日々雑感「点ノ記」

備忘録(心の軌跡)

同窓生の葬式

2006年11月14日 | インポート
11月12日は、諫早農業高等学校農業土木科での同窓生の葬式に参列した。

長崎県内で農業土木科がある高校は、諫早農業高等学校だけということで、1学年で45名が入学し、いろいろな事情により退学した人もいたが、40名が昭和47年3月に卒業した。

卒業後の進路は様々で、建設省、県庁、市町村役場、道路公団、住宅公団、建設会社、警察官、測量設計会社、専門学校への進学、建築業の家業の跡継ぎ、農協、農業などだった。
後に、理学療法士になった人もいる。

亡くなった同窓生は、高校卒業後、土地改良団体連合会という組織に就職して、亡くなるまでその組織に勤めていた。

彼は、高校在学中はウエイトリフティング部で頑張り、全国大会で3位になったこともあった。

大柄の体格で、頑健そのものだった彼が、まさか52年で生涯を閉じるとは想像もできなかった。

長崎市田中町の彼の自宅での葬儀には、参列者が室内や庭には入りきれなくて、道路にまで大勢の参列者があふれ、彼やその親族の人柄が偲ばれた。

穏やかな顔で棺に納まっていた彼は、自分の余命を知っていたそうだが、いろいろと心残りな事もあっただろうにと思うと切なくなってしまう。

貧乏はしながらも、健康で仕事をさせてもらえることに感謝しなければと、しみじみと思っている。



豊田かずき


いじめと自殺と履修不足問題

2006年11月09日 | インポート
高校生の時の国語の先生が、授業中に、何の話からかは覚えていないが、「親からもらった命は、何物にも代えがたい大切な物で、自殺するのは卑怯なことなのだ。」と言われた事が印象に残っていて、その通りだという認識で今まで生きている。

最近のテレビでは、いじめによる自殺が頻繁に取り上げられていて、評論家と称する人たちが、それぞれの考えを述べている。

その中で、「いじめはおもしろいから無くなる事は無い。」と述べた評論家がいた。
そして、それと同じ考えだと言う若手のタレント弁護士がいた。
とんでもない考え方だと思う。

一方で、「いじめは犯罪であるという事をきちんと認識させ、いじめを行った者に対して厳正に対処すべきだ。」と述べた評論家もいた。
当然の事で、共感できる。

一番共感できた考え方は、「集団で陰湿ないじめをするような者は、大人になってもろくな大人にはならないのだから、今いじめを受けていて悩んでいる人は、一生懸命勉強して、将来、そのようないじめをしているような人間が足元にも及ばないような人間になる様にすればいいんだ。」というものだ。

陰湿ないじめをするような者は、ずる賢く、その事が発覚しても、その時は反省したふりをしてやり過ごし、しおらしく振舞うのだろう。

ひとりの人間が、「死」を思いつめるに至るというような事をしても、陰でニタニタと笑っていたりするような者たちだと思う。

そのような者たちに対する復讐を、自殺と遺書によってするというのは、最も愚かな事だ。

自殺をすれば、親や家族にどれだけの悲しみを与えるのかを少し考え、また、身体に障害を持っている人達が必死になって生きておられる姿に想いを馳せれば、自らの健康な体を自らの手で消滅させるような事が、いかに愚かで卑怯なことかが分かるはずだ。

しかし、物事の順序として、いじめをする者たちが一番悪い事に変わりは無い。

教師がいじめの先導役をしていた事例があったが、教師としての資質の欠如は明らかで、懲戒免職が妥当だと私は思う。

高校の履修不足問題で、「一命を賭してお願いします。」という遺書を残して自殺した校長がいた。

これは、命のかけ方を明らかに間違えている。
自分が容認してやってきたことが発覚して、その対処に困り、恰好を付けて逃げただけの事だ。

この事件に関して鳥越俊太郎氏が、「この事を美談として認識すべきではない。」と主張されていたが、私もそのとおりだと思う。

自分が自殺する事によって、その家族にどれだけの悲しみを与えるのかを、まず一人間として考えて欲しかった。
校長としての責任の取り方としては、間違った選択だったと思う。

履修不足問題に関しては、当初、正直者が馬鹿をみる事が無いように厳正に対処するという伊吹文部科学省大臣の方針だったが、結果としては人気取りを意識した国会議員などの圧力により、正直者が馬鹿を見る事で落ち着けてしまった。

高校を卒業するために必要な履修単位を、約一割の履修不足高校のために、救済処置と称して、割り引いて卒業資格を与える事にしてしまった。

学習指導要領という約束事を守らなくても、卒業できるのだという事例を国が認めてしまった事になる。
今後においては、今まで学習指導要領を遵守してきた大多数の学校から、それでよいのであれば自分のところもそのようにしますと言われても、文部科学省は反論できないはずだ。

狡猾な事をしてでも、それがある程度のまとまりになると容認されてしまうというような事がまかり通るような社会構造があって良いわけが無い。

大学受験のために存在するような高校であれば、〇〇県立△△高等予備校とでも名称を代えればよい。


小学校高学年の時の担任教師は、下着検査と称して、クラスの全児童を教室の中で下着姿にさせていた。
先生がすることだから当然の事なのだろうと、当時は納得していたが、本当はとんでもない事をその教師はしていた事になる。

学校で何かが起こると、教師の責任・校長の責任・教育委員会の責任というが、いじめについていえば、いじめた者たちが最も悪いのだ。
しかし、その事を知っていて隠蔽していた教師がいたとすれば、それも同様に悪い。

受験競争を勝ち抜き、教員採用試験という狭き門を突破して教師になり、せっかく掴んだ教職や学校長などの社会的地位を、ろくでもない陰湿な集団的いじめをするような子どもたちのために責任を取らせられたくはないと思うのは理解できる。

でも、隠蔽すべきではなく、事実をきちんと公表して、いじめを行っている者たちが悪いのだという事を言うべきである。
悪行をしているずる賢い者たちを保護するべきではない。

自殺することの愚かさと、そのような事によって復讐をする事が卑怯な方法なのだという事をきちんと教えるべきである。



豊田かずき