はがき随筆・鹿児島

はがき随筆ブログにようこそ!毎日新聞西部本社の各地方版に毎朝掲載される
「はがき随筆」は252文字のミニエッセイです。

認知症と介護

2007-08-19 19:14:46 | かごんま便り
 先日、鹿児島市でシンポジウム「認知症と介護保険」(ぼけ予防協会、毎日新聞社など主催、アフラック協賛)が開かれた。行政や医療・福祉などさまざまな立場の専門家によるパネルディスカッションは示唆に富むものだった。
 「認知症の人と家族の会」県支部世話人代表の水流(つる)涼子さん。社協職員として長年、高齢者問題とかかわる一方、自身も約20年、義母の介護にあたった。世話をする側、される側双方を熟知しているだけに発言には説得力があった。
 「『認知症のお年寄りだから……』というふうに偏見で見がちですが、認知症を個性として見てほしい。一人の人として見ることが大切」と水流さん。「施設に入れると、家族は『自分たちは介護を放棄した』との思いに悩まされる」とも。お年寄りとその家族への温かいまなざしが印象的だった。
 特別養護老人ホーム「泰山荘」施設長の牧政雄さんは介護職員の待遇向上を力説した。「私は職員を大事にします。大事にされた職員は必ずお年寄りも大事にする」。会場から拍手がわき起こった。
 昼夜交代制の勤務、精神的にも肉体的にも重労働だが、その割に賃金は驚くほど安い。少子高齢化でお年寄りは増加の一途、片や介護の担い手となる世代は減っていく。高齢者福祉の仕組み全体を抜本的に見直さないと取り返しのつかないことになる。牧さんの訴えには心底考えさせられた。
 老いは誰にでもやって来る。だが自分の老後はもちろん、ほんの少し前まで親が老いることさえ切実に考えたことはなかった。考えることから〝逃げて〟いたのかもしれない。
 郷里に残した私の母は79歳。脳こうそくで半身不随になった父を献身的に世話していたが、2月に父が亡くなって以来、目に見えて老け込んだ。最近は物忘れや勘違いもしばしばで、先行きが少々不安である。
 いずれ一人で住まわせられなくなったらどうするか。妻の介護を理由に職を辞した市長がいたが、私も同様の決断を迫られる時が来ないとも限らない。
 「家族の会」の全国研究集会が10月に鹿児島市である。詳細は後日、紙面でご紹介するが、いずれ間違いなく介護の当事者となる現役世代の一人として、貴重な話をたくさん聞かせて頂きたいと心待ちにしている。
   毎日新聞鹿児島支局長 平山千里
2007/8/14 毎日新聞鹿児島県版掲載

投票しよう

2007-08-02 06:26:04 | かごんま便り
 中選挙区制最後の総選挙となった93年夏の第40回衆院選。山口1区(当時)で一人の新人議員が誕生した。
 次期首相の最有力候補と言われながら志半ばで病に倒れた父の弔い合戦を標ぼうした彼の名は安倍晋三。当時、下関支局員だった私は、父・晋太郎氏の死から、曲折を経て彼が後継候補に決まり、ぶっちぎりのトップ当選を果たすまでを取材を通じて目の当たりにした。
 あれから14年。戦後最年少の若さで父の悲願だった首相の座についた彼は今日、就任後初めて全国の有権者の審判を受ける。
 1票を投じて、世の中の行く末を託す代表者を選ぶ。選挙権は言うまでもなく、憲法で保障された国民の権利だ。「権利」と位置づけられる背景には、戦前は女性に参政権が認められておらず、性別や財産・信条などの制限を設けない真の普通選挙が実現したのが戦後になってからという歴史的経緯がある。
 だが民主主義を守り育てていくことの大切さを思う時、投票という行為は、ある意味で「義務」と言っていいのではないか。
 当たり前の話だが、政治は生活のありとあらゆる場面で顔をのぞかせる。日々の労働に買い物、医療や福祉、教育、治安……。いずれも政治が深く介在する。仮に無人島に単身移住し自給自足の生活を試みても、その地に国の主権が及ぶ以上、政治に無関係という訳にはゆくまい。
 だから「政治に無関心」というのは本来、よほど満ち足りた暮らしをしている人でない限りありえない話だ。私はまだ、そんな奇特な人を知らない。仮に世の中に何の不満もない人でも、その恵まれた環境が政治の恩恵であることを思えば、無関心ではなく無自覚と言う方が正しい。
 候補者や政党を選んで1票を投じる時、私たちは世の中のあり方についてさまざまな気持ちを込める。こうしてほしい、ああしてほしい、あるいはこうあっては困るという具合に。今日より明日へとより望ましい社会を求める国民の期待が大きいからこそ「1票は重い」と言われるのだ。
 地方選挙や衆院選に比べ投票率が低い傾向の参院選だが今回、県内では期日前投票が前回を上回っている。関心度の表れとすれば喜ばしいことだ。日々の暮らしを見据え、未来に向けてどんな社会を望むのか。熟慮して1票を投じたい。

 毎日新聞鹿児島支局長 平山千里 
 2007/7/29 毎日新聞鹿児島版掲載 

平和の鐘

2007-07-16 21:48:31 | かごんま便り
 「台風一過」の言葉通り、15日の鹿児島市は青々とした夏空が広がった。前日の激しい風雨と、濁流に飲まれ2人が亡くなったことがうそのようだ。被災者の方々には心からお見舞い申し上げる。
 ◇   ◇   ◇   ◇
 鐘の音に世界平和の願いを託す催しが16日正午から、鹿児島市東千石町の西本願寺鹿児島別院である。ユネスコ(国連教育科学文化機関)が提唱した00年の「平和の文化国際年」を機に、日本ユネスコ協会連盟が取り組む「平和の鐘(かね・おと)を鳴らそう!」運動の一環。当地では鹿児島ユネスコ協会(田中弘允会長)がその活動を担い、今年で5回目を迎える。
 ユネスコは1946年に発足した国連専門機関。設立のきっかけとなったユネスコ憲章の理念に賛同し、教育・科学・文化の振興を通じて戦争の悲劇を繰り返さないための地域活動を進めるのが「民間ユネスコ運動」だ。
 今年60周年を迎える民間ユネスコ運動が世界に先駆けて占領下の日本で誕生したことは田中会長(73)の話で初めて知った。日本の国連加盟に先立つ5年前、仙台で産声を上げて以来、その輪は全国に広がり数多くの篤志家が汗を流してきた。
 「ユネスコ授業」もその一つ。小・中・高校にメンバーが出向き、ユネスコの活動を紹介し、戦争の悲惨さや愚かさを語り、国際理解の大切さを説く。
 ある時、田中会長は授業の後に寄せられた感想文を読んでショックを受けた。鹿児島大空襲(45年6月17日、死者2316人)をはじめ、地元・鹿児島でも空襲があったことを知らない子供たちが余りに多かったからだ。教科書にも載っている広島、長崎の原爆や東京大空襲を知ることはもちろん大切だが、被害規模こそ違え足元の歴史的事実が忘れられていいはずはない。戦時世代の一人として「戦争体験の風化に大きな危機感を感じた」と田中会長は言う。
 鹿児島での今年の「平和の鐘をならそう!」は同別院鐘楼前で16日午前11時半から趣旨説明の後、参加者一人一人が鐘を突く。同様の取り組みは8月12日にザビエル教会(鹿児島市照国町)で、同15日には日本基督教団鹿児島加治屋町教会(同市加治屋町)でそれぞれ行われる。
 国内外でキナ臭い動きが絶えない昨今、私も鐘の音と共に改めて平和の尊さをかみしめたいと思う。
   毎日新聞鹿児島支局長 平山千里 2007/7/16 毎日新聞鹿児島版掲載

もう一つの〝夏〟

2007-07-16 21:47:50 | かごんま便り
 もう一つの〝夏〟
 高校球児たちの夏がやって来た。
 鹿児島市の県立鴨池球場及び鴨池市民球場では連日、甲子園を目指した熱い戦いが続いている。
 もう一つ忘れてならない大会がある。6日に姶良町野球場で開幕した全国高校軟式野球選手権の鹿児島大会だ。出場は5校5チーム。91校87チームが参加する硬式に比べ規模ははるかに小さいが、若人のひたむきなプレーが興奮と感動を与えてくれることは、硬式と何ら変わりはない。
   ◇   ◇   ◇   ◇
 開幕試合の育英館-鹿実戦はドラマチックなゲームだった。後攻の育英館が初回に1点を先制。鹿実は直後の二回、初安打が2点適時打となり逆転。鹿実が六回までに5-1とリードしたが、雨が七回ごろから激しさを増す中、思いも寄らぬ展開になった。
 七回二死から4安打を集めた育英館が同点に追いつき、八回にも2点を加えて試合をひっくり返した。九回、後がない鹿実は一死満塁から走者一掃の逆転三塁打。その裏、再逆転をもくろむ育英館無死一、二塁の場面で降雨中断となった。
 一面水たまりのグラウンド。コールドなら八回終了時で7-5とリードした育英館の勝ち。九回の鹿実の3点はまぼろしとなる。1時間余の後、小降りになって試合再開。立ち直ったエースが後続を断ち、鹿実が辛くも逃げ切った。
 雨の試合は選手、特に大魚をあと一歩で逃した育英館ナインには気の毒だった。だがボールが滑り、足元がぬかるむ中、懸命のブレーが見る者を熱くさせたのも事実。両校の選手たちには本当にありがとうと言いたい。
   ◇   ◇   ◇   ◇
 野球は米国発祥のスポーツだが、軟式野球は日本で生まれた競技だ。硬式と同じグラウンドでルールもほぼ同じだが、ボールの弾み具合が全く違い「似て非なるスポーツ」という見方さえある。
 高卒後、大学や社会人で硬式野球を続けるのは多分、少数派だろう。一方、軟式は子供から高齢者まで幅広い競技人口を抱える。高校の軟式野球ももっと注目されていい。
 鹿児島大会は2日連続で順延となり、順調に進めば決勝は10日午前10時から。8月1、2日には県立鴨池球場で、全国大会出場をかけた南部九州大会もある。高校野球の盛んな土地柄だけに、多くのファンの観戦を期待したい。
   毎日新聞鹿児島支局長 平山千里   2007/7/9毎日新聞鹿児島版掲載

新幹線

2007-07-16 21:43:51 | かごんま便り
 森進一さんのヒット曲に「港町ブルース」というのがある。北海道・函館を振り出しに全国の港町を織り込み、最後に登場するご当地・鹿児島は「旅路の果て」と表現されていた。この歌がはやったのは沖縄返還(72年)に先立つ69年。鹿児島は当時、まさしく南の果てだったのだ。
 鹿児島赴任が決まった後、複数の知人から「遠いですね」と声をかけられた。福岡県北部の人には、港町ブルースから38年経過した今も「鹿児島は遠い」という印象は余り変わっていないらしい。
 実は、私もその一人だった。九州新幹線鹿児島ルートの部分開業から既に4年。大幅に時間短縮されたことは知識としては分かっていたが、今一つ実感が持てなかった。
 先日、下見に来た際に初めて新幹線を利用して驚いた。北九州市の自宅で午前8時に起床した私が、正午過ぎにはもう鹿児島中央の駅頭にいた。目からウロコだった。博多を出て以降、たばこを吸えないのが愛煙家としては不安材料だったが余り気にならなかった。2011年春に全線開業すれば、鹿児島はもはや南の果てではなくなるかもしれない。
 便利になることは確かにありがたい。だが物事に光があれば必ず陰がつきまとう。人や物が簡単にやって来るのは、裏返せば人や物が簡単に出ていくことになる。膨張を続ける九州一の大都会・福岡市にエネルギーを吸い取られるおそれはないか。日本における東京と同様、九州における福岡の一極集中に拍車がかかることは十分あり得る。同じ構図で、県都・鹿児島とそれ意外の地域との格差がさらに広がることだって予想される。
 全線開業を控え、九州第3の人口を擁する熊本市でも「素通り」による地盤沈下が懸念されている。沿線自治体でなく、恩恵に直接あずからない地域の不安は推して知るべしだ。長崎ルート建設に伴う並行在来線の処遇を巡り、佐賀県の一部自治体が揺れているのもその現れだろう。
 ことは新幹線に限らない。私たちはとかく華やかな光ばかりに目を奪われがちだが、相対する陰の部分にもきちんと目を向けていかなければ、と思う。
   ◇   ◇   ◇   ◇
 1日付で西部本社報道部から着任しました。名前に似合わず一見こわもて(イラスト参照)ですが、実は心優しき中年です。よろしくお願いします。
 鹿児島支局長 平山千里 2007/7/4 毎日新聞鹿児島版掲載

結局は島

2007-06-25 13:18:37 | かごんま便り
 ふらりと散策すれば、必ずと言っていいほど銅像や石碑、記念碑などが目につく。何と多い事か。「ほほぅ、こんな所にも」と立ち止まり、碑を眺め説明文を読み、興味がわけば帰って自分なりに調べている。
 碑は公園などの整備されている場所だけでなく、歩道上にぽつんと建っていることも多い。鹿児島市小川町、桜島桟橋通電停の近くの歩道には「赤倉の跡碑」。藩が1869(明治2)年に招いた英国人医師ウィリアム・ウィリスのために建てた病院が赤レンガ造りで「赤倉」と呼ばれていたことを知った。
 また加治屋町は、歴史に名を残した多くの人を輩出した地区だけに、それこそたくさんの碑がある。その中に面白い碑をみつけた。「毛利正直 兵六夢物語の碑」。これも歩道上に建ち、道をはさんだ向こうには県立鹿児島中央高校がある。
 鹿児島に伝わる大石兵六の物語を記念したものだ。表には腰に刀を差した兵六と数匹のキツネのレリーフがデザインされている。裏には「意気盛大な若者代表兵六が霊狐を退治する物語である。江戸文学の中でも高く評価されるべき風刺文学である」などの説明文が刻んである。
 しかし、この説明文を読む人はほとんどいない。とても時間をかけてゆっくりと読めるものではない。碑は歩道ぎりぎりに建っているので、裏の説明文は車道に降りなければ読めないからだ。車の往来は激しく危ない。「車道に入らずんば説明を読めず」。こんな事も、ある意味で興味深い発見の一つだ。
 歴史好きな私にとって鹿児島の生活は、毎日が刺激を受け発見の日々だった。赴任したてのころ、鹿児島の人から「桜島は島と思うか、山と思うか」と尋ねられた。今は陸続きだから「山」とも考えられるからだろう。1年9カ月を鹿児島で過ごしながら、あれこれと考えた私なりの結論は「陸続きになっても桜島は、山ではなく島である」。その心は「霧山を霧島と言うがごとし」。いかがでしょうか?
 ◇   ◇   ◇   ◇
 私が担当する最期の「鹿児島評論」になりました。7月1日付で福岡本部に転勤します。在任中は温かい励ましをありがとうございました。まだまだ行きたい、見たい地域が多く残ってます。再び訪れたい。そんな気持ちにさせられるのが鹿児島です。
   毎日新聞鹿児島支局長 竹本啓自 
   2007/6/25 毎日新聞鹿児島版掲載

コイの教え

2007-06-04 08:55:02 | かごんま便り
 天気のよい日。短時間の外出でも汗ばむほど蒸し暑くなった。歩いていると、木陰や噴水など涼しく感じられそうな景色を探すようになった。
 鹿児島市の鶴丸城址を歩いている時もそうだった。車の往来が多い国道、舗装した歩道の照り返しも強かった。水をたたえた城址の堀をのぞいた。新鮮なミドリのハスの葉が茂り、その茎の間を数匹のコイが泳いでいた。
 コイを観光の呼び物にしている島根県津和野町のコイに比べて、スマートで色は素朴。コイからして質実剛健だ。津和野町の堀割を泳ぐコイは藩政時代に、非常時の食料用に飼われていた。現在は食べられる心配がなく、丸々と太り、観賞用になっている。
 鶴丸城の堀のコイは、観光客どころか地元の人もほとんど気にもかけないだろうが、存在感があった。外国人もコイには一目置いていたようだ。釣り好きのアイザック・ウォルトンという人が1653年にロンドンで魚の釣り方、生態、料理法などをまとめた本を出版している。
 日本で言えば関ヶ原の戦いの53年後に当たる。私が持っている森秀人さん訳・解説の角川選書「完訳」〓釣魚大全(ちょうぎょたいぜん)に、ウォルトンは「鯉はすべての川魚のなかの女王というべきもので、風格もあるし、非常に鋭敏、かつ狡猾な魚であります」と記している。
 鶴丸城址の堀のコイは鋭敏ではなくけだるい感じで漂うように体を動かしていた。水面近くで口を動かすから空気を飲み込む。何匹もいるからスポッ、ズボッ、シュポと連続した音になる。見ていた私は、いつの間にかくつろいでいた。
 中国の思想家、孔子の子どもの名が「鯉(り)」(字は伯魚)。父の孔子は「仁」を理想の道徳として教えた。仁は「礼にもとづく自己抑制と他者への思いやり」(広辞苑)とある。
 孔子が鯉を諭した場所が庭だった孤児に由来して、家庭教育の場を「鯉庭」という。さしずめ、先輩たちから指導を受ける鹿児島の郷中教育も庭訓の部類に入るだろう。
 最近の殺伐とした事件。自分さえ満足ならぱよいという姿勢もあちこちで目につく。例えば、辺りをはばからない携帯電話で話す大声。ちょっとした周囲への思いやりが忘れられている。城跡の堀のコイは忘れがちな事を私に思い出させ、改めて教えてくれたような気がした。
   毎日新聞 鹿児島支局長 竹本啓自2007/6/4 毎日新聞鹿児島版掲載

光への思い

2007-05-21 19:09:51 | かごんま便り
 昨年の今ごろ。知り合った鹿児島市の大学生(20)と、社会人(23)にホタルを観察した経験があるかと尋ねた事がある。2人とも「テレビでは見た事があるけど、実際にはない」と答えたのには驚いた。
 編集されたテレビの映像は綺麗な光を放ち、飛び交う姿を見ることが出来よう。でも、草のようなホタル独特のにおい、活動する時の気温や湿度の具合。夜通し光を放つのではなく、一斉に休む時間もあるなどは実際に観察しなければわからない。
 1~2週間の命を淡い光を点滅させながら相手を捜し、子孫を残そうとするホタル。実に不思議な虫だ。昔の人の多くが恋の気持ちをホタルに託している。恋(こひ)は「火」につながる。ホタルが点滅しているのは恋、思いを抱いていると考えた。
 藤原道家は「夏の夜はもの思ふ人の宿ごとにあらはに燃えてとぶ蛍かな」。源重之も「音もせで思ひに燃ゆる蛍こそ鳴く虫よりもあはれなりけれ」と詠んでいる。ホタルを入れた多くの歌があり伊勢物語や枕草子にも取り上げられている。
 源氏物語では光源氏が、几帳をたくし上げ、たくさんのホタルを放ち、玉鬘の姿をホタルの光で照らそうとする場面がある。作者の紫式部は光源氏に、ホタルを使って積極的な行動をさせている。やることがにくい。
 ホタルの種類は多い。よく知られているのがゲンジボタル、ヘイケボタル、ヒメボタルだろう。肉食のホタルもいるという。ある主の雄が雌を求めて発光する。雌が返す応答信号とそっくりの発光を肉食ホタルの雌がする。だまされた雄が喜んでやって来ると、捕まり食べられてしまうそうだ。
 ただし、肉食ホタルがいるのは外国。外国のホタルは恋をするにも命がけということだ。日本にも生息していたら、観察眼が鋭い昔人のこと。優雅で情緒たっぷりの作品ばかりを残して置くはずがない。ホタルに見向きもしなかったかもしれない。 薩摩町で始まった「奥薩摩のホタル舟」。早速、訪ねた。数は少ないが岸から確認できた。昨年の豪雨で幼虫や、餌のカワニナがながされ、ホタルの現象が心配されている。
 私は数よりも豪雨に負けないホタルの光に力強さを感じ、勇気づけられる気がした。 
   毎日新聞鹿児島支局長 竹本啓自 07/5/20毎日新聞鹿児島版掲載

ワニも姫も?

2007-05-01 07:50:27 | かごんま便り
 南さつま市の海岸線をドライブしながら国名勝指定の双剣石一帯や鑑真和上の上陸地などを楽しんだ。これらの名所、旧跡は写真付きでガイドブック、各種の観光案内などに掲載されている。その通りの素晴らしい景観と、興味を持たせてくれる土地だった。
 初めての土地では、人との触れ合いや、思い出づくりも楽しみの一つ。今回は2個の貝殻が記念の品となった。坊津歴史資料センター「輝津館」でいただいた。入館すると、色とりどりの貝殻が用意してあり、気にいったものをもらえる。
 近くの海岸から拾ってきたそうた。決して珍しいものではないけれど、貝殻を通して歓迎する気持ちが感じられ、うれしかった。私は長い年月で白くなった円すい状のクボガイと、細長くて茶色の筋が入っているイモガイを選んだ。
 館内には地域の歴史や民俗が豊富な資料で紹介してある。その中に「金毘羅府」があった。明治4年に二夜三日かけて、海上の安全を祈った護符だった。
 香川県の金刀比羅宮。昔は金毘羅大権現とも言われていた時期がある。海上安全の信仰で有名だ。薬師如来を守る十二神に宮毘羅大将がいる。インドのガンジス川に住むワニを神格化した神だそうだ。サンスクリット語は「クンピ(ビ)ーラ」。何だか「こんぴら」と発音が似ている。
 いろいろな説があるが、川の神様が日本に来て成長し、海上安全の神様になったと考えたら面白い。坊津は古くから海外との窓口であっただけに、ワニの神様もここから上陸したのかもしれない。
 また、もらった貝殻からは竹取物語に出てくる「燕の子安貝」を連想した。中国には竹取物語の原型ではないかとされる「竹姫」の話がある。姫が出す難題「火鼠の皮衣」など共通する部分も多い。案外、姫の話も坊津から日本に入り独自の物語づくりをしたのかも、と考えた。
 今回は飛躍した推測ばかりになった。笠沙などの地名は古事記や日本書紀にも残っており、実際にそう思わせる地域だった。二つの貝殻は支局の机の上に飾っている。
         ◇  ◇  ◇  ◇
 5月から斎藤毅記者が北九州市の西部本社に、内田久光記者が山口県の周南支局に転勤し、福岡本部から加藤学記者、久留米支局から福岡静哉記者が着任します。よろしくお願いします。
   毎日新聞鹿児島支局長 竹本啓自 2007/5/1掲載

ヒラリヒラリ

2007-04-02 19:27:35 | かごんま便り
 日が暮れたばかりの時刻。JR鹿児島中央駅に近い高見橋から何気なく甲突川をながめた。川面をヒラリヒラリと飛ぶ十数羽のコウモリ。道路沿いの街灯にも照らし出された別の一群もいた。
 久しぶりに松尾芭蕉の「蝙蝠も 出でよ(いでよ)浮世の 華に鳥」が浮かんだ。これまでスズメを見れば小林一茶の「雀の子 そこのけそこのけ お馬が通る」もカエルを見たら「痩蛙 まけるな一茶 是にあり」などの句を思い出していた。
 最近は、これらの句とは縁がなかった。都市部でスズメやカエルの姿が極端に少なくなったのか、私に小動物を見つける余裕がなかったのか。理由はいくつも考えられる。
 それが今回、人通りの多い場所で飛び交うコウモリを見て、前述の句が出てきた。ほんと久しぶりだったが、忘れてはいなかった。芭蕉は旅立つ僧への餞別に詠んだという。黒衣の僧をコウモリに見立て、鳥のように羽ばたいて浮世を見て来いという激励の意味であろう。
 コウモリは「川守」のことで、川面などを飛び回って蚊など虫類を食べることから名付けられたという。あるいは、別名「蚊食い鳥」と言うように、蚊を好んで多ベる生態に由来しているともされる。いずれにしろ蚊などを好んで食べる「益鳥」とされていた。
 今でこそ理科の時間などで、コウモリは卵ではなく赤ちゃんを産み、乳で育てるなどの生態から、私たちと同じ哺乳類と学んだ。教えられなければ、私たちと親せき関係にあるとはとても理解できない。
 コウモリは幅広く活躍している。映画ではヒーローのバットマン(コウモリ男)が居て、吸血鬼ドラキュラにはコウモリがつきもの。紙芝居などで見た黄金バットも忘れてはいけない。また中国では幸運のシンボルにされている。蝙蝠の「蝠」が「福」と同音「fu」で、夜に活動するから闇に屈しない魔よけにも通じるそうだ。
 主役から脇役まで幅広く演じている。私たちの親せきという贔屓目もあるし、皆に平穏と安心を与えているから。
 さて統一地方選の最初の県議選が告示された。当選したらヒラリヒラリと態度を変化されるコウモリのように器用な人は不要である。今こそ、鹿児島の未来を託せる一途な信念がある人が必要だ。
   毎日新聞鹿児島支局  竹本啓自支局長 2007/4/1掲載

温暖化

2007-03-05 13:22:09 | かごんま便り
 京都に赴任している同僚が九州に出張に来て、鹿児島に立ち寄った。「うん、これはおしい」。名物のかき氷を一口味わい、口中で吟味した後に感想をもらした。
 この同僚とは高松支局で一緒に働いたことがある。その時には全く知らなかったが、かき氷が好きで食べ歩いたらしい。高松市内の美味しい店をずらりと列挙した。
 「かき氷については、私はうるさいですよ」と言う。氷の削り方、口中でふわっとする解け方などで判断すると言う。中年2人の男が向かい合って食べるかき氷。異様な姿に見えるだろうが、おいしいものは、おいしい。
 今でこそ年中、手に入る氷でも、季節はずれの氷が貴重で、一部の人しか口にできない時代もあった。清少納言は「枕草子」の中で「あてなるもの(じょうひんなもの)」として「削り氷にあまづら入れて、あたらしき金碗(かなまり)に入れたる」をあげている。
 平安時代のかき氷は、金属製の碗に削った氷を入れ、アマチャヅルかツタを煮詰めて作った甘い汁をかけて食べた。清少納言が、氷の削り具合などには触れていないのが残念。
 氷が輝き、しかも急いで食べなければ溶けてしまう。ただ目の前に氷があるだけで幸せ。そんな思いが先にたち、削り方や味まで気が回らなかったのかもしれない。
 氷は雪深い地方で、厳寒期に切り出され、氷室で保存したものだ。約25年前になるが、山口県の山中に明治期に使われた氷室があり、当時の道具が残っていた。凍った清流の表面を切り取り、オガクズなどで包み込んで夏まで保存、販売していたという。
 これらの道具と氷室を使い、天然氷を夏まで保存して食べようと試みたことがある。大学の先生に調べてもらったところ、温暖化で再現は不可能ということで断念した。
 温暖化はさらに進んでおり、福岡管区気象台がまとめた今冬の平均気温をみると、各地で過去最高を記録、鹿児島市は10・7度で2位だった。南極の氷が溶けだし、海面が1㍍上昇すると水没する島や沿岸部に住む人たちが影響を受け、日本の砂浜の約90%が失われる試算もある。
 四季の移ろいもなくなるだろう。子、孫の世代に向け、私たちも身近なところから少しずつ気にかけるべき問題になっている。
   毎日新聞鹿児島支局長 竹本啓自 2007/3/5 毎日新聞・鹿児島県版 掲載

好きだからこそ

2007-02-19 16:03:15 | かごんま便り
 鹿児島支局が移転した。場所はJR鹿児島中央駅に近い。赴任先では、まず支局を中心に歩き回り土地柄、雰囲気、景色などを楽しんでいる。わずかな距離の支局移転でも、その癖が出ている。以前、見た場所でも、より深く観察している。
 そこで数日来気になっていることがある。支局が入っているビルの近くにあるライオンズ広場で見つけた。広場には勇ましい雄ライオンのブロンズ像と噴水、綺麗な公園がある。
 ここの石台に刻まれている文字に「贈ライオンズ像 叫べ正しく 謳え明るく 吠えよ男々しく」とある。男々しく? 元気で活発な女性が多くなり、〝女々しい〟男を叱咤するためだろうか。あるいは「男らしく」「雄々しく」などの間違いかなと、しばらく考えた。
 と、近くに立て看板があり、この広場を整備した趣旨が説明されていた。この中に「叫べ正しく 謳え明るく 吠えよ勇々しく」とあった。このライオン増に希望を託し、青少年の健全な……と続く。なるほど「勇々しく」なら理解できる。
 説明によると1978年(昭和53)年にライオン像が建てられたようである。以来、「男々しく」のままらしい。さて「勇々しく」と「男々しく」のどちらが正しいのか。
 私がメモしたり、写真を撮ったりしている時に、散歩中の男性が通りかかった。近くの人らしい。私は「どっちが正しいと思いますか」と聞いてみた。初めて知ったらしく、興味を示して、「勇々しくだろうね」と答えてくれた。
 鹿児島は偉人たちの銅像や石碑が多い。今、NHKの大河ドラマで篤姫をテーマにした物語が放映されるとかで、観光関係者は篤姫の勉強会などを開いているようだ。しかし、鹿児島を訪れる観光客は篤姫だけが目的でなく、他の名所旧跡や観光施設なども訪れるはずだ。これを機に既存のものを見直し、整備したらどうだろう。
 例えば、軍服姿の西郷隆盛像の近くには中央公園がある。公園にはスケートボードをする若者が集まり、楽しそうに練習しているが、散歩する人や観光客には迷惑だ。他県にはスケートボード専用の施設をつくり、提供している自治体もある。そろそろ鹿児島も必要だと思う。
 今回は観光客の身になって気づいた事を少々。これも鹿児島が好きだからこそ。
   毎日新聞 鹿児島支局長 竹本啓自 2007/2/19 掲載

絶景の下で

2007-01-29 16:15:24 | かごんま便り


 海の向こうには開聞岳がそびえている。まさに絶景。思わず携帯電話のカメラで写真を撮り、その場から友人たちに送った。天の邪鬼の私も、頴娃町の番所鼻講演の景色には素直に感動した。
 松島(宮城県)、天の橋立(京都府)、厳島(広島県)は有名な日本三景。しかし、番所鼻公園は、それ以上の美しさなのであろう。江戸時代に全国を歩いて初めて実測地図を作った伊能忠敬が「けだし天下の絶景なり」と賞賛した場所という。
 同じ「絶景かな」の言葉でも、歌舞伎の舞台で石川五右衛門が京都・南禅寺の山門上で言う台詞「絶景かな、絶景かな、春の眺めが値千金とは小さなたとえ……」がある。これは芝居上の言葉である。それに比べて、忠敬の「けだし天下の絶景かな」は重みがある。測量の途中では当然、有名な三景も見たであろう。それよりも「けだし天下の絶景なり」と、最大級の賛辞を付けて番所鼻公園の景観を褒めたのは、本当であろうと思わせる。
 さらに早春の潮騒と海の色は、学生時代の伊豆半島の旅行を思い出させた。25年以上前になるが、伊豆で見た海の色に似ていたからだ。ちょうど今ごろ、節分の前だった。
 旅館の主人から節分の時の節分の時の掛け声「おにはそと、ふくはうち」の意味を聞いた。漢字で書くと「遠人疎途(おにはそと)不苦者有智(ふくはうち)」になるそうだ。 
 遠仁者疎途=おもいやり、いつくしむ事が「仁」。これを遠ざけている者は、人の途(みち)からはずれている。
 不苦者有智=「智」は物事の分別がある事。これを持っている人は、何があっても動じない。
 こんな意味だった。私に教えてくれた主人は、旅の禅僧から教えてもらったそうだ。
 節分は悪鬼を払う豆まきが定番である。太巻きを食べる人も多くなっているようだ。数年前に関西出身の同僚の音頭で職場で試してみた。何でも食べている時はしゃべってはいけないらしい。男が数人、その年の恵方を向いて黙って食べた。異様な雰囲気で一斉に吹き出してしまった覚えがある。
 伝統行事の本来の意味が忘れられている習慣も多い。最近は何かに付け「遠人疎途不苦者有智」を思い出すようになった。
 番所鼻公園の写真を送った友人たちからの返事は一様に「今度、連れて行け」だった。
 毎日新聞鹿児島支局長 竹本啓自 2007/1/29掲載
 
 写真は本文と関係ありません。

春の色

2007-01-15 16:18:49 | かごんま便り
 暖かな日差しに鮮やかな色が映えていた。同じ種類のボタンでも、鉢が違えば微妙に色合いも違っていることに気づいた。仙厳園で開かれている「島津牡丹展」。白色や黄色の花もあったが、特に赤色系の花をより観察してしまった。春を迎え、視覚でも暖色を求める気持ちが強かったせいかもしれない。
 さて牡丹の赤い花の色は、一律に牡丹色でくくれるものではなかった。比べて見ると、朱色や紅色に近いものもある。自然の植物が表現する色は美しく、神秘的なものを感じる。しかし、植物は枯れれば鮮やかな色もあせてしまう。
 昔の人はこの色を残そうと植物で染色したり、さらに神秘的な力を得ようと染めた布を肌身につけた面もあるだろう。赤色系の代表的な色の一つ「紅」の染料となる紅花が中国から渡来したのは5世紀とされている。中国では、紅花を精製して高貴な女性たちの化粧品にも利用されていたという。
 以前、読んだ本に、中国では染料の総称を「藍」と言い、呉の国から伝わった色ということで「くれのあい」になり「くれない」になったと書いてあった。色の名に伝わった国の名が入っているのが面白い。
 万葉集には「紅の花にしあらば衣手(ころもで)に染めつけ持ちて行くべく思ほゆ」とある。あなたが紅の花であったなら、袖に染め付けて持って行きたいとの心情が歌い込まれていて、愛されていた色のようである。
 メモ帳を手にボタンを観賞しながら一句ひねろうとしている人も多かった。カメラで撮影する人もいた。こちらは、とりとめのない事を考えながら園内を散策した。日本で初めて移植された孟宗竹がある江南竹林の葉にも春の色を見つけた。若竹色よりも薄く黄味が濃い。この色を記憶して、支局に帰ってから色図鑑と照らし会わせてみた。似ているらしい色は「鶸萌黄(ひわもえぎ)」だった。鶸色と萌黄色の中間色とある。鶸色も萌黄色も単色で、もやっとした色。そこにまた中間色があり、ちゃんと名まであるのには驚き、日本語の繊細さを改めて感じた。
 よく地図やガイドブック、植物図鑑を持って散策に出掛けているが、色図鑑を携えての散策も一興かもしれないなと考えた。四季折々で必ず変化があり、まだまだ知らない色の名も覚える事ができるから。
   毎日新聞 鹿児島支局長 竹本啓自 2007/1/15 掲載

あいちゃんの年

2007-01-03 12:47:48 | かごんま便り
 私の姿を認めて興奮したのだろう。鼻息が荒くなり屋内から出てきた。太陽の光を浴びてほんの一瞬だが全身が金に見えた。「またー正月だから、めでたく金などと書いて」と思われる読者もいらっしゃると思う。でも日陰から日向に移動した瞬間、本当に輝いたように見えた。
 その正体は霧島市牧園町の和気神社で飼われているイノシシ「あいちゃん」。全身が白い毛で覆われている。誕生は94年8月11日。近くの人が交配させて産ませた中にいたという。翌年の亥年に奉納された。 この神社は和気清麻呂(わけのきよまろ)を祭っている。769年、皇位を狙う野望を阻まれた道鏡の怒りを買い、大隅に流されたことに由来して建立された。清麻呂が宇佐八幡宮に参詣する時には約300頭の猪が現れ、前後を守って約10里の距離を案内したそうだ。このことから明治時代の亥年に発行された10円札には清麻呂と猪が刷ってある。
 昔から人と動物がかかわって伝えられている話は多い。スサノオノミコトのヤマタノオロチ(大蛇)退治などの話もあるが、猪の集団が清麻呂を守って参詣する光景などは想像すると面白い。動物との触れ合いでほほ笑ましいのは空海(弘法大師)と狸の話がある。
 高松市にある84番札所・屋島寺には弘法大師が道に迷った時に道案内をした太三郎狸が祭ってある。さらに、寺の住職が悟りの境地に達すると、屋島に住み着いているタヌキが紅白に別れて源平屋島の合戦の様子を再現して祝ってくれるという。私がこの話を聞いたのが十数年前、住職はまだ見たことがないと話してくれた。その後、紅白戦を見ることが出来たのかは確認していない。
 今年は亥年。よく知られているのが猪突猛進。無鉄砲に敵に突進する人を猪武者と揶揄するような言葉もある。さて、「あいちゃん」はどうだろう。境内に造られた総檜作りの「御殿」で暮らしている。しかも運動場とプール付き。
 「あいちゃん」の名前は、和気神社にちなみ、さらに和気藹々から付けられたそうだ。こちらも、あいちゃんが元気に教えている「わきあいあい」で、この1年を過ごしたいと考えている。
 遅ればせながら、新春のお喜びを申し上げます。今年もよろしくお願いします。
   毎日新聞鹿児島支局長 竹本啓自 2006/1/3掲載