日々雑感「点ノ記」

備忘録(心の軌跡)

柳の下にどじょう

2012年06月30日 | インポート
大村市竹松遺跡のアルバイト作業員の仕事が、雨のために中止となった水曜日のウナギ釣りの成果に味を占めて、本日も友人と談合して同じ場所に釣りに行った。

昨日の作業が、雨のために2時間ほど早く切り上げになったので、帰宅してから、ウナギ釣りの餌のドバミミズをたくさん掘って用意しておいた。

朝の8時頃、張り切って家を出て、友人と共に例の場所に急いだ。

9時ごろには現場に到着したが、幸いにもわれらが釣りポイントには誰も来ていない。

その時間帯には潮は引き潮になっていて、他の釣り好きの友人から、水曜日にウナギが釣れた時合いは、本日は17時30分頃になるという情報をもらっていた。

それまではのんびりと過そうと決めていた。

同行の友人は、スッポン釣りも趣味にしている。

彼は、水曜日に地元の人から聞いていた、対岸のスッポンが多く生息しているという池のポイントに、スッポンの仕掛けをはえにも行った。

水曜日にも顔を見せて色々と釣りの講釈をしてくださった地元の人が、今日も訪れて釣りの講釈をしてくださった。

そうこうしていると、緩やかに自然の空気の下で、まったりとした時が刻まれていく。

昼過ぎ頃までに、私は小さなハゼを2匹、ドンポを1匹釣り上げ、友人は20cmぐらいのセイゴを1匹、ドンポを1匹釣り上げていた。

昼頃に、友人はスッポン釣りの仕掛けの確認に行ってきたが、餌だけがかじり取られていて、何もかかっていなかったとのこと。

午後2時ごろに、近くに車が止まり、見覚えのある顔の女性が降りてきた。

配達の途中で、私たちが釣りをしている姿が国道から見えていたということで、缶コーヒーの差し入れを持って尋ねてきてくださったということ。

作業現場で弁当の販売をしている、大村空港の中のミシマというお店の方だった。

丁度のどが渇いていたところだったので、ありがたく飲ませて頂いた。

そうこうしていると、また別の車が近くに止まり、見覚えのある顔の人が降りてこられた。

大村市竹松遺跡の発掘現場で同じ作業班の、蝶々に関する専門知識が豊富な方で、缶コーヒーと湯がいたスイートコーンを差し入れるために尋ねてきてくださった。

こちらもありがたく、おいしくいただかせてもらった。

午後2時半頃から、潮は上げ潮に転じ、いよいよ本格的にウナギのあたりが来るはずだと期待して、じっと待つ。

雨が降り出して雨合羽を着たり、日が照って暑くなり雨合羽を脱いだりと、めまぐるしく変化する気象状況だった。

クラブ活動でランニングをしている大村城南高校の生徒さんたちが、感じよく挨拶をして通り過ぎる。

また、通りすがりの犬を連れた散歩の人や、自転車に乗った釣り好きのオジサンなどが立ち止まって話をしたりと、趣味が同じ人たちとは、初対面でもすぐに打ち解ける事が出来る。

そうこうしているうちに、強い雨も降り、流下してくる川の水も少し濁り始めたが、水曜日の濁り方に比べると弱い。

雨がやんだ時に、きれいな蝶々のミヤマカラスアゲハのオスが1匹と、別の、鮮やかな青色の模様が羽根の中央付近にあるきれいな蝶々が1匹飛来して、目を楽しませてくれた。

その他にも、背丈ほどの長さのへびの青大将が姿を見せたり、50cmぐらいの長さのナマズが悠然と泳いでいる姿を水面近くで見せてくれたりと、自然が目の前を通り過ぎてゆく。

時間は過ぎ去り、水曜日にウナギが釣れた時合いも過ぎ去ったが、ウナギどころか他の魚のあたりも一切無く、午後6時半ごろには納竿した。

本日は、われらのウナギ道1号線は通行止めになっていて、ウナギたちは別のウナギ道2号線他を回って遡上したのだという事にしておこう。

次に釣りをする時のために、ウナギをキープしておいたのだという事で納得しておこう。

柳の下にどじょうは2匹いなかった。


豊田一喜










我が家はメロンの当たり年

2012年06月29日 | インポート
この10日間ぐらいで、我が家には6個のメロンが届けられた。

今、一緒の職場で働かせてもらっている友人から、よそ様から頂いたもののおすそ分けだとして頂いた物。

そして、五島市で測量業を営んでおり、数年前から従業員の雇用を維持するために、農業にも本格的に参入して、イチゴやメロンの栽培にも力を入れている友人からのお中元として頂いた物。

それから、神奈川県に住んでいる妹夫婦から、毎年送ってきてくれるお中元として頂いた物。

末端で生活をさせてもらっている庶民としては、自分で買って食するという事はまず無い果物なので、贅沢すぎるような、嬉しい届け物だと思っている。

おかげで、ここ数日は、夕餉の食卓には毎回メロンが登場している。

もうしばらくは、そのような贅沢すぎる夕餉の食卓が続きそうだ。

昨日と今日は、水曜日に釣り上げて蒲焼にしておいたウナギまでもが食卓をにぎあわせている。

子どもの頃から、粗食が当たり前の生活水準だった自分にとっては、毎回の夕餉の食卓にメロンが並ぶなどという、超贅沢に思える出来事を今体験させてもらっている。

ささやかにつつましく生活している家族に対して、仏教で言えば仏様のお慈悲という事にもなろうし、キリスト教で言えば神様のおぼしめしというところだろうか。

いずれにしても、今年の我が家はメロンの当たり年。


豊田一喜














妻に追いつかれた日

2012年06月28日 | インポート
今日、妻に追いつかれてしまった。

本日は、妻の58回目の誕生日だった。

私の58回目の誕生日は、半年ほど前に済んでいた。

年齢でいうと、妻は、本日で私の年齢に追いついた事になる。

いずれ追い越される時が来るかもしれないが、それが、ずーと先の話であって欲しいと思う。

私が妻より先に彼岸に旅立てば、その時点で、私のこの世での年齢は止まってしまう。

それからしばらくして、妻は年齢を加算し、私の年齢を追い越していく事になる。

大村市竹松遺跡のアルバイト作業員として働かせてもらっているが、休憩時間に他の作業員の方と雑談している時に、今日の日付けを聞いて、妻の誕生日である事を思い出した。

その女性作業員の方に、今日が妻の誕生日である事を話すと、「メールでも入れておけば喜ばれますよ」というアドバイスを受けた。

しかし、携帯電話は、直接声を出して話をする道具だという概念を持ち続けている自分としては、メールで自分の気持ちを伝える事に気恥ずかしさを感じる。

しかし、一生に一度しか訪れる事が無い、それぞれの年齢の誕生日であるから、何かして「おめでとう」の意思表示をしておきたいとは思う。

帰宅して、愛野町の「本田菓子屋」から、1個300円のカマンベールチーズケーキというのを家族の人数分の4個買って、その箱を食卓の上に置いたら、妻がにこっとして「ありがとう」と言ってくれた。

今度の7月7日が来ると、入籍してから満32年になる。

人生の半分以上を、妻と共に過ごしてきた事になる。

楽しいこともそうではないことも、数多くありはしたが、何とか乗り越えて現在に至っている。

そして、今が一番幸せであると実感できている。

妻に追いつかれる日が、今後とも何回もあってくれるように願いたい。


豊田一喜






晴耕雨釣のウナギ釣り

2012年06月27日 | インポート
朝から雨模様のために、大村市竹松遺跡発掘のアルバイト作業は中止になった。

晴耕雨読ならぬ、晴耕雨釣のウナギ釣りの日にする事を決断した。

というよりは、実は、今度雨で仕事が休みの時には、ウナギ釣りに行こうと友人と談合していた。

談合というと、一般的にしてはいけないことというニュアンスで捉えがちだが、自分が使っている国語辞典によると「はなしあい。相談」という意味になっているので、用語の使い方としては間違ってはいない。

何もしないで、ぼんやりと家の中でテレビでも見ていると、雨の日の1日なんか、あっという間に過ぎてしまう。

楽しいと思える時間を多く持てるような残りの人生にしようと心がけているので、楽しそうな談合はすぐに決まってしまう。

家の庭の端の方に溜まっている枯れ落ち葉の下から、ウナギ釣りの餌に出来る大き目のミミズ、ドバミミズを掘り出して、出かける準備をする。

梅雨時なので、枯れ落ち葉やその下の地面が湿っており、うちの庭にはドバミミズがたくさん生息している。

9時過ぎに諫早市内の友人の家に行き、そこから友人の車で、大村市の鈴田川河口右岸の余崎交差点近くの支流河川の入り口付近の橋の上まで行った。

国道からすぐ見える、JRの線路のすぐ脇付近の、他の作業員の方からあらかじめ教えてもらっていたポイントに陣取る。

その区域は、旧道の跡であり、道幅も広く、JRの線路と交差するところで車輌は行き止まりになっているので、通行する車は無く、車を止めて釣っていても邪魔にはならない、のんびりと釣りをするには絶好のポイントだ。

10時ごろからつり始めた。

つり始めた頃は干潮の時間帯で、しばらくすると潮が満ち始めた。

九州地方ではドンポと呼んでいる、ハゼ科の魚、ドンコがちらほら釣れる。

途中から雨が強く降り始めたので、雨合羽を着て釣りに熱中していたら、昼飯を食べるのも忘れてしまっている。

雨が強く降り出したので、しばらくしてから川の上流部から濁った水が流れ出してきた。

ウナギ釣りにとっては、上げ潮と川上からの濁り水の流下というコンディションとしては最高の状態が整ってきた。

ドンポは時々釣れる。
しかし、なかなかウナギは釣れてくれない。

午後1時20分ごろ、私の仕掛けに、ついにウナギが喰らいついてくれた。

かなりの重さで、ウナギの魚体が半分ぐらい水面上に出てきた所で「ポトリ」。

残念ながら逃げられてしまった。

しかし、ウナギが上げ潮と共に遡上してきている事は確認できたので、がぜん張り切って、わくわくしながら釣りに集中する。

しばらくしてから、別の仕掛けにも当たりがあったので上げてみる。

こちらもかなりの手ごたえではあったが、同じようにウナギの魚体を半分ぐらい見たところで「ポチャン」。

2回も立て続けにばらすと普通であればイラッと来る所であるが、そうはならずに、魚影の濃さを確認できたことの方がむしろ嬉しく、益々期待が膨らむ。

友人から、ウナギが餌を完全に喰い込むまでじっくり待つ方が良いというアドバイスを受けたので、当たりがあっても上げたい気分を我慢して、じっくりと待ってみる事にした。

1時30分ごろ、ついにその時はやってきた。

重い。重すぎる。

かかったウナギが水中であばれ、なかなかウナギの姿を見る事が出来ない。

やっとの思いで水中から抜き上げると、かなりの大きさのウナギだ。

空中に抜き出しても、竿のしなりで橋の上まではなかなか上げる事が出来ない。

友人がタモを準備してくれたが、タモの柄が短くて空中のウナギの所まで届かない。

やむを得ず、友人にお願いして、道糸を掴んで抜き上げてもらうようにした。

友人が道糸を掴み、慎重に引き上げながら橋の欄干の下まで持ってきて、一気に抜き上げてくれた。

その瞬間にハリスが切れて、ウナギは橋の上に落下してしまい、雨でぬれて水が少し溜まっている路面を、スルスルと逃げ回る。

友人と二人して、その逃げ回るウナギを掴もうと、必死でウナギを追いかけて回る。

国道の車の中から、もしも二人のその様子を目撃していた人がいたとすれば、きっとテレビのお笑い番組よりも面白い光景だったに違いない。

友人が、タモで押さえつけるようにしてウナギを取り押さえてくれたので、二人してタモの上からウナギを掴み、長さが40cmぐらいの小さなクーラーボックスのフタを開け、そのウナギをクーラーボックスに入れようとする。

そのクーラーボックスの長さから、かなりはみ出すサイズのウナギも必死である。

一度入れたクーラーボックスから、体をくねらせて、再び逃走を図る。

そのウナギを、またまた二人して追い掛け回して掴もうとする。

追い掛け回している二人して、自分たちの行動に笑いがこみ上げてきた。

そのような事を2回ほど繰り返して、やっとの思いでウナギをクーラーボックスに押し入れて、間髪をいれずにフタを閉じてロックをする。

二人して笑いながら握手。

魚釣りで、こんなに興奮して楽しい思いをしたのは初めてだったような気がする。

後で、家に帰ってそのウナギの長さを測ったら、全長が丁度60cmあった。

興奮冷めやらぬままで、5分もしないうちに強い当たりがあり、ウナギだと思って上げてみると、なんと水面に姿をあらわしたのは、40cm以上はあるような銀色で平べったい魚のチヌだった。

今度は本当にびっくりして、友人にタモの応援をしてもらおうと思ったが、興奮してしまって、少し離れた所にいた友人に「おーい」「おーい」と呼びかけることしかできなかった。

この魚は、友人がタモを持って駆けつける前に、4号の道糸がプツンと切れて、水の中にさよならしてしまった。

ドバミミズの餌にチヌが喰いつくなどという事は、考えてもいなかったので、本当にびっくりして興奮してしまった。

結果としてばらしてしまったが、ドバミミズの餌でウナギ釣り用のつりばりにでも、チヌが喰らいつくという事を学習した。

しかも川の河口の汽水域で。

その後また、水中から半分ほど魚体を見せてくれたウナギ1匹はばらし、その後にヒットしたウナギは、友人に道糸を抜き上げてもらうという例の方法にて、例の如く右往左往の結果、無事に取り込むことが出来た。

全長が50cmのウナギだった。

友人も、ウナギを1匹は無事に取り込み、1匹はばらしていた。

午後4時半頃に、準備していた餌のドバミミズを使い切ってしまったので納竿した。

釣果は、友人と合わせて、ウナギが3匹、ドンポが8匹だった。

ばらした魚は、友人と合わせて、ウナギが4匹、チヌが1匹だった。

帰宅してから、うちの女房殿の「料理をしてしまうまでが魚釣り」という厳しいお達しに従い、食事の後に、釣ってきたドンポとウナギを捌き、ドンポは煮付けにして、ウナギは蒲焼にする事にした。

竹串も七輪も無いので、ウナギの切り身は、プロパンガスのオーブンでじっくりと時間を掛けて素焼きにした。

それから、醤油、味醂、砂糖を混ぜてタレを作り、素焼きしたウナギをそのタレに浸してから、再びオーブンでこんがりと焼き上げて、ウナギの蒲焼の出来上がり。

焼き魚を焼く時は、川の魚は皮から先に、海の魚は身から先に焼くという事を女房殿から教わっていたので、そのようにして焼いた。

要するに、切り身の魚の皮や身が、焼き網にくっつかないようにするために、火元の方にどちら側を先に向けて焼くかという事だが、川の魚は皮から、海の魚は身からという事にすれば良いということ。

私の分類では、ウナギは川魚という事にしている。

結局、ウナギの蒲焼が出来上がり、本日の「魚釣り」の楽しい楽しい趣味を完結できたのは、夜の11時ごろだった。

かくして、雨の日を楽しく過ごすという目標を立てた1日は、残業つきのおまけまでついて、目標どおりに楽しく平穏に過ぎたのでした。


豊田一喜











新しい知識(遺跡調査における水準儀の据え方)

2012年06月26日 | インポート
今日、自分にとっては新しい知識である、遺跡調査における水準儀(レベル)の据え付け方を教わった。

大村市竹松遺跡の発掘調査に、アルバイト作業員として使ってもらっているのだが、測量経験があるということで、時々測量作業の一部をやらせてもらっている。

測量作業と言っても、私の方は測量人夫役で、反射プリズム(ミラー)を持って移動する、最も楽な役目ではある。

ピンポールに取り付けた反射プリズム(ミラー)の高さを、決められた高さに設定し、、反射プリズム付属の円形気泡管にてピンポールを鉛直にして目標とする測定地点に立てるという、とてもシンプルな作業である。

そのようにして立てられたピンポールの反射プリズムの中心位置を、測距、測角一体型の測量器械であるトータルステーションの望遠鏡で視準し、それらの目標地点の三次元座標値(X座標値、Y座標値、標高値)を求めるための観測を行なう。

本日の朝には、水準儀(レベル)を設置するように指示を受けた。

測量屋にとっては、水準儀(レベル)の設置というのは、最も簡単な作業ではある。

最近、一般的によく使用されている水準儀(レベル)は、自動レベルと呼ばれている物で、そのレベルに付属している円形気泡管のほぼ中心位置に気泡を誘導すると、器械内部の仕組みによって自動的に器械の視準軸が水平になるように作られている。

三脚に自動レベルを取り付けて、三脚を任意の場所に固定し、3個ある自動レベルの整準ネジを使って円形気泡管の中央に気泡を導く。
水準儀の高さは任意の高さで良い。

それにて水準儀の据え付けは完了となる。

この時の要領として大事な事は、円形気泡管の気泡は、レベルに正対した時に、隣接する2個の整準ネジを左右の手の親指で逆方向に同時に回転させて気泡を誘導するということ。

左手の親指が動く方向に気泡は動くようになっているので、左手の親指で操作する整準ネジを左側に動かす場合、要するにレベルの上方から見て整準ネジを右回転させる場合には、同時に、隣接する別の整準ネジを右手の親指にて右側に動かす、要するにレベルの上方から見て整準ネジを左回転させると、円形気泡管の気泡を左側に移動させる事が出来る。

以上は、一般的な測量作業における水準儀(レベル)の据え付け方であるが、遺跡調査の場合の水準儀(レベル)の据え付け方は特殊な据え付け方になっているとの説明を受けた。

要するに、設置した水準儀(レベル)の水平視準線が、ある一定のキリのよい標高値となるようにして据え付けるのだという。

このようになってくると水準儀(レベル)の据え付け方が、少し面倒ではある。

後視として視準する、標高が既知の基準点に立てた標尺の水平視準の読みが、ある数値になるように水準儀(レベル)の高さを調節しなければならない。

例えば後視点(標高の基準となる基準点)の標高値が、10.967mだったとする。

その、標高が既知な基準点を用いて、水準儀(レベル)の水平視準線を標高11.500mになるようにするには、標高10.967mの基準点に鉛直に立てた標尺の読みが、0.533mとなるように水準儀(レベル)を据え付けなければならない。

すなわち、10.967+0.533=11.500ということだから、そういうことになる。

まず、通常の据え付け方にて水準儀(レベル)を据え付けて、その時の後視点(標高の基準となる基準点)に鉛直に立てた標尺の水平視準の数値を読み取る。

仮に、0.533mより小さい数字であれば、三本の三脚を伸ばしてから水準儀(レベル)を整準(水平に設置すること)し直し、その時の標尺の水平視準の数値を読み取る。

そのような調整をしながら、水平視準の数値が、0.533mとなるように調整していく。

最終的に水平視準の数値が2~3mmの程度まで近付いたならば、水準儀(レベル)の3本の整準ネジを、3本同時に上下させる事によって微調整をする。

水準儀(レベル)の整準ネジの調整幅が数mm程度はあるので、そのような事が出来る。

そのようにして据え付けられた水準儀(レベル)の水平視準線は、標高11.500mを常に示している事になる。

ひとつのエリアにおいては、常にそのような水平視準線の数値(標高11.500m)となるような据え付け方で統一するという事が、遺跡調査での水準儀(レベル)の据え付け方の特殊性だという事である。

例えば、その水準儀(レベル)の水平視準によって、任意の地点の地面に鉛直に立てた標尺の読みが1.500mであったとすれば、11.500m-1.500m=10.000mであるから、その地点の地面の標高は10.000mという事になる。

遺跡調査の水準儀(レベル)の水平視準線を、このようにキリのよい標高値となるような据え付け方法にする理由は、誰が水準儀(レベル)で標尺をを読んでも、最終成果の図面等の標高値に間違いが生じないようにという事のようだ。

遺跡調査における水準儀の据え方という新しい知識を得る事ができた日だったが、この歳になっても、新しい知識を得ることが出来ると、何か得をした気持ちになれる。


豊田一喜











高師小僧(たかしこぞう)

2012年06月24日 | インポート
息子の部屋の本棚で、「マンガ 日本の歴史がわかる本」というタイトルの本を見かけたので開いてみた。

せっかく大村市の竹松遺跡でアルバイト作業員として働かせてもらっているので、何かの参考になる事柄が書いてあるのではなかろうかと思い、古代のところを読んでみた。

すると、興味深い記述があった。

秦の始皇帝から、不老不死の薬を探す事を命じられて、日本に渡ってきたと言われる人物で、徐福という人がいたらしい。

徐福伝説は、日本各地に残り、徐福を神として祀る神社も多く残されているのだそうだ。

私は知らなかった。

その徐福さんが、マンガの中でだが、「うーむ、これだけの葦があれば大丈夫だろう。葦の根からは鉄分が取れる。その鉄分から鉄を取り出して鉄器を作れば」というくだりがあった。

植物の葦の根から鉄分が取れるのだろうかと疑問に思い、検索してみた。

「葦」と「鉄分」で検索すると、「高師小僧」というタイトルで詳しく説明している。

それによると、愛知県豊橋市の南部、高師原(たかしはら)に見られた褐鉄鉱の団塊。地下水中の鉄分が葦などの根の周りに水酸化鉄として管状、紡錘状に沈殿したものとある。

ウィキペディアによれば、生成条件として、湿地帯のアシや水田のイネの根の周囲では、鉄バクテリアが大繁殖することがあり、その作用により生成される。全長数cmの暗褐色で棒状の塊。かつて根があった場所に孔が空いている場合もあるとなっている。

発掘作業をしていて、石とは違う金属の錆びたような区域に当たった事があったので、調査員の方に尋ねると、イネ科の植物の根元には鉄分が沈殿していることもあるというような説明を受けた事がある。

その時は何のことだかさっぱり分からなかったが、調べてみて納得できた。

先週の水曜日だったと思うが、土器片でもなく陶器片でもなく石でもない、全長6cmぐらい、直径が1.5cmぐらいの、錆びた鉄のような色をしたものを掘り出した。

スコップで軽くたたいてみると、金属音に聞こえたので、隣りで作業をしていた人に、「何でしょうか」と尋ねたが分からないと言う。

とりあえず、なんだか分からない怪しい物はバケツに入れて置くようにという指示を受けていたので、バケツに入れておいた。

今日、高師小僧の写真を見て、びっくりした。

この前に掘り出したものにとても似ている。

きっと、調査員の方は気付いておられるのだろうと思う。

そういえば調査員の方が、私たちの班が作業をしている道向こうの隣りのエリアでは、鍛冶の跡と考えられる遺構が出てきたと言っておられた。

竹松遺跡への通勤途上で、竹松遺跡の近くの郡川に架かっている橋を渡ってくるが、川の中にはヨシが密生している。

竹松遺跡は、通称高師小僧という針鉄鉱(Geothite)が入手できる環境にあったであろう事が想像できる。

植物の葦の根を焼いて精製し、スズ鉄という鉄を作っていたという説もあるようで、その人の説によれば、スズ鉄の後に青銅器の時代があり、その後に砂鉄で作った玉鋼(たまはがね)の時代へと変遷したという事のようです。

高師小僧の写真画像など詳しい説明は、ここをクリックすれば見る事が出来ます。


豊田一喜









TIN(ティン)の話

2012年06月23日 | インポート
TIN(ティン)と言っても、「とても陰気で根暗な人」の頭文字ではない。

TINとは、Triangulated Irregular Network の頭文字で、日本語では「不正三角網」と訳されている。

不正という言葉が入っているからと言っても、悪者の三角網という訳ではなく、ここで言う不正とは、ランダム(無作為)な配置にて形成されたというふうに認識しておけば良いだろう。

TINは、測量用語のひとつで、「ランダム状に配置されている地形点(X,Y,Zの三次元座標情報が分かっている点)から、三角形群を発生させ、三角形内の標高は三角平面から内挿するDEMのひとつである。」というふうに空間情報工学という書籍では説明してある。

ここでまた「DEM」という新しい用語が出てきたが、「だから偉い人はもてる」という頭文字ではなく、Digital Elevation Model の頭文字で、「数値標高モデル」と日本語では訳されている。

数値標高モデルは、標高データの集合のみでなく、任意の位置における標高を内挿できるモデルをいうと説明してある。

DEMは、DTMの中の標高に特化したモデルであるとなっている。

ここで、またまたDTMという用語が出てきたが、「旦那がとってもむさ苦しい」の頭文字ではなく、Digital Terrain Model の頭文字で、「数値地形モデル」と日本語では訳されている。

数値地形モデル(DTM)は、「標高、等高線、勾配および斜面方位、水系、流域面積、地形陰影、地形投射影、斜面安定度などの地形の特徴を数値表現するモデルをいう。」と空間情報工学という書籍では説明してある。

ここで整理してみると、数値地形モデル(DEM)の中の一つとして数値標高モデル(DTM)があり、数値標高モデル(DTM)の中の一つとして不正三角網(TIN)モデルがあるという事になる。

要するに、親分がDTM(数値地形モデル)で、その子分の一つにDEM(数値標高モデル)がいて、そのまた子分の中の一つががTIN(不正三角網)モデルということになる。

ランダム(無作為)に計測された地表面の三次元座標値から、等距離演算子やティーセン多角形(Thiessen Polygonns)やボロノイ分割(Vorronoi Tessellation)やデローニ三角形(Delaunay Triangle)などといった用語に関わる、小難しい処理をして、規則性のある三角形群を自動的に発生させる。

更にそのようにして生成された一つの三次元三角面の中において、任意の標高値の通過線分を計算し、全ての三次元三角面にて同様の計算をしてから、それらの線分を連続させ、曲線近似させると、任意の標高値の等高線を発生させる事が出来る。

以上は、TINモデル(不正三角網モデル)による等高線情報取得の概念であると私が理解して認識している事柄であるが、正確であるかどうかは分からない。

要するに、ランダム(無作為)に取得した地表面の三次元データから、計算によって等高線の形状を把握する事ができるという事である。

ただし、ランダムといっても、限られた区域において、ある程度の規則性を持ってデータを取得しておかないと、正しい等高線は描けない。

大村市竹松遺跡の発掘現場では、トータルステーションという測距、測角一体型の測量機械を使って、上記のようなTINモデル(不正三角網モデル)による等高線の把握のためであろうとおぼしき測量がなされている。

三次元座標値が既知の基準点(鋲が打設してある)の鉛直上方に、トータルステーションを正しく設置し、他の三次元座標値が既知の基準点(鋲が打設してある)を視準して方位(方向)の基準を設定しておく。

その機械から反射プリズム(ミラー)までの斜距離と高低角(高度角)と水平角を計測して、測量機械に付属している記録装置に自動的に格納していく。

計測するといっても、機械の望遠鏡にて目標プリズムの中心を正しく視準してボタンを押せば、斜距離と高低角(高度角)と水平角の数値を電子的に格納できる仕組みになっている。

機械設置地点の機械中心点の標高値は、基準点鋲から機械の中心位置までの鉛直距離(機械高)をメジャーで測っているので、設置基準点の標高値に機械高を加算すれば算出できる。

さらに、方位(方向)の基準としては、機械を設置している基準点と、方位(方向)設定のために視準する基準点の座標差から、方向角が計算できる。

それらの初期設定をされた機械から、任意の地点に設置された反射プリズム(ミラー)の中心位置を観測、記録したデータを、専用のパソコンソフトに取り込んで処理させると、測量結果が表示され、上記のようなTINモデルによる等高線の把握が可能となる。

ここで、高校一年生の数学の復習を少し。

測量における座標軸は、私たちが中学校や高校で教わった座標軸とは異なっている。

要するに測量では、縦軸がX(エックス)軸であり、横軸がY(ワイ)軸である。

地図でいうと、南北方向がX軸であり、東西方向がY軸である。

座標軸の北方向(要するに、その地点を通るX軸と平行な線)から右回りの水平角を方向角という。

水平方向の視準線から上下の角度を高低角(高度角)という。高低角は水平方向より上方がプラスで、水平方向より下方がマイナスの角度になる。

トータルステーションの機械の中心から、反射プリズム(ミラー)の中心までの直線距離を斜距離という。
それを水平面に投影した距離を水平距離という。

ここで、サイン、コサイン、タンゼントの復習をを少し。

直角三角形の辺の比を表すのが、サイン、コサイン、タンゼントである。

日本語で表せば、サインは対辺対斜辺の数値であり、コサインは隣辺対斜辺の数値であり、更にタンゼントは対辺対隣辺の数値である。

ここで、斜距離がL、高低角がA、方向角がBの地点の座標値を求めてみる。(座標軸は測量座標軸とする)

まず、水平距離から。(水平距離をSとする)

鉛直方向の直角三角形で考えると、高低角Aに対して、斜距離Lが斜辺であり、水平距離Sが隣辺となるから、

S対LがコサインAだから S=L・cosA  要するに水平距離は、斜距離にコサインAを掛ければ算出される。

次に、高低差の計算を。(機械点の機械中心に対する任意の地点の高低差を⊿hとする)

高低角Aに対して高低差⊿hは対辺であり

⊿h対LがサインAだから ⊿h=L・sinA  要するに高低差は、斜距離にサインAを掛ければ算出される。



次に平面座標値の計算。

X座標差を⊿X、Y座標差を⊿Yとすると、方向角がBだから

平面の直角三角形で考えると、方向角Bに関して、水平距離はSで斜辺になり、X座標差⊿Xが隣辺であり、Y座標差⊿Yが対辺となる。

コサインB=隣辺対斜辺=⊿X対S であるから ⊿X=S・cosB

サインB=対辺対斜辺=⊿Y対S であるから ⊿Y=S・sinB

任意の地点の座標値は、座標既知の機械点のX座標値ならびにY座標値に、それぞれ⊿Xと⊿Yを加えれば算出できる。

測量の座標計算の基本であるが、以上のような簡単な、高校一年生レベルの基礎知識でも、ある程度の測量は処理できる。

受験のための小難しい三角関数の数式を、いじくりまわす事を余儀なくされた人たちにとっては意外と思われるかもしれない。

TIN(ティン)を生成するための測量も、上記のような基本式により取得されたデータにより成り立っている。


豊田一喜


























造反議員?

2012年06月20日 | インポート
マスコミは、消費税の増税法案に反対する民主党の良識ある議員の方々を、「造反議員」というふうに表現している。

物事の順番をきちんと認識していれば、そのような表現は非常におかしい。

民主党は、前の選挙のマニフェストで、消費税は上げない、公務員の給与を2割カットするなどの公務員改革をするということで、多くの国民からの支持を受けて政権を奪取した経緯がある。

であるから、そのようなマニフェストを掲げた民主党を支持した国民の側から見れば、消費税の増税法案には反対する立場の民主党国会議員こそが正統派議員であって、多くの国民の意向に反して、消費税の増税が当然のごとき態度を取っている、民主党の主流派と呼ばれている議員こそが、国民に対する「造反議員」であるはずだ。

「税と社会保障の一体改革」などという狡猾なフレーズを使う前に、順番としてやらなければならない事が他にあるだろうにと、末端で生活している一庶民としては非常に強く思うのです。

私たちのような、末端で生活している庶民としては、選挙の際の1票でしか国家に物は言えないけれども、その1票ずつの積み重ねで政権を交代させることもできた。

国民との約束事である「マニフェスト」を反故にするような政党の党首が、「政治生命をかけて消費税の増税法案を通す」などと言っているが、彼の政治生命は「マニフェスト」を反故にして、消費税を増税すると表明した時に既に終わっていると私は思う。

国家公務員の給与の7.8パーセントを、たった2年間に限定して削減するなどという、見せ掛けだけの公務員改革など、改革とは言えない。

また、福島であれだけの原発事故が起きたにもかかわらず、今後の我が国のエネルギー戦略も明確にしないまま、なし崩し的に原発の再稼働を容認した首相に、経済界からの支持はあろうが、一般国民の大多数からの支持は得られないだろうと私は思う。

日本国内の全ての原発が稼動していない状況下においても、通常の国民生活に支障は無かったという、最近の現実を忘れてはならない。

原発の再稼動問題に関して、首相は、「自分が責任を持って決める」と言って再稼働を決定していたが、次に何か原発事故が起きた時には、既に首相ではない可能性が大きいし、民主党自体の議席の確保も厳しいのではなかろうか。

どのようにして責任を取るのだろうか。

野田首相の行動や言動は、民主党という政党を、自ら消滅させようとしているように映ってしまう。

「造反議員」と称されている、本当は「正統派の議員」にとっては、迷惑の極みではなかろうか。

国にもの申す選挙での1票は、現状の本質をよく見極めて、誰が私たち庶民にとっての造反議員かを見定めてから投じなければ、同じ轍を踏むことにもなりかねない。


豊田一喜











黙っていても季節を運んできてくれる庭の風景

2012年06月19日 | インポート
今、我が家の庭では、、紫陽花の青色と、うす紫の色が、梅雨の雨にぬれて鮮やかに見える。

春先のラッパ水仙の黄色に始まり、ゆすら梅のうす桃色の小さな花、その花が終わるとしばらくして、ゆすら梅の実が真っ赤に熟す。

こでまりは、妻の父親から貰った花、白藤は、伯父さんから貰った花。

二人とも彼岸に旅立ってしまったが、それらの花が咲くたびに思い出す。

今年はアマリリスの赤い花が、例年よりも元気に咲いていたし、赤紫色のかきつばたもみごとに咲いてくれた。

数日前までは、松の木の周りで白百合が咲き誇っていた。

その他にもたくさんの庭の草花が、黙っていても季節を運んできてくれる。

若い頃には、そのような庭の風景のうつろいを、しみじみと感じる事はあまり無かったが、最近では早朝に起きて、庭の周りをながめては季節の移ろいを感じ、普通に生きている事に感謝できるようになった。

今日は雨のために仕事が休みで、二年前に他界した伯母の命日だったので、室内墓のある光西寺にお参りに行ってきた。

仮に、80歳まで生きる事が出来たとしても、季節のうつろいは80回しか体験できない。

その中の58回目を今体験している。

黙っていても季節を運んできてくれる庭の風景の1回分を、大切に味わいたい。


豊田一喜


晴耕雨読の雨読の日

2012年06月18日 | インポート
雨天のために仕事は休みだという電話連絡が入ったのが朝の7時少し前。

晴耕雨読の雨読の日となった。

大村市竹松遺跡の発掘アルバイト作業員の仕事が、本日は雨のために中止となり、自宅での自由な時間を持つ事が出来た。

大村市のホームページを見ると、大村市は遺跡の宝庫のようで、かなりの区域で遺跡の存在が確認されているようだ。

遺跡があるという事は、古来よりその地域で人が生活していたことを意味する。

自給自足で生活するための自然環境が整っていた地域には多くの人が集まり、集落を形成していったであろう事が推察されるが、大村市の地形や地理的環境を含めた自然環境は、古代の人々にとっては、まさにそのような地域であったのだろう。

多良岳の山塊からは、河川を通じて充分な水が供給され、それらの河川の裾野に広がる扇状地には、耕作可能ななだらかな傾斜の肥沃な土地が広がり、更に大村湾に繋がり、海産物の入手も容易であったのだろう。

多良岳の山塊では、豊富な動植物の狩猟や採集にいそしんだであろうし、その山塊にて蓄えられた水は河川となって水を供給して、飲料水やその他の生活用水や農業用の灌漑用水として利用されたのであろう。

また、河川の水を直接汲んで利用しなくとも、緩やかな傾斜の扇状地では、井戸を掘ると、比較的容易に伏流水の層に当たり、住居の近くにて水を確保することも容易であったであろう事が推察できる。

さらに、調味料としての「塩」や、食糧保存のための「塩」も、大村湾の海水にて調達できたであろう事が推察できる。

その他にも、大村湾からは魚貝類や海草も入手できたであろう。

私たちが、アルバイト作業員として発掘作業をしている竹松遺跡の近くを流れている郡川(こおりがわ)は、古来より流路を変えながら、現在の流路になっているという事だ。

インターネットにて公開されている最近の航空写真を見ると、私たちが発掘作業をさせてもらっている区域の近くには、郡川の旧流路とおぼしきパターンを見つける事が出来る。

畑の畦ハンの形状からそれは判読できるが、蛇行していた流路の急カーブの先端部分が、長年の流水方向の変化により流路が遮断されて三日月湖になり、その区域を農地として利用しているのであろうことが類推できる。

人工的にそのようになったのか、自然にそうなったのかは分からないし、いつ頃の年代にそうなったのかは分からないが、郡川の流路の変遷が推察できる。

私たちが発掘作業をやらせてもらっているのは、そのような、郡川の上流部から下流部を向いて見て右カーブしている旧流路の先端部分の左岸側(上流から下流を見て左側)の南側という事になる。

話は変わるが、私たちが住んでいる日本の国土の航空写真の画像は、昭和20年代前半のものが一部の山岳地帯を除いてほとんどそろっている。

主要な鉄道沿い等に関しては、撮影縮尺およそ1:16,000で、その他の区域に関しては撮影縮尺およそ1:40,000で撮影されている。

撮影カメラレンズの焦点距離がおよそ152mmだから、それぞれの撮影高度は、およそ2,400mと6,100m程度である。

それらの航空写真は、戦後駐留した米国極東空軍が、我が国を統治するための資料として撮影した物だが、現在はそれらの航空写真画像情報は我が国に移譲され、国土交通省国土地理院が管理し、日本地図センターにて販売されている。

お金さえ出せば誰でも購入する事が出来る。

印画紙やフィルムに焼き付けたものの入手はもちろんだが、最近ではそれらの原画像をスキャナーでスキャンしているので、デジタルデータとしても入手できるようになっている。

その他にも我が国では、昭和30年代以降に、国土基本図や地形図の作成を目的として、地域を決めて周期的に国土の航空写真撮影が実施されており、それらの情報は、お金さえ出せば誰でも入手する事ができるようになっている。

そのような過去の航空写真画像を用いて、過去の現況地形などを復元図化することも可能である。

長崎市内のトンネルの上にある山の頂上付近に、水の本城という山城があったそうだが、その発掘作業に先立って、昭和20年代前半に米国極東空軍が撮影した航空写真画像を用いて、その区域の開発前の地形を図化した事がある。
                                                                              戦後間もない頃の低地の山は、食糧増産のために畑として開かれていたので、山肌の地面が航空写真に写っており、等高線を追跡描画するのに好都合だった。

昭和29年生まれではあるが、自分が生まれる前の戦後間もない頃の状況を、三次元空間の中で見ることも出来る。

今、そこには大きな高層マンションが立ち並んでいるが、水の本城の石積みなどの調査記録は、役所のどこかに残されているはずである。

各種の開発行為に伴って実施される埋蔵文化財の発掘調査は、どのように科学技術が進歩しても、人力で少しずつ掘り下げながら実施するしかなく、そのおかげで職にありつけている。

ただ、このところの雨模様で、発掘現場の構造上、発掘した区域には雨水が溜まっているだろうし、それらの水のポンプによる強制排水も、地元の周辺耕作者の方々の水利権とのからみもあり無理だろうから、梅雨時には雨読の日が増える事はやむをえないだろう。


豊田一喜













標高が分かるWeb地図の試験公開

2012年06月13日 | インポート
国土交通省国土地理院が、日本国内の任意の地点の標高が分かるWeb地図の試験公開を始めた。

以下はその詳細説明文。


標高がわかるWeb地図を試験公開

発表日時:2012年06月12日(火)14時00分
-マウスをクリックするだけで知りたい場所の標高がわかります-

国土地理院のホームページで、任意の地点の標高値を簡単に知ることができるWebシステムを試験公開します。津波や水害対策のための基礎情報として活用いただけます。


国土地理院は、地形図に表示されている基準点や標高点の数値、等高線の間隔から標高値を読み取る技術がなくても、任意の地点の標高値を簡単に知ることができるWebシステムを試験公開します。
このシステムでは、Web地図上の任意の地点にマウスのカーソルを移動し、右ボタンをクリックするだけでその地点の標高値を知ることができます。

このシステムの活用により、津波災害に備えた避難場所の選定、水害時における氾濫地域や水没危険箇所の予測などに役立つ基礎的な情報が容易に得られ、公共機関における防災計画の策定や見直し、ハザードマップの作製や見直しへの活用だけでなく、個人における防災意識の向上に繋がっていくことが期待されます。

なお、このシステムで表示される標高値には、元となる標高データの精度や計算方法による誤差が含まれていますので、そのことを十分にご理解の上注意してご利用くださるようお願いいたします。

このシステムは、以下のURLでご覧いただけます。
http://saigai.gsi.go.jp/2012demwork/checkheight/index.html
添付資料
 1.本システムで表示される情報について 【PDF:322KB】 
 2.本システムで得られる標高値について 【PDF:350KB】
 3.本システムで使用する標高データの整備範囲 【PDF:250KB】
【問い合わせ先】
 〒305-0811 茨城県つくば市北郷1番
 国土交通省国土地理院 
 地理空間情報部   専門調査官     小清水 寛  TEL:029(864)5951(直通)
 地理空間情報部 情報普及課 課長  小菅  豊   TEL:029(864)5966(直通)
                                    FAX:029(864)1805

以上がその説明文です。


試しに我が家の位置の標高値を調べてみた。

国土地理院が公開している「電子国土」の地形図上の該当位置で、右クリックするだけでその地点の標高値と経度、緯度を計算して、それらの数値を表示してくれる。

ずいぶん以前に、我が家の付近の標高値を、近くにある国家水準点からの水準測量(実測)にて計測した事があるが、標高値は2.5m程度だった。

上記のシステムでの標高値は3.0mと表示されたが、「なお、このシステムで表示される標高値には、元となる標高データの精度や計算方法による誤差が含まれていますので、そのことを十分にご理解の上注意してご利用くださるようお願いいたします。」という上記の説明文にもあるとおりなので、地形図に表示してある等高線から、任意の地点の標高値が読み取れない場合にも、そこそこの正確さでその地点の標高値を知る事が出来る便利なシステムだと思う。

自宅の場所等に関する平面位置的な認識はほとんどの人が持っていると思うが、鉛直方向の情報である標高値を把握している人は、あまり多くはないのではなかろうかと思う。

興味のある人は、国土交通省国土地理院のホームページから入って、電子国土システムの地形図上で、自宅の位置などを探し出し、上記の試験公開のシステムを試してみられたらいかがだろうか。


豊田一喜






体重を減らす事が出来て、お金がもらえて、晴耕雨読の生活ができる仕事

2012年06月12日 | インポート
体重を減らす事が出来て、お金がもらえて、晴耕雨読の生活ができる仕事。

私が今までに経験した仕事の中では、そのような仕事にはめぐり会えなかった。

しかし、最近はそのような稀有な仕事をやらせてもらっている。

大村市竹松遺跡発掘のアルバイト作業員としての仕事がそれである。

発掘現場は屋外で、お日様の下での肉体労働であるから、適度に汗をかき、皮下脂肪他の体内の油分を燃焼させる事が出来るのでかなりの減量効果が期待できる。

そして、ボランティアではなく、アルバイト作業員として使っていただいているので、仕事をした分の時間給として、お金もいただける。

更に雨天の日には作業が出来ないので仕事は休みとなり、屋内で読み物などが出来てしまう。

まさに、晴れた日に土を耕し(掘り起こし)、雨の日には読書などにより、各種の知識を蓄積する事が出来る、晴耕雨読の生活が出来ている。

屋外での肉体労働としては、大村市竹松遺跡発掘作業現場の作業環境は非常に恵まれていると思う。

昼食時間等に利用できる休憩棟には冷房が完備してあり、昼休みの60分間はその中の快適な環境で過ごす事が出来る。

正規の休憩時間のほかに、適宜小休止の声がかかり、作業員の体調管理には充分すぎるぐらいの配慮を雇用主からしていただいている。

これから先の季節は、熱さも厳しくなるが、熱中症などにならないように、水分補給や塩分補給などをまめにして、注意して働けば、とても楽しい人生のひとコマとなりそうだ。

お日様の下で普通に働ける健康な体であることに感謝したいし、何よりも、共に働かせてもらっている色々な人達との交流が、自分の人生の財産でもある。

仕事が終わって帰宅してからの体重計の数値を確認する楽しみと、1本100円の発泡酒をおいしく飲み干せるひと時のささやかな幸福感が、何物にも代えがたいと思う58回目の梅雨の頃。


豊田一喜

















物事の順番を考察出来ない新聞記者の書いた記事

2012年06月11日 | インポート
大阪で通り魔事件が発生している。

その事件に関して、以下のような記事が公開されていた。

(読売新聞) 2012年06月11日 11時24分
 大阪・ミナミの通り魔事件で、松井一郎大阪府知事は11日、現行犯逮捕された礒飛京三容疑者が「人を殺せば死刑になると思ってやった」と供述していることに対し、報道陣に「『死にたい』と言うんだったら自分で死ねよと(言いたい)。人を巻き込まずに自己完結してほしい」と発言した。

 府は自殺予防対策を行う立場だが、松井知事は「(容疑者が必要とするなら)相談窓口に来ればいいし、『行政の支援は受けたくない、この世からいなくなりたい』と言うなら止めようがない」と述べた。

上記の記事で、この記事を書いた記者は、松井大阪府知事の言動を、「府は自殺予防対策を行なう立場だが」という言い回しで、暗に批判している。

私は、報道陣に「『死にたい』と言うんだったら自分で死ねよと(言いたい)。人を巻き込まずに自己完結してほしい」と発言した。」松井知事の言動に対して何の違和感も感じないし、人間として当然の感覚だと思う。

最近の社会は、罪を犯した者の人権を擁護するような風潮であるようだが、明らかにおかしいと思う。

本来は、何の罪もない被害者の人権が第一であるべきで、罪を犯した者は、当然の事ながら自らの命をもってその罪を償わなければならない場合もあってしかるべきであるというのが私の考え方である。

物事の順番に対する正しい認識を持たないと、普通に当たり前に生きている人の当たり前の人権を侵害することになってしまう。

最近雲仙市では、本庁舎の場所の条例変更議案の採決に関して、愛野町の柴田安宣市会議員が賄賂申し込みの容疑者として逮捕されている。

総じて、その事を取り上げている新聞記事の論調は、柴田安宣議員が一方的に悪いというようなものが多いようだ。

容疑者であるのに、「大筋で容疑を認めたようだ」などという記事が躍っていたようだが、果たしてその情報はどこから出たものだろうか。

容疑者として取り調べている取調べ中の警察組織からそのような情報は漏れるはずもないだろうから、そのような記事を書いた記者が、憶測で記述したとしか考えられないということにしておこう。

そしてそのような記事を読んだ読者は、そのような情報を鵜呑みにして、柴田議員に対して「悪者」のイメージを抱いてしまうだろう。

しかし、私の周りの多くの愛野町の人で、柴田議員を悪く言う人はあまりいない。

その容疑に至るまでの背景に関して、少しだけ関わった事がある自分としては、柴田議員の心情が少しだけ理解できる。

その背景は、合併前の合併協議会から始まる。

島原半島内の国見町、瑞穂町、吾妻町、愛野町、千々石町、小浜町、南串山町の7町が合併して誕生した雲仙市では、その合併前に、合併を成立させるための合意事項に対する協議が、各町において数多くなされた。

その中で、最後まで「本庁舎の位置」に対して諸説あったが、最終的には以下に示す内容にて合意した。



「新市の事務所の位置は、愛野町小無田下526番地1外(現在の愛野町公民館)とする。

ただし新市の新たな事務所の建設に要する期間にあっては、暫定的に吾妻町牛口名714番地(現在の吾妻町役場)とする。

 本庁舎所在地以外の国見町、瑞穂町、愛野町、千々石町、小浜町及び南串山町のそれぞれの役場の位置に総合支所を、現雲仙支所に出張所を置く。

 なお新市の財政状況を勘案しつつ新たな事務所の建設に資する基金を積み立てることとし、合併特例債が活用できる期間内において新たな事務所を建設することを新市の基本的な理念とする。

 事務所の構造、規模及び建設時期等については、新たな事務所の建設財源として合併特例債の活用を図る観点から、新市において早期に具体的な検討スケジュールを策定するものとする。」


**********************************************************************

専決処分書(案)



 次の事項について、地方自治法(昭和22年法律第67号)第179条第1項の規定により、専決処分する。



   雲仙市の事務所の位置を定める条例



 地方自治法(昭和22年法律第67号)第4条第1項の規定に基づき、雲仙市の事務所の位置を次のとおり定める。

    雲仙市愛野町小無田下526番地1

    附則

(施行期日)

1 この条例は、平成17年10月11日から施行する。

(暫定の事務所の位置)

2 本則の規定にかかわらず、本市の事務所の位置は、庁舎の建設に要する期間を考慮して、この条例の施行の日から規   則で定める日までの間は、次のとおりとする。

   雲仙市吾妻町牛口名714番地



  平成17年10月11日



         雲仙市長職務執行者 〇 〇 〇 〇

**********************************************************************


以上の内容での合意によって、雲仙市は誕生したのです。

しかし、国語の読解力が少しある人ならば分かると思いますが、上記の合意文書は、当時長崎県から出向していた、吾妻町出身の合併協議会事務局長氏などの頭の良い人たち(ぞくにいう官僚)が、将来的にどうにでも解釈できるような言葉を巧妙にちりばめて作成したものだったと私は認識しておりました。

ですから、愛野町議会の合併特別委員会(全12名の愛野町議会議員で構成されていた)での、上記の合意内容に対しての表決では、12名の議員のうち、私を含む3名は、愛野町に雲仙市の新庁舎を建設するという明確な文言が入っていないという理由で「反対」の意思表示をしました。

けれども、12名のうちの3名の反対ですから、「賛成多数」で愛野町議会の合併特別委員会は、上記の内容を受け入れるということになったのです。(この表決の時は、柴田安宣議員は愛野町合併特別委員会の委員長(議長)だったので、表決には参加しておりませんでした)

他の6町の町議会も、上記の内容にて合意し、雲仙市は誕生したのです。

雲仙市になって、新市長になった奥村氏は、その任期の一期目は、新庁舎の建設に関する雲仙市議会における一般質問の答弁として、「合併協議会にて合意された事柄は尊重する」という言い回しでお茶を濁されていたようですが、二期目の市長選挙にて無投票当選された頃から論調が変わり、暫定的な本庁舎である吾妻町舎の増築にて、吾妻町舎を本庁舎とする事を表明されました。

その理由としては、新庁舎を愛野町に建設するには財政的な負担が大きすぎるという、子供だましのような理由によるものでした。

総務省が示している、役所職員一人当たりに必要な庁舎の床面積の4倍もの面積を必要床面積として計上し、その数値にて新庁舎建設に必要な経費を積算して市長の諮問機関に提示し、その結論として新庁舎建設には経費がかかりすぎるからそれは断念し、既存の庁舎を活用する方向にされたいという答申を誘導して、その事を盾にして新庁舎を愛野町には建設しないという事で、旧各町にて説明会が開かれました。

愛野町の中央公民館で実施された、愛野町には新庁舎を建設せずに本庁舎を吾妻庁舎にして、その吾妻庁舎と千々石庁舎を5億円かけて増築するという内容の説明会においては、住民側からの参加者の誰一人として、その案に賛同する人はおりませんでした。

当然のことです。

合併の大儀を踏みにじり、旧7町議会で合意した協定内容を反故にするという案に対して、良識ある旧愛野町民であれば賛同できるはずもありません。

現在の雲仙市議会議員の中には、旧7町時代の合併協定を了承した町議会議員だった人がたくさんおられますが、現在の雲仙市の本庁舎問題(吾妻庁舎を本庁舎として増築し、愛野町には新庁舎は建設しない事にした事柄)に関して、道義的な責任を感じてはおられないのでしょうか。

雲仙市議会での本庁舎問題に関する討論の中で、「合併協定の内容を一言一句遵守しなければならないという事は法律には書いていない」とか、「愛野町内では、本庁舎を吾妻庁舎にする事に関して反対の署名活動も無かった」などという事をのたまわれる雲仙市議会議員もおり、ただただあきれ返るしかありません。

自分たちが合意して成立した雲仙市の合併の経緯を知っていながら、このような筋違いの見解を表明された方々には、約束事は守らなければならないという人の道の基本が欠如している人ではないかという認識を持たざるを得ません。

それに輪をかけて、旧愛野町から雲仙市議会議員になっている人が3人おりますが、柴田議員、松尾議員以外のおひとかたは、多くの旧愛野町民からの支持を得て雲仙市議会議員になっているにもかかわらず、吾妻町を本庁舎にする議案に賛成しておられる。

このことは、良識ある多くの愛野町域の住民にとっては、あきれるのを通り越して、次は無いとしか考えられない。

支持者の間でもそのような空気が広がりつつあるというように聞いたこともある。

私の目には、愛野町に対する裏切り行為としか映らない。

ただ、弁が立つので、いかようにも弁明されるはずであるが、私は騙されない。

以上のような理不尽な背景の中で、柴田安宣議員は合併の大儀を通す事を一貫して主張されていた。

当たり前の事を当たり前に主張してきた人が、もしも新聞記事にあるような容疑をかけられているのだとすれば、そうせざるを得ない状況に追い込んだ、当たり前の事を当たり前にする事をしないように誘導した人たちにも、何等かの疑念を抱かざるを得ない。

しかし、何で半年も前の事が今頃俎上にあがるのだろうか。
そのことの直後に問題提起すればよかったのにと思ってしまう。

半年という時間が経過しているので、証拠も記憶もあいまいになりつつあるのではないのだろうか。

本庁舎を愛野町には建設しない理由として、雲仙市には財政的な余裕が無いのだそうな。

それにしては一民間飲食業者に数千万円の補助金を与えたり、個人の家のリホーム資金をたくさん補助したり等々、財政的に余裕が無いという自治体の様には思えないし、この2年ぐらいの雲仙市の財政は、合併時の雲仙市の長期財政予測に反して大幅に違っていて、良好な財政状況である。

合併特例債の期限も延長になって、10億円ぐらいの新市役所の建設などは充分に可能なのに、新庁舎の建設には40億円が必要だなどと嘘の数字を計上して住民を騙し、現在に至っている。

警察に逮捕された容疑者である柴田安宣議員ではあるが、柴田氏を批判する旧愛野町民があまりいない背景について、物事の順番という観点から考察してみました。

先日の雲仙市議会の全員協議会で、ある議員は柴田氏の辞職勧告決議をするべきだという主張をされ、その意見に対して容疑者の段階でそのような事はすべきではないという意見が出たそうですが、その意見に対して、刑が確定するのがいつになるか分からないので、すみやかに辞職勧告をすべきだと言う意見を述べられた議員もいたそうです。

一番最後の意見を述べた議員が地元の議員だという事を聞いた時には愕然としました。

愛野町の大儀を貫こうとした人と、愛野町を裏切った人のどちらに支持が集まるかは、うちの小屋に住み着いている猫の「モエちゃん」でも分かりそうです。

柴田議員には今後とも是非頑張って欲しいと思います。


豊田一喜





















大村市竹松遺跡の発掘作業アルバイト員としての雑感

2012年06月06日 | インポート
平成24年6月4日から、長崎県大村市の竹松遺跡の遺跡発掘アルバイト作業員として働かせてもらっている。

インターネットで「大村市竹松遺跡」を検索すると、色々な情報が公開されている。

その中の情報から、平成24年5月14日に4つの共同企業体による競争入札が実施され、その中の1つの共同企業体が、2億2千9百万円にて落札している。

私はハローワークからの紹介状をもらい、その落札した共同企業体の会社の遺跡発掘作業員の面接を5月30日に受けさせてもらい、6月1日に採用の旨の電話連絡をいただいた。

現在58歳であるが、私たちが住んでいる長崎県内では、昼間の仕事で時間給900円を出してくれるところはあまり見当たらないし、年齢的なものもあろうが、職を見つけるのがなかなか難しい。

だから、採用の連絡を頂いた時には非常にうれしかった。

本日は、実質的な作業の開始日だった。

6月4日の初日は、班編成や色々な説明や開所式などのセレモニー等にて一日が終わり、昨日は雨天のために作業は中止だった。

昨日は、朝の7時少し過ぎ頃に作業中止の電話連絡があったので、妻が準備してくれていた弁当を持って、趣味のヤマメ釣りに、諫早市高来町の境川(轟の滝がある川)に走った。

雲仙市愛野町からだと、諫早湾干拓の堤防道路を通り、およそ30分で境川のヤマメの生息区域に到着する事が出来る。

元々、境川には天然のヤマメが生息しているのだが、本年も境川では成魚放流を実施したようで、養殖個体と明らかに視認できるヤマメが釣れた。

放流されたヤマメの成魚は、コンクリート製のプールで養殖されているので、尾びれの下方が少し磨り減っていて、魚体の色合いがあまり良くない。

小雨模様であったので、雨合羽の上着だけを着用してのヤマメ釣りだったが、放流された成魚が釣れるのはあまり面白くはない。

要するに、川虫、かに、昆虫など天然のたんぱく質を多く食べている天然ヤマメの個体は、ぞくにいう「磨かれた体表面」を有しており、尾びれも磨り減ってはいない。

しかしながら、水量がかなり少ない中で、ヤマメ釣りの雰囲気を楽しむことはできた。

仕事が中止になった事により、平日にヤマメ釣りが出来、至福の時をすごさせてもらった。

ただし、おまけつきで。

ひたいと左手の甲と左耳の後ろを「ブヨ」にかまれている事を、昼過ぎの帰りの車の中で気付いた。

釣りをしている時には、顔の周りに「ブヨ」が飛んでいることは分かっていたのだが、釣りに熱中していて、かまれていることには気付いていなかった。

家に帰って鏡を見たら、額と左手の甲の腫れがひどかったので、ムヒを塗って様子を見たが、3時間ほどたってもますます腫れがひどくなったので、諫早市の田中クリニックで診察してもらい、飲み薬と塗り薬を処方してもらった。

田中クリニックは、皮膚に関する治療や泌尿器に関する治療では、とても信頼できる病院であり、度々お世話になっている。

飲み薬と塗り薬のおかげで、本日の朝には腫れはすっかり引いていた。

本日の作業は、1班、2班、3班は、作業道具を洗う水溜め場つくりのための土嚢つくりとその運搬、そして発掘作業、更に休憩棟とトイレの掃除などで、またたく間に一日が過ぎた。

発掘作業では、土器片や黒曜石、陶器のかけらなどを見つける事が出来て、非常に興味深く楽しい作業である。

発掘作業に際しては、両膝をついた体形にて作業が出来るように、膝あてパッドと雪除け用の脚ハンのようなものを準備していたので、足腰の痛みを感じることもなく、作業が出来た。

のどの渇きは、昼食時に梅干を1個食べ、その種を口の中でずっとふくんでいたのと、腰に下げていたお茶により、随時水分補給をしていたので、ほとんど感じなかった。

季節的に熱いのは当たり前なので、さほど苦にも感じないが、これから先、熱中症や腰痛の対策を各人で気がけていかないと、故障者が続出するのではなかろうか。

実質的な発掘作業の感想は、時間給900円をいただける作業としては、非常に楽な作業であると感じた。

何よりも周りの皆さんが、まじめに作業をしておられ、今のところ和やかな雰囲気であり、快適な職場であると思う。

また、気のあった3人での通勤途上の時間も、快適でとても楽しい。

40年近く写真測量を生業としてきたので、超低空撮影空中写真による、各種遺跡の平面図等の作成作業(図化作業)経験は数多くあるが、遺跡の発掘作業そのものは生まれて初めての経験であり、新鮮で楽しい。

余談ではあるが、今回の遺跡発掘作業員の募集に関して、他の作業員の方から聞いた話ではあるので真偽のほどは定かではないが、ハローワークから出した紹介状がおよそ270人分、そのうち面接を受ける事が出来た人数が220人、採用された人数が180人という事だそうだから採用されなかった人も40人程度いるという事になる。

国策による公共事業費の削減もひとつの大きな要因ではあろうと思うが、不況による失業者の多さを証明するような応募人数ではなかろうか。

このような具体的な数字を視野に入れ、そのような事象に配慮した国の政策であって欲しいと、一庶民としては望むしかない。

現場作業に関しては、安全管理の責任者の方や監督員の方々の心遣いや声かけには、ただただ感心するばかりであり、5月14日の落札から、わずか20日程度で大人数の面接他の前準備をし、実作業に至るという組織力には、ただただ感謝するしかない。

明日はどんな遺物に出会えるのだろうかと、遠足前の小学生のような気分になっている58歳の夏の夜の雑感。


豊田一喜