人生ブンダバー

読書と音楽を中心に綴っていきます。
現在は、暇に飽かして、日々更新。

音楽会の感想 批評の精神 岩城宏之-畑中良輔-小林秀雄

2019-01-09 05:00:00 | Weblog

聴きに行った音楽会の感想をブログに書いている。--読み直すと、
その「場面」がパッと目の前に広がるから不思議だ。

二、三人の先生から「プロの評論家になれますよ」とか「音楽評論家
が書く物よりすばらしい」と褒められたことがあるが、自分には厳し
く、いい物はせいぜい10件に1件あるかないかと思っているし(それ
ほどもない?)、音楽の専門的な勉強もしていないので、無論プロに
はなれないだろう(笑)。

ただ、心掛けていることは、どんな演奏であれ、いい所があり、そこ
を褒めるというか、そこに着目して書くことにしている。

これはプラス思考(単なる楽天的?)という私の「性格」にも合って
いるのかもしれない(--どんな「考え」や「思想」、「理論」でも、
その人の性格が影響している、とフロイトが書いていた?)


ここで、「音楽会評」や「評論」について、「我が意を得たり!」と
いうことを書いてある本が、少なくとも三つあるので、記録しておこ
う。

岩城宏之『楽譜の風景』(岩波新書)
音楽会のあとのパーティーなどでは、演奏会の出来を最大限に誉めあ
げ、そしてさりげなくチクリとやって、さっと引き上げるのが、(指
揮者)同業同士のしきたりと言ってよい、という趣旨のことがp128に
書かれている。
すばらしかった点を最大限に褒め上げるということだが、ま、この場
合はどちらかというと、エチケットの問題かもしれない。


畑中良輔『音楽少年誕生物語』(音楽之友社)
こちらは、「マンフレット・グルリットの初放送記事」という文章に
出てくる。長文なので全文引用はできないが、その中に今日出海氏の
「批評家の貧しさ」として、
「我が国の文化批評の中には批評家自らの貧しさのために、批評の自
律性まで失われて、岡っ引きのような余裕のない、口さがない狭量さ
を暴露していることがある」(一部引用。現代仮名遣いに改めた。)
が紹介されており、それが畑中先生の批評精神を支える「根っ子」に
なったという。
それ以来、畑中先生は、「手厳しく、一刀両断のもとに切り捨てて何
が残るのか」という問いを持ち続けている、という内容だ。(p.128)


小林秀雄『考えるヒント』(文春文庫)
最近読んだものだが、いかにも小林秀雄らしい、ハッキリした物言い
だ。以下、一部を引用しよう。
 私は、長年、批評文を書いて来たが、批評とは何かという事につい
 て、あまり頭脳を労した事はないように思う。・・・・・・
 自分の仕事の具体例を顧みると、批評文としてよく書かれているも
 のは、皆他人への讃辞であって、他人への悪口で文をなしたものは
 ない事に、はっきりと気附く。そこから率直に発言してみると、批
 評とは人をほめる特殊の技術だ、と言えそうだ。(以下略)
(初出;読売新聞 昭和39年1月3日)








「音楽評論家」はおもしろいもので(--と言ってはまことに失礼だ
が。)、大木正興さんのように、一刀両断ではないにしても、めった
に褒めず、大絶賛もなかなかないという方もおられた(懐かしい!)。
さすが、「プロ」だ。大木さんは、残念ながら、平成時代を待たず、
59歳で亡くなられた。

昭和52(1977)年、9月、ムラヴィンスキー/レニングラード・フィル
ブラームスの交響曲第2番(これは私も聴いたが、天才的な演奏だった。)
について、
 オーケストラは大声でわめくのが能でないといわんばかりのしっと
 りとした表現は買う。だが音楽を貫流してゆく大切な栄養分が、ま
 るでざるからこぼれ落ちるように失われて、充実した持続感がさっ
 ぱり得られないのはどうしたことか。
なかなかこのような難しい表現はできない。人を褒めない特殊な技術
(笑)。



     *      *      *      *

新元号は、4月1日に発表になるという。
守旧派というか原理主義者というか伝統一辺倒の考え方をする、そうい
う人々にとってはトンデモナイ話?
慶應4年の「一世一元の制」は、昭和54年の元号法によって効力が消滅
した!?--このあたりを「研究」するとおもしろいかもしれない。

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