日々雑感「点ノ記」

備忘録(心の軌跡)

待機

2013年08月25日 | インポート
昨日の夕方から今日の朝まで、生まれて初めて「災害待機」という経験をさせてもらった。

管轄区域内に大雨や洪水などの「警報」が発表されると、公的な機関では、災害情報の把握とその連絡を関係部署に行なうために、それらの警報が解除されるまで、職員が交代で職場に待機するというシステムになっている。

8月24日の午前4時少し前に、長崎県の県北地方の一部で大雨洪水警報が発表されたことに伴い、自分が働かせてもらっている職場においても、自分にその災害待機の順番がめぐってきた。

眠たい目をこすりながら、一晩を職場で過ごした。

幸いにも自分が待機していた時間帯においては、管轄区域の自治体(市・町・村)からの災害報告の連絡電話は入らなかった。

主に夜中の時間帯であったから、各自治体においても、細部までの災害状況把握は困難であるのかも知れない。

今回発表された長崎県内における大雨や洪水に関する警報はなかなか解除されず、このブログを書いている今も継続中だから、他の同じ部署の職員が交代で災害待機をしていることになる。

九州北部に停滞している前線の影響で、長崎県内においても局地的な豪雨が継続していたり、竜巻注意報が発表されたりと、災害の発生に繋がるような気象状況が続いている。

自然の気象状況には抗えない。

大雨が長く続いているので、地盤が緩み、土砂災害の誘因となる可能性が大きい。

テレビなどでも盛んに注意喚起をしているが、基本的に自分の身は自分で護るしかない。

崖に近い部屋から離れることや、早目の避難を心がけるしか災害に遭遇することを回避する術はない様に思う。

小学校の3年生か4年生の頃、大雨のためにその当時住んでいた家の裏の千鳥川が氾濫した。

その川の流れに直交する方向にあった家の庭を、濁流が川の様に流れだした。

その庭を流れる濁流の水嵩は、自分の膝の上ぐらいにまでなっていた。

避難場所であるお寺(光西寺)まで行くために、父親に手を引いてもらってその濁流の中を進もうとした時に、体が小さくて体重が軽かった自分は簡単にその濁流に足をすくわれた。

その時に父親が、力強い手で引き戻してくれた。

あの時に、もしも父親が手を引いてくれていなかったならば流されて、わずか10年ぐらいで自分の人生は終わっていたのかもしれない。

59年の生活の中では、身の危険を感じたことも何度かありはしたが、何とか生きながらえさせてもらっている。

目に見えない、何かの力に見守られながら生かしてもらっていることに感謝しながら過ごしている。


豊田一喜





庭木の残骸の焼却

2013年08月18日 | インポート
庭木を剪定した枝などを、庭の1箇所にまとめて置いている。

ここのところの晴天続きで、それがよく乾燥している。

処分しなければならない。

旧諫早湾干拓の田んぼの隅っこの方に、少しだけ水に浸からずにいる場所があるので、そこで焼却処分する事にした。

使わなくなった紙の米袋に、枯れ枝などを折って入れたら12袋ぐらいになった。

それを車の後ろに積み込んで7~8分走って、諫早市森山町の旧諫早湾干拓の田んぼへ。

道の脇の水に浸かっていない場所に枯れ枝などを詰めた米袋を並べて、チャッカマンで火をつける。

乾燥しているのでよく燃えた。

まわりの田んぼには、白い色のサギの群れが降り立って餌を探している。

上空にはラジコン飛行機がエンジン音を響かせながら旋回している。

田んぼのすぐ脇の有明川の河川敷の一部に芝を張り、地元の趣味人の方々がラジコン飛行機等の滑走路を作って遊んでおられる。

休みの日で、風が強くない日には、誰かしらラジコン飛行機やラジコンヘリコプターを飛ばしておられる。

平和でのどかな、夏の日の広大な平野の風景。



豊田一喜




アジゴ釣り

2013年08月17日 | インポート
午後にアジゴ釣りに、諫早市飯盛町の結の浜に行った。

いつもの釣り座の30mほど手前の船だまりのところで、5人の先行者が釣っておられた。

見ると15cmぐらいのアジゴが、1匹ずつではあるが、コンスタントに釣れている。

アジゴも前回に来た時よりもだいぶ大きくなっているなと思いながら、いつもの釣り座で竿を出した。

オモリカゴのアミが拡散する時に、通常ならば小魚が寄ってくるが、本日はそれがない。

何回繰り返しても魚が集まって来ない。

すぐ近くの左右の場所で釣っている人たちにも全く何も釣れない。

釣れているのは30mほど離れた船だまりのところで釣っている人だけ。

その人は見るたびに1匹ずつアジゴを釣り上げている。

仕掛けはオモリカゴの付いたサビキ仕掛けで、自分たちと同じ。

タナは竿一本より少し深め。

アジゴは誰にでも釣れると思っていたが、そうではないということが今日分かった。

自分にも一度だけあたりがあった。

リールを巻き上げてみると、小さなアラカブの子が掛かっていた。

その後は全くあたりなし。

午後6時ごろに納竿した。

釣り場の裏側では、結の浜マリンパークの海水浴場のマイクの音が聞こえていた。

残り少ない夏休みを、やり残している宿題の事を少し気にしながら、海水浴を楽しんでいる子どもたちもいたことだろう。

自分の場合には夏休み中遊びほうけていて、夏休みの残り3日前ぐらいから夏休みの宿題をし始めていた。

だから、当然夏休み中に宿題を終わらせる事はできなかったのだが、先生もその辺は心得たもので、宿題や作品の提出日を、2学期が始まってから何日間かの猶予を与えてくれていた。

自分に何ができるのか、どのような職業に就くのかさえも全く分からなかった40~50年前の話。

成人してからの人生は、納期に追われて、心が休まらない事が多かったが、振り返ってみれば思い出でしかない。

今は休日にのんびりと、アジゴ釣などを楽しませていただけるようになった。

ありがたいことだと思い、現実に感謝している。

夏ヤマメ、一里一匹と言われているそうだが、私の場合には、「アジゴ釣り、外道でアラカブの子一匹」と言うべきかな・・・。

家でごろごろしてテレビを見ているよりはましな時間を過ごせたのだと思うことにしよう。



豊田一喜












蕪池・轟アイス・長﨑清水のうどん

2013年08月16日 | インポート
蕪池(かぶらいけ)の仙人様のお宅を、妻と共に訪問させていただいた。

ここのところの晴天続きで、蕪池の水位はずいぶんと低くなっていた。

普段ならば水面下に沈んでいるはずの大きな石が2個、水面上に見えている。

水位は低くはなっていたが、水のきれいな青色は変わっておらず、まわりの豊かな緑との調和で、心が落ち着く風景。

部屋の中には、素敵なステンドグラスで作られたランプシェードなどがあり、目を楽しませてくれる。

静寂の中で、柱時計の振り子の音が時を刻んでいる。

子どもの頃、両親は農作業に出ており、雨戸などが締め切られている暗い家の中に入った時に聞いた柱時計の振り子の音と同じ。

子どもの頃に聞いたそれは寂しさと不安を増幅させていたが、今聞くそれは心を落ち着かせ、静寂の中のアクセントとして感じることができる。

標高2.5mの我が家と違って、標高350mの蕪池では気温がだいぶ低いようで、涼しく感じる。

そんな蕪池のほとりのお宅で、お元気そうな仙人様とお話をさせていただき、しばしの安息の時間を過ごさせてもらった。


その後はJR諫早駅に走った。

休みで福岡から高速バスで帰ってくる娘を迎えるためで、高速バスは時刻どおりに到着したらしく、既に娘は「西友」の中でぶらぶらしていた模様。

アイスクリームを食べるために、諫早市高来町の広域農道沿いにある「轟アイス」まで走る。

轟アイスのお店では、小学1年生の女の子が店の受付の手伝いをしていて、注文を聞いてくれる。

1つ300円のアイスクリームを3つ注文して1000円札を渡すと、自分で計算して100円のお釣を持ってきてくれた。

奥ではその子のおばあちゃんが、アイスクリームをコーンに詰める作業をしていて、出来上がったアイスクリームを、その女の子が持って来て渡してくれた。

コーンの底までしっかり詰まったアイスクリームは、濃厚でありながらさっぱりしていて、とてもおいしかった。

その後は、諫早湾干拓の堤防道路(雲仙多良シーライン)を通って島原半島側に渡り、少し瑞穂町側に走って、雲仙市吾妻町の「長﨑清水」のかまぼこの製造販売店まで行った。

「長﨑清水」では一杯450円で、5種類のかまぼこの中から好みの2枚を選んで入れてくれるうどんを食べることができる。

そのうどんをおいしくいただいた後に、おみやげ用のかまぼこをみつくろって購入してから我が家に帰った。

夕方は6時から、娘は大村駅の近くの飲み屋さんでの飲み会に誘われているということで、娘を大村駅まで送っていった。

結構長く、車の運転をした一日だったが、夏休みの気分を満喫できた。



豊田一喜








ゴボウのささがき

2013年08月15日 | インポート
先日の仕事帰りに、バスを降りて宿舎に向って歩いていたら、懐かしい夕餉の仕度のにおいがした。

きんぴらゴボウのにおいだった。

子どもの頃からきんぴらゴボウは大好物で、実家へ帰省するごとに母に作ってもらっていたおかずのひとつ。

部屋に着いてから妻に電話して、きんぴらゴボウが食べたいので、次に帰った時には作ってくれるように頼んでおいた。

家に帰ってから、いつきんぴらゴボウを作って出してくれるのかと期待していたが、いっこうにそれが出てくる気配がない。

ゴボウは買って冷蔵庫に入っているという。

暇だったので、自分でゴボウのささがきをすることにした。

まずゴボウを水洗いして表面についている泥を落とし、それから包丁の背で表面の皮をこそぎ落とす。

水を張ったボールにざるを沈めて、その中でゴボウをささがきにする。

結構楽しくて面白い作業。

4本のゴボウのささがきが終わり、ささがきにしたざるの中のゴボウをあげると、ボールにはゴボウのアクで真っ黒になった水。

その真っ黒な水を流して数回水にさらすと、だんだんと水の色が透明に近くなる。

水の色がかなり透明に近くなった所で、さらに一時間ほど水に浸けておく。

すると残っていたアクが出て来る。

そしてようやくきんぴらゴボウの調理ができるようになる。

そこまで自分で準備していたら、後は妻が調理して、きんぴらごぼうにしてくれた。

早速いただいてみる。

しばらく振りに食べるきんぴらゴボウはとてもおいしく感じた。

ゆったりとした休みの日に、ゴボウをささがきにして、出来立てのきんぴらゴボウを食することができた終戦記念日。

平和であればこそ味わうことができるささやかな幸福感。

国家のため、家族を守るためという教育を受けて、否応無しに戦争に駆り出され、いつ帰れるか、生きて帰れるかさえも分からないような戦地で、望郷の念を抱きながら家族のことを思い戦死された方々も多くおられたことだろう。

そして国策によって異国の地で戦死なされた方々の遺骨を、国家の責任において収集して日本に連れ帰り、慰霊するということをほとんどしようとしない日本という国家。

また、過去のことからの教訓を生かそうともせずに、勇ましい言葉を発する政治屋さんたち。

平和であればこそ自由にものも言える。

だけれども、残念ながら自分が善人であるからといっても、周りが全部善人であるとは限らない。

国家間においてもそれが言えるのではなかろうか。

未来永劫、人と人との殺し合いである戦争は絶対にやってはならないが、いざという時に丸腰では何もできないと思う自己矛盾。

先の大戦で失われた多くの御霊に対して、やすらかに眠っていただき、平和が続くように見守っておいていただきたいと、正午のサイレンの時に念じた。



豊田一喜













墓参りのハシゴ

2013年08月14日 | インポート
午前中に墓参りのハシゴをした。

伯母たちが眠っている愛野町の光西寺の室内墓にお参りして、その後そこから車で3分ぐらいの所にある自分の家の墓地に行く。

小高い尾根筋の中腹にある我が家の墓までは、車を止めたところから急な傾斜の坂道を歩いて5分ぐらいのところにあり、そこまで行きつくのにかなりの体力を要する。

妻と息子と3人で、2リットル入りのペットボトル6本の水を運び上げて、花立の水を代え石塔に水をかけて線香をあげる。

今週の日曜日に墓掃除は済ませていたので、お参りは楽だった。

我が家の墓に参った後は、隣町にある妻の実家の墓に参り、その後には同じく隣町にある伯父の墓にお参りした。

仕上げは、祖母(母の母)の墓がある隣町のお寺まで行き、そのお寺の室内墓にお参りした。

合計5箇所の墓参りのハシゴをした。

連綿と続く祖先からの血脈や、かかわりのある縁者のおかげで今の自分たちがある。

健康な体を与えてもらっていることに対する感謝をし、平和に暮らすことができている今に生かしてもらっていることに感謝できるような年齢になった。

それにしてもお盆の墓参りというのは、面白い習慣であると思う。

お盆には祖先の御霊が、それぞれの家に帰ってきているということだから、お墓の中には誰もおらずに空っぽのはずなのに。



豊田一喜




墓掃除の仕上げといとこの訪問など

2013年08月11日 | インポート
朝から熱くならない内に墓掃除の仕上げをして、花立の水を替え、線香と花をあげてこようと計画していたが、鎌を研いだりして準備をしていたら、結局出掛けたのは10時近くになってからだった。

刈払い機で処理できないような石垣の近くなどを鎌と手で綺麗に仕上げていく。

その間に妻は花立の水を替えたりしている。

花を供えて線香をあげ、石塔の上から水をかけてお参りをして、家に帰ったら11時を回っていた。

福岡県に住んでいるいとこの親兄弟が眠っている墓が愛野町の光西寺にある。

いとこがその墓にお参りに来るという連絡を昨日受けていたので、墓掃除が終ってから農協のスーパーに行き買い物をして帰った。

家に帰ってからシャワーを浴びて上がったぐらいにいとこが訪ねてきた。

皆で昼食を摂りながらの楽しい時を過ごす。

平日には朝夕の二食しか食べない食習慣になっているが、休みの日に家にいると昼食も食べてしまうことが多くなる。

だから、家に帰ると体重が増えてしまう。

午後は、初盆のお宅への届け物の買い物をして、届けて回った。

後はお盆を迎えるばかり。

大村市の竹松遺跡では不発弾も発掘されているそうで、近代の遺物から古代の遺物まで、歴史を物語る豊富な材料が出土している模様。

信管を抜いた不発弾となると、意図的に埋められた可能性が高いように思われるが、大村の自衛隊にそのような記録資料は残っていないのだろうか。

終戦後の混乱期になされた事柄だろうということは想像ができるのでは・・・・。


豊田一喜




米の冷蔵庫の搬入と除草三昧(じょそうざんまい)

2013年08月10日 | インポート
昨日、米を貯蔵する冷蔵庫を配達する運送会社の人から電話があっていた。

明日の米の冷蔵庫の配達の時、トラックから冷蔵庫を降ろす際に台車を冷蔵庫の下にセットするための助手が必要だけれども助手が見つかりません、ですからその手伝いをして頂けませんかという内容の電話だった。

快く引き受けていた。

約束の時刻よりも30分ほど早くその運送会社の人は到着した。

隣りの家の庭にトラックを止めさせていただき、トラックの荷台の後方が自動的に昇降する所まで米の冷蔵庫を移動させ、その昇降台を地面まで下ろしてから冷蔵庫の底面を傾け、その冷蔵庫の底面の下に台車を挿入する作業を手伝った。

確かに助手がいなければできない作業だった。

後は台車に載った米の冷蔵庫を家の小屋まで移動させ、水平器を使って水平にセットして電源にコンセントを差込み、米の貯蔵適温の13度に設定して搬入作業は完了。

今後は貯蔵している玄米に穀蔵虫などがつく心配をしなくて済むようになった。

その米の貯蔵用冷蔵庫の電気代は、夏場でも一ヶ月で780円程度だそうだとのこと。

早速、残っている玄米を冷蔵庫の中に貯蔵した。

そのような作業を息子に手伝ってもらって済ませてから少し横になっていたら眠ってしまっていた。

午後4時ごろから盆前の墓掃除に行った。

水筒と刈払い機だけを持って出かけて、刈払い機で除草できる区域を、通路として使わせてもらっているお隣さんの墓地の敷地まで綺麗に除草した。

3週間ほど前に一度草を刈り倒していたので、だいぶ楽だったが、草丈は20cmほどになっていた。

汗でびっしょりになり、水筒に入れていたスポーツドリンクを飲み干した。

のどが渇いたときの冷えた飲物の味は格別においしい。

墓の除草が終ったあとには、先週の日曜日に、稲妻からの撤退のために刈り残していた旧諫早湾干拓の田んぼの草払いをした。

土用干しを終えた田んぼには、水が溜めてあった。

長靴を履いて20cmぐらいの深さの水の中に入り、水面ぎりぎりぐらいのところで、刈り残していた一畝(ひとせ)(50m×2mぐらいの広さ)ほどの面積の雑草を刈り倒した。

日暮れから少し過ぎた午後7時20分ごろに除草作業は終った。

除草三昧の日だった。

汗をしっかりかき、水分をたっぷり補給しながらの健康的な一日で、草払いができる幸せを感じる事ができた日だった。



豊田一喜






稲妻

2013年08月04日 | インポート
昨日刈り残した旧諫早湾干拓の田んぼの草払いを、午前10時ごろから始めた。

曇り空だったが雨は降っていない。

田んぼの土用干しが今日までだということだから、今日中に草払いを済ませなければ、田んぼに水が入る。

ということで、昼ごはんも食べず草払い作業を続けた。

昼ごはんを食べないということは、自分にとっては珍しい事ではなく、普段の勤務の日には一日二食主義で、朝食と夕食しか食べない。

江戸時代の人たちの食生活は、一日ニ食の食習慣だったらしい。

習慣だから、昼食時にお腹もすかない。

昼にどこの何を食べようかなどという煩わしい事を考えなくて済む。

昼休みにはのんびりと職場の近くの公園で日光浴を楽しんでいる。

日光浴は骨を丈夫にするらしい。

そのせいかどうかは分からないが、最近体重が少しずつ減りつつあり、体調もすこぶる良い。

というようなことで、ただひたすら刈払い機による除草作業を続ける。

午後一時半頃から雲行きが怪しくなり、雨が降り出した。

しかし今日中に田んぼの草払いを終わらせたかったので、草払いを続行する。

そのうちに遠くの方で雷の音が聞こえるようになってきた。

空を眺めてみる。

黒雲が自分の方に近付いてきてはいるが稲光は近くには見えない。

そのうちに雨もひどくなり、雷の音も近くで聞こえるようになり、稲光がだいぶ近くで視認できるようになった。

しばし考える。

田んぼの草刈は今日終わらせたい。しかし雷に打たれて死にたくはない。

結論として、雷に打たれて死ぬ前に家に帰ろうということにした。

田んぼの雑草は逃げはしない。

後で天気の良い日にまたすればよい。

ということで、稲妻の脅威に負けて、草払いから撤退した日だった。

家に帰り着いてから、近くで強烈な雷の音が轟いた。

きっとどこかに雷が落ちたのだろう。

早目に撤退して正解だったと思った。

おかげで今もこうしてブログを書く事ができている。

ところで、なぜ雷の光の事を「稲妻」というのか調べてみた。

《稲の夫(つま)の意。稲の結実期に多く起こるので、これによって稲が実ると考えられていた》という解説があった。



豊田一喜







ちゃんぽんとうなぎ丼

2013年08月03日 | インポート
朝の8時前から町内会長さんの家に6人の男が集まった。

一週間前に町内会長さんから、町内会の害虫駆除のための家の消毒の手伝いをするように依頼されていた。

全部で32軒ほどの戸数の町内会だが、そのうちの22戸が害虫駆除消毒を希望していた。

雲仙市から消毒用の電動式噴霧機械の貸し出しと消毒薬の無償提供がある。

3人ずつの2班に分かれて、町内会集落の上手からと下手から害虫駆除消毒を開始した。

ヤカンより少し大き目のタンクに消毒薬を入れてから、それを水で15倍程度に薄めて噴霧器をセットする。

その噴霧器のコードを延長コードでつなぎ、消毒をする家庭の電源コンセントに差し込む。

後は噴霧器の噴射口の向きを好みの方向に向けてから、スイッチを入れるだけで消毒薬が噴霧される。

数分間そのままにしておき、向きや場所を替えてそのような事を繰り返す。

最近では住居の内部までの消毒を希望する家はほとんど無く、建物の床下の側方にあけてある通気口からの消毒薬の噴霧だけを希望される家がほとんど。

噴霧薬の残量が少なくなれば、新たに調合して、次々と消毒作業を進めて行く。

私たちの班の分担は10軒だったが、町内会集落の真ん中付近で別の班と出会い、ほとんど同じぐらいの時刻に消毒作業を終了することができた。

午前11時ごろに作業が終わったので、シャワーを浴びてから11時20分頃に町内会の公民館に6人と町内会長の奥様が集合した。

毎年の定番で、町内会の消毒が終わった後には、昼食にちゃんぽんが出ることになっている。

11時半にちゃんぽんの配達があり、ご苦労様会が始まる。

話題が「うなぎの蒲焼」の話になり、誰かが「うなぎ丼」を食べたいと言い出した。

すると、町内会長の奥様が、公民館の炊事場からうなぎ丼を出してこられた。

本日は今年2回目の土用の丑の日だということで、町内会長さんが釣った天然のウナギの蒲焼を用意してくださっていた。

丼の中の白米に、5枚ずつの天然うなぎの蒲焼がのっている、豪華版うな丼だった。

ちゃんぽんをぺろりと平らげて、その後に豪華版うな丼を、とてもとてもおいしくいただかせてもらった。

町内会長さんご夫妻の優しい人柄と心遣いを、とてもありがたく思った。

ちゃんぽんとうなぎ丼をいただいて元気が出たので、午後は2時ごろから、旧諫早湾干拓の田んぼの草払い作業をやった。

前回刈払いしてから時間が経っており、草丈も1mほどに成長していた。

田んぼの土用干しということで田んぼの地面は乾いていた。

汗だくになりながら、夕方6時ごろまで雑草の刈払い作業をしたが、2反(100m×20mの広さ)の田んぼの3分の1ぐらいの面積しか終えることはできなかった。

だけれども、いい汗をかくことができて、ちゃんぽんとうなぎ丼をいただかせてもらった記憶に残るような良い1日だった。



豊田一喜