日々雑感「点ノ記」

備忘録(心の軌跡)

頭痛・歯痛・支持率低下に効く薬「カイサン」

2009年07月25日 | インポート
毎日新聞の世相批評画に、よこたしぎという人が書いている「経世済民術」(けいせいさいみんじゅつ)というのがある。

今回は、薬袋のパッケージのデザイン画になっていた。

その中の表示がおもしろい。

中央付近の上部に、トレードマークとして、富士山の真後ろから昇るお日様が円で囲まれている図がある。

そのすぐ下段には「頭痛 歯痛 支持率低下」という横書き文字が入っている。

さらにその下段には、目をつぶって頬杖をついて憂鬱そうな顔をした、つい最近に解散権を行使した人とおぼしき方の図があり、その直下に長方形で囲った「カイサン」という文字が表示してあって、その両サイドには縦書きで「のめばよくきく民の声」という文字の表示があり、それが登録商標となっている。

発売元 アソウ薬品COLTDとある。

また、その外側の両サイドの右側には縦書きで、「政権の末期的症状に」とあり、左側には「失言・ぶれ予防に」となっている。

最下段には「各党のマニフェストをよくお読みのうえあなたの一票をご使用ください」と横書き文字がある。

いつも思うが、プロの作画家の作画アイデアの表現には感服させられる。


8月の末には、私たちが乗っている日本丸という難破しそうになっている船の舵取り役を選択する日がやってくる。

まさに「各党のマニフェストをよくお読みのうえあなたの一票をご使用ください」となる。


豊田かずき



昔の手紙

2009年07月23日 | インポート
以下は4年前に知人に宛てて書いたメール。

豊田です。
合併に対する私の考え方は、あなた様の考え方とは大きく異なります。
今回の合併は、地方分権という大義名分のもとに、国が画策している中央集権化の序章であると、私はとらえております。

 言い方を変えれば、幕藩体制の再構築化のようなものとも言えると思っております。
例えば、島原半島に、お殿様が一人の体制を作り上げれば、国(中央)としては、非常に統治しやすいはずです。

 もし、島原半島が一つの自治体になった場合には、今までは17人の首長(自治体)に対して、国民から集めたお金の分配を考慮しなければならなかったものが、1人の首長(自治体)への分配を考えれば良いのですから。
また、自治体の範囲が大きくなれば大きくなるほど、本来の意味における地方自治のあり方が、根底から壊されていくのではないかとも思います。
小さな単位での住民運動などがやりにくくなり、国民を統治して、意のままに動かすようにするには、自治体の区域を広くするということは、とても都合の良い方法であると私は思います。

 たとえどのような枠組みにせよ、雲仙岳の周囲に広がっている、半島という特異な地理的・地形的な要素は変えようがなく、どこが中心部になっても、不便な地域が発生するということは、必然的なことであると思います。
不便とは言っても、私たちが生まれて育った頃に比べれば、はるかに便利な社会になっていると思います。
現代の人間は、少し贅沢過ぎるのではないかと私は思っております。

 人口の減少は、何も私たちの住んでいる地域だけのことではなく(愛野町では微増しておりますが)、日本の国全体が、出生率の低下に伴って、必然的にそうなっていくことであるので、何か努力をして変えて行けることでもないのに、人口の減少を指して、過疎化が進行しているなどと言って、危機感を煽り立てている人がおりますが、私は違うと思います。
人口が増え、ビルが林立するようなことが発展であるかのような考え方の人もおりますが、とんでもないことだと思います。
私たちの住んでいる半島は半島なりの、住民が日々安穏に暮らして行けるような、幸福感の求め方があってもいいと思っております。

 議員の在任特例という餌につられて、思慮分別のない人達が合併賛成を合唱し、まんまと国の策略にはめられて、住民運動による議会解散に追い込まれた県内の離島の例でも分かるように、体よく地方議員の数を減らされただけのことだと思います。

 確かに、町議会議員の中には、その資質に疑問を抱きたくなるような人も見受けられますが、その議員定数が多すぎるとは思いません。
ある地域において、議員の定数が少なくなるということは、行政を監視したり、住民の声を代弁する人の数が減っていくということにも繋がると思います。
問題は、その議員報酬額であると思います。現在支給されている額の、半分もしくは三分の一程度の議員報酬額であってでも、地域のために議員をやりたいと思っているような人達が議員になれば、合併特例債という都合のいい借金につられて、あわてて合併をすることもなかったのではと思います。

 要するに今回の合併は、財源の分配権を握っている国に脅されて、また、地方交付税の一時的な優遇措置と、合併特例債という訳の分からない借金につられて、各単位自治体が、それぞれの自治権を奪われてしまったという図式以外の何ものでもないと思っております。
だいたい、国の財政が逼迫しているというのに、どのようにして合併特例債などというお金を工面できるのでしょうか。

 今回の島原半島の3つの枠組みによる合併も、小さな貧乏が大きな貧乏になっただけのことのように思います。
いずれの自治体においても、自主財源率が乏しい状況であり、合併特例債として借りられる額のおよそ4割近くは、借金として残るわけですから、はたしてその借金額を、どのようにして返済していくのでしょうか。
その前に、合併特例債を当てにして合併した自治体は、国からいろいろと理由を付けられて、その特例債さえも満足に貸してはもらえないのではないかと思います。

 財源が少ない状況下で借金を返していくには、その負担を住民に転嫁するしか方法はないのではないかと思います。
次の合併の枠組みも、同じような手法で自治体を借金漬けにして、さらに大きな枠組みへと推し進められるのであろうと、私は思っております。
それと並行して、憲法改正論議を契機として、戦前の思想教育と同じような流れに、教育の方向性を持って行こうとしているのではないかと心配しております。

以上思いつくままに書いてみました。私の現在の思いです。


以上は4年前に思っていたことだが、今でも変わっていない。

記録に残せるメールは、過去の自分との再会ができる。



40日間のプロポーザル

2009年07月21日 | インポート
日本語の「企画競争」は、英語ではプロポーザル(proposal)方式というそうだ。

複数の業者から企画提案や技術提案を提出させ、提案内容を審査し、企画内容や業務遂行能力が最も優れた者と契約する方式で、会計法上は特命随契の一種になるという。

衆議院が、ほぼ任期満了たてまえ解散の様相で解散されたが、実質的に今日からは、今後40日間の衆議院議員立候補予定者や政党間のプロポーザル合戦の始まりとなる。

政党が有権者に提示する企画提案書が政党のマニフェストであるが、解散を決めた現政権のマニフェストはまだできていないとマスコミは報じている。

政権交代が現実味を帯びて来ているとマスコミははやし立てているが、解散から選挙までの期間が戦後最長であるという所に現政権の恣意的な策略を感じる。

40日間あれば形勢の逆転もありうるとの判断なのかもしれない。

マニフェストにしても、後出しで、先に出された他党の内容を批判することの方が楽で、現に、民主党が提示している子供手当ての財源について、扶養控除や配偶者控除を見直してそれに充てるという事の矛盾を自民党は主張している。

選挙を前にして、耳当たりのよいプロポーザルを各政党とも掲げることだろうが、自民党と公明党が協力して運営してきた最近の政治は、少なくとも私たちのような庶民にとっては歓迎できるような状況ではなかったのではと私は感じている。

能力主義とかで、日本の伝統的雇用形態であった終身雇用制をぐちゃぐちゃにして、経営者を利する仕組みを確立してしまったことは、結果として失業者の増加に繋がったと考えられるし、終身雇用制が維持されている公務員の給与は、社会状況がいかに厳しくとも肥大化し、自治体の財政を大きく圧迫しているのではないかと考えられる。

小さなまとまりの自治体をなくして、大きなまとまりの自治体となるように仕向け、中央集権化を強引に推し進めようとしていることや、郵政民営化に見られるような、本来ならば費用対効果だけでは論ずべきではない、国家が責任を持って維持すべき事業までも民営化してしまうというような状況は、地方の田舎に住んでいる者にとっては改悪でしかない。

40日間のプロポーザル合戦の中で、どのようなスキャンダルの暴露合戦を各政党が準備しているのかという事も興味深いが、マスコミの論調に振り回されることだけはないように、一有権者として気をつけておきたい。

民主党の支持母体であるといわれている自治労などの幹部は、役所の中で役所の仕事はせずに組合の仕事に専従しているにもかかわらず、公務員としての給与も受け取っていたという事で、農水省関係の職員には多数の処分者が出ている。

果たして公務員改革を主張している民主党に、そのような事を払拭できるのかは疑問の残る所ではあるが、少なくとも現政権下では公務員改革ができなかったことだけははっきりしているし、それどころか公的な天下り斡旋組織を公然と作ろうとしていることも周知の通りだ。

40日間の間にはマスコミ等を通しての情報操作が横行するだろうが、自分で政党や立候補者のプロポーザルの内容をきちんと判断して貴重な一票を投じるようにしようと思う。



正しいちょうりゃく(調略)

2009年07月14日 | インポート
以前このブログで、ちょうりゃくの漢字は諜報活動の「諜」と計略の「略」ではなかろうかと書いた事がある。

自分が持っている国語辞典や漢和辞典で引いても「ちょうりゃく」という言葉は載っていなかったので、その言葉の意味から推測して「諜略」という漢字ではなかろうかと書いた。

古語辞典には、「調略」という漢字が載っていた。
正しいちょうりゃくの漢字は「調略」だという事を学習した。

古語辞典にしか載っていないという事は「ちょうりゃく」という言葉は現在では死語になっていて、時代劇の中ぐらいでしか使われない言葉になってしまっているということのようだ。

東京都議会議員選挙も、自民党の惨敗という結果とはなったが、公明党は全員当選という事で、組織の結束力の強さを示す結果になったものの、公明党の支持者の一部には自民党との決別を望む人たちもいたという表現の新聞記事もあった。

今後は衆議院議員選挙に向けて、あらゆる政党や組織の人たちが、いろいろな情報ツールを用いて、まさに「調略」合戦がいたるところで繰り広げられることだろう。

知事の中には調略にはめられたのか調略しようとしていたのか分からないが、先走りしすぎてその自身の値打ちを下げたような人もいるが、官僚が書いた筋書き通りの道州制を推進するような口調の人もいる。

とんでもないことだと思う。

我が国の中で、自立できるような経済規模の道や州規模の地域は極々少数でしかない。


無理やりに合併をさせられた市町村の住民は、既に気づいている事だが、自治体の規模が大きくなることは、私たちのような末端の庶民にとってはほとんど益がない。

それどころか建設関連業に従事する人たちなどにとっては死活問題となりつつある。

郵政の民営化だって同様である。

以前は地域の住民の実態を熟知していた郵便局の職員が郵便物を配達していたので郵便物の誤配はなかったが、最近ではこの3ヶ月ぐらいの間に2件の誤配郵便物が我が家に届いた。

今まで全幅の信頼を寄せていた郵便局に対する見方が変わってしまった。

地方分権と言いながら、市町村合併や道州制の論議などは、一部の中央官僚が企てたレールの上の中央集権化をものすごいスピードで推し進めているに過ぎない。

本来ならば、費用対効果のみで論ずるべきではないような、地域間格差を払拭してきた郵便局などの事業は国家の責任で運営すべきであり、民営化にはなじまないと私は思う。

「自民党をぶっ壊す」という調略に乗せられ、「郵政民営化」の掛け声に踊らされて無批判に一票を投じた烏合の衆の判断結果が、今のおかしな政治を創出しているのだということをどれだけの人が認識できているのだろうか。

認識できているからこその東京都議選の結果なのかもしれないのだが。

権力を与える相手を間違えると、一部の利権構造のラインに乗っている人たちにとってだけ都合のよい政治が横行することにしかならない。

「調略」にはめられないようにしなくては。


豊田かずき


官僚が決める省令

2009年07月12日 | インポート
今年の6月1日に、薬事法が改正され、通信販売(カタログ、インターネット、郵便、電話等)による医薬品販売が大幅に規制される事になったそうだ。

そのことにより、「もともとインターネット上で流通・販売していた医薬品は、漢方などの伝統薬を含め4000ほどあり、850万もの人が利用していたのだが、じつにその67%に当たる医薬品の販売が禁止されることになり、インターネットを通しては大衆薬の大半が購入できなくなってしまった」と楽天会長兼社長の三木谷浩史氏は主張している。

その詳細は、ここをクリックして三木谷浩史氏の主張を読んでいただければ分かる(1ページから3ページまである)が、結論が先にありきの官僚主導の検討会や審議会の様子がうかがえる。

特定の利権団体の側に立った官僚のふるまいは、今に始まったことではないと思うが、便利になろうとしている時代に逆行するような省令の制定には首を傾げたくなる。

三木谷浩史氏の主張の方が正論だと私は思う。

一部の官僚が暴走するようであれば、それをきちんと制御できるような政治組織に政権を担っていただくしかない。

鹿児島県の阿久根市長選挙での実例が示すように、一人一票の積み重ねで、そのような社会の創出も可能なのだが。

強そうな利権構造の側についておきたいと願う庶民の気持ちを、情報操作等によって為政者がうまくコントロールして作り上げられてきた現状だから、はたして変えられるかどうか。

変えなければ、役人に税金で支払われる人件費は肥大化して国や自治体の財政をますます圧迫し、私たちのような末端の庶民の生活はさらに厳しくなっていくばかりなのだが。


豊田かずき



お金もかかろう

2009年07月11日 | インポート
政治家と呼ばれる人たちが、「政治にはお金が必要である」と言う。

その結果、政治献金などを集めるためのパーティーをやったり、いろいろな組織や個人からの献金を募ったりもする。

そして、政党助成金というお手盛りの仕組みを自分たちで作ってしまった。

近隣の人の葬式に行くと、必ず政治家という肩書きの人たちからの弔電が披露される。

長崎県知事、地元から選出されている国会議員、県会議員、市長などからのものである。

おそらく亡くなった人との直接の面識はないのではなかろうかと思われるような所にも、決まったように政治家からの弔電が届けられている。

私の主観だが、自民党系の議員等からのものが多いように感じる。

日本共産党からのものは聞いた事がない。

死亡者に関する情報源はおそらく市町村役場だろうと思う。

誰かが亡くなるとまず第一に役所に届け出る。

そこから政治家の秘書などに自動的に情報が伝わる仕組みが作られているのだろう。

かくして、政党助成金という名に名前を変えた税金の一部が、そのような電報代として毎日使われている。

お金もかかるはずである。

弔電が披露されるという前提での、政治家の氏名をアピールするための政治活動とでも表現できるのかもしれない。

ただし、そのような弔電を受け取った側の家族と親類縁者は悪い気はしないだろうが。


市会議員という肩書きの政治家(?)の中には、亡くなった本人やその家族との面識がない市民の葬式に出席するのは、その亡くなった人に対して失礼に当たるという事で、そのような葬式には参列しないという考えの人もおられる事を知った。

島原市議会議員の清水宏さんで、ご自身のホームページでそのように表現されている。(ここをクリックすると清水宏さんのホームページを見る事ができる)

地方の田舎において、そのような考え方が受け入れられるかどうかは別として、私は同調できる。

招待される結婚式や法事と違って、葬式には誰でも参列することはできる。

しかし、明らかに売名的な意図を持って、面識もない人の葬式に参列するのは如何なものかと私は思う。

政治家からの弔電もそのように思う。

公職にある議員などは、本人が持参する常識的な金額の香典は許されているが、葬式などの際に氏名入りの花などを贈ることは公職選挙法で禁じられている。

売名行為に当たると見做されるからだ。

だとすれば、知事や国会議員や県会議員、市長という肩書きでの弔電を披露することも売名行為に当たると私は思うのだが。

そのような政治家からの弔電を参列者に対して披露するかしないかは斎場や式の司会者の判断ではあろうが。

政治家は、自分達でわざわざ政治にお金がかかるような仕組みを作り上げてしまっている。

お金もかかろう。

葬式の際の政治家からの弔電には私はなじめない。


豊田かずき



窓から見える風景の変化

2009年07月04日 | インポート
作業場の南側の窓から見える風景が今年は違う。

例年ならば窓の外一面の水田に水が張られ、その上に、早苗が整然と顔を出しているのが今頃の風景だった。

しかし、今年はそれらの水田の区域の一部には水は張られておらず、雑草が生い茂っている。

愛野交差点の交通渋滞緩和のためにということで、愛野森山バイパス建設のための用地として買収されたのであろう水田は、田植えをせずに放置されている。

通称、古新田(ふるしんでん)と呼ばれている区域の一部だが、かなり初期の頃の干拓によって創出された水田で、この辺の水田としては優良な立地条件の水田と言える。

先祖から引き継いだ良田を、交通渋滞緩和のための道路建設のためにはどうしても必要だといわれ、1反当り500万円程度の金額を提示されれば、いまの社会情勢下では手放さない人は少数ではあろうと思う。

農業従事者も高齢化し、農業後継者もほとんどいなくなりつつある現状では、条件のよい農地買収の話があればほとんどの土地所有者は農地を手放すのではなかろうか。

その結果としての窓外の風景の変化だが、そのような買収をされたのであろうと思われる区域の中に、1枚だけ例年と同じように田植えがされている水田がある

どのような理由でそのようになっているのかの詳細を知る由もないが、本来ならば水田である場所に普通に田植えがしてある風景を見るとなんとなく落ち着ける。

農地は売ってしまえばまとまったお金は手に入るだろうが、その土地が道路に変わってしまえば、私たちの胃袋を満たすための作物の生産はできない。

1反当り500万円というお金は、仮にその農地で米作をしたとして、その農地から生産される米の40~50年分の生産量に匹敵する金額に近い。

だから農地の所有者が、渡りに船という感じで買収に応じるということも理解できる。

しかし、農地が農地のままで存続して、農作物の生産が続けられるとすれば100年でも200年でも、未来永劫私たちの胃袋を満たしてくれる作物を供給してくれる。

戦争を体験された世代の方々はそのような事を身にしみて感じておられるだろうが、戦後生まれの豊かな時代の体験しかない世代には理解されにくいことなのかもしれない。

窓から見える風景の変化が、食糧自給率40パーセント以下という我が国のあきれるような農政を象徴しているようで哀れですらある。


豊田かずき