オリンピックに使うための、分不相応な競技場の計画を白紙に戻すそうな。
今頃そのような事を表明しても、白紙になど戻せる訳が無い。
既にデザイン料として、13億円もの莫大な血税が外国人のデザイナーに支払われているという。
また、工夫して補強増築などしても、充分に競技場としての機能を果たせたはずの国立競技場は既に取り壊され、その工事にも莫大な血税が投入されている。
集団的自衛権を容認する法案を強行採決し、さらにあきれるほど莫大な金額の国立競技場建設計画を進めた。
それらの傲慢な、自分の一族の悲願を達成したいだけの輩の横暴ぶりに対する世論の批判にたじろいで、とりあえず片方は「白紙に戻す」ということにしておけば、愚かな国民のガス抜きにはなるだろうという姑息さが見え見えで、私たち庶民を愚弄している。
「白紙に戻す」といったところで、今までに投入された血税に対しては、誰がどのようにして責任を取るのか?
誰も責任など取りはしない。
取り壊し工事も発注済だし、取り巻きの利権構造構成員集団にはお金をばら撒くことはできたし、とりあえずは「仕切りなおし」ということにして、次のばら撒きの算段を検討しようということだろう。
元々、工夫して使うという方針で臨めば使えるはずの施設を、強権的に取り壊して、新たに莫大な血税を投入して作り直すという計画を、粛々と推し進めるとした経緯そのものが誤りだったと認めるべきである。
集団的自衛権に関しても、「国民の生命財産を護る責務が自分にはある。」などとのたまわっているが、それも同様に、たかだか一時の総理大臣が、国民の生命に対して責任など取れるはずが無い。
国民の生命財産を護りたいのであれば、先輩諸氏が戦後70年をかけて構築されてきた従来通りの外交姿勢を貫くということに尽きる。
何もしないでいてくれる事が、私たち庶民の生命財産を護ることになる。
一国平和主義でいることの何が悪いというのか。
私たちの単位家庭のそれぞれが幸せであれば、その家庭が所属する集落全体も幸せになる。
さらに集落のそれぞれが幸せであれば、その地域全体も幸せになる。
そのような考え方を推し進めて行けば、「日本」という平和主義国家の理念を隣接国家にも波及できれば、日本を取り巻く地域全体も平和になっていく。
国際的な貢献は、国民の血税を提供するということで充分にしているではないか。
まさに「血税」で賄われている国際協力は、血を流していることと等価であるという認識を持っても良いと思う。
国際的な評価とは、どの国からどのようにして評価されたいというのか。
自国が確固たる信念を持って、平和主義を貫いておれば、他国からの評価など意に介することなど不要だと私は思います。
国家を護るためにとか、家族を護るためにとかいう言い回しで、国民を洗脳して、人殺しのための戦争に、消耗品のような扱いを受けて駆り出され、どこに赴くのかさえも家族にも知らせることもできずに、異国の地で戦死なさった方々を出したような、愚かな過去は絶対に繰り返すべきではない。
集団的自衛権容認の延長線上には、確実に上記のような流れが待ち受けている。
若い人たちは、国家などという実体の無い、一部の支配階層にとって都合の良い言い回しに騙されないようにしてほしい。
家族を本当に自分の手で護りたいのであれば、慎重過ぎるぐらいに臆病であって欲しい。
勇ましい事を言って、戦場に駆り出され、殺されたりしたら家族を護りぬくことなど出来はしません。
また、相手国の人を殺したとしたならば、その殺された人の家族のささやかな幸せを、強奪したことになってしまいます。
白紙に戻して欲しいのは、現政権の存在である。
豊田一喜
今頃そのような事を表明しても、白紙になど戻せる訳が無い。
既にデザイン料として、13億円もの莫大な血税が外国人のデザイナーに支払われているという。
また、工夫して補強増築などしても、充分に競技場としての機能を果たせたはずの国立競技場は既に取り壊され、その工事にも莫大な血税が投入されている。
集団的自衛権を容認する法案を強行採決し、さらにあきれるほど莫大な金額の国立競技場建設計画を進めた。
それらの傲慢な、自分の一族の悲願を達成したいだけの輩の横暴ぶりに対する世論の批判にたじろいで、とりあえず片方は「白紙に戻す」ということにしておけば、愚かな国民のガス抜きにはなるだろうという姑息さが見え見えで、私たち庶民を愚弄している。
「白紙に戻す」といったところで、今までに投入された血税に対しては、誰がどのようにして責任を取るのか?
誰も責任など取りはしない。
取り壊し工事も発注済だし、取り巻きの利権構造構成員集団にはお金をばら撒くことはできたし、とりあえずは「仕切りなおし」ということにして、次のばら撒きの算段を検討しようということだろう。
元々、工夫して使うという方針で臨めば使えるはずの施設を、強権的に取り壊して、新たに莫大な血税を投入して作り直すという計画を、粛々と推し進めるとした経緯そのものが誤りだったと認めるべきである。
集団的自衛権に関しても、「国民の生命財産を護る責務が自分にはある。」などとのたまわっているが、それも同様に、たかだか一時の総理大臣が、国民の生命に対して責任など取れるはずが無い。
国民の生命財産を護りたいのであれば、先輩諸氏が戦後70年をかけて構築されてきた従来通りの外交姿勢を貫くということに尽きる。
何もしないでいてくれる事が、私たち庶民の生命財産を護ることになる。
一国平和主義でいることの何が悪いというのか。
私たちの単位家庭のそれぞれが幸せであれば、その家庭が所属する集落全体も幸せになる。
さらに集落のそれぞれが幸せであれば、その地域全体も幸せになる。
そのような考え方を推し進めて行けば、「日本」という平和主義国家の理念を隣接国家にも波及できれば、日本を取り巻く地域全体も平和になっていく。
国際的な貢献は、国民の血税を提供するということで充分にしているではないか。
まさに「血税」で賄われている国際協力は、血を流していることと等価であるという認識を持っても良いと思う。
国際的な評価とは、どの国からどのようにして評価されたいというのか。
自国が確固たる信念を持って、平和主義を貫いておれば、他国からの評価など意に介することなど不要だと私は思います。
国家を護るためにとか、家族を護るためにとかいう言い回しで、国民を洗脳して、人殺しのための戦争に、消耗品のような扱いを受けて駆り出され、どこに赴くのかさえも家族にも知らせることもできずに、異国の地で戦死なさった方々を出したような、愚かな過去は絶対に繰り返すべきではない。
集団的自衛権容認の延長線上には、確実に上記のような流れが待ち受けている。
若い人たちは、国家などという実体の無い、一部の支配階層にとって都合の良い言い回しに騙されないようにしてほしい。
家族を本当に自分の手で護りたいのであれば、慎重過ぎるぐらいに臆病であって欲しい。
勇ましい事を言って、戦場に駆り出され、殺されたりしたら家族を護りぬくことなど出来はしません。
また、相手国の人を殺したとしたならば、その殺された人の家族のささやかな幸せを、強奪したことになってしまいます。
白紙に戻して欲しいのは、現政権の存在である。
豊田一喜