日々雑感「点ノ記」

備忘録(心の軌跡)

シマミミズから生野菜とゴミのことまで

2012年01月28日 | インポート
最近、いなかの方でもシマミミズを探すのが難しくなっている。

45年ほど前の子供の頃には、牛小屋の敷き藁と牛糞が混じった物が、それを堆肥にするために、野原の片隅や畑の片隅などに野積みしてあった。

そして、それが発酵し熟成されて堆肥になると、その中ではシマミミズが大量に発生して生息していた。

子どもの頃はそのシマミミズを掘って、ふな、はぜ、うなぎ、なまずなどを釣る時の魚釣りの餌にしていた。

その辺の川や海で釣る魚釣りの餌を、お金を出して買うなどという事は考えたことも無かった。

しかし最近では、趣味のヤマメ釣りの餌としてシマミミズをいつも使っているが、野原や畑の片隅に堆肥の山はなくなってしまったので、そのような場所でのシマミミズ掘りは出来なくなり、釣具店でシマミミズを購入して使っている。。

法律により、堆肥を野積みする事が禁じられているからだ。

しかし最近、そのような堆肥の残骸を知人の畑で見つけることが出来た。

その知人の許可を得て、そこを掘ってみたら、そこは私にとっては宝の山だった。

シマミミズがうじゃうじゃと生息していた。

今日はその宝の山へ、ヤマメ釣りの愛好者の知人と二人で、その堆肥の残骸の一部を分けてもらいに行ってきた。

バケツに5杯分ぐらいの堆肥の残骸を持ち帰り、自宅の庭の畑の片隅に穴を掘ってそこに埋め戻した。

これで3月1日解禁の、今シーズンの高来町境川でのヤマメ釣りの餌は確保できた。

適切に管理すれば、永続的にシマミミズが発生してくれるかもしれない。

可能な限り、お金をかけないで楽しめる趣味にだいぶ近くなりそうに思う。

このごろスーパーマーケットで売っている野菜は、形や色合いが良いものばかりで、曲がったキュウリや虫に食われた葉物などはほとんど店頭には並んでいない。

商品として選別してから出荷されているので、当たり前の事ではあろうし新鮮であろうことは見て分かる。

しかし虫も食べないような野菜が、果たして安全なものであるかどうかは分からない。

虫も食わないような野菜を作るには、それなりの農薬を散布しているはずであろうと思う。

そのような農薬の残留物が野菜に付着していないという保証はない。

生野菜は体に良いからと毎日食べていると、微量に野菜に付着している残留農薬を摂取し続けて、体内に蓄積されている可能性は否定できないと思う。

私が子どもの頃は、我が家では我が家の畑で採れた葉物の野菜を生で食べるような食習慣は無かった。

それは人間が排出する糞尿の処理方法に起因していたと思う。

8年ほど前からは我が家でも水洗トイレになったが、40年ほど前には私が住んでいる地域では当然の事ながら水洗トイレなどは無くて、糞尿の汲み取り業者に汲み取りを依頼することも無く、畑を持っている農家では、汲み取った糞尿を作物の肥料にするために畑に撒くことで処理していた。

近所の農家は、ほとんどが家の近くにそれぞれの畑を保有しており、汲み取った糞尿の運搬距離がなるべく短くてすむように、家の近くの畑に撒いていた。

畑に撒かれた直後の糞尿のにおいは、数十メートル離れても強烈なものだった。

一雨降るまではそのような強烈なにおいは消えなかった。

そのような環境下で育てられた野菜だから、生のままで食べるのには衛生上の問題もあり、必ず火を通してから食べていた。

しばらくしてから、糞尿の汲み取り業者に汲み取りを依頼するようになり、その頃からは家の畑で取れた生野菜を食べるようになったように記憶している。

見た目はきれいに見える野菜でも、本当の所は安全安心なものかどうかは分からない。

中国産の野菜の残留農薬が云々とマスコミは言っていたが、果たして国産の野菜の残留農薬はどうなのだろうか。

イチゴやレタスの生産農家の人が、「自分の家で消費する物は、別の一角で、なるべく農薬を使わないようにして作っている」と言っていたという話を知人から聞いた事がある。

とても分かりやすい話だと思う。

見た目のきれいな野菜を店頭に並べるには、それなりのことが暗黙のうちに行なわれていることの可能性を疑ってみることも必要ではあろう。

話は変わるが、私が子どもの頃の生活環境では、自然に帰らないようなゴミは少なかったように思う。

そして、私が住んでいる地域では、行政によるゴミの収集作業も行なわれてはいなかった。

だから家庭から出たゴミの捨て場所は、家の裏を流れている千鳥川の「渡り橋」のたもとだった。

その場所は、近隣に存在している家庭の、なかば公然としたごみ捨て場所になっていた。

その頃は例のギロチンと呼ばれている諫早湾の締め切りもされてなかった時代なので、私の家の裏の千鳥川では、潮汐による潮の満ち引きがあり、それによって渡り橋のたもとに捨てられたゴミの一部は、潮に乗って有明海の方へ流下していた。

しかしながら、生活水準が向上するにつれて、各家庭から排出されるゴミの量も多くなり、ビニール類やプラスチック類のゴミも増えてきて、渡り橋のたもとにうずたかく残留するようになっていった。

そのような場所が、渡り橋より300メートルほど上流に架かっている千鳥橋のたもとに、もう一箇所あった。

そのようなこともあり、千鳥川の上流域は清流であったが、中流部より下流においては、きれいな川とはいえないような状況になっていた。

でもそのような千鳥川が、子どもの頃の主な遊び場所だった。

小学生の頃は毎日の様に、学校から帰ると家の裏の千鳥川に入り、魚取りをして遊んでいた。

潮が満ちてくると、家の裏で魚釣りが楽しめる環境だった。

ある時に河川改修が行なわれ、川の両側がコンクリート張りになり、その頃から私が住んでいる地域でも、行政によるゴミ収集が実施されるようになっていた。

その結果、河川の見た目はきれいにはなったが、水質でいえば昔の方が優っていたと思う。

ブータンという国では、全ての国民がシアワセを感じれるような国づくりが目標だそうだが、その国の都市部における近代的な住宅用高層ビルに挟まれた地面に、無数のペットボトルやビニールなどのゴミが散乱している様子の映像が記録されていた。

一昔前の我が国の現状を再現しているようで興味深かったが、きっと行政によるごみ収集という発想自体がまだない現状なのだろう。

私たちが昔、千鳥川にゴミを捨てていた頃の感覚と同様のことが、ブータンの現状においては行なわれているのだろうと思う。

ブータンの国におけるゴミ問題は、先日来日した国王夫妻の喫緊の政治課題でもあろう。