晴れのち平安

源氏物語を中心に平安な日々♪
※文章や写真の無断転載は禁止!

近江大津宮(おうみおおつのみや)錦織遺跡

2010年10月20日 | 近江路・歴女ブロガー旅紀行
国指定史跡
近江大津宮(おうみおおつのみや)<大津京・近江京・志賀宮>
錦織(にしこおり)遺跡

■住所:滋賀県大津市錦織
■交通:京阪「近江神宮前」駅下車


667年旧暦3月19日、のちの天智天皇<中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)>が飛鳥から近江(現在の大津)に都を遷しました。
近江大津宮<大津京・近江京・志賀宮>の誕生です

672年、天智天皇が崩御し、皇位継承をめぐって「壬申(じんしん)の乱」<天智天皇の息子:大友の皇子vs天智天皇の弟:大海人皇子>勃発。
勝者である天智天皇の弟・大海人皇子は、都を「飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)」に遷し、天武天皇として即位するのでした。

つまり、短期間とはいえ、かつて滋賀県大津市の一部が政治の中心地になった期間があったのです。
ココで、内裏(だいり)の正殿(せいでん)跡が発見され、長年不明だった近江大津宮<通称:大津京>の場所が明らかになりました。
※当ブログ内の記事ポスター「建都ほぼ1400年大津。」大津は古津だった。も合わせてどうぞ☆

京阪「近江神宮前」駅を降りて、近江神宮へ行く途中の道沿いに、錦織地区に近江大津宮(おうみおおつのみや)<大津京>跡をしめす遺跡が点在しています。

たくさん撮った写真のうちの数枚を掲載します。









近江大津宮跡は住宅地の中にありますが、近江大津宮跡から見た山並みの景色は、当時とさほど変わらないはず。
ちょこっと、天智天皇や中臣鎌足<藤原鎌足>の気分に♪

※同日午後に訪ねた大津市歴史博物館の常設展示室で近江大津宮<大津京>の復元模型や出土品・パネルなどで詳しい展示を見ることができました。
藤原鎌足の人形もありましたよ!




「志賀宮址碑」高さ 2,57メートル。
志賀宮=近江大津宮のこと。
碑文をよみとることができませんでした。


(↓画像をクリックされますと、やや大きめのサイズでもご覧いただけます。)
 

「志賀皇宮遺跡」碑/「錦織(にしこおり)」の地名の由来について


(↓画像をクリックされますと、やや大きめのサイズでもご覧いただけます。)


万葉歌人として知られる柿本人麻呂(かきのもとのひろまろ)が詠んだ長歌(ちょうか)の歌碑です。

近江大津宮<大津京>が存在した期間は短くとも、後世の文化人たちによって、荒廃した近江大津宮<大津京>をしのぶ歌が多く詠まれました。
この柿本人麻呂の歌もそうしたひとつです。

近江大津宮を追慕する歌枕として、琵琶湖をのぞむ景勝地として“志賀(しが)”が頻繁に詠まれるようになります。


次に訪ねる大津京シンボル緑地に近江大津宮ゆかりの歌人たちに詠まれた歌碑が建立されています。
※大津京シンボル緑地は近江神宮に隣接。
ちょっと立ち寄ってみました。

(↓近江大津宮錦織遺跡は点在しています。画像はクリックで拡大。)




大津京シンボル緑地へ続く!



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JR「大津京」駅と万葉歌碑(額田王・大海人皇子)

2010年10月20日 | 近江路・歴女ブロガー旅紀行
JR「大津京」駅

■住所:滋賀県大津市皇子が丘二丁目8-1
■交通:JR湖西線「大津京」駅

2008年(平成20年)3月15日 に「西大津」駅から「大津京」駅へ改称されました。




JR「大津京」駅の構内には、展示コーナーがあります。
琵琶湖の貝塚や「大津京(近江大津宮)」について、どーんと紹介。

“ようこそ、いにしえの都、大津京へ”
のフレーズにときめきます。

一人でバシバシ写真を撮っていました。


私が駅に降り立った日は、駅構内に臨時の観光案内所(?)が設けられていました。


ポスター「建都ほぼ1400年大津。」も掲示されていますよ。

案内所(?)の方に、「こちらには、いつもおられるのですか?」と伺ったところ「来月までです」とおっしゃっていたので11月いっぱいまで・・・なのかな。
JR「大津京」駅を中心とした万葉集や近江大津宮に関するパンフレットやチラシをGETしたい方はGO!です。

ちなみに、前日の午前中、JR「大津」駅1階に入っている “滋賀県観光物産情報センター”にて 東おうみの万葉ロマンと渡来文化『よみがえる額田王と渡り来た人びと』というパンフレット(発行:東近江行政組合・東近江観光振興協議会/監修:井上満郎)をいただきました。
とても面白い内容で読み応えありました。



■万葉歌碑

JR「大津京」駅を出て、すぐそばにある京阪「皇子山(おうじやま)」駅へ行こうとしたら、歌碑発見

(↓画像をクリックされますと、やや大きめのサイズでもご覧いただけます。)


額田王(ぬかたのおおきみ)と大海人皇子(おおあまのみこ)<のちの天武天皇>の「万葉集」に収められている歌じゃないですかー!!
きゃぁぁぁぁああ!


額田王

 あかねさす紫野行き標野行き
  野守は見ずや君が袖振る



大海人皇子

 紫草(むらさき)のにほへる妹をにくくあらば
  人嬬(ひとづま)故(ゆえ)に吾恋ひめやも






JR「大津京」駅と歌碑の位置関係。
万葉歌碑は、駅前のココにあります!



 額田王と大海人皇子について



※額田王(ぬかたのおおきみ)は最初、大海人皇子との間に、十市皇女(とおちのひめみこ)を出産。
のちに、額田王は、天智天皇の寵愛を受けるようになったのだとか。
※歌碑にもなっている額田王と大海人皇子の歌は、昔の恋が再燃して不倫!?とか昔の恋人同士による宴会での座興!?とか、解釈が様々です。





歌碑をみつけたことで
朝から、テンション上げ上げで京阪「皇子山」駅へ。

京阪電車の「湖都古都(ことこと)1dayきっぷ」<500円>を購入し、今日も元気に歩きます。
※「1dayきっぷ」の提示で割引がある施設も多いのです。





『龍馬電』という坂本龍馬ラッピングの電車を見たり電車に乗ったりしました。


京阪「皇子山」駅から、京阪電車に乗って「近江神宮前」駅で下車。
近江神宮へ行く道すがら、近江大津宮(おうみおおつのみや)錦織遺跡を訪ねます。


近江大津宮錦織遺跡へ続く!


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瀬田の唐橋

2010年10月20日 | 近江路・歴女ブロガー旅紀行
瀬田の唐橋(せたのからはし)

■住所:滋賀県大津市唐橋町~瀬田一丁目
■交通:京阪「唐橋前」駅下車

数々の歴史の舞台となった瀬田川に架かる大きな橋です。
“勢多(せた)の唐橋”や“瀬田の長橋”と表記されることもあります。

現在見られるような大橋・小橋の形になったのは、織田信長が架け替えて以来の姿だそうです。
※現在はコンクリート製。

「急がば回れ」の諺(ことわざ)の発祥もココだとされています。



西側から見た唐橋(からはし)

それでは橋を渡ってみましょう♪
夕方なので車の往来が多いです。



橋を歩きながら北を見たところ。この川上に琵琶湖があります。


 

橋の欄干についている擬宝珠(ぎぼし)は、よく見ると修理補正したあとが各所で見られるものもありました。
年季が入っていますが、これらの修理をされた職人さんがスゴイと思います。




西の空はだんだん、日がおちていきます。



東側から見た唐橋(からはし)



日本三代名橋「瀬田の唐橋」碑




瀬田唐橋の東詰には、俵藤太(たわらのとうた)こと藤原秀郷(ふじわらのひでさと)が百足(むかで)退治をした故事にちなむ絵が掲げられています。

絵の裏面は唐橋の解説がされています。
(↓画像をクリックされると大きな画像でご覧になれます)


■古代の瀬田橋
・ 671年、 大友皇子と大海人皇子の皇位継承を争う壬申の乱、最後の決戦場に。
・ 764年、 藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)により瀬田橋を焼く。
・ 940年頃、俵藤太(たわらのとうた)による百足退治。<伝説>

■中世の瀬田橋
・1184年、木曾義仲軍、源義経・源範頼軍と戦う。
・1221年、承久の乱。後鳥羽天皇が鎌倉幕府と戦う。
・1582年、本能寺の変。瀬田橋が焼かれる。




交通の要所・軍事の要衝として
「瀬田橋を制する者は天下を制する」
と呼ばれてきました。




瀬田川ではカヤックの練習(?)をされている方々もお見かけしました。
カッコイイ!!

座ってぼーっと橋を行きかう車や人を眺めていたら、どんどん周囲が暗くなっていきました。(笑)



福岡県で生活している時よりも日の入りが早い気がします。
・・・って当たり前ですね。滋賀県のほうが東にあるんですもの。





こののち、京阪「唐橋前」駅から京阪電車に乗って「皇子山(おうじやま)」駅へ移動。
京阪「皇子山」駅近くのJR「大津京」駅から「おごと温泉」駅へ。




「大津京」という名に憧れていたのでJR「大津京」駅で切符を買えたことが嬉しくて、写真を撮ってしまいました。(笑)


本日のお宿、「ことゆう」さんへ向かいます。



宿泊:雄琴 天然温泉の宿「ことゆう」での夜へ続く!


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石山寺~紫式部による「源氏物語」誕生~

2010年10月20日 | 近江路・歴女ブロガー旅紀行
石山寺

■住所:滋賀県大津市石山寺1-1-1
■交通:京阪「石山寺」駅下車
公式サイト⇒http://www.ishiyamadera.or.jp/

※京阪「石山寺」駅下車すぐ、道路の向かい側にある「紫式部の泉」もどうぞ!!(←リンク先は私の旅行記です)



石山寺は、747年(天平19年)に聖武天皇の勅願で良弁(ろうべん)僧正を開基として開かれた寺院です。
源頼朝、足利尊氏、淀殿(茶々=豊臣秀吉の側室)といった各時代の有力者などの後援を受け、西国三十三所観音霊場 第13番札所としても信仰されています。


昨年、2009年秋に福岡県の北九州市立美術館で開催された源氏物語千年紀「石山寺の美 観音・紫式部・源氏物語」展を見に行った私としては、石山寺参詣も外せません!
私が趣味でまったり作成しているwebサイト『花橘亭~源氏物語を楽しむ~』もよろしくお願いしまーす♪(ちゃっかり宣伝。)


■硅灰石と多宝塔を見上げる





石山寺の「石山」という名称はこのゴツゴツした硅灰石(けいかいせき)に由来するそうです。
本当に“山”です!
「多宝塔」は、鎌倉時代、源頼朝によって寄進されました。日本最古の多宝塔。


■本堂「紫式部 源氏之間」 『紫式部』人形とロボット「MURASAKI」





『源氏物語』は、紫式部が石山寺に参籠しているときに構想が浮かび、書き始められたという伝説があります。
紫式部が石山寺に参籠中、八月十五夜の満月が琵琶湖<瀬田川?>の水面に映るのを見て、光源氏が須磨に流され都を想う場面を書き綴ったのがきっかけだとか。

これにより、『源氏物語』全54帖の内、「須磨」「明石」の帖から書き始められたとも言われています。
『源氏物語』作中でも、石山寺を信仰する登場人物が数名でてきますよ。

この石山寺での『源氏物語』起筆伝説は長く愛され、石山寺は観音信仰の古刹としてだけでなく、紫式部と『源氏物語」ゆかりの寺としても崇敬を集めました。

※今回の旅で、亀屋廣房さんで“源氏之間”ゆかりの銘菓「源氏窓」も買っちゃいました。



2008年秋に私が参詣した時、『源氏物語千年紀in湖都大津』の会場だった「源氏夢回廊」の密蔵院でロボット“MURASAKI”に会ったのですが、現在は本堂「源氏之間」に移ったのですね♪

今回は、本堂で絵馬を書いて、「紫式部開運おみくじ」をひきました。



↑経蔵へ向かう階段から撮影した本堂
紅葉シーズンは素敵でしょうね。

本堂のご本尊は、如意輪観世音菩薩。33年に一度しか御開扉されません。
通常は、如意輪観世音菩薩の前に安置されている「お前立ち」と呼ばれるご本尊の姿をうつして作られた像を拝観できます。
「お前立ち」の像も拝みたくなるような優美な姿なんです!

本堂の礼堂<外陣=通常お参りする場所>は、浅井三姉妹の長女・淀殿(茶々=豊臣秀吉の側室)によって改築されました。


■経蔵の隣りにある「紫式部供養塔」と「松尾芭蕉句碑」


左:紫式部供養塔 / 右:松尾芭蕉句碑

「松尾芭蕉句碑」より 芭蕉が源氏之間を詠んだ歌

 あけぼのはまだ
    むらさきに
      ほととぎす


平安時代と江戸時代の文化人が仲良く(?)並んでいるのも素敵だと思います。


■多宝塔・源頼朝供養塔・若宮社



多宝塔のご本尊は、快慶による大日如来。



多宝塔の近くにある
源頼朝と亀谷禅尼<頼朝の乳母(めのと)>の供養塔、
弘文天皇<天智天皇の皇子・大友皇子>を祀る若宮社もお見逃しなく。

 
左:源頼朝と亀谷禅尼供養塔<宝篋印塔 二基> / 右:若宮社





私、石山寺の豊浄館で開催中だった秋季「石山寺と紫式部展」(~11月30日まで)を見ることができませんでした。
※入館時間は、午後3時45分までです。時計をチェックしていなくてうっかり。
※石山寺の源氏苑にある紫式部像(リンク先は2008年に撮影したもの)も今回は見に行けませんでした。

その代わり(?)、石山寺の「月見亭」あたりから、ぼーっと瀬田川を眺めていました。(笑)


■月見亭



月見亭は、平安末期、後白河天皇の行幸に際して作られたのだそうです。
以後、再建・修理を重ねられたのだとか。




月見亭横から見た瀬田川。

瀬田川は琵琶湖から流れ出る唯一の川です。
瀬田川→宇治川→淀川と名前を変えながら大阪湾へと注ぎます。




夕方、こんな誰もいないシーンを撮ることができました。
「おおつ光ルくん」が左右に写っています。





こののち、石山寺港に停泊中の外輪汽船「一番丸」を見つつ、京阪「石山寺」駅へ。

京阪「石山寺」駅から京阪電車に乗って、「唐橋前」駅下車。
駅からすぐ近くの瀬田の唐橋へ向かいます。



瀬田唐橋(せたのからはし)へ続く!


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今井兼平の墓~木曾義仲の忠臣~

2010年10月20日 | 近江路・歴女ブロガー旅紀行
今井兼平の墓

■住所:滋賀県大津市晴嵐2-4-16
■交通:京阪「石山」駅下車 




京阪・JR「石山」駅から徒歩5分程度でしょうか、盛越(もりこし)川のほとりにあります。

平安時代末期、主君であった木曾義仲<源義仲>の死を知った今井兼平は、
「日本一の剛の者の自害する手本だ!」
と言い、自身の太刀の先を口に含み、馬から落ちて自害しました。

(『平家物語』 巻第九「木曾最期」 より)


江戸時代、今井兼平を尊敬した膳所(ぜぜ)藩主・本多俊次(ほんだとしつぐ)が墓を建てたと伝わります。
墓碑には「今井四郎兼平墓」と刻まれています。

現在見られる兼平の墓は、兼平の子孫の方々によってつくられたものだそうです。
「亀屋廣房」さんで兼平餅を買った私は、お墓参りに訪れたのでした。(-人-)



私が訪ねた頃は、ちょうど墓碑の後ろで金木犀(キンモクセイ)の花が咲いていて、いい香りがしていました。


敷地内には、碑や説明板、顕彰碑・鎮魂碑などがあります。

(↓クリックで拡大。大津市による説明板)


(↓クリックで拡大。謡曲史跡保存会による説明板)





お墓に隣接して、「兼平庵」という建物があります。



 今井兼平と木曾義仲について

系図:今井兼平と木曾義仲の関係は“乳兄弟(ちきょうだい)”



※木曾義仲<源義仲>を育てた乳母(めのと)が中原兼遠の妻でした。
中原兼遠の子どもたちは義仲の乳兄弟(ちきょうだい)として、義仲の近くで仕えています。





こののち、
京阪「石山」駅に戻り、京阪電車に乗って「石山寺」駅で下車。
(このふたつの駅名は似ていますが、間に「唐橋前」駅という駅があります。場所に注意!)

次は、石山寺へ向かいます♪


石山寺~紫式部による「源氏物語」誕生~へ続く!


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