日々雑感「点ノ記」

備忘録(心の軌跡)

タコの料理法

2005年07月31日 | インポート
南串山町の親類のところに用事があって出かけたら、帰りに大きな生きているタコを一杯頂いた。

塩でよく揉んで、ぬめりを取るのだというところまでは聞いて家に帰った。

言われたとおりに、金属製のボールにタコを入れて、塩をたっぷりまぶして揉んでいたら、ぬめりは取れた。

その後は、きれいに水洗いして、胴体と足の部分に切り分け、胴体の部分の中の内臓を取り出してから、後のゆで方は妻が知っているだろうと思い、妻に尋ねた。

妻は、お茶の葉を入れてゆでると良い様だと聞いた事はあるというが、水の状態からタコを入れてゆでるのか、沸騰させてからタコを入れてゆでるのか知らないと言う。

母親も知らないと言う。

仕方が無いので自分の判断で、湯沸かし器からの熱湯を大き目の鍋に入れて、その鍋をガスに掛けてからすぐにタコをいれてゆでてみた。

ゆで上がってから冷ましてスライスしたものを、わさび醤油につけて食べてみたら、丁度良い歯ごたえでおいしかった。

素潜り漁をしている親類に見つかって捕獲されたばっかりに、私たちの胃袋に納まってしまったタコの運命だったが、食物連鎖の一環だから仕方が無いだろう。

豊田かずき


新しい空間

2005年07月30日 | インポート
大工さんに頼んでいた、小屋の外壁の補修と間仕切り壁の設置作業が、今日完了した。

色々なものが散乱していた小屋の中に、何も置いていないすっきりした広い新しい空間ができた。

小屋の入り口から奥の外壁までに、何も置いていない状況は、私たちが20年前に帰郷してから初めての事になる。

入り口の奥の外壁には、空気を通すためのサッシ窓と換気扇を設置してもらった。

以前から、数人の仲間が集まって、焼肉などをして語らうことを、各人の家を持ち回りでやっていた。

我が家では、そのような事のできる場所がなかったので、いつも他の人の家が集まり場所となり、申し訳なく思っていた。

これからは、新しく出来た小屋の中の空間で、いつでも集まる事が出来る。

夏場はかなり暑そうだが、寒い季節には丁度良い室温になりそうな空間だ。

その空間での、仲間内での最初の焼肉会をいつにしようかと思案している。

中古の冷蔵庫やテーブル、椅子などが、どこかに眠っていないか、これから探してみよう。

その前に、電気工事の人に、コンセントや電灯の設置をお願いしなければならない。

ある程度の広い空間は、今後いろんなことに使えると思う。

豊田かずき



通行止めからの思い出

2005年07月29日 | インポート
家の近くで、アパートの建築工事がされている。

その土地の前の道路を掘り起こして、水道管と下水道管の敷設工事をするために、今日は朝から夕方まで、その方面へは通行止めだった。

2日ほど前に、その工事をする業者の社員が、地図入りの通行止めの通知を持って来て、29日は通行止めになる旨を説明していた。

車で出かける用事があったので、別のルートを通ってみた。

愛野町の中でも古い町並みで、舟津という町内会名で、小字も舟津という地域を通って国道に出るルートだが、私が子どもの頃には路線バスが通っていた道路だ。

まだ道路面の舗装もしてなかった頃で、鼻先の長いバスが、土ぼこりを上げながら走っていて、川向こうの所商店の前も停留所のひとつだったと思う。

その頃の、その路線の路線バスには乗った記憶は無いが、土ぼこりを上げながら走っていた鼻先の長いバスの姿だけは記憶にある。

松本医院前というバス停留所もあったように思う。
当時は、松本医院も隣の新崎という集落にあったが、現在はその医院も町の中央部に移転してしまっている。

その医院の娘のM子ちゃんとは同級生で、幼稚園・小学校と同じだったが、中学生になった時からM子ちゃんは長崎市内の中学校に入った。

医師になるための勉強をするためだったと思うが、中学生になった時点で、自分の人生の進路に向かって歩み始めたM子ちゃんは、現在では腕のいい産婦人科医として、皮膚科を専門としているお兄さんと共に実家の医院を継いでいる。

年に数回その医院に行くことがあり、何度かM子先生の姿を見かけた事はあるが、向こうはこちらに気付いてはいないようだった。

40年近く経った事による、こちらの肉体的な変貌振りからすれば、気付いてもらえないのが当然のことではある。

小学生の時には、身長が学年で一番低かったのだが、現在ではそこそこに身長も伸びて、体重に至っては85kgにまでになって、まさに中年のおじさんになっている。

数年前に中学校の同窓会をした時に、遠方から参加した同級生からは、自分が名乗らなければ、誰だか分かってもらえなかった。

通行止めからの思い出だ。

豊田かずき


ひまじん

2005年07月28日 | インポート
世の中には悪意を持った「ひまじん」がいるようだ。

この私のホームページへの訪問者数を示すカウンターが、7月27日から急激に増えだした。

ホームページの内容を読むためにではなく、訪問者数を示すカウンターの数値を増やすためだけに私のホームページを開いている「ひまじん」がいらっしゃるようだ。

そのような事が判別できる仕組みを備えているとも知らずに、一生懸命にカウンターの数値を増やす行為を、ある時間帯に集中してやっている。
ご苦労なことだ。

カウンターの数値が増えて、単純に喜ぶような阿呆ではないつもりだが、彼ら(彼女ら)にとっては、私がそのような単細胞に映っているらしい。

私が自分のホームページで「議員活動報告」を公開している理由は、町議会議員としての活動の詳細と、個人としての色々なものの考え方をお伝えする事によって、私がどのような人間であるのかを判断して頂き、また、住民として知っておいたほうが良い情報などを、なるべく多くの方々に迅速に伝えるためだ。

国策として、電子国土という事が言われているような時代に、多くの人からの支持によって町議会議員にしてもらい、公金から議員報酬を受けている立場であれば、インターネットを使っての多くの人を対象とした情報発信程度は、当たり前のことのようにやれるようでなければならないという考えでいる。

残念な事に、ホームページを公開している地方議員は、全国議員サイト全集によれば、この島原半島内の市・町議会議員の中では、わずかに3人しかいないことになっている。

私と島原市議会議員が一人と、別の愛野町議会議員が一人の合計3人だ。

自分の議員としての活動状況も整理できていないような人達が、選挙の前だけに名刺を持って挨拶回りをして、支持を得ようとするような旧態依然としたことを、早く払拭できるような風潮になることを望んでいる。

合併によって、自治体の区域が大きくなれば、なおさら必要な事になって来るのではなかろうか。

悪意を持った「ひまじん」さえも、インターネットを使ったホームページの、ある種情報操作に関心を持っているような時代なのだから。

豊田かずき


墨付けと地図作り

2005年07月27日 | インポート
小屋の中の間仕切りをする大工さんの仕事のやり方を見ていた。

まず、天井の鉄骨の梁の下の面の、壁を設置する予定位置の所に、墨糸で墨付けをする。

次に、垂球(下げ振り)の糸の上端を先程墨付けした線に合わせて垂球を垂らし、その鉛直下のコンクリートの床面に印を付ける。

それを2箇所で行い、その床面上の2点を結ぶ直線に、墨糸で墨付けを行う。

そのような事を、壁を設置する全ての面に対して行い、鉄骨の梁の下の面とコンクリートの床面の両方に、大工さんの頭の中にある平面図が、具体的な線として表示された。

直角と鉛直を、1対1の縮尺で現地に図示したことになる。

私の生業の航空写真測量における地図作りも、基本的な概念としては、同じような事をやっている。

撮影された航空写真の撮影カメラの空間位置とそのX・Y・Z軸まわりの回転角の量を、地上座標が既知な対空標識を設置した基準点等の三次元座標と、その写真上に写像された画像位置との関係から解析して決定する。

このような事を、空間後方交会法による投影中心位置の、空間位置と3軸周りの回転角の解析という。
基本的に使う数学的な概念としては、共線条件式と呼ばれるものだ。

地上の特定の対象物と、撮影カメラのレンズ中心(投影中心)と、撮影された写真のフィルム面上の画像位置との3点は、一直線上になければならないという条件である。

このような共線条件を、写真上にバランス良く配置された3点以上において、同時に満たすような解析をすれば、一枚の写真の投影中心の空間位置と3軸周りの回転角は求まる。

それを60パーセント以上重複して撮影された2枚の写真について行い、2枚の写真の投影中心の空間位置と3軸周りの回転角が分かれば、あとは三次元の前方交会法によって、あらゆる地上点の三次元座標を求める事が出来る。

ある特定の座標系における投影平面(X・Y平面)に対して、鉛直に投影された地上の地形・地物を、ある縮尺にして線図として表示したものが地図であるということになる。

基本的に使う概念としては、水平・直角・鉛直であり、大工さんが建物を建てる時と同じものだ。

ものづくりの基本概念の中には、共通している事柄が多い。

豊田かずき


ゴミの山

2005年07月26日 | インポート
小屋の補修をしてもらっている大工さんが、所用で昨日と今日は休みだった。

午前10時半頃に、長崎の実測会社から依頼されていた、航空写真測量による沖防波堤の出来形三次元データ解析・計測作業が終了して、データをメールで送信した。
便利な時代になったもので、仕事の成果が数分もかからずに、遠方の作業依頼者の元へ届いてしまう。

時間が出来たので、その後は小屋の間仕切りをしてもらう空間の確保のための片付けをしてみた。

小屋の奥の方には、何のために購入したのかは忘れたが、砕石と砂がビニール袋に入れて、十数個置いてあった。

そのビニール袋が劣化して、破れやすくなっていたので、砕石と砂を一輪運搬車に移して、道向こうの土地に運んだ。
子どもの頃に住んでいた家が建っていた、千鳥川に面した場所だ。

一輪運搬車で6回分の量を、仕舞い込んでいた。

その他にも、引越し荷物を包んでいた包装材やら紙袋類、古いベニヤ板、空き箱、ねずみにかじられたゴザ等々、ゴミの山だった。

紙袋類やゴザや古いベニヤ板などの燃えるゴミは、諫早干拓の堤防下の空き地で焼却処分した。
諫早干拓地内の自分の田んぼには、減反にしてはいるのだが、水が張ってあったのでそこでは焼却処分ができなかったために、堤防下の広い空き地で燃やさせてもらった。

結局、夜の8時頃までかけて、間仕切りをする空間の片付けは終わった。
十数年ぶりぐらいで、小屋の入り口から奥の方まですっきりと見通せる情況になり、気持ちが良い。

明日からは大工さんが来て、小屋の中の間仕切り壁の設置作業に取り掛かってもらえる。

豊田かずき


にーえる分のえっちじじょう

2005年07月25日 | インポート
正確には「マイナス2エル分のエッチ二乗」の事で、傾斜補正をする時の近似式である。

傾斜のある(高低差のある)2地点間の直線距離(斜距離)を巻尺等で測り、その2地点間の高低差をレベル(水準儀)等で測った場合に、その2点間の水平距離を算出する場合の近似補正式になる。

覚えておくとどこでも使える、三角関数表も何もいらない、手計算で補正計算ができる近似式である。

地図や測量図面に表示してある地形・地物の線は、地点間の距離を全て水平距離に直して、ある定義された投影面に投影されたものだ。

高低差のある2地点間の斜距離(直線距離)をLとし、その2地点間の高低差(比高)をhとすれば、その2地点間の水平距離Sは、

S = L -(hの2乗÷2L)

で計算できる。
ただし、あくまでも近似補正式なので、同じ斜距離であっても、高低差が大きくなれば、最終結果にひびいて来る桁が違ってくるので、使用できる範囲の吟味があらかじめ必要となってくる。

36年前に高校の測量学の先生から、覚えて置くようにと言われた式のひとつだ。

楽しかった、高校の測量の授業を思い出した。

豊田かずき


川祭り

2005年07月24日 | インポート
住んでいる川端町内会で、48回目の川祭りの行事があった。

昭和32年の諫早大水害の翌年から毎年、川の神様に対する畏敬の念を示すためと、2度とそのような災害が起きないようにという祈りを込めて、千鳥川の除草・清掃作業と合わせて、各住宅の害虫駆除消毒を実施している。
夕方からは、ご婦人方が作った手料理での懇親会となる。

従来は、その災害が起こった7月25日に行っていたが、最近は専業農家の数が少なくなり、外に勤める人の数が増えてきたので、7月25日に近い日曜日に実施する事になった。

朝8時から、川や道路の除草班と害虫駆除班に分かれて作業を実施し、昼前には作業は終了する。

作業が終了したら、酒屋さんの前のせんだんの木の下の木陰で休憩をして歓談する。
スイカを食べ、缶ビールを飲み、先輩方から昭和32年の大水害の様子などが話される。

当時3歳だったが、水害後の様子は記憶に残っている。

先輩のYさんが話されていたが、1階の鴨居のところまで浸水したということで、自分たちは2階に避難していたということだった。

水が引いた翌日は、集落の廻り中に泥が堆積していて、そのほとんどを人力で片付けた当時の親たちの精神力と勤勉さは、すごいものだとY先輩が話されていた。

30cm程度に生育していた稲も、そのほとんどが泥に埋もれていたそうだが、その泥を人力で取り除き、苗をどこかから分けてもらって植えなおしたそうだ。

ほとんどの家庭が農家だった頃だから、米を収穫できなければ生活が成り立たないので、必死の思いであちこちから苗を見つけて来て植えたのだろう。

私たちの親たちの世代の生活力のすごさがうかがえる。

果たして今の私たちに、そのような事ができるものだろうかと考えてしまった。

豊田かずき



足場の撤去

2005年07月23日 | インポート
小屋の補修の外回りの作業が終了したというので、大工さんの手伝いで夕方から足場の撤去作業を行った。

足場が揺れないように、足場鋼管と連結している木材を、建物の2階の一部に木ネジで固定してある。

そのような固定してある所を、1箇所外すごとに足場の力学的なバランスは崩れていく。

要するに不安定になっていくということだ。

その不安定さを見極めながら、段取り良く巧みに、足場板と足場鋼管を取り外す。

きっと、大工さんの頭の中には経験に基づく力学的な知識の集積が有るのだろうと思った。

建物を建てる時には、少しずつ構造的な強度は増していくが、それを手作業で解体していく場合には、少しずつ構造的な強度は減少していくはずだから、不安定な状態となり作業時における危険度は大きくなる。

そのような不安定な状態の作業も無事に終わった。

三十数年前に建った小屋だが、外壁と一部の補修により、すっきりとなった。

次にその小屋の補修をするのは、息子の代になってからになると思う。
それまでに、台風などの大きな災害に遭わないことを望みたい。

豊田かずき



晴天続き

2005年07月22日 | インポート
小屋の補修工事のために、大工さんが来始めて今日で4日目になる。

その間ずっと晴天続きで、大工さんの当初の見積もりどおりに、外回りの補修工事はほぼ完了した。

外回り関係で残っているのは、ハフ板の取替えとペンキ塗りの作業だけになった。

晴天続きで工事ははかどっているが、炎天下における細い足場の上での作業は、肉体的にも精神的にも、相当疲れるのではないかと思う。

日射の場所と段取りを前もって考えて、極力直射日光に当たらないで作業をするような作業工程を組み立てて仕事をしているという。

長年の経験で培われた、肉体疲労を少しでも軽減するための知恵が、このような細かい事においても発揮されている。

プロフェッショナルの仕事振りは、多くの面で参考にさせてもらえる。

梅雨が明けてからの晴天続きの中、緻密に計算され尽くした大工さんの仕事は続けられている。

豊田かずき


海上長狭工作物の計測

2005年07月21日 | インポート
町会議員ではない方の、日常の生業分野の固いお話が今日のテーマです。

海に面している陸地が多い長崎県内には、波消しブロック(テトラポット)を設置してある海岸部が多くある。

その中でも、入江の少し沖合いの陸続きではない所に、単独で設置されている防波堤がある。

湾内への高波の影響を軽減するために、その湾の入り口付近に、波が押し寄せて来る方向に対してほぼ直角に設置されている、大きな波消しブロック(テトラポット)の乱積み方式により築造された、細くて長い構造物だ。
通常は、そのような防波堤のことを沖防波堤と呼んでいるようだ。

航空写真測量で、地面で覆われている通常の地上の対象物を解析・計測する場合には、その計測対象物が、ステレオ画像を構成する2枚の写真上に明確に写ってさえいれば、何の問題も無い。

しかし、その構造物の周囲が全て海面で、しかも細くて長い構造物の三次元データの解析・計測をするためには、撮影計画からして色々と工夫しなければ、正確な三次元データの取得はできない。

平成13年に、長崎市内の旧来からの付き合いのある実測会社の社長から、そのような海上長狭工作物の航空写真測量方式による解析・計測をする方法は無いかと相談された。

従来は、設計仕様に基づく施工が、適切に実施されているかどうかの竣工検査の方法としては、検査する施工断面の箇所ごとに足場を組んでの、現地での実測による方法で対処していたという事だった。

その現地に足場を組む経費も相当な金額になり、さらにテトラポットの1個の大きさが、全長で5m程度のものを積み上げてあるので、足場設置作業時の作業員の危険性の回避という観点からも、非接触方式による航空写真測量方式での解析・計測ができないものかという相談だった。

海上に単独で存在している、長狭構造物の三次元データ計測を、航空写真測量方式で計画する場合には、超低空撮影が可能なヘリコプターによる撮影を計画するのが常道ではある。しかし、ヘリコプターによる撮影は撮影コストが高くなり、地上座標が既知となる基準点の設置数も多くなり、その分、基準点の設置やそれらの基準点への対空標識の設置時における、現場作業員の作業実施時における危険性も増す事になる。

そこで、通常の撮影用飛行機(セスナ機等)による撮影で、三次元データの解析・計測が出来る方法を考えてみた。

答えは、写真測量の最も基礎的な知識により導き出す事が出来た。

航空写真(空中写真)は、シャッターを切った瞬時の状況を画像として捉えることができる。

4個以上の、三次元の軌道座標が正確に把握されている人工衛星からの信号を受信する事によって、その受信アンテナ位置の地球上の三次元座標値を瞬時に知る事が出来る技術が確立されている。

RTK-GPS測量という。(リアル・タイム・キネマティック-グローバル・ポジショニング・システムの略)

これは、1秒ごとの受信・解析データをシステムの中に格納しておくことができる。

このような技術を、航空写真撮影時にうまく組み合わせて使えば、海上の長狭構造物の、正確な三次元データの取得が可能となる。

詳細については、後日ということで。

豊田かずき


徒弟制度の話

2005年07月20日 | インポート
小屋の補修をしてくれている大工さんの、修行時代のこと。

大工さんの棟梁の所に弟子入りしてから、4年間は見習い期間ということで、1ヶ月に2万円の手当てをもらっていたという。

その4年間が過ぎると、あと1年間は棟梁の「加勢」ということで、正規の大工さんの給料の半額の手当てをもらう期間だったという。

弟子入りしてから、満5年の経験を積んで、やっと一人前の職人として認めてもらえるような、徒弟制度の厳しい修行を積んできている。

既に30年以上の経験に裏打ちされた技能と、その誠実な仕事振りは、見ていて気持ちが良く、洗練されていることを感じる。

無駄な動きが無く、どのようなことにでも、臨機応変の適切な対処がすぐにできている。
本物のプロフェッショナルとは、こういう人のことを言うのだなと思ってしまう。

しかも朝は、8時よりも早目に来て仕事を始め、夕方は7時過ぎまでの、密度の濃い作業だ。

鍛え上げられた太い腕が、長年に亘って力仕事を続けて来たことを物語っている。

中学生の頃はヤンチャもしていたということだが、その後の30年間を、地道に大工さんとして過して来たという風格がある。

隣の家のお母さんが、22年前のそのお宅の新築工事の時に、玄関の吹き抜けのところをやってくれていた大工さんだということを覚えていて、休憩している時に話しかけてきてくれた。

徒弟制度の修行時代を終えて、その棟梁の下で一人前の大工として働き出していた頃の彼のきびきびとした働きぶりが、とても印象に残っていたということだった。

その後、しばらくして独立し、現在に至っているのだそうだ。

今でもその頃の棟梁のことを「親父さん」と呼んで、敬っていることが分かる。

徒弟制度の中で培われた師弟関係は、一生もののようだ。

明日はどんな技能を見せてくれるのか、とても楽しみだ。

豊田かずき



小屋の補修

2005年07月19日 | インポート
私が高校生の頃に建った小屋(農業用の倉庫)の外壁に張ってあるトタンが、三十数年の年月の経過によって、錆がひどくなり、一部においては指で押すと破れてしまう様な箇所も出て来た。

トタンも三十数年もてば、十分だろうと思い、張り替える事にした。

二階建ての小屋だが、一階の一部分だけは、三年前に息子と二人で、素人仕事で張り替えてみた。

その後、台風の影響による強い風に何回か遭ったが、素人仕事で張り替えたトタンも剥がされなかった。

今回張り替える部分は、足場の無い二階部分も含んでいるために、素人仕事では危険であり、無理でもあるので、大工さんに頼む事にした。

見積もりをしてくれた大工さんによれば、海岸べりの場所ではなかったので、潮風にもあたらずに、三十数年ももったのだろうと言っていた。

せっかく大工さんが来てくれるのだから、ずっと前から妻から言われていた、小屋の中の間仕切り用の壁も作ってもらう事にした。

父親は農業をしていたので、農業関係の機械や道具などを入れていた小屋だが、今では私たちや姉妹が他所で暮らしていた時のいろいろが、雑然と平面的に広げられている。

それらをきちんと整理、整頓するためにも、間仕切りをして棚を作って欲しいと、妻から懇願されていた。

足場作りの助手をしたり、低い場所のトタンを剥がしたりしながら、三十数年前の高校生の時に、麦わらぶきだった小さかった小屋が、鉄骨作りの大きな小屋に建て変わった頃のことを思い出した。

麦わらぶきだった小さかった小屋には、平面式の小さな乾燥機と、耕耘機やテーラーなどのわずかな農機具を入れるスペースと、稲わらや麦わらを入れるスペースがあり、道路端には柴や割り木を入れておくスペースがあった。

当時は、ご飯などを炊くのもかまどだったので、その煮炊き用の燃料として柴や割り木が必要だった。

母親は朝早くから起き出してハ釜で米をとぎ、それをかまどにかけて柴で火を焚き付けてから割り木をくべ、それから味噌汁を作っていた。

柴や割り木が燃えるにおい、ハ釜でご飯が炊き上がるにおいや味噌汁のにおいなどが、寝ている布団の中まで届くような、日常の毎朝の情景だったが、家庭や家族を感じる事ができる幸せな空間だった。

電気炊飯器や洗濯機、掃除機、冷蔵庫などの普及により、主婦の仕事も格段に楽になってきているとは思うが、そのような機器が無かった時代の農家の母親たちの主婦業は、大変だったと思う。

ほうきと雑巾での掃除、川の水での洗濯、薪とハ釜での炊飯、手縫いでの子どもの服の繕い、ほとんど人力による農作業と、全てをこなさなければならなかったのだから、過酷な重労働を強いられていた事になる。

そういう中で、愛情を持って育ててもらった事に対して、口では言った事は無いが、母親や父親には本当に感謝している。
父親には、感謝の言葉を言おうにも、既に二十年前に他界しているので、言う事ができない。

家は貧乏ではあったけれども、良い思い出がたくさんある子ども時代を過させてもらった。

小屋のトタンを剥がしながら、昔を思い出した。

豊田かずき


海の日・光化学スモッグの日

2005年07月18日 | インポート
今日は、海の日で休日になっている。

かわうそ@暦さんの暦のページによれば、1970年(昭和45年)に東京都杉並区で日本で最初の光化学スモッグが発生した日でもあり、被害のあった立正高校では体育授業中の生徒が突然目の痛みや頭痛などを訴えて倒れ、40数人が病院へ運ばれたということを知る事ができる。

海の日は、従来は7月20日だったそうだが、それが祝日化して、2003年から7月の第3月曜日に変更されたということだ。

「海の日」と「光化学スモッグが日本で最初に発生した日」というのが、同じ日付であると言うのは、対照的な組み合わせであると思う。

「海の日」から受けるイメージとしては、雄大でおおらかな清い感じであるが、「光化学スモッグ」は、都市域における住宅密集地域という、人間生活の場における狭くて重苦しい汚れた感じを受ける。

海は、本来ならば、雄大でおおらかな清いものであると私は認識しているが、近頃有明海周辺では、少し様子が違ってきているようだ。

諫早湾干拓事業によって潮受け堤防が築造されたことにより、その近隣の低平地域に住んでいる私たちは、その潮受け堤防の高潮被害に対する抑止効果のおかげで、強い雨が降っても安心して生活する事ができるようになり、非常に有り難いと思っている。

しかし、そのことによって、諫早湾という人工的な閉鎖性水域を造りだした事による弊害も懸念されている。

その事については、裁判などで争われているが、どのような方向で決着していくのか、はっきりした方向性は見えていない。

色々な立場の人達が少しずつ譲歩しあって、防災機能も保持したままでの自然環境の復元を実現して欲しいと言う願望を持っている。

人為的な現象である、「光化学スモッグ」のような状況に有明海がなるようなことを避けるような方策の確立を望みたい。

豊田かずき


川祭りの回覧板

2005年07月17日 | インポート
今朝、隣の家の奥さんが回覧板を持って来てくれた。
内容は、住んでいる川端町内会の「川祭り」の実施予定の通知だった。

昭和32年7月25日に、未曾有の集中豪雨により、諫早市を中心とした地域で起きた諫早大水害の翌年から、川端町内会で続けられている町内会行事だ。

川端町内会と新崎町内会の一部の間を流れる千鳥川も氾濫して、低平地域である付近一帯が床上浸水した。

当時3歳だったが、記憶に残っている場面がある。

水害の直後に、氾濫した千鳥川の濁流に運ばれて、当時住んでいた我が家の庭に堆積していた土砂を、父親がクワを使って掘り起こして除去していた場面だ。

歯先が三本あるクワで掘り起こしていたが、そのクワの歯先の一本が、土砂の中に埋もれていたヤカンの蓋に刺さり、そのヤカンを掘り出していた場面が記憶に残っている。

その、蓋にクワの歯跡がついた大きなヤカンは、その後しばらくの間は、我が家の食卓で役に立つことになる。

父母が、私たち子どもを早目に高台の方に避難させていたので、川の水が氾濫して、自分の住む家が床上浸水している場面は記憶に無いが、水害後の跡片付けの時のその一場面は覚えている。

その諫早大水害の翌年から、千鳥川に対する畏敬の念を表すために、千鳥川の一部の除草作業や清掃作業を、川端町内会全員参加で実施している。

当初は、記念日の7月25日に行っていたが、最近は勤めに出ている人が多くなったという理由で、7月25日に近い日曜日にやろうということになり、今年は7月24日に実施するということになっている。

男性は、朝の8時から河川の除草・清掃作業を行い、同時に町内会全域の住まいの周りの害虫消毒も実施する。

女性は、午後1時から川端公民館に集合して、夕方からの懇親会の料理の準備をする。

夕方からは、川端公民館に集まって、半年分の町内会費を集めて、それから懇親会が始まる。

たとえ合併して雲仙市になっても、継続していかねばならない、小さな地域での大切な行事の一つだ。

回覧板での情報伝達ということも、おもむきがあって好ましい。

豊田かずき