国指定史跡
近江大津宮(おうみおおつのみや)<大津京・近江京・志賀宮>
錦織(にしこおり)遺跡
■住所:滋賀県大津市錦織
■交通:京阪「近江神宮前」駅下車
667年旧暦3月19日、のちの天智天皇<中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)>が飛鳥から近江(現在の大津)に都を遷しました。
近江大津宮<大津京・近江京・志賀宮>の誕生です
672年、天智天皇が崩御し、皇位継承をめぐって「壬申(じんしん)の乱」<天智天皇の息子:大友の皇子vs天智天皇の弟:大海人皇子>勃発。
勝者である天智天皇の弟・大海人皇子は、都を「飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)」に遷し、天武天皇として即位するのでした。
つまり、短期間とはいえ、かつて滋賀県大津市の一部が政治の中心地になった期間があったのです。
ココで、内裏(だいり)の正殿(せいでん)跡が発見され、長年不明だった近江大津宮<通称:大津京>の場所が明らかになりました。
※当ブログ内の記事ポスター「建都ほぼ1400年大津。」・ 大津は古津だった。も合わせてどうぞ☆
京阪「近江神宮前」駅を降りて、近江神宮へ行く途中の道沿いに、錦織地区に近江大津宮(おうみおおつのみや)<大津京>跡をしめす遺跡が点在しています。
たくさん撮った写真のうちの数枚を掲載します。
近江大津宮跡は住宅地の中にありますが、近江大津宮跡から見た山並みの景色は、当時とさほど変わらないはず。
ちょこっと、天智天皇や中臣鎌足<藤原鎌足>の気分に♪
※同日午後に訪ねた大津市歴史博物館の常設展示室で近江大津宮<大津京>の復元模型や出土品・パネルなどで詳しい展示を見ることができました。
藤原鎌足の人形もありましたよ!
「志賀宮址碑」高さ 2,57メートル。
志賀宮=近江大津宮のこと。
碑文をよみとることができませんでした。
(↓画像をクリックされますと、やや大きめのサイズでもご覧いただけます。)
「志賀皇宮遺跡」碑/「錦織(にしこおり)」の地名の由来について
(↓画像をクリックされますと、やや大きめのサイズでもご覧いただけます。)
万葉歌人として知られる柿本人麻呂(かきのもとのひろまろ)が詠んだ長歌(ちょうか)の歌碑です。
近江大津宮<大津京>が存在した期間は短くとも、後世の文化人たちによって、荒廃した近江大津宮<大津京>をしのぶ歌が多く詠まれました。
この柿本人麻呂の歌もそうしたひとつです。
近江大津宮を追慕する歌枕として、琵琶湖をのぞむ景勝地として“志賀(しが)”が頻繁に詠まれるようになります。
次に訪ねる大津京シンボル緑地に近江大津宮ゆかりの歌人たちに詠まれた歌碑が建立されています。
※大津京シンボル緑地は近江神宮に隣接。
ちょっと立ち寄ってみました。
(↓近江大津宮錦織遺跡は点在しています。画像はクリックで拡大。)
大津京シンボル緑地へ続く!
近江路・歴女ブロガー旅紀行(ブログ「晴れのち平安」編) INDEXに戻る
⇒web拍手を送る
<HP『花橘亭~なぎの旅行記~』に戻る> <コメントをくださる方は掲示板へ>
近江大津宮(おうみおおつのみや)<大津京・近江京・志賀宮>
錦織(にしこおり)遺跡
■住所:滋賀県大津市錦織
■交通:京阪「近江神宮前」駅下車
667年旧暦3月19日、のちの天智天皇<中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)>が飛鳥から近江(現在の大津)に都を遷しました。
近江大津宮<大津京・近江京・志賀宮>の誕生です
672年、天智天皇が崩御し、皇位継承をめぐって「壬申(じんしん)の乱」<天智天皇の息子:大友の皇子vs天智天皇の弟:大海人皇子>勃発。
勝者である天智天皇の弟・大海人皇子は、都を「飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)」に遷し、天武天皇として即位するのでした。
つまり、短期間とはいえ、かつて滋賀県大津市の一部が政治の中心地になった期間があったのです。
ココで、内裏(だいり)の正殿(せいでん)跡が発見され、長年不明だった近江大津宮<通称:大津京>の場所が明らかになりました。
※当ブログ内の記事ポスター「建都ほぼ1400年大津。」・ 大津は古津だった。も合わせてどうぞ☆
京阪「近江神宮前」駅を降りて、近江神宮へ行く途中の道沿いに、錦織地区に近江大津宮(おうみおおつのみや)<大津京>跡をしめす遺跡が点在しています。
たくさん撮った写真のうちの数枚を掲載します。
近江大津宮跡は住宅地の中にありますが、近江大津宮跡から見た山並みの景色は、当時とさほど変わらないはず。
ちょこっと、天智天皇や中臣鎌足<藤原鎌足>の気分に♪
※同日午後に訪ねた大津市歴史博物館の常設展示室で近江大津宮<大津京>の復元模型や出土品・パネルなどで詳しい展示を見ることができました。
藤原鎌足の人形もありましたよ!
「志賀宮址碑」高さ 2,57メートル。
志賀宮=近江大津宮のこと。
碑文をよみとることができませんでした。
(↓画像をクリックされますと、やや大きめのサイズでもご覧いただけます。)
「志賀皇宮遺跡」碑/「錦織(にしこおり)」の地名の由来について
(↓画像をクリックされますと、やや大きめのサイズでもご覧いただけます。)
万葉歌人として知られる柿本人麻呂(かきのもとのひろまろ)が詠んだ長歌(ちょうか)の歌碑です。
近江大津宮<大津京>が存在した期間は短くとも、後世の文化人たちによって、荒廃した近江大津宮<大津京>をしのぶ歌が多く詠まれました。
この柿本人麻呂の歌もそうしたひとつです。
近江大津宮を追慕する歌枕として、琵琶湖をのぞむ景勝地として“志賀(しが)”が頻繁に詠まれるようになります。
次に訪ねる大津京シンボル緑地に近江大津宮ゆかりの歌人たちに詠まれた歌碑が建立されています。
※大津京シンボル緑地は近江神宮に隣接。
ちょっと立ち寄ってみました。
(↓近江大津宮錦織遺跡は点在しています。画像はクリックで拡大。)
大津京シンボル緑地へ続く!
近江路・歴女ブロガー旅紀行(ブログ「晴れのち平安」編) INDEXに戻る
⇒web拍手を送る
<HP『花橘亭~なぎの旅行記~』に戻る> <コメントをくださる方は掲示板へ>