日々雑感「点ノ記」

備忘録(心の軌跡)

涙腺がゆるんだ日

2006年12月10日 | インポート
久し振りに涙腺がゆるんでしまった。

ゆっくりと休める一日だったので、遅めの朝食を済ませて炬燵に入ってテレビを見ていたら、そのまま眠ってしまっていた。

目が覚めたのは午後1時30分を過ぎていたが、テレビに目をやると、さだまさしが歌っていた。

「夏 長崎から さだまさしコンサートファイナル」というやつで、今年の8月6日に、長崎市の稲佐山で行われた、20回目の最後のコンサートだった。

起き抜けで、トイレに行きたかったが、その映像に引き込まれてしまい、トイレに行くのを我慢して見入ってしまった。

彼の歌は、そのほとんどが彼自身の作詞・作曲による物で、メロディーも歌詞も私の心に染み入る曲がほとんどだ。

平和である事の大切さのメッセージを込めて歌う彼の姿を見ていると、自然に涙腺がゆるんでしまった。

感動の涙を流す事などめったに無い事だが、彼の歌には泣かされてしまった。

途中でトイレを我慢できなくなり、しかぶるといけないので、大竹しのぶさんが「防人の歌」の歌詩を朗読している時にトイレに行った。

私たちが子どもの頃には、ビデオによる録画など出来なかったので、テレビ番組は、その放映時間のものを見るしかなかった。

特に夜の番組などは、眠たいのを我慢して、目をこすりながら起きていて見たような記憶がある。
その時と同じような、今見なければ見る事が出来ないというような心持で、「夏 長崎から さだまさしコンサートファイナル」を見る事が出来た。
いいものを見せてもらった。

夜には「ラスト侍」を見て、こちらも涙腺がゆるむ感動ものだった。

炬燵に入り、ゆったりとテレビを見て感涙を流した、穏やかな日和の良い休日だった。


豊田かずき


教育評論家?

2006年12月09日 | インポート
いじめ問題の対処策として、いじめを行った者を登校停止処分にする案が教育再生会議で議論されていた。

その事に関して、民放テレビで「教育評論家」という肩書きの人が、自分の考えを述べていた。

「そのような事をすると、その事が記録に残り、一生涯そのレッテルを貼られる事になるので、とんでもない事だ。教育的配慮が欠如している。」と。

私に言わせれば、そのような「教育評論家」の考え方こそが、とんでもない間違った考え方だと思える。

教育的配慮は、まずいじめられて悩んでいる子どもに対して向けるべきで、いじめている子どもを擁護するための教育的配慮は、犯罪的行為を容認している事と同列の様に思える。

元々、教育者であったであろう「教育評論家」だと思うが、そのような物事の順序を正しく認識できていない者が、教育の現場で職についていたことの弊害もあるように思える。


簡単な事である。
いじめをする者がいなければ、いじめられる者もいない。
物事の順番として、まず、いじめを行う者がいなければ、いじめ問題は存在しない。
要するに、いじめをしなければ記録にも残らず、いじめを行った者としてのレッテルを貼られることも無い。
レッテルを貼られたくなければ、いじめをしなければ良いだけのことだ。
現にいじめをしている者は、いじめていた者に謝り、即刻いじめをやめれば良い。

結果として、いじめを行っている者を登校停止にするという案は、教育再生会議では見送られたが、私は、本当にいじめを無くすためには必要な事だと考えている。

ただし、いじめられていた事を理由に自殺するなどという事は、愚かで卑怯な事だ。
冬の後には必ず春が巡って来るという事を信じて、辛抱強く生きるべきである。



豊田かずき