植ちゃんの「金沢・いしかわに恋をしました!」

金沢に永住して金沢・石川が好きになりました!その魅力を紹介します。

金沢城公園 石垣巡り‐6

2018-08-12 04:21:14 | 日記


金沢の観光スポットレポート その944(No.1352)

◇金沢城公園 石垣巡り‐6

<城内外連絡ルート>

3)いもり坂と薪の新丸

いもり坂は、明治以後作られた通路で、江戸時代にはなかったもので。このあたりは玉泉院丸に面した斜面の一角で、庭園向きの石垣として整備されたところ。三十間長屋と同じく「切石積み」の一種で、野趣に富んだ意匠を狙った「金場取り残し積み」等が見られる。

・創建:寛永(1624~1644)頃
・改修:寛文(1661~1673)頃





■写真はいもり坂と薪の新丸(表面が平らでなく出っ張っている)



4)薪(たきぎ)の丸東側の石垣

この石垣は、鯉喉櫓台や二の丸北面と同じく、加工の進んだ石材を整然と積み上げた「粗化工石積み」の石垣で、寛文6年(1666) 、加賀藩の穴生(石垣普請職)後藤権兵衛によって改修されたことが記録にみえます。

・創建;寛永(1624~1644)頃
・改修:寛文6年(1666)

「薪の丸」の名は、三代藩主利常の正室珠姫が本丸に居住していたころ、薪を置いていた場所であったことからこの名がついたといわれている。



■写真は薪の丸東側の石垣



5)申酉櫓下石垣
ここでは時期の異なる「粗化工石積み」の石垣を見ることができます。向かって右側は自然面を残す割り石を積み上げた、慶長頃の石垣で、もとは石垣の角にあたる部分でした。

左側は加工の進んだ石材を用い、刻印が多く見られる石垣で、寛永頃新たに継ぎ足されたものです。石垣から城郭整備の過程がよくうかがえる貴重な事例です。(赤い線が境界線)

・創建:慶長(15984~1615)頃
・改修:寛永(1624~1644)
・現状:上部は明治時代に撤去、下部は概ね藩政期の姿を留める。





■写真は申酉櫓下石垣

撮影日:2018.7

(つづく)

金沢城公園 石垣巡り‐5

2018-08-10 04:16:35 | 日記


金沢の観光スポットレポート その943(No.1352)

◇金沢城公園 石垣巡り‐5

2011年に石垣巡りを掲載したが、まいどさん勉強会や金沢城・兼六園研究会入会をきっかけとして、再度掘り下げてアップします。

<城内外連絡ルート>

1)玉泉院丸庭園に面した石垣郡

玉泉院丸に面した斜面一帯は、趣向を凝らした「切石積み」(色紙短冊積み)」の石垣が見られます。石垣の高さや向き、石の積み方から細部の加工に至るまで、表情豊かな石垣群は、玉泉院丸庭園の借景としての役割を担っていました。

玉泉院丸庭園は、加賀藩三代藩主「前田利常」による寛永11年(1634)の作庭を始まりとし、その後五代「綱紀」や十三代「斉泰」などの歴代の藩主により手を加えられながら、廃藩時まで金沢城内玉泉院丸に存在していた庭園です。
 
玉泉院丸は、古くは「西の丸」と呼ばれ重臣屋敷でした。慶長19年(1614)二代藩主前田利長が高岡で没した後、剃髪して金沢に戻った正室の玉泉院(永姫)の屋敷が造営されたため、玉泉院丸と称することになりった。







■写真は玉泉院丸庭園



2)色紙短冊積み石垣

 玉泉院丸に面した斜面一帯には、趣向を凝らした「切石積み」の石垣が見られる。正面の石垣は、代表格で、最上部に黒色の石(坪野石)を使ったV字形の石樋(いしどい)を組み込み、落水の背景となる石垣中央には、3石の縦長石を段違いに配置するなど、庭園に面した場所ならではの意匠を持つ石垣。
・創建:寛永(1624~44)頃
・改修:貫文(1661~73)頃

*上部には建物がなく、V字型の石樋(坪野石)城内に引かれていた辰巳用水の水を落とすためのもので、下には滝つぼがあったと伝えられている。赤と青の戸室石を縦横に配し、デザインの一種として用いられ、一部に角を落とした石垣があるのは当たりを柔らかく感じさせるための工夫である。









■写真は色紙短冊積み石垣



■写真はV字型の石樋

撮影日:2018.7.他

(つづく)

■写真は

金沢城公園 石垣巡り‐4

2018-08-09 04:30:00 | 日記


金沢の観光スポットレポート その942(No.1351)

◇金沢城公園 石垣巡り‐4

2011年に石垣巡りを掲載したが、まいどさん勉強会や金沢城・兼六園研究会入会をきっかけとして、再度掘り下げてアップします。

<城内ルート>約1.5Km



7)戌亥(いぬい)櫓石垣

 この石垣は「粗化工石積み」の積み方をしていますが、石の隙間に平らな石をはめ込み「切石積み」のように見せる技法が用いられている。長い年月の間に石が抜け落ちていますが、当時の巧みな技術を見ることができます。はめ込まれた石が残っているところと抜け落ちた所を比較しながら、当時の巧みな技術を見ることができます。

・創建:寛永8年(1631)頃
・現状:北面(左側)は創建時、西側(正面)の大部分は寛文頃の改修時、一部明和3年(1766)改修時の姿を残す。



■写真は戌亥(いぬい)櫓石垣



8)三十間長屋石垣

 この石垣の積み方は「切石積み」の手法で積まれていますが、表面の縁取りだけをきれいにそろえ内側を粗いままにしておく「金場取り残し積み」という技法が用いられている。 綿密な細工をしながら、わざわざあらあらしく見えるように工夫されており、当時の文書でも「いきおいのある積み方」と表現されている。

・創建:寛永8年(1631)頃
・現状:主に宝暦(1751~63)改修時の姿を残す。



■写真は三十間長屋石垣(本丸側)

*ここでも城内2個目の六角形石(亀甲石)があり、独特の積み方が特徴。







■写真は三十間長屋石垣左(玉泉院丸庭園側)



■写真は三十間長屋石垣右の正五角形石(玉泉院丸庭園側)



9)鉄門石垣

 「切石積み」の技法は、城の重要な部分に用いられている。本丸への入り口となる鉄門の石垣にも、「切石積み」が見られます。石の表面を多角形に加工したすぐれたデザインで、丁寧なつくりになっている。

  ・創建:寛永8年(1631)頃
  ・現状:明和3年(1766)改修時の姿を残す。



■写真は鉄門石垣



10)東の丸北面石垣

  文禄元年(1592)、利家は、急こしらえの平山城であった金沢城の石垣修復にのりだす。この石垣は城内でも最も古い技法が用いられており、金沢城の初期の姿を伝える数少ない貴重なものです。自然石粗割しただけの石を緩い勾配で積み上げた「自然石積み」になっています。

・創建:文禄(1592~96)頃
・現状:創建時の姿がよく残っている。

*初代藩主利家の命により、利長が石垣づくりに挑んだが地盤が弱く、何度も崩れて増築出来なかった。そこで築城の名手・篠原一孝が二段式の石垣を完成、利長がヘソを曲げたと言われている。





■写真は東の丸北面石垣

撮影日:2018.7

(つづく)

金沢城公園 石垣巡り‐3

2018-08-08 04:30:37 | 日記


金沢の観光スポットレポート その941(No.1350)

◇金沢城公園 石垣巡り‐3

2011年に石垣巡りを掲載したが、まいどさん勉強会や金沢城・兼六園研究会入会をきっかけとして、再度掘り下げてアップします。



<城内ルート>約1.5Km

4)二の丸北面石垣

 この付近の石垣は、形や大きさをそろえた割石が積まれている。「粗化工石積み」の中でも、最も完成されたものといわれており、加賀藩の石垣技術者、後藤彦三郎は「城内でも指折りの石垣」とほめたたえています。石垣の上には、二の丸表能舞台の楽屋に使われた長屋が立てられていた。

・創建:寛永8年(1631)頃
・現状:貫文8年(1668)改修時の姿を残す







■写真は二の丸北面石垣



5)土橋門石垣

 前(東側)の石垣は、後(西側)の石垣とあわせ、土橋門の土台になっていた。いずれも「切石積み」の技法が用いられています。前の石垣に組み込まれた六角形の石(亀甲石)は、水に親しむ亀を表したもので、防火の願いが込められています。

・創建:寛永8年(1631)頃
・現状:前(東側)は享和(1801-04)改修時
      後(西側)は寛文5年(1665)の姿を残す。





■写真は土橋門左石垣の亀甲石(城内には2個のみ)



■写真は土橋門石垣



■写真は土橋門図(よみがえる金沢城より)



6)数寄屋敷石垣

この付近は数寄屋といわれ、藩主の側室たちの住まいがあったところです。石積みの技法は、石の表面を長方形に仕上げた「切石積み」で、刻印が見られる右側の石垣は創建時のものです。表面がきれいに整えられて縁取りのある左側の石垣は、文化5年(1808)に改修されたものです。刻印は、石を切り出す時の作業分担などを示すために付けられたものといわれてます。刻印を探してください。

・創建:寛永8年(1631)頃
・現状:寛永から文化(1804-17)までの各時期の姿を残す。

■写真は切手門と旧第六旅団指令部













■写真は数寄屋敷石垣(向かって左から)

撮影日:2018.8.6 - 8.5

(つづく)

金沢城公園 石垣巡り‐2

2018-08-07 04:19:22 | 日記


金沢の観光スポットレポート その940(No.1349)

◇金沢城公園 石垣巡り‐2

2011年に石垣巡りを掲載したが、まいどさん勉強会や金沢城・兼六園研究会入会をきっかけとして、再度掘り下げてアップします。



■写真は石川門

<城内ルート>約1.5Km



1)石川門石垣

 右側が「切石積み」左側が「粗化工石積み」の技法となっています。同じ場所で違う積み方をした珍しい例で、明和2年(1765)の改修時のものと考えられます。

・創建:慶長(1596~1614)頃
・現状:明和2年(1765)頃の姿をとどめる



■写真は石川門桝形内左石垣





■写真は石川門桝形内正面石垣



■写真は石川門二の門二の丸側



2)内堀石垣(鶴の丸付近)

 この内堀は、平成11年~12年にかけて菱櫓や五十間長屋などとともに復元された。寛永8年(1631)の大火の後、二の丸を守る堀としてつくられたといわれている。この付近の石垣は明治時代に積み石の多くが取りはずされたため、五十間長屋石垣などの積み方を手がかりしながら、創建当時の姿を想定して復元されました。

・創建:寛永8年(1631)頃
・現状:平成11~12年復元 



■写真は内堀石垣



3)菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓石垣

 菱櫓や五十間長屋などの土台になっているこの 付近の石垣は、平成10年から12年にかけ、菱櫓等の復元に伴って、一旦解体され、積み直しが行われた。ここから見える三の丸側が「粗化工石積み」、裏手の二の丸側が「切石積み」となっている。「粗化工石積み」の多くは廓などの外周などに、「切石積み」は出入り口どの重要な所によくみられる。

・創建:寛永8年(1631)頃
・現状:平成10~12年部分的に解体・積み直し











■写真は菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓石垣

撮影日:2018.7

(つづく)

金沢城公園 石垣巡り‐1

2018-08-05 04:25:45 | 日記


金沢の観光スポットレポート その940(No.1349)

◇金沢城公園 石垣巡り‐1

2011年に石垣巡りを掲載したが、まいどさん勉強会や金沢城・兼六園研究会入会をきっかけとして、再度掘り下げてアップします。

■写真は金沢城石垣巡り地図(金沢城公園HPより)



〇金沢城概要

金沢城の歴史加賀一向一揆で支配権を握った本願寺が、天文15年(1546)に金沢御堂(尾山御坊)を建てた地に、天正8年(1580)、佐久間盛政が築城を開始、天正11年(1583)、加賀初代藩主前田利家が能登から入城し、本格的に城造りがなされました。
慶長7年(1602)に天守閣が落雷による火災により焼失し、その後は江戸幕府への遠慮から再建されませんでした。

金沢城は、金沢市の市街地に位置し、犀川と浅野川に挟まれた小立野台地の先端に立地する平山城である。規模は東西500m、南北760m、面積約30haである。

■写真は石川門



〇金沢城石垣の概要

金沢城の石垣は、技法や意匠の多様性に特色があり、石垣の博物館とも称される。「自然石積」「割石積み」「粗化工石積」「切石積」の石積み様式は、場の性格や周囲との調和にも配慮しながら、城郭整備の歴史と共に多彩な発展を遂げた。その結果、技法的にも意匠的にも、他に類を見ないほど、変化に富む石垣景観が出来上がった。

金沢城の現存する石垣は470面、総面積28,500㎡、うち切石積み面積が約3,400㎡、全体の12%と高い比率を占めることが金沢城の特徴の一つである。

また、金沢城の石垣は特色として以下の3点が上げられる。
1)石垣の保存状態が良好なこと。
2)石垣の技術書や修築の様子を詳しく伝える文献資料等が多く残されており、その質、量は他の城の例をみない。
3)文禄、慶長期以来、江戸期を通じて石垣修築が繰り返されたとい うこと。これは金沢城の現存石垣に近世のさまざまな段階の石 垣技術が内包されているということである。

<参考:北野博司氏「加州金沢城の石垣修築について」より>

■写真は三の丸広場



〇主な石積の技法大きく分けると3種類になる。(鶴丸休憩館前にあるモデル)

1)自然石積

この石垣はもっとも古いも古いもので、自然の石や粗割りしただけの石を用いて積む技法です。金沢城の初期の姿を伝える数少ない貴重なもので、場内では。東の丸北面石垣などに見られます。

■写真は自然石積



2)粗化工石積
 
割石を加工し、肩や大きさを揃えた石材(粗化工石)用いて積む技法で、櫓や長屋などの外周の石垣に見ることができます。二の丸北面石垣がその代表例で、加賀藩の石垣技術者、後藤彦三郎は「場内屈指の石垣」と称賛しています。石材の形や大きさ、加工の様子など、切石積みとの違いをご覧ください。

■写真は粗化工石積



3)切石積

切石積は、丁寧に加工した切石を隙間なく積む技法で、本丸への入り口など城の重要な部分の石垣に見ることがで来ます。城内各所の石垣は、それぞれ表面だけしか見られませんが、ここでは石垣の積み方や、その内部も見ることが出来ます。(以上展示案内看板より)

■写真は切石積

〇金沢城調査研究室発行のNo.3「金沢城を探る」の石積み分類では下記の通りとなっている。

1)自然石積 *東の丸北面



2)割石積 *本丸申酉櫓下



3)粗化工石積 *五十間長屋



4)切石積をさらに分類

  ①四方積(正方形石)*橋爪門続櫓



  ②布積(長方形石)*数寄屋敷



  ③布積(不整形石)*石川門



  ④布積(粗化工石)*二の丸北面



  ⑤乱積(不整形石)*土橋門



  ⑥金場取り残し積 *三十間長屋

 
 
〇その他の分類

1)鉢巻き石垣 *玉泉院丸庭園下



2)鉢巻き腰巻き石垣 *彦根城



*ほかにもいろいろな呼び方があるが、ここでは割愛します。

撮影日:2018.7

(つづく)

白山越前禅定道・平泉寺を訪ねて!

2018-08-04 04:15:24 | 日記


金沢の観光スポットレポート その939(No.1348)

◇白山越前禅定道・平泉寺を訪ねて!

7月29日(日)石川県ウオーキング協会の「越前禅定道・白山平泉寺を訪ねて」えちぜん鉄道勝山駅発着に参加した。

■写真はえちぜん鉄道勝山駅



〇白山三禅定道

白山への登山道の始まりは修行者などが登るために作られた道で、この道は「禅定道」と呼ばれました。「禅定道」は加賀、越前、美濃の三方向から整えられ、それぞれ「加賀禅定場」は加賀馬場で白山比咩神社「越前禅定道」は越前馬場で平泉寺白山神社、「美濃禅定道」は美濃馬場で長滝白山神社です。それぞれ白山信仰の拠点となった。

■写真は三禅定道地図



■写真は勝山城博物館に向かう参加者



〇国遺跡白山平泉寺(へいせんじ)の概要

人々に恵みの水をもたらす白山は、古くから信仰の対象でした。その白山信仰の越前での拠点として、養老元年(717)に泰澄によって開かれたと言われているのが白山平泉寺です。
一帯は、最盛期の戦国時代には8,000人もの僧兵がいたと伝えられ、当時の日本では最大規模の宗教都市となり繁栄します。しかし、天正2年(1574)に越前一向一揆勢に攻められ、全山焼失しました。

■写真は日本の道百選菩提林



■写真は参道



■写真は一の鳥居



■写真は二の鳥居







■写真は拝殿



〇御前峰御本社

白山の主峰である御前峰の神を祀り、見事な昇り龍と降り龍が軒を支えている。現在の建物は、寛政7年(1795)に、12代福井藩主松平重富が寄進したもの。









■写真は御前峰御本社



■写真は御前峰御本社龍の彫刻



社務所には、室町時代に作庭された回遊式枯山水庭園で国の名勝である「旧玄成院庭園」があり、見学することができる。(見学料50円)

■写真は社務所と枯山水庭園



〇勝山の地名由来

一向一揆宗は恐竜博物館近くの「村岡山」を「勝ち山」と呼びそれが「勝山」の由来とか?

■写真は日本の道百選菩提林・石畳

□白山平泉寺ホームページ

撮影日:2018.7.29

(つづく)

金沢の夏‐9 大友楼、板屋本店、他市内

2018-08-03 04:04:22 | 日記


金沢の観光スポットレポート その938(No.1347)

◇金沢の夏‐9 大友楼、板屋本店、他市内

〇大友楼

創業天保元年(1830年)年老舗料亭。加賀藩の御膳所として勤め、その儀式料理や郷土料理を今に伝える。食材から器にいたる全てを地元の食材や伝統工芸品にて盛り、金沢がいっぱいつまったコース料理を得意としている。

住所:金沢市尾山町2-27









■写真は大友楼

□ホームページ
http://www.ootomorou.co.jp/%e6%96%99%e4%ba%ad%e5%a4%a7%e5%8f%8b%e6%a5%bc/



〇板屋本店

創業昭和21年(1946)。昭和26年(1951)現在地に移転。現在三代目。素材に強いこだわりを持ち、手作りで味を追求。
住所:金沢市尾山町10-18



■写真は板屋本店





■写真は四高記念公園











■写真は円光寺ロータリー





■写真は円光寺





■写真は山科

撮影日:2018.7.22 - 26 - 27

(つづく)

金沢の夏‐8 黒門緑地、浅田屋、森八近江町店

2018-08-02 04:15:36 | 日記


金沢の観光スポットレポート その937(No.1346)

◇金沢の夏‐8 黒門緑地、浅田屋、森八近江町店

〇黒門緑地

この黒門前緑地は文字通り金沢城の北西の黒門(今はその跡のみ)の前にある緑地で、大手堀の西側にあたります。また,この地は豪姫(加賀藩祖・前田利家の四女)の住居跡でもある。

■写真は黒門緑地



ここは平成7年(1955)まで金沢地方検察庁検事正官舎の敷地であった。平成13年(2001)官舎の一部と,その土塀を廻らす屋敷構えを保存するとともに、アドレナリン、タカジアスターゼ創製で世界的に知られる高峰譲吉博士ゆかりの家屋を移築し、公園として整備したものです。









■写真は元金沢地方検察庁検事正官舎(高峰譲吉家屋を移転)



〇豪姫住居遺址

豪姫は天正2年(1574)加賀藩祖・前田利家とお松の方との四女として誕生したが、豊臣秀吉の養女となった。後に岡山城主・宇喜多秀家に嫁ぎ,備前の方と称される。

慶長5年(1600)関ヶ原の合戦に破れた秀家は徳川家康により八丈島に流され、豪姫は金沢に帰る。三代藩主利常より粧田四千五百石を与えられ、このあたりで居住したと文献は伝えている。
寛永11年(1634)5月23日豪姫はこの地で60年の生涯を閉じた。豪姫の人生の半分は両親ゆかりの金沢で過ごしたといってよい。

■写真は豪姫住居遺址

□豪姫菩提寺「大蓮寺」紹介ページ(植ちゃんの金沢いしかわに恋をしました)



〇浅田屋

慶応3年(1867年)に創業の数寄屋造りです。風趣な坪庭を眺め、静謐なお部屋で金沢の情感を満喫でき、吟味された調度類や器に、旬の魚介、甘海老、カニ、山の幸など、お客様の嗜好に添った四季折々の素材を盛り込んだ加賀料理をご堪能できる。

住所:金沢市十間町23





■写真は浅田屋

□浅田屋ホームページ




〇森八 近江町店

城下の大火で藩主より替え地を命ぜられた八左衛門は尾張町に移り、寛永2年(1625)に菓子屋を創業。藩主より江戸表に召された3代目八左衛門は、藩主利常の創意により小掘遠州の筆になる「長生殿」の三字を原型とした名菓長生殿を世に生み出した。 

住所:金沢市下堤町17-1





撮影日:2018.7.27

(つづく)