまったのは、小腹を減らして歩き回ったからに違いない。
   毎日新聞 鹿児島支局長 竹本啓自 2006/6/12 掲載

猫時計

2006-06-05 19:52:22 | かごんま便り
 道を歩いていて猫に出くわすと、目を合わせるようになった。愛の視線を送っているのではない。ただ観察したいだけなのだが。
 警戒心を持たせないように、ゆっくり近づくけれども、猫の方は「眼を付けている不審な人間が来た」と思うのだろう。すぐ逃げだし、距離を置いたらチラリと振り返り姿を消してしまう。
 仙厳園に「猫神祠」がある。祭神は朝鮮出兵・文禄の役(1592~93年)に参戦した島津義弘公が連れていった猫。猫の瞳孔の開き具合を見て、時間を知るために従軍させたという。なるほど、猫の瞳孔は光の強弱で変わるとは知っていたが、これを時計代わりにしていたとは驚く。
 ネジを巻かなくても、餌を与えて健康に気をつけていれば便利だろうが、曇りや雨の日はどうなのだろう。猫を飼っていないので、せめて晴れの日に外で見かけた猫の瞳孔を観察しようとしているが、信頼関係がないから困難だ。
 そこで調べてみると「六つ丸く五七卵に四つ八つは柿の核なり九つは針」「六つ丸く四八瓜さね五と七と卵なりにて九つは針」の古い数え歌のようなものがあった。「六つ丸く」「九つは針」が共通している。
 「六つ」は明け六つ、暮れ六つのことで午前6時と午後6時。猫の瞳孔は丸い。「九つ」は正午と午前零時。瞳孔は針のように細くなる意味だ。光の無い夜中も細い垂直になるとは思えないので日が出ている間だけの歌かもしれない。
 中国・唐時代にも、猫と瞳孔の関係が書かれた文献があり、また中国で布教したフランス人宣教師も子供に時間を尋ねたところ、猫を連れてきて目を見せ、時間を知らせてくれて驚いたことを記したものがあるという。
 こうなつてくると、私も仕事柄、ますます猫の瞳孔の変化を観察したい気になり、猫に視線を送るようになった。今後、目を開けた猫の絵を見る機会がある度に、瞳孔を注視して何時ごろに描かれた絵かを推測するようにもなるだろう。
 従軍した猫は7匹で、5匹が戦死した。猫が時を知る兵器の役割を担っていた時代もあったのだった。毎年6月10日、「時の記念日」に鹿児島市時計金属眼鏡商組合の人たちが「猫神祠」にお参りをして慰霊し、全国の愛猫者による供養祭と長寿祈願祭(今年は11日)が開かれるという。
   毎日新聞鹿児島支局長 竹本啓自2006/6/5 掲載

ミステリー2

2006-05-22 18:50:02 | かごんま便り
 前回(15日)に続いて、歌に暗号が秘められているという説の後半を紹介します。
  ◇いろは歌◇
 いろはにほへと
 ちりぬるをわか 
 よたれそつねな
 らむうゐのおく
 やまけふこえて
 あさきゆめみし
 ゑひもせす
 下の文字を拾って読むと「咎(とが・罪)なくて死す」と読める。
 歌の意味が通じる七・五調ではなく、7文字ずつに区切ってある。古文書にも7文字ずつ区切って書いてあり、それが慣例となっていたらしい。そうしないと、この暗号がわからなくなってしまうからだろう。
 いろは歌を作ったのは弘法大師などの諸説がある。しかし、この道の研究者の探求心には驚く。三十六歌仙で生没年不詳の伝説的な人物、猿丸大夫の歌に焦点を当てた。
 奥山丹黄葉踏(おくやまにもみじふみ)
 別鳴鹿之音聆(わけなくしかのこえきく)
 時曾秋者金敷(ときぞあきはかなしき)
 「黄葉」は色づく葉。つまり「いろは」。これをキーワードにして歌を分解すると「黄葉踏之音聆者金敷(いろはふみのこえきくはかなしき)」となり、「いろは歌」の秘密を暗示していると言う。しかも分解した中心に「鹿黄之者音(かきのものおと)」があり、「柿本人麻呂」だと推理している。
 柿本人麻呂も三十六歌仙の1人で、生没年不明。石見国で客死、あるいは刑死したとされる。刑死と考えるならば、歌が上手だった人麻呂のこと。「いろは歌」に「えん罪だ」とする暗号を込める事も出来るだろう。
 ◇結 論◇
 私自身、高校時代の日本史教科書に「仮名手本忠臣蔵」と、不思議な名の浄瑠璃が掲載されていた。江戸時代、実名による作劇は幕府批判に通じるとして禁止されたという。だから史実の赤穂事件を「太平記」の時代に移し、登場人物の名も変えて作られたとされる。
 なぜ批判になるのかと疑問だった。教科書や参考書にも説明がない。ところが、暗号説を知り、江戸時代に仮名を習う際の手本は「いろは歌」。当時は歌に秘められた暗号「罪がなくて死す」が広く知られていたのではないか。「仮名手本忠臣蔵」は「赤穂義士は罪がなく刑死になった」と言う意味となり、幕府批判になるのだと、私なりに解釈した。
 講演した内容を2回に渡って紹介しました。広く認められていない説ですが話の種にはなると思います。少し早い夏のミステリーとしてお届けします。
   毎日新聞鹿児島支局長 竹本啓自 2006/5/22 掲載

 

ミステリー1

2006-05-15 22:11:51 | かごんま便り
 鹿児島に着任して、あちこちで講演する機会を得ている。ある会場で「テーマは何でもいいですから」の依頼に、思い切って学界からの支持はほとんどない「歌に秘められた暗号」なるものをテーマに話した。
 十数年前に、その不思議な説を知り、一概に否定は出来ない内容だと思った。以来、機会ある度にその事について書かれた本に触れ、自分なりに読み知った内容をしゃべったところ、会場の皆さんも関心を持たれたようだった。今回は、その説をこのコーナーでも紹介したい。
 ◇前置き◇
 和歌や俳句などの区切れの部分の文字を拾って意味を持たせたのが「折句」。例えば伊勢物語にある歌。
 からころも
 きつつなれにし
 つましあれば
 はるばるきぬる
 たびをしぞおもふ
 上の1字を拾って読めば「かきつばた」と花の名前が出てくる。
 次に徒然草の吉田兼好法師が、親友の頓阿法師に送った歌。
 世にも涼し
 寝覚めの仮庵
 手枕も
 眞袖も秋に
 隔てなき風
 同じように上の文字を拾うと「米賜へ」。下には「銭も欲し」。
 頓阿法師の返歌。
 夜も憂し
 ねたく我が背子
 はては来ず
 なほざりにだに
 しばしとひませ
 上に「米は無し」、下に「銭少し」の言葉が折り込まれている。兼好法師も生活に困っていたようで、親友も助けたいが事情がある。それを歌を通して連絡し合うとは、大らかで気持ちには余裕がある。
 上の部分に読み込むことを「冠(かんむり)。下の部分は「沓くつ)」と言う。
 ◇本 題◇
 ここからが不思議な説で皆さんご存じの「いろは」歌。
 いろはにほへと
 ちりぬるをわか
 よたれそつねな
 らむうしのおく
 やまけふこえて
 あさきゆめみし
 ゑひもせす
 「沓」(下の部分)に「とかなくてしす」。「とか」は「咎(とが)」で罪のこと。「罪がなくてしす」。となり、これは大変な事が隠されている歌になる。えん罪事件に巻き込まれた人物か、あるいは知っている人物か、あるいは知っている関係者が作ったと考えられ。それは誰か──。(続く)
 2回に分けて、講演内容を紹介します。次回をお楽しみに。
   毎日新聞・鹿児島支局長 竹本啓自   (毎日新聞 鹿児島県版 2006/5/15掲載より)
 


見過ごせない

2006-05-03 22:23:58 | かごんま便り
 鹿児島弁に「テゲテゲ」という言葉がある。大概大概が転じた言葉らしく大ざっぱ、いい加減を意味する。細かな指示をしたり、されるのが苦手な性格の私は「テゲテゲ、ワロ(奴)」だ。
 人にはそれぞれの個性があり、意見を持っている。自分の意見を押しつけないで、大らかにすればいいじゃない。こんな調子でテゲテゲで生活している私も最近、「おかしな雲行きだな」と心配する動きがある。
 憲法改正の手続きを定めた国民投票の与党案に、じわりと締め付けてくるような項目が盛り込まれているからだ。報道機関に自主的な取り組みを求める訓示規定で「虚偽の事項を報道し、又は事実を歪曲して記載する等表現の自由を濫用して国民投票の公正を害することのないよう自主的な取り組みに努める」とある。
 簡単に言うと、事実を偽ったり、ゆがめた内容の報道をしてはいけない。もっと突っ込んで考えるならば、与党がやることに対して、批判する報道をしてはいけないとなる。罰則はない。が、これが法律に明記されれば〝公権力〟に変ぼうして言論への介入につながってしまう。
 まるで、明治政府が自由民権運動などを抑圧した、著作類で人をそしる者を罰した「讒謗律」や「新聞紙条例」「集会条例」「出版条例」のように、時代が逆戻りした世の中になる。
 国民である以上は、憲法改正の動きに対して、もっと敏感になるべきだ。改正派がいて、それに対する反対派がいる。両派ともつまるところは、平和で豊かな日本をどう守っていくかであろう。数の論理で押し切る意見は、全て正しいということはありえない。
 私を含め、日ごろ憲法などは考えて生活している人はいないと思う。ただ漫然としていれば、気がつかないうちに、時の最大勢力が決めた方向に流れてしまう。批判は許されず、触れてもいけない。9条なども暴走する危険をはらんでいる。
 憲法を改正するにも、一つの方針を打ち出して、批判を受け止めてより良い道を見つけだす。そんな懐の深い政府を望みたい。
 憲法改正の手続きと、国民投票の与党案。報道機関に求める訓示規定は、反応を見るアドバルーン的な項目かもしれないが、テゲテゲな私も黙って見過ごすわけにはいかない。改めて憲法について考える記念日となった。
 毎日新聞 鹿児島支局長 竹本啓自 2006/5/3 掲載