人生ブンダバー

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中国と日本の近現代史 『李鴻章』

2021-09-16 05:00:00 | 近現代史

昭和史を知ろうとすれば、大正史を勉強しなければならない。大
正史を知るには明治史までさかのぼらなければならない。

太平洋戦争1941からざっとさかのぼると、日中戦争1937・・・満州
事変1931・・・ロンドン海軍軍縮条約1930・・・張作霖爆殺事件1928
・・・蒋介石の北伐1926・・・中国の排日運動・・・ワシントン海軍軍縮
条約(ワシントン体制)1922・・・対華二十一カ条の要求1915・・・
辛亥革命1911・・・ポーツマス条約1905・・・日露戦争1904・・・露清密
約1896・・・下関条約・三国干渉1995・・・日清戦争1994・・・・日清修
好条規1871・・・・・・という流れ(さかのぼり)になる。

日本の近現代史は、中国のそれと密接な関係がある。

日本から見れば、世界的な協調外交の時代と、対華二十一カ条の
要求から発した、中国の排日運動の時代が重なっている。

近現代中国の歴史上の人物を古い順に並べると、
1.李鴻章1823-1901
2.袁世凱1859-1916
3.孫文1866-1925
4.蒋介石1887-1975
5.毛沢東1893-1976
6.溥儀1906-1967
となる。

1の李鴻章は、清国の政治家として、日清修好条規から露清密約
までかかわっている。

「露清密約1871」は日本史の教科書にはなかなか出てこないが、
清がロシアに満洲(東三省)の権益を与えた「密約」だ。

少し長くなるが、岡本隆司『李鴻章』(岩波新書2011)によれば
 (下関条約の)翌年2月、ロシア皇帝ニコライ二世の戴冠式に参列するため、
 慶賀使に任ぜられた。李鴻章を選んだのは、ロシア政府の強い希望による。
 ・・・・・・4月30日ペテルブルグに着いた李鴻章は、5月4日と7日の二度にわたっ
 て、ニコライ二世に謁見、5月26日、モスクワでの戴冠式に参列した。もと
 よりかれの使命は、これだけではない。・・・・・・

 式の前後にロシア政府と交渉をかさね、調印にいたったのは6月3日。実際に
 交渉にあたったのは、蔵相ウィッテであった。
 この露清秘密同盟条約は全文6カ条、もっとも重要なポイントは二つ。ひと
 つは日本を仮想敵国とし、朝鮮半島をも適用範囲に含めた露清の攻守同盟で
 あること(日本を仮想敵国とした中ソ友好同盟相互援助条約1950を彷彿とさ
 せる。)、いまひとつはロシアのシベリア鉄道が、東三省を通過するのを認
 めたことである。

 この露清密約はロシアの勢力を東三省(満洲)に引き入れ、日露戦争・満洲
 事変の出発点をなし、ひいては日中戦争をひきおこす原因となった。そのた
 め、この交渉と調印の任にあたった李鴻章に対する(中国の)評価は、きわ
 めて厳しい。 

 中国の外交史家・蒋廷黻(しょうていふつ)『中国近代史』(初版1938)の
 一節である。

  露清密約は李鴻章一生の大失策である。・・・・・・ウィッテの狙いは中国を助
  けることではなく、東清鉄道を利用して中国を侵略することであった。以
  後の瓜分(かぶん)の禍も日露戦争も二十一カ条も九・一八(満洲事変)
  も、国難はみなこの密約に由来したものである。(p186)


 (義和団事件後)ロシア側は李鴻章と秘密裏に交渉をすすめ、東三省をほぼ
 手中にできる条約案を作成したものの、その動きを察知した日英が、・・・・・・
 ら地方督撫に働きかけ、その調印を挫折させた、以後ロシアの撤兵は、国際
 政治の一大問題と化し、やがて日露戦争をひきおこす。(p200)

*( )内は私が補ったもの。

袁世凱は李鴻章に劣らず、中国での評判が悪い?


ちなみに「不凍港を求めるロシアの南下」は、まずヨーロッパで
始まった。
1853オスマン帝国と開戦(クリミア戦争)英仏のオスマン帝国支
援でロシア敗北。
1877ロシア=トルコ戦争→ベルリン条約でロシア拡大は抑えられ
る。

その後、ロシアの南下政策は、中央アジア、東アジアへ向かう。
→1904日露戦争へ。


高校の担任のお一人近藤先生は「世界史」の先生だったが、私は
日本史に注力していたので、上記ロシアの動きについて記憶がな
かった。ゴメンナサイ。

20年ほど前だったか、リタイアされた近藤先生と電話で、「遅ま
きながら世界史も勉強しています」とお話したら、「そんなん、
みな忘れてしもたわ(笑)」。



『李鴻章』、『袁世凱』、『孫文』、『溥儀』(岩波新書)


山﨑圭一『世界史の教科書』(SBクリエイティブ)
ざっくりとした流れを理解するのに便利。

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○石破氏は結局不出馬。
 最初から選択肢はそれしかなかった?河野氏は有難迷惑? 
 細田派、麻生派は必死に地方票を集める?

 昔々、地方票のふたを開けたら、意外にも福田赳夫が大平正芳
 に負けたことがあった(昭和53[1978]年→こちら)。
 そもそも党員・党友票による投票(当時の予備選)は、国会議
 員の派閥解消を目的として設けられたもの?


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4 コメント

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李鴻章と春帆楼(下関) (関学OBのMより)
2021-09-17 11:51:49
もう10年近く前になりますが、会社の定年旅行に〈出雲~萩~下関~九州へ〉家内と旅をしました♬途中、下関の「春帆楼」に一泊、有名なフグ料理に舌鼓を打ちました(笑)その時の晩酌が「獺祭」で、もう一つ、忘れられないのが、宿泊部屋に何気なく飾られていた書が気になり、女中さんに尋ねると「それは、李鴻章さんのですよ」とさりげなく仰いました。続けて「ほかの部屋にも何点かありますよ」、、、、と、下関講和条約に臨んだ気になりましたわ(驚・笑)♬
返信する
Re:李鴻章と春帆楼 (katsura1125)
2021-09-17 12:12:13
「しゅんぱんろう」ですか。すごい所に泊まられましたね~(笑)。100年以上前、まさしく歴史の世界ですね~。なかなか泊まれないんじゃあ~ありませんか?
返信する
Unknown (関学OBのMより)
2021-09-17 12:51:48
katsura1125さんへ、、、、「春帆楼」HPで調べられたら、、、一応、敷居は高そうですがモダンな近代旅館(ホテル?)風に改築されてますので、一般に泊まれますよ(笑)目の前が関門海峡で、隣は「赤間神宮」(源平壇ノ浦で入水された安徳帝が祭神)、、、源平から明治維新そして日清戦争への風が感じられますよ(笑)是非、どうぞ♪♪
返信する
Unknown (katsura1125)
2021-09-17 17:07:06
Mさま、有難うございます!
後期高齢者になる前に訪れたいものです。
そういえば、ブル先生は、海峡を挟んだ門司でした。先生の前ではモジモジ(おもしろくない?)。
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