無作為に抽出された国民に、裁判の一端を担わせ、被告の判決に反映させようという裁判員制度が導入されようとしている。
私は、裁判とは客観的な事実に基づき、専門の法律知識を持った人たちが実施すべき性質のものであるという認識を持っている。
ゆえに、裁判員制度には反対だ。
裁判員制度の導入に肯定的な人達の主張は、国民参加型の社会の実現のために一般人も裁判に関与すべきであるとか、先進国の中で裁判員制度を採用していないのは我が国だけであるとか、一般社会人としての常識を裁判に反映させるためであるとかという事で、説得力に欠ける。
素人の力を借りることも、正当な裁判の実施のためには必要だという考え方は、専門的な法律知識を修得している裁判官の存在意義を薄めてしまうことに繋がるのではなかろうか。
専門は専門の人に任せるべきである。
国家から付与された裁判官の資格を持ち、その職業によって報酬を得ている専門家に任せるべきである。
我が国の裁判官の質は、一般人の考え方を参考にしなくてはならないほどに低いものではあるまい。
勤労者である一般人にとって、指定された日に休暇をとって、裁判員制度に協力できるような自由度を持つ人は少ないのではなかろうか。
たいていの一般人にとっては「迷惑な話」というのが本音であろう。
万が一、私に裁判員としての通知が来た場合には、私は拒否するだろう。
人を裁けるような資質は、自分には無い事を自覚しているからだ。
裁判員を拒否するための裁判を起こす事になるかもしれない。
豊田かずき
私は、裁判とは客観的な事実に基づき、専門の法律知識を持った人たちが実施すべき性質のものであるという認識を持っている。
ゆえに、裁判員制度には反対だ。
裁判員制度の導入に肯定的な人達の主張は、国民参加型の社会の実現のために一般人も裁判に関与すべきであるとか、先進国の中で裁判員制度を採用していないのは我が国だけであるとか、一般社会人としての常識を裁判に反映させるためであるとかという事で、説得力に欠ける。
素人の力を借りることも、正当な裁判の実施のためには必要だという考え方は、専門的な法律知識を修得している裁判官の存在意義を薄めてしまうことに繋がるのではなかろうか。
専門は専門の人に任せるべきである。
国家から付与された裁判官の資格を持ち、その職業によって報酬を得ている専門家に任せるべきである。
我が国の裁判官の質は、一般人の考え方を参考にしなくてはならないほどに低いものではあるまい。
勤労者である一般人にとって、指定された日に休暇をとって、裁判員制度に協力できるような自由度を持つ人は少ないのではなかろうか。
たいていの一般人にとっては「迷惑な話」というのが本音であろう。
万が一、私に裁判員としての通知が来た場合には、私は拒否するだろう。
人を裁けるような資質は、自分には無い事を自覚しているからだ。
裁判員を拒否するための裁判を起こす事になるかもしれない。
豊田かずき
貴殿の「点ノ記」は含蓄のある内容で、欠かさず拝見しております。
10月10日記載の裁判員の記事について、コメントします。
・若し私に裁判員の通知が来たら、死刑廃止論には反対の心境なので「私を裁判員に任命したら、殺人者は死刑にせよと云いますよ。それでもいいか?」と云う予定ですが、それでも任命しますかね~
私の持論は「自分の命も人の命も五分五分であり、人の命を奪う時は、自分の命も奪われる死刑を覚悟してやれ」である。
即ち「殺人罪は死刑」と云う認識を皆んなが持てば現状の様な安易な殺人事件は激減すると思う。
死刑廃止論者(亀井静香代議士など)達は、自分の身内(家族や愛人など)が無残に殺害された場合、果たして被害者達の心情を無視して「犯人を死刑にはしないでくれ」と云うだろうか?
私も死刑廃止論には反対です。
故意に人の命を奪った場合の償いの方法は、その命によって償うしかないという考え方です。
ただし、不可抗力によって他人の命を奪う結果になった場合には、別の償いの方法もあると思います。
例えば、正当防衛により殺人を犯した場合や、不慮の交通事故などによって他人の命を奪った場合などが該当すると考えます。
今の日本では、何の罪も無く殺された人の「人権」こそを最も重視すべきであるはずなのに、犯罪を犯した者の「人権」を尊重するような傾向にありますが、それは間違っていると思います。
まさに、本末転倒の典型のように思います。
山口県光市の母子殺人事件被告の弁護団の主張に関しては、ただただあきれるばかりで、あのような人たちが我が国の法律の専門家であるとは思いたくありません。
あの人たちは、南島原市民様が言われるように、自分の親兄弟子供があの事件と同じ形で殺されても、あのような主張をするのでしょうかね。