11月12日は、諫早農業高等学校農業土木科での同窓生の葬式に参列した。
長崎県内で農業土木科がある高校は、諫早農業高等学校だけということで、1学年で45名が入学し、いろいろな事情により退学した人もいたが、40名が昭和47年3月に卒業した。
卒業後の進路は様々で、建設省、県庁、市町村役場、道路公団、住宅公団、建設会社、警察官、測量設計会社、専門学校への進学、建築業の家業の跡継ぎ、農協、農業などだった。
後に、理学療法士になった人もいる。
亡くなった同窓生は、高校卒業後、土地改良団体連合会という組織に就職して、亡くなるまでその組織に勤めていた。
彼は、高校在学中はウエイトリフティング部で頑張り、全国大会で3位になったこともあった。
大柄の体格で、頑健そのものだった彼が、まさか52年で生涯を閉じるとは想像もできなかった。
長崎市田中町の彼の自宅での葬儀には、参列者が室内や庭には入りきれなくて、道路にまで大勢の参列者があふれ、彼やその親族の人柄が偲ばれた。
穏やかな顔で棺に納まっていた彼は、自分の余命を知っていたそうだが、いろいろと心残りな事もあっただろうにと思うと切なくなってしまう。
貧乏はしながらも、健康で仕事をさせてもらえることに感謝しなければと、しみじみと思っている。
豊田かずき
長崎県内で農業土木科がある高校は、諫早農業高等学校だけということで、1学年で45名が入学し、いろいろな事情により退学した人もいたが、40名が昭和47年3月に卒業した。
卒業後の進路は様々で、建設省、県庁、市町村役場、道路公団、住宅公団、建設会社、警察官、測量設計会社、専門学校への進学、建築業の家業の跡継ぎ、農協、農業などだった。
後に、理学療法士になった人もいる。
亡くなった同窓生は、高校卒業後、土地改良団体連合会という組織に就職して、亡くなるまでその組織に勤めていた。
彼は、高校在学中はウエイトリフティング部で頑張り、全国大会で3位になったこともあった。
大柄の体格で、頑健そのものだった彼が、まさか52年で生涯を閉じるとは想像もできなかった。
長崎市田中町の彼の自宅での葬儀には、参列者が室内や庭には入りきれなくて、道路にまで大勢の参列者があふれ、彼やその親族の人柄が偲ばれた。
穏やかな顔で棺に納まっていた彼は、自分の余命を知っていたそうだが、いろいろと心残りな事もあっただろうにと思うと切なくなってしまう。
貧乏はしながらも、健康で仕事をさせてもらえることに感謝しなければと、しみじみと思っている。
豊田かずき