今から823年前の9月27日。
その日、長者ヶ原廃寺跡のすぐそばまでやって来たのは、後に鎌倉幕府を開く源頼朝。
どうしてそれが分かるのかというと、『吾妻鏡』という鎌倉幕府公認の歴史書に、
二品、安倍頼時の衣河の遺跡を歴覧したまう。郭土空しく残り、秋草鏁すこと数十町。
礎石いづくにあるや。旧苔に埋もれること百余年なり
とあるからです。
二品とは頼朝のこと。
安倍頼時は、中尊寺を建立した藤原清衡の母方の祖父。
頼朝は奥州藤原氏を滅ぼし、鎌倉に帰る前日、祖先が自分と同じように滅ぼした安倍氏の故地、衣川の地をめぐっています。
いろいろな所に足を運んだのでしょうが、具体的な記述があるのは、郭土(=土でできた囲い)と礎石。
このふたつが揃って残っているのは、衣川では長者ヶ原廃寺跡しかありません。
ですので、頼朝は長者ヶ原廃寺跡のすぐ近くまで来て、その礎石を見たかったようですが、秋草に覆われてしまって見られなかったようです。
今では下の写真のように雪に覆われでもしない限り、礎石はいつでも目にすることができます。
今年の9月27日に長者ヶ原廃寺跡にやって来ませんか?
「頼朝は見られなかったものをみた!」と自慢できますよ。
東上空から見た衣川。右が一首坂段丘、左が関山丘陵。
もうちょっと寄った写真。真ん中を流れているのが衣川。
矢印、青が長者ヶ原廃寺跡、ピンクが月山、緑が泉ヶ城、黄が金色堂。
今はこんな感じですが、あと1週間もすれば見えるようになります。
本堂跡の礎石の様子。ありし日は右の絵のような感じだったと推測されています。
その日、長者ヶ原廃寺跡のすぐそばまでやって来たのは、後に鎌倉幕府を開く源頼朝。
どうしてそれが分かるのかというと、『吾妻鏡』という鎌倉幕府公認の歴史書に、
二品、安倍頼時の衣河の遺跡を歴覧したまう。郭土空しく残り、秋草鏁すこと数十町。
礎石いづくにあるや。旧苔に埋もれること百余年なり
とあるからです。
二品とは頼朝のこと。
安倍頼時は、中尊寺を建立した藤原清衡の母方の祖父。
頼朝は奥州藤原氏を滅ぼし、鎌倉に帰る前日、祖先が自分と同じように滅ぼした安倍氏の故地、衣川の地をめぐっています。
いろいろな所に足を運んだのでしょうが、具体的な記述があるのは、郭土(=土でできた囲い)と礎石。
このふたつが揃って残っているのは、衣川では長者ヶ原廃寺跡しかありません。
ですので、頼朝は長者ヶ原廃寺跡のすぐ近くまで来て、その礎石を見たかったようですが、秋草に覆われてしまって見られなかったようです。
今では下の写真のように雪に覆われでもしない限り、礎石はいつでも目にすることができます。
今年の9月27日に長者ヶ原廃寺跡にやって来ませんか?
「頼朝は見られなかったものをみた!」と自慢できますよ。
東上空から見た衣川。右が一首坂段丘、左が関山丘陵。
もうちょっと寄った写真。真ん中を流れているのが衣川。
矢印、青が長者ヶ原廃寺跡、ピンクが月山、緑が泉ヶ城、黄が金色堂。
今はこんな感じですが、あと1週間もすれば見えるようになります。
本堂跡の礎石の様子。ありし日は右の絵のような感じだったと推測されています。