日々雑感「点ノ記」

備忘録(心の軌跡)

寒い

2012年10月31日 | インポート
寒いと思うような日だった。

上の方の服を着る枚数が、2枚から急に4枚に増えた。

石列の計測で、ピンポールに取り付けた反射プリズムを持って、その円形気泡管を中心に合わせてピンポールを鉛直に立てて固定し、器械の観測が終了するまでじっとしているのが本日の仕事だった。

移動する距離がほとんど無いので、体を動かして作業をしている人達に比べると、寒さをより感じやすいのだと思う。

だんだんと、朝起きるのが億劫になるような季節が近付いて来ている。

風邪などで休む人もぼちぼち出始めるのかもしれない。

6月4日に、大村市竹松遺跡の発掘アルバイト作業員として採用してもらってから、2回雇用契約の更新をしてもらったが、今まで休むことなく皆勤できている。

勤務に関する取り扱いの自由度が、かなり認めてもらえているようなので、家庭の主婦の方や、どうしても平日にしか済ます事が出来ないような用事が出来た人などにとっては、勤めやすい職場なのかも知れない。

そろそろ、靴下を2枚履いて、上着のポケットにホッカイロを2個入れなければならないような気候になりつつあるようだ。



豊田一喜




誕生日

2012年10月30日 | インポート
本日はA氏の51歳の誕生日だったそうで、おめでたいことだと思う。

自分と同じぐらいの年齢かと思っていた。

大きな組織の中で熟成されてきた責任感などが、その風貌からにじみ出て、落ち着いた感じを受けるからなのだろうと思う。

自分はほとんど大きな組織に所属した事がなく、自分の思うように勝手に生きてきたような部類の人間だから。

51歳の頃は、ただひたすら納期に追われ、土曜日曜の休みもなく、夜中でも事務所の中で、液晶シャッターメガネをかけて、デジタルステレオ図化機の中の立体摸像を視認しながら、数値地図のデータを取得する毎日だったように思う。

そのような事を経験しているので、今やらせてもらっている仕事が非常に楽しく感じられる。

あと3ヶ月過ぎると59歳になる。



豊田一喜


調印式

2012年10月28日 | インポート
小浜町の旅館の一室で、調印式のような事をした。

初対面の人二人と、以前に二度会った事があるその息子さんと、私と妻と娘の6人での食事会前のセレモニーだった。

調印する用紙の該当欄に、自署して押印するだけのことだったが、生まれて初めてその欄に署名した。

ありがたくて、嬉しい日だった。



豊田一喜


昼飯のおかず

2012年10月27日 | インポート
朝の6時に起きて仕度をしてから、有喜漁港にボラ釣りに出かけた。

歯を磨いたり、顔を洗ったり、クーラーボックスに入れる氷を準備したりしていたら、出発は6時半ごろになってしまった。

仕事のある平日には、3時半頃には起きているが、休日にはゆっくり目に起きる事にしている。

魚釣りといえば、私の場合、釣れてくれる小魚なら何でもいいので、あえて○○釣りという言い方はしないで、海釣りの時には、単に「魚釣り」に行くというのが最近の傾向だった。

しかし、先週の日曜日の午後からは、「ボラ釣り」という目的を明確にして魚釣りにでかけるようになった。

有喜漁港に流入する河川の河口付近の突堤の一部区域において、干潮時間帯にボラの群れが回遊して、サビキ仕掛けでボラがたくさん釣れるということを学習したので、「ボラ釣り」という魚釣りに行くと言えるようになった。

7時少し前に有喜漁港に到着した。

ボラ釣りに、私から誘って、同行する事を約束していた知人とその友人は、まだ到着していなかったが、しばらくしてから合流できた。

潮加減は、丁度、満潮から引き潮に転ずるところだった。

サビキ仕掛けを投入したが、ボラの回遊は見られないので、いつものように渓流仕掛けの青イソメの餌釣りの竿も出した。

程なくしてベラの子が釣れてくれた。

その後もぼちぼちとベラの子が釣れたが、ボラの群れの回遊は見られない。

河口の流れの中央付近では、ボラが頻繁に飛び跳ねているのが目撃できる。

知人の竿に、河口の中央付近で、一度だけボラがかかったがすぐに外れてしまった。

9時半を過ぎて、潮位が大分低くなった頃から、ボラの群れの回遊が、突堤のすぐ近くで確認できるようになった。

時合いが到来した。

サビキ仕掛けの錘カゴにアミを詰めて投入し、その投入した仕掛けの浮きの付近にさらにアミを手で投げ入れる。

すると、そのアミが拡散する範囲に、ボラの群れがうじゃうじゃと集まってくる。

そして浮きが動いたので、すかさず合わせると、残念ながらサビキ仕掛けが途中で切れてしまった。

急いで予備のサビキ仕掛けをセットして、投げ入れる。

すぐにボラが喰らいついてくれた。

竿を立てて、突堤の上まで抜き上げる。

次は、2匹かかっていた。

かなり重かったが、慎重に抜き上げた。

ボラをはずす時に、仕掛けがからまった。

予備の仕掛けは残っていなかったので、その絡まった仕掛けを元に戻す作業にかかる。

その頃から、知人の竿にもボラがかかるようになった。

うじゃうじゃとしたぼらの群れが回遊して、次々と知人はボラを釣り上げていた。

私も仕掛けを元に戻してから、何匹かはボラを釣り上げた。

友人が、コーヒーとバナナの差し入れを3人分持って、様子伺いに来てくれた。

10時20分頃に、撒き餌のアミがなくなったので、私は納竿したが、知人とその友人は釣りを続けていた。

知人は見ていた時だけでも、20匹程度はボラを釣り上げていたようだ。

その後に何匹釣り上げたかは分からないが、かなりの匹数を釣り上げたものと思う。

ボラ釣りに誘ってよかった。

私の本日の釣果は、ボラ9匹、ベラ6匹だった。

家に帰って魚を捌いた。

ボラ2匹は刺身にした。

残りのボラは塩焼きにした。

ベラと刺身にしたボラのアラは、煮付けにした。

それらを昼飯のおかずにした。

今の季節、諫早市の有喜漁港の一部での干潮の時間帯には、ボラがよく釣れる。



豊田一喜
















お疲れ様でした

2012年10月26日 | インポート
Tさん、お疲れ様でした。

大村市竹松遺跡のアルバイト発掘作業員として働かせてもらうようになってから5ヶ月になる。

その間、たくさんの作業員の方々と話をさせていただき、それぞれの方がいろいろな職歴を持っておられる事が分かった。

花屋さんに勤めていた人、看護士だった人、料理人だった人、建設関連業で働いていた人、団体職員だった人、公務員だった人など多様な職業経験者の方々が働いておられる。

その中でもTさんは、昼間のアルバイト作業が終わった後に、将来の目標に向って、夜間の専門学校に通っておられる。

まじめで寡黙な人だと思っていたが、最近ではよく話もするようになっていた。

アルバイト仲間数人で、休日に魚釣りに行ったと、とても楽しそうに話をされていた。

来月から、その将来の目標としている関連の職場でのパートの仕事で働く事が決まったのだそうだ。

喜ばしいことだと思う。

毎日お会いしていた人の顔が見られなくなる事は寂しいことだが、Tさんの将来の目標に向ってまじめに努力されている姿が光り輝いているように思えて、老齢に近付きつつある身としてはうらやましくも感じる。

近い将来、目標の仕事に就かれたTさんのお世話になる事が、もしかしたらあるかもしれない。

将来の目標に向って、今自分に出来る新しい知識と実務の修得をする努力を、昼間に働いた後で継続するということは、並みの意志ではなかなか出来ないことだろうと思う。

妻は、高校を卒業してから紡績工場で働きながら、夜間の短期大学に通って保母の資格を取得している。

その3年間の夜学は、仕事の疲れによる睡魔との闘いの日々だったそうだ。

しかし、その時に取得した資格のおかげで、今も保育園で働かせてもらう事が出来ている。

努力は、何等かの形で将来に繋がる可能性がある。

Tさん、頑張ってください。

そして、お疲れ様でした。



豊田一喜











時間の速度

2012年10月25日 | インポート
最近特に、時間の経過が速く感じられる。

朝、目が覚めてから出勤までの時間は、あわただしく過ぎる。

出勤途上の車の中でも、3人で色々な話をしながらの楽しい時間なので、およそ1時間半の時間もすぐに過ぎてしまう。

ラジオ体操をしてから、朝礼の後に、9時から荷物を持って現場に移動し、仕事を始めて測量作業の準備をしてから少しだけ計測作業をしていると10時の休憩の号令がかかる。

休憩明けに仕事を再開し、集中してピンポールを静止させて立てる動作を繰り返していると、11時の小休止の号令がかかる。

その後の昼休憩までの時間の経過も、とても速く感じる。

指示された作業を、なるべく早く終わらせて、次の作業に移りたいと思いながらの今週の作業内容だったので、特にそのように感じたのかもしれない。

石列の中の石の形状を、ひとつひとつ計測するための作業が主だった。

途中で、出土遺物の位置を特定して記録するための「点上げ」という作業も何点かはあった。

トータルステーションで、石の正射影形状を、なるべく実物に近く計測して記録するためには、スムージングという多角形を曲線化して表示する概念の理解と認識が必要になってくる。

コンピュータは、計測している点列の結線状況を認識し、その流れに従った曲線化をして出力する。

計測する点列の数と位置次第で、最終的に出力される図形の形状が異なってくる。

例えば、四角形の場合には、その角の4点だけを抑えると、スムージング機能によって、円や楕円のような図形として出力されてしまう。

そのようにならないような計測点列の配置が必要になってくる。

そのような概念の理解と認識をして、ピンポールを鉛直に立てて計測点を移動させているつもりではいるが、作業を指示している人達から見れば、計測点の取りすぎという風に見られているのかもしれない。

となると、当然の事ながら作業の進捗度が遅いという評価になってしまうのだろう。

現場で、計測対象物の正射影形状を、実物に近い形状でデータ取得しておれば、後は編集作業にて陰線処理と個別の石の稜線などを描きいれるだけで石列の図面は完成する。

という認識で作業をやらせてもらってはいるが、理解して頂いているのかどうかは分からない。

昼休みに昼食を摂り、午後1時より10分ほど前から測量器械を持って現場に移動して器械の設置をしていると、すぐに1時を回り、ベルとコンベアーが動き出す。

集中してピンポールを立てて作業をしていると、程なくして2時の小休止の号令がかかる。

小休止明けから3時の休憩までも、もう3時かという感覚で過ぎてしまう。

3時の休憩から、4時半頃のブルーシートかけまでの時間も、作業の進捗度から考えて、もう少し時間が欲しいと思うぐらいの感覚で過ぎ去ってしまう。

5時少し前の終礼を終えて帰路につき、自宅までの1時間半も、朝の通勤時と同じように楽しく過ぎる。

本日は、中央小学校の郷土誌クラブの生徒さん9名と、引率の先生方が、3時から3時半の間に、大村市竹松遺跡の発掘現場の見学にみえていた。

真夏の頃よりも日が沈むのが大分早くなって、家に帰り着く頃には暗くなっている。

楽しかったり、集中している時の時間の速度は、とても速く感じる。


豊田一喜












学者の責任

2012年10月24日 | インポート
イタリアの裁判で、地震予知に失敗した責任を、関係した学者等に科す判決が言い渡されたそうだ。

以下は、本日の毎日新聞記事の転写。


地震予知失敗 禁固6年

イタリア防災庁付属委の7人  過失致死傷の罪

 多数の犠牲者が出た09年のイタリア中部地震で、大地震の兆候がないと判断し被害拡大につながったとして、過失致死傷罪に問われた同国防災庁付属委員会メンバーの学者ら7人の判決公判が22日、最大被災地ラクイラの地裁で開かれ、同地裁は全員に求刑の禁固4年を上回る禁固6年の実刑判決を言い渡した。

 地震予知の失敗で刑事責任が争われる世界的にも異例の事件。
同地震では309人が死亡、6万人以上が被災した。

 イタリアの刑事裁判では判決理由は後日開示されるため、裁判所の判断の詳細は不明。
被告側は控訴する方針を明らかにした。

 防災庁幹部だったベルナルド・デベルナルディニス被告(64)は閉廷後「私は自分の務めを果たしただけで間違いはおかしていない」と無実を主張した。

 大学教授や地震学の専門家らで構成される同委員会は、数ヶ月にわたり群発地震が続いていた中部の状況について、09年3月31日にラクイラで開いた会議で大地震に結びつく可能性は低いと報告。
多くの住民が6日後の4月6日に起きた中部地震で死傷したとして、7人が11年5月に起訴された。


以上は、毎日新聞記事より転写。



画期的な判決だと私は思う。

当然そうであるべき事を、今まではそのようにしてこなかっただけの話で、公費から報酬を貰って行なっている仕事であれば、その事に対する責任を負うべきは当たり前のことであろう。

公務員等の職務の結果に対する責任の取り方が、余りにもゆるすぎると常々思っていた。

人命に関わるような、地震予知という重要な職務なのだから、結果責任を負うということは当たり前だと私は思う。

控訴の結果はどうなるのかは分からないが、ラクイラの地方裁判所の判断は妥当だ。

人命に関わるような研究はしておりますがその分析結果に対する責任は負いかねますというのであれば、誰でも研究者になれる。

学者等の知識人と呼ばれる人たちの間からは、この裁判結果に対する反発の声が多いだろうが、それぐらいの覚悟で研究には臨んでもらいたいと末端で生活している者としては思わずにはいられない。

日本においてはそのような判決は出にくいだろうし、まずそのように学者を訴えるということをしない民族性の様には思う。

しかし、我が国においても、地震予知などに関する学者の方々の責任意識を変えていった方が良いと私は思う。



豊田一喜






ボーっとしていた話

2012年10月23日 | インポート
仕事帰りに友人と二人で、諫早市長野町のドラッグストアーコスモスに、かなりの頻度で立ち寄っている。

たいていの場合、1丁で18円の豆腐を3丁とペプシコーラの1.5リットル入りペットボトルを1本購入する。

合計で172円になる。

1丁で18円の豆腐は、かなりの大きさで、私の貧相な味覚ではおいしく感じる。

生来、粗食で育ってきたので、ほとんどの市販の食糧品をおいしくないと思う事はまず無い。

なぜコカコーラではなくてペプシコーラかというと、ペットボトルのパッケージの違いかもしれない。

私はペプシコーラのパッケージの方が好きだという理由で、そちらを選ぶことの方が多い。

コカコーラとの味の違いはあまり分からない。

で、いつものように駐車場に車を止めて友人と二人で店内に入る。

カゴを持って、豆腐とペプシコーラの所へ向い、1丁18円の豆腐を3丁とペプシコーラ1本をカゴに入れてレジに並ぶ。

500円玉で支払い、328円のお釣を貰いレジを離れる。

そしてどういうわけか、レジ袋に購入品を入れる工程を飛ばして、無意識のうちにカゴに購入品を入れたままで店を出た。

友人は同じレジで、私の後ろに並んでいたが、その様子は見ていなかった。

車に戻って、いつものように左手にレジ袋を移して右手でズボンのポケットに入れている車の鍵を出そうと思った時に、何か変だと思った。

右手には、店のカゴを下げていた。

慌てて店に戻ると、出口付近で買い物を終えて店から出て来る友人に遭ってしまった。

右手に下げている店のカゴを見せて笑顔を見せるしかなかった。

車の鍵を友人に渡して、慌てて店の中に入り、レジ袋に購入品を入れ替えてから店を出て車に戻った。

当然の事ながら、車の中で待っている友人に笑われた。

ボーっとしていた話。




豊田一喜












検証と1匹20円のボラ

2012年10月21日 | インポート
本日は、昨日の釣りで得た仮説を検証するために、釣りに出かけた。

というような理由を付けたが、何の事は無い、釣りに行きたかっただけ。

しかし、検証をしてみたいと思ったのは事実。

何をかというと、ボラは、突堤の陰になる時間帯の干潮時に、ある一定の区域を回遊していて、サビキ仕掛けがボラの目からすれば見えにくくなり、ボラがたくさん釣れる、という事を検証したかった。

昨日、友人が帰った後で、ボラが面白いように釣れた事の要因を確認したかった。

そのために、午後3時半ごろに家を出て有喜漁港に向かい、午後4時より少し前ぐらいから釣り始めた。

諫早市森山町の「渋谷釣具店」で、170円の撒き餌用冷凍アミを買ってから出掛けた。

突堤の先端付近では、4人ほどが釣っていたが、昨日ボラが釣れた場所には誰もいなかった。

海は少し濁っていて、昨日のような透明度ではなかった。

ボラの回遊は見られない。

仕掛けを入れて、撒き餌をしてから3分ぐらいしたら、表層近くをボラの群れが回遊してきた。

やはり、その付近で溜まって回遊しているのだということは確認できた。

後は、突堤の影により暗めになっている時間帯においては、ボラの目からはサビキ仕掛けのハリスが見えにくくなっていて、ボラが釣れやすいということの確認が必要になるが、そのためにはボラがサビキの擬餌針に喰いついてくれなければならない。

例の如く、投入している仕掛けの直近に、ひとつまみのアミを撒き餌として投げ入れる。

その周りをボラの群れがうじゃうじゃと回遊して、アミを食べているのが見える。

その直後に、浮きが動いた。

サビキ仕掛けの部分の長さのすぐ上で浮きを固定している。

すぐに合わせると、心地良い重さが竿に伝わってくる。

慎重に竿を立てて、突堤の上まで抜き上げる。

興奮して、体の血流が早くなっているのがわかり、自分でもおかしく思える。

そのような事が間断なく続いた。

途中で、針がかりはしたが釣り上げる事はできなかったのが何尾かはいたが、ほとんどは興奮とともに釣り上げた。

かくして、昨日考えた仮説は、見事に検証できた。

午後5時10分ごろには、撒き餌のアミを使い切ったので納竿したが、クーラーボックスが重たかった。

帰宅してから数えてみたら、20cm未満も3匹ほど混じってはいたが、残りは20cmオーバーで、全部で15匹釣れていた。

170円の餌と、70円ぐらいのサビキ仕掛けと、60円の錘カゴで、合計300円。
15匹釣れたから、1匹当たりおよそ20円のボラということになろうか。

うろこを落とし、えらと内臓を取り出して塩水に漬けておいてから、きれいに水洗いして、大き目の鍋で煮付けにした。

水、料理酒、味醂、砂糖、薄口醤油などで作った煮汁を沸騰させてからボラを入れ、落し蓋をして30分間ほど煮付けた。

昨日の釣果で薄く塩をして冷蔵庫にしまっておいたボラは、塩焼きにして食べた。

適度な塩味で、おいしかった。

趣味に没頭できた連休だった。

本日の釣果(さばいた後。画像をクリックすると拡大する。)
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豊田一喜











無風状態

2012年10月20日 | インポート
2ヶ月に一度の病院通いの日だった。

2か月分の薬を貰うために、その都度診察を受けなければならない。

待ち時間5分。体重・血圧を測定してもらって、医者の先生の診察は2分程度。

それから会計の窓口に診察代のお金を払うまでが10分以上待たされる。

会計で診察代を支払ってから、別の所にある薬局で医者から出してもらった処方箋通りの薬を出してもらう事になる。

その薬局でも通常はかなり待たされるが、本日は私が行った時刻には薬局の利用者が比較的少なくて、5分程度で名前を呼ばれた。

11時20分頃に薬を受け取ってから、友人に電話を入れてみた。

「釣れてますか?」

「ボラばっかりです。」

「どこですか?」

「この前の有喜です。」

「今病院が終わったので、これから私も行きます。」

ということで、家を出る時から魚釣りの諸道具は車に積んでいたので、途中でサビキ仕掛け用の餌のアミを買って、有喜漁港に向う。

餌釣り用の青イソメは、昨日の仕事帰りに購入していた。

この前釣った有喜漁港の河川右岸側の突堤では、友人も含めて4人が釣竿を出していた。

私も友人の近くで竿を出す。

サビキ仕掛けの錘カゴにアミを詰めて投入する。

ボラが群れを成して回遊しているが喰いついてはくれない。

友人は時々、サビキ仕掛けでボラを釣り上げている。

仕掛けは昨日の仕事帰りに同じ物を買ったので、仕掛けのせいではない。

ということは「ウデ」の違いしか考えられない。

私の場合は、海釣りは好きではあるが上手ではない。

友人との釣果の比較で、それが歴然としている。

サビキ仕掛けを置き竿にしたままで、渓流仕掛けの竿を出し、青イソメの餌釣りを始める。

渓流仕掛けの餌釣りの方には、ぼちぼちとカワハギやベラなどの小魚たちが喰いついてくれる。

本日釣れてくれた小魚の中に、18cmぐらいのアラカブが1匹混じっている。

0.4号のハリスで、かなり引き込んで楽しませてくれた。

友人以外の3人の釣り人は、午後3時ごろまでには納竿して帰ってしまった。

夕方の4時ごろに友人は用事が出来たので、先に帰る事になった。

その際に、私にボラを4匹分けてくれた。

友人は全部で10匹以上のボラを釣っていた。

心優しい友人である。

ありがたくいただいた。

友人が帰った後で、友人が釣っていた場所に釣り座を移して、サビキ仕掛けで挑戦してみる。

アミ餌はほとんど使っていなかったので、ひとつまみずつ撒き餌のようにして、仕掛けのところに投げ入れる。

回遊しているボラがうじゃうじゃと寄って来る。

そのうちに浮きが動いた。

素早く合わせて引き上げる。

25cmぐらいのボラが上がった。

その後も同様にして、短い時間の間に立て続けてボラが釣れてくれた。

小さなクーラーボックスにぎゅうぎゅう詰でも入らなくなったので、5時少し前には納竿した。

帰ってから数えてみたら、ボラの総数は13匹だったので、友人から分けてもらった4匹を差し引けば、9匹は自分で釣った事になる。

その他にも、カワハギ4匹、ベラ1匹、アラカブ1匹、メゴチ1匹、海タナゴの子1匹、名前を知らない小さな魚の子3匹の釣果だった。

なぜボラが釣れたかということは、だいたい理由が分かる。

お日様の位置が傾き、釣っていた場所が、突堤の陰になって暗めになり、ボラの目からはサビキ仕掛けの擬餌針が、アミと判別しにくくなったのではなかろうかという事が考えられる。

本日は無風状態の絶好の釣り日和だった。

先日来、心の中に吹き荒れていた怒りの強風も、ボラが釣れた興奮ですっかり治まって無風状態に落ち着いてしまった。

単細胞の典型みたいな自分に気付く。

心の中の思いは、吐露してしまえば楽になる。

最近書いた日記のテーマで、「備忘録」と「新聞配達」というのにコメントが寄せられた形跡があるが、私が読む前に削除されていたので内容が分からない。

少し気にはなるが、まーいいか。

心の中は無風状態に戻ったので、月曜日からは、また楽しく働かせてもらおう。

趣味の魚釣りは、心をリフレッシュしてくれる。



豊田一喜












備忘録

2012年10月17日 | インポート
最近忘れてしまうことが多い。

毎日、何をしたかを記録しておかないと、2日ぐらい前に何をしたかすら明確には思い出せない。

そのための備忘録としてこのブログを続けている。

現在は、大村市竹松遺跡のアルバイト作業員として使っていただいているので、記録する内容もそこで見聞した事柄が多くを占めることになる。

仕事場が遺跡の発掘現場なので、発掘の進捗状況をリアルタイムで見聞きできる。

ということは、今まで土中で埋もれていた過去の遺構や遺物との対面が自由に出来る。

発掘作業アルバイト作業員としての特権と言えるのかもしれない。

社会科の歴史の教科書の写真でしか見た事が無いような遺物の実物をみる機会にも恵まれている。

小学校の高学年の頃、石器時代の事を教わる授業の時に、同級生が自分の家の畑から出た物だと言って、刃先がきれいに整形されている石斧を持って来てみんなに見せたことがある。

彼の家の周辺には、「火箱遺跡」と呼ばれている区域がある。

現況は、山すその一面の畑となっている。

石器時代がいつ頃の年代かは知らないが、そのような時代にも彼の家の周辺では、石器を使う人たちが住んでいたのだろうか。

ずいぶん以前に、旧石器時代の遺物をあらかじめ埋めておいてから、自分が掘り出して、教科書の記載内容まで変えてしまったような「神の手」事件があった。

そしてその当時の考古学会も、彼の「神の手」による発掘成果を容認していた。

文献にも残す事が出来なかったような時代の事柄は、埋まっている遺物などから類推するしか無いのだろうから、そこから該当する時代の遺物などが出土したとなると、その遺跡周辺では、人々がそのような時代に生活をしていたのだということになってしまうのだろう。

現在は、そのような事件があったころよりも科学技術が進歩しているだろうから、様々な科学的な方法にて遺物等の年代を検証することも可能とはなっているのだろうが、まずは、専門知識を持った調査員の方々の蓄積された知識と経験によって判断されるものと思われる。

調査員の方々は、出土した土器や陶器・磁器などを見て、何々時代の中国製品などと即断される。

常々思っていることだが、本当にそのような焼き物は、その時代には中国製しかなかったのだろうかという疑問を持っている。

もしかしたら、いにしえの日本人の中の誰かが、中国の製品と同じ様な製法を、試行錯誤の末に完成して、同じような時期に製造していたのかもしれないと空想する。

学問や技術は、同時発生的に別々の場所で発想されているような事例もある。

恣意的に埋めて掘り出した石器によって、教科書の記載内容までも変わってしまうような学問の世界だから、現行の定説が、何等かの発見で覆される可能性を多く秘めているのではなかろうか。




豊田一喜











新聞配達

2012年10月15日 | インポート
我が家への朝刊は、いつも4時半ごろまでには事務所の郵便受けに配達される。

その時間帯にはほとんど起きていて、事務所の中にいるので、朝刊が配達された事がすぐに分かる。

新聞の休刊日以外には、雨の日も風の日も関係なく、必ず配達される。

我が家に新聞を届けてくれている人は、顔も見たこともないが、おそらく昼間は他の仕事をしている人ではなかろうかと思う。

バイクではなく車で配達をされている。

早朝の4時半頃だから、道路に車を止めていても交通の妨げにはならないだろう。

その新聞配達の人が我が家に新聞を届ける時刻と同じぐらいに、隣りのご主人は仕事に出かけている事が、車のエンジン音で分かる。

隣のご主人といっても、小さいころから一緒に遊びながら育った間柄だ。

諫早市内の勤め先まで、4時半までの時間帯の中で出勤しているようだ。

中学生のころ、自分も新聞配達をしていた。

自転車での配達だが、冬の寒い季節には、耳たぶにしもやけが出来て痛かったし、雨の日には母親のカスリ模様の雨合羽を着ての配達だったので、恥ずかしかった思い出がある。

男の子が女物の雨合羽を着ているということが、とても恥ずかしく思えて、なるべく同級生などに目撃されないようにと願っていた。

それでも、当然の事ながら、一日も休まずに配達を続けた。

田舎のことゆえ、配達する家の一軒一軒の距離が離れていて、40部ぐらいを配達するのに、およそ一時間半ぐらいはかかっていたように記憶している。

1部に付き配達代が35円ぐらいだったから、1ヶ月でもらえるお金は、1500円程度だったと思う。

45年ぐらい前の事だが、中学生だったその当時の自分にとっては、自分で自由に使える貴重なお金だった。


今の新聞代は、1ヵ月3007円だが、その中のいくらかが新聞配達の人の配達代になっているのだと考えると、1日当たり100円という金額は妥当だと思う。

新聞配達の人のおかげで、1日当たりジュース1本分のお金で、最新の情報を紙に印刷された活字で読み取る事が出来る。

ただし、その中の情報の真偽については、各人でよく判断して、情報操作により騙される事が無いようにしなければならない。



豊田一喜




おかしいんじゃない?

2012年10月14日 | インポート
福岡市が現業職員の数を将来的にゼロにして、それらの業務を民間に委託する検討に入ったという記事をインターネットで見た。

以下は、その転写。



「高給」現業職員ゼロ目指し、検討始めた政令市

2012年10月14日(日)10:58

 福岡市は、警備員や学校用務員といった現業職員約950人について、今後は退職者が出た後の補充を行わず、段階的に民間委託を進め将来的にゼロを目指す方向で検討に入った。

 2013~16年度の4年間で約850億円の財源不足が見込まれる厳しい財政下で、民間の2倍前後の給与を払い続けるのは市民の理解が得られないと判断した。現業削減は全国的な流れだが、ゼロを打ち出すのは異例。ただ組合側の反発も予想され、曲折もあり得る。

 現業職員の内訳(5月現在)は、調理業務員332人、学校用務員250人、清掃職員111人、自動車運転手80人、船舶職員33人、警備員31人――など。年齢構成は20~30歳代が約3割、40~50歳代が約6割、60歳代が約1割となっている。

 市によると、昨年4月現在の現業職員の平均月給は約38万7000円で、人件費の年間総額は約56億円。民間の類似職種と比べると、警備員が約47万8000円で民間の2・48倍、用務員が約39万2000円で1・87倍などとなっており、市議会でも削減の必要性がたびたび指摘されてきた。

以上は、転写記事。


この記事を読んで、「おかしいんじゃない?」と思った。

現業職員の内訳(5月現在)は、調理業務員332人、学校用務員250人、清掃職員111人、自動車運転手80人、船舶職員33人、警備員31人――など。年齢構成は20~30歳代が約3割、40~50歳代が約6割、60歳代が約1割となっているそうだ。

しかし、それらの人たちが就いている職種は、役所の仕事の中でも、内容的に一番濃く働いておられる仕事の様に客観的には思える。

なぜ現業職員だけに焦点を合わせるのだろうか。

現業職員以外の職員たちは、自分たちは別のランクの職種だという、間違って勘違いした、上から目線でしか物事を考えられないからに他ならない。

記事にもあるように、民間の同業種の2倍近い給料だという指摘であるが、それを言うならば、現業職種以外の市役所職員も同様である。

要するに、公務に就いている人たちの給料は、一般の民間企業の給料の2倍近い額である事を認めているようなものである。

しかし、彼らはそのような認識を持ってはいない。

持ちたくないと表現した方が良いのかもしれない。

自分たちの既得権益だけは、適当に言いつくろって維持し、一部分のトカゲの尻尾切りの様なことで自分たちに累が及ばないように画策してしまう。

民間の平均的な給料を提示する場合においても、自分たちにとって都合のいいような、従業員数50名以上の企業の給料の平均値を示す。

そして、そのような金額を基準にして役所職員の給料は決められているのですよと説明する。

本当の民間企業の全体の平均給与は、公務員と呼ばれる役所の職員が貰っている金額のおそらく半分以下であろう。

従業員数50名以上の企業の平均値を採用するという客観的な根拠が無い。

狡猾である。

従業員数50名以上を維持し続けている企業は、民間企業の中でも優良企業の部類に入る。

役所は民間人から見れば、優良企業などではなく、最も費用対効果の低い不良企業のような存在であるように私には思える。

いにしえより、役所といわれる所で働く人たちの給料は、民から集めた税によって賄われてきた。

自分たちの自治体の財政事情などお構い無しに、組合やお手盛りの人事院勧告などという御旗の元に、特別職公務員である議会議員と結託して、、自分たちの取り分だけは中央の公務員の給料を基準にして確実に上昇させてきた。

そして、このままでは自治体の財政運営が立ち居かなくなるという洗脳を進めて、強引に近隣自治体との合併を推し進めた。

公務員と呼ばれる人たちの給料を3割程度減額すれば、その人たちの総数は維持したままで自治体は維持できて公務は遂行できるのに。

その事によって、各自治体で培われてきたものが消滅して行っているような事例もある。

入ってくるものが少ないのに、自分たちの給料などは減額せずに運営し続ければ、一般の民間企業であれば倒産してしまう。

しかし、役所はなかなか倒産しない。

北海道の夕張市は倒産したが、それによってやっと役所職員の給料が民間レベルに近付いた。

従来の給料より3割程度少なくなったそうだが、それでもその地域の民間企業の本当の平均額と比べれば多いのではなかろうか。

そして、そのような給料レベルでも、その地域においては充分に生活が可能であるはずである。

もしもそのような給料で生活ができないのであれば、夕張市の職員数はゼロになるはずであろう。

そのようにはなっていないということが、そのような給料体系でも、その地域で生活するには順当だということを証明していると言えるのではなかろうか。

他の、あらゆる役所や自治体においても、まず職員全体の給料を削減する事が急務であろう。

職員の総数を減らす必要は無い。

公務員という職業は、たとえ現状の給料の3割減の金額になったとしても、働き口の少ない地方にとっては、最も安定した職場であると言える。

若い人たちがふるさとに戻ってくる時の受け入れ先として、そのような公務員の総数は維持しておかなければ、地域は衰退してしまう。

全国規模でそれが実施できたならば、月々に膨大な支出金額を抑えることが出来る。

雲仙市においても、現行の給料を1割減額しただけでも、年間で2億5千万円が捻出できる。

表向きの金額だけでもそれだけの金額になるのだから、詳細な金額としてはもっと多い金額になるはずである。

消費税など上げなくとも、財源は確保できるはずだ。

などとひとりで思っても、偏差値の高い、おりこうさん官僚に牛耳られている日本においては無理な話かな。

福岡市の話に戻す。

今後は退職者が出た後の補充を行わず、段階的に民間委託を進め将来的にゼロを目指す方向で検討に入ったという。

ということは、現行の現業職正職員が、全て定年退職してしまうまでの今後およそ40年間近くは、同じような仕事をしていても、民間委託された同業種の人との間に、その給料の格差が2倍近くある人たちが、同じ職場で働くということになるのだろうか。

役所職員の考えることは、いかなる時においても、自分たちを基準に考えており、公僕という言葉は死語になってしまった。

おかしいんじゃない?



豊田一喜



緩和のための小魚釣り

2012年10月13日 | インポート
休日の過ごし方。

・前日の夜に、発泡酒を時間を気にせずにゆっくりと飲むこと。

・時刻を気にせずにゆっくりと眠ること。

・休みの日にしか出来ない家庭内の事柄を処理すること。

・平日の緊張を緩和するための趣味に没頭すること。

などとパターン化している。

本日は、休みの日にしか出来ない家庭内の事柄を処理することの一環として、小屋の一部を片付けた。

そろそろ稲刈りも始まり、耕作してもらっている田んぼの上げ米を持って来てもらえる時期が近付いてきているので、その保管場所となるスペースを小屋の中に確保しておかなければならない。

そのために、小屋の中の一部を片付けて、米袋を置くためのスペースを作った。

次は、平日の緊張を緩和するための趣味に没頭することという順番になる。

趣味といえば、魚釣りと家の中でゴロンとしてテレビを見ることぐらいしかない。

家の中でゴロンとしてテレビを見ていると、一日なんかあっという間に過ぎ去ってしまうのでもったいない。

で、当然の事ながら魚釣りに出かけることになる。

出かける少し前に友人から電話があっていた。

飯盛町の江の浦で釣ったが全然釣れない、結の浜でも釣れないという内容。

それでは、有喜漁港に行ってみればと答えておいた。

というわけで、午後には自分も諫早市の有喜漁港に向かう。

河口右岸側の突堤の先端で、友人がひとりで釣っていた。

釣果はと尋ねると、「へへー」とにんまりとして言う。

何か釣れているのだと思って、クーラーボックスを見せてもらう。

ボラとカワハギとアイゴ(バリ)が釣れていた。

潮は、干潮を過ぎて満ち潮に転じている。

渓流仕掛けに青イソメの餌をつけて投げ入れて、目印を注視していると当たりがあり、小さなキスが釣れてくれた。

友人は、30cmぐらいのボラを、サビキ仕掛けで釣り上げた。

その後も二人ともに、ぼちぼちといろいろな小魚が釣れてくれた。

夕方の5時にお寺の鐘がなったので納竿した。

小魚しか釣る事は出来なかったが、程よい緩和になった。

残念ながら、大村市竹松遺跡の週明けの朝礼で、ハンドマイクを渡されて報告できるような釣果ではなかった。


本日、私に釣れてくれた小魚たち(画像をクリックすると拡大する)
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豊田一喜










動く衛星画像

2012年10月12日 | インポート
いろいろな動く衛星画像を見る事が出来るサイトがある。

東京大学生産技術研究所の、リモートセンシング(遠隔探査)を専門に研究している教授氏が、早朝のラジオ放送で紹介しておられた。

「気象衛星センター」で検索し、そのトップページの中の「画像活用」>「画像ギャラリー」とたどると、興味深い動画やコマ送り動画を見る事が出来る。

それぞれの画像の上方の中央にある「start/stop」ボタンを押すことによって、コマ送り画像になる。

以下のような内容の動画を見る事が出来る。



・渦巻く台風:2008年9月27日(台風15号)

・白夜:2009年12月23日

・台風の生涯:2009年9月29日~10月9日

・オーストラリア大陸東部を横断した「レッド・ダスト」:2009年9月23日

・寒冷前線と活発な積乱雲域:2009年8月28日

・日食:2009年7月22日

・サリチェフ火山の噴煙:2009年6月14~15日

・黄砂の飛来:2009年3月15日~16日

・浅間山の噴火:2009年2月1日

・火山灰:2010年10月28日

・台風の生涯:2010年10月24日~30日

・発達する積乱雲:2010年8月22日

・波状雲:2010年5月10日

・航跡雲:2010年5月10日

・オホーツク海の海氷:2010年3月21日

・濃霧:2010年2月12日

・冷気の波紋:2010年2月12日

・カルマン渦:2010年1月7日

・ガストフロント:2011年7月26日

・大気重力波:2011年4月26日

・霧島山(新燃岳)の噴煙:2011年1月26日

・大雪をもたらした帯状対流雲:2011年1月1日


地球の外側から、人工衛星に搭載された様々なセンサーによって得られた情報を処理して、私たちの視覚で確認できる画像データに加工したものだ。

航空写真測量も、広義にはリモートセンシング(遠隔探査)技術の一分野なので、その初歩的なリモートセンシングに関する事柄は、遠い昔の若かりし頃に、写真測量のA課程の講習会にて学んだ事はある。

ラジオ放送の東京大学生産技術研究所(通称:東大生研)の教授氏によれば、日本は世界に先駆けて、二酸化炭素の排出分布量を把握できるセンサーを搭載した人工衛星の打ち上げに成功したというような事を言っておられた。

パソコンでデータの整理をしながらぼんやりと聞いていたので、明確な記憶ではないが、そのような人工衛星の打ち上げに関しては、アメリカは一度失敗しているということのようだった。

自称、技術立国日本としては、面目躍如たるものがあると研究者の方々は思っておられるだろう。

私たちは、そのような研究者の方々の、地道な研鑽によって得る事が出来るようになった成果の一部を、自宅のパソコンの中で自由に見せてもらえるような時代に生きている。

ここをクリックすると「気象衛星センター」のトップページが開く。



豊田一喜