日々雑感「点ノ記」

備忘録(心の軌跡)

5ヶ月間の潜伏期間に突入

2012年09月30日 | インポート
眠たかった。

体が睡眠を欲しているということだろうから眠った。

取り立てて何もしない休養日になった。

今シーズン最後のヤマメ釣りに出かけようと思っていたが、眠たかったので行かなかった。

諫早市高来町の境川では、明日の10月1日から来年の2月末日までの間はヤマメ釣りは禁漁となる。

ヤマメが産卵期に入るために、保護をする目的で禁漁期間が設けられている。

私のヤマメ釣りの趣味は、明日から5ヶ月間の潜伏期間に突入する。

大村市竹松遺跡の発掘アルバイト作業員として働かせてもらえる期間が、予定では来年の2月末日ぐらいまでなので、その仕事が終わるぐらいまでの間は、ヤマメ釣りの潜伏期間となる。

趣味が実行出来ない期間に、解禁の日を待ちわびるという、抑圧されている状況を楽しむことも、広い意味では私の趣味でもある。

故山本素石氏の著書「西日本の山釣り」という、渓流釣りに関する学術書的な内容も盛り込まれている釣りの本を、じっくりと読み直す期間でもある。

竹松遺跡のアルバイト作業員としての仕事を、つつがなく満期除隊する事が出来れば、楽しみのヤマメ釣りの解禁日が訪れてくれる。

渓流魚のヤマメ釣りの潜伏期間中の趣味は、海の防波堤での魚釣りもあるし、余暇の過ごし方に困る事は無い。

今シーズンのヤマメ釣りの釣果は、あまり芳しくはなかったが、健康維持と心のリフレッシュのためには、おおいに寄与した。

自分の家に住む事が出来て、仕事にもありつけていて、健康で、三度三度の食事が食べられて、余暇には趣味の事をすることが出来るという生活が出来ているというだけで、自分は贅沢なシアワセ者だと思えている。

本物の庶民で良かったと、つくずく思える。

ヤマメ釣りの記録写真(今シーズンの主な釣果)
(赤い側線のある魚はニジマス)
Dsc00048

Dsc00049
画像をクリックすれば拡大できる。

豊田一喜






3回忌と27回忌

2012年09月29日 | インポート
伯父と伯母の法事をまとめて行なった。

伯父は、亡くなってから昨日が26回目の命日で、伯母は2年前の6月に亡くなっているので、3回忌の日付はとっくに過ぎていた。

伯父夫婦には子供がいなかったので、伯母の死後、私が伯父夫婦の供養をさせてもらうことになった。

伯父夫婦のお骨は、愛野町の光西寺というお寺の室内にある墓に納めてあるが、法事などの供養は私がすることにしている。

6月頃から、伯父夫婦の年忌法事をしなければならないと思ってはいたが、諸般の事情(趣味の魚釣り等も含む)で忙しく、なかなか出来ないでいた。

伯父の26回目の命日がいよいよ近付いた27日の朝に、意を決してお寺さんに電話を入れた。

「29日の夜の7時から、伯父と伯母の法事をしたいのですが、お寺様のご都合はいかがでしょうか。」と。

電話口には、老住職さんが出られて、「夜だったらいつでも良かばい。」といってくださった。

ということで、本日夜の法事となった。

7時少し前に、若住職様が来てくださった。

仏壇にお供えする仏飯が炊き上がっていなかったので、その旨を話して少しだけ待ってもらった。

法事といっても、愛野町に住んでいる、「豊田」の近い親戚は一軒だけで、私のいとこのひとりだけに声をかけていた。

総勢5人で、住職様のお経を聞かせてもらった。

その若住職様の、お経を読む速さの早いこと。

おかげで、正座していた足の痺れが広がる前にお勤めは終わった。

元々、お経を聞いているこちらとしては、インドの言葉の発音を漢字で表記した、そのお経の意味するところなど全然分かっていないので、お経をあげる速さが早かろうと遅かろうと一向に構わない。

お勤めが終わってから、伯父夫婦の在りし日のことなどをお話し、お布施と御膳料とお土産のカステラををお渡しした。

住職様が帰られてから、5人だけでのささやかな御食事会が始まった。

奮発して、本物のビールを用意していたが、法事に呼んでいるいとこを車で送ることになればビールは飲めない。

そこで、いとこに、「きょうはうちに泊まらんね。」と問うてみたら、「そげんすうかいね。」という返事。

かくして、きょうから休みのローテーションに入った息子とともに本物のビールを飲みながら、和やかな御食事会と相成りました。

伯父と伯母の供養の法事を終えて、心の中にあったもやもやが晴れてすっきりとした。



豊田一喜




ずさんな日本の外交

2012年09月26日 | インポート
本日の毎日新聞記事に、元外務省主任分析官の佐藤優氏の寄稿文が掲載されていた。

日中関係の外交上、かなり興味深く、重要な内容なので、以下に転載する。


 尖閣諸島問題をめぐる日中間の緊張を、このまま放置しておくと武力衝突につながりかねない。

「尖閣諸島が日本固有の領土であるあることは歴史的にも国際法上も明らかであり、現に我が国はこれを有効に支配しています。したがって、尖閣諸島をめぐって解決しなければならない領有権の問題はそもそも存在しません」(外務省ホームページ)というのが、日本政府の立場だ。

 最近、筆者は尖閣関連の外交文書を精査してみたが、尖閣諸島をめぐる領有権の問題、すなわち領土問題が存在しないという政府の主張と明らかに齟齬(そご)を来す外交文書があることに気づいた。

それは、日中両国が相互の排他的経済水域(EEZ、領海12カイリを除く沿岸から200カイリの水域)の漁業について定めた日中漁業協定(正式名称「漁業に関する日本国と中華人民共和国との間のの協定」)だ。

この協定は、97年11月11日に東京で署名され、98年4月に国会で承認され、00年6月1日に効力が発生している。

協定第6条(b)に、「北緯27度以南の東海の協定水域及び東海より南の東経125度30分以西の協定水域(南海における中華人民共和国の排他的経済水域を除く。)」と記されている。

まさに尖閣諸島が含まれる水域だ。

しかし、協定本文には、この水域に関する規則も何も定めていない。

ただし、この条約が署名された日に小渕恵三外相(当時)が、徐敦信中国大使(同)に「日本国政府は、日中両国が同協定第6条(b)の水域における海洋生物資源の維持が過度の開発によって脅かされないことを確保するために協力関係にあることを前提として、中国国民に対して、当該水域において、漁業に関する自国の関係法令を適用しないとの意向を有している」と記した書簡を送っている。

 従って、日本は尖閣諸島周辺のEEZで操業する中国漁船を取り締まることができないのである。

同日付で徐大使から小渕外相に宛て、中国政府が当該地域で日本国民に対して中国の漁業関連法令を適用しないという書簡を送っている。

これを「外交上の相互主義なので問題ない」と強弁することはできない。

尖閣諸島を実効支配している日本政府が自国のEEZにおける施政権の一部を中国に対して放棄する意向を示す外交文書を発出したことは、外交的に大きな譲歩であり、領土問題をめぐる係争の存在を認めることになる。


以上、毎日新聞記事より一部抜粋して転写。


愚かなリ。

日本の優秀とされる外交官の、国語の読解力のなさに起因する、国益を大きく損なうような文書を取り交わしている。

国会議員は、世襲などによってなっている、お飾りのような、思考能力が低い人たちがいるということは仕方が無いとしても、実質的な事務方である官僚までもがアホでは、日本国の行く末を案じたくもなってくる。

上記のような愚かな文書を起草した能天気な官僚と、それを容認した当時の国会議員たちは、国賊ものである。

中国が大手を振って、領有権を主張できるような道を開いた事になる。

ずさんな日本の外交の典型例だろう。

その程度の仲良しごっこが仕事ならば、中学生でも外交官は務まる。

いや、中学生に対して失礼かな。

「僕たちでもそんな事はしませんよ。」と、中学生の皆さんから反論されるかも知れない。

自国の愚かさが、紛争の火種を投げ入れたような現状の様に思う。


豊田一喜


おはぎとサンマ

2012年09月24日 | インポート
9月22日は彼岸の中日だったので、妻がおはぎを作ってくれた。

甘いものでも辛いものでも、何でもおいしくいただく事が出来る。

好き嫌いは無い。

しいて嫌いだった物をあげるとすれば、「納豆」だったが、血の巡りを良くし、血圧の安定の為には効果があるとわかってからは、好物のひとつになってしまった。

要するに、食べる物は何でも好物だと思って食べる。

おはぎなどは、一度に6個ぐらいは食べてしまう。

そのために体重が微増気味。

遺跡発掘現場の作業で消費するエネルギー量よりも、口から入るエネルギーの元になる食べ物の量が多めになるような季節になったようだ。

体は正直で、体重の増加と血圧数値の上昇は、私の場合には相当な相関がある。

2ヶ月に一度、病院に血圧の薬を処方してもらうための診察を受けに行くと、体重が増加している場合には、医者から必ず注意を受ける。

相関といえば、彼岸花は、お彼岸の日を教えてくれるように、そのころに必ず赤い花を開く。

いにしえに、中国から持ち込まれた一株の球根から、日本全国に広まった花なのだそうだ。

彼岸花の咲く頃は、サンマの旬の季節でもある。

農協のスーパーに買い物に行った時に、刺身用と表示されているサンマが目に入った。

塩サンマは一年中置いてあるが、刺身用という表示がしてあるサンマは旬の漁獲物である。

それを買って帰り、塩焼きにして、旬のサンマをいただいた。

仕事を与えて頂き、健康で働く事が出来て、おはぎをおいしく食したり、旬のサンマをおいしくいただける、今の幸せに感謝。



豊田一喜








立会いと墓掃除と墓参りと

2012年09月23日 | インポート
高規格道路の計画路線区域の中に、自分が所有している、地目が畑の土地がある。

その土地の境界の立会いが午前中にあった。

子どもの頃に、父親に連れられて何回も行った事がある5枚の段々畑の、隣接する土地との境界の屈曲点に、頭が白いプラスチック杭が復元して打設してある。

愛野町においては、昭和49年ごろに平板測量による地籍測量が実施されていて、その成果が法務局にて登記されており、不動産登記法17条図面として認定されている。

現在の地籍測量は、トータルステーションを使った座標法にて筆界点の位置は精密に計測されているが、愛野町で地籍測量が実施された昭和49年ごろにはそのような便利な測量器械はなかった。

それゆえに、基準点の骨格となる地籍図根三角点の位置座標を、トランシット(測角儀)を使った三角測量にて決定し、それらの地籍図根三角点を基準点として、細部の筆界点の位置を測量するための基準点である地積図根多角点を、トランシットと鋼巻尺を使った多角測量にて実施していた。

そのようにして決定された地籍図根多角点等を利用して、細部の筆界点の位置を平板測量にて図解的に測量して地籍測量図としていた。

旧愛野町においては、合併して雲仙市になる少し前に、そのようにアナログ的に図面化されていた地積測量図上に表示してある筆界点を、精密な座標測定装置にて座標化してあった。

今回の立会いは、そのようにして座標化された筆界点の座標値を元に、現地に復元表示してあるプラスチック杭の位置で、土地の境界が間違いないかどうかの確認のための立会いだった。

「アークタンゼントと測設のはなし」で説明しているような、座標値が既知なる地点への杭の復元打設(測設)により表示された地点の確認という事になる。

現況平面図上に重ねて表示されている、土地の境界点(筆界点)に復元表示されているプラスチック杭の位置の確認を、測量会社の人の案内で行なった。

平板測量のアナログデータから座標化された数値にて復元された筆界点の位置ではあるが、元々の平板測量データが、かなり正確であった事がうかがえる位置に復元されていた。

現場の立会いはつつがなく終わったが、印鑑を持参していなかったので、測量会社の人に車で3分の自宅まで来てもらい、立会い承諾書類6枚ほどに署名、押印した。

午後には、お彼岸なので、妻とふたりで墓掃除と墓参りに行った。

私たちの墓参りのコースは決まっていて、まずは光西寺というお寺の室内墓の親戚の墓2箇所にお参りをする。

水を取替え、自宅の庭に咲いていた花を飾ってから、線香をあげてお参りをする。

その後に、そこから車で2分ぐらいの所にある我が家の墓所に行く。

8月の盆前に墓周りの除草をしてきれいにしていたが、雨とお日様の力によって、草が30cmほどの丈に伸びていた。

刈り払い機で伸びた草を刈り倒し、金属製の熊手でそれらをかき集め、花立の水を入れ替えて、自宅の庭に咲いていた花を飾り、線香をあげてお参りをした。

1時間程度で終わったが、その流れで、墓から車で5分ぐらいの所にある隣町の妻の実家の墓参りに行き、さらにそこから車で5分ぐらいのところにある、昨年の10月に98歳で亡くなったおじさんの墓まで足を伸ばしてお参りする。

掃除する事が出来る墓があるという事は幸せなことだと思うし、墓掃除と墓参りをすると心が落ち着く。

いずれは自分も、そこに入る事になる場所だから。


豊田一喜







注連縄(しめなわ)作り

2012年09月22日 | インポート
愛野町に八幡(はちまん)神社というのがある。

八幡神社という名称の神社は、全国にたくさん存在している 。

以下は、ウィキペディアによる「八幡神社」の解説。


八幡神(やはたのかみ、はちまんじん)は、日本で信仰される神で、清和源氏をはじめ全国の武士から武運の神(武神)「弓矢八幡」として崇敬を集めた。誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、応神天皇と同一とされる。神仏習合時代には八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)とも呼ばれた。

 概要
現在の神道では、八幡神は応神天皇(誉田別命)の神霊で、欽明天皇32年(571年)に初めて宇佐の地に示顕したと伝わる。また応神天皇(誉田別命)を主神として、比売神、神功皇后を合わせて八幡三神として祀っている。

八幡神を応神天皇とした記述は「古事記」や「日本書紀」「続日本紀」にはみられず、八幡神の由来は応神天皇とは無関係であった。「東大寺要録」や「住吉大社神代記」に八幡神を応神天皇とする記述が登場することから、奈良時代から平安時代にかけて応神天皇が八幡神と習合し始めたと推定される。

比売神はアマテラスとスサノオとの誓いで誕生した宗像三女神、すなわち多岐津姫命(たぎつひめのみこと)・市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)・多紀理姫命(たぎりひめのみこと)の三柱とされ、筑紫の宇佐嶋(宇佐の御許山)に天降られたと伝えられている。また、八幡神の顕われる以前の古い神、地主神であるともされている。

比売神は八幡神の妃神、伯母神、あるいは母神としての玉依姫命(たまよりひめのみこと)等とする説もある。近年では比売神はヒミコでありアマテラスであるという異説やシラヤマヒメという異説も登場している。

応神天皇は、母の神功皇后の胎内ですでに皇位に就く宿命にあったため「胎中天皇」とも称されたことから、神功皇后は母子神信仰に基づくと解釈されることもある。

八幡神社の祭神は応神天皇だが、玉依姫命や応神天皇の父である仲哀天皇と、母である神功皇后をともに祀っている神社も多い。


歴史
「八幡」の文字が初めて出てくる『続日本紀』天平9年(737年)で、読み方を同書天平勝宝元年(749年)の宣命に「広幡乃八幡(ヤハタ)大神」のように「ヤハタ」と読み、『日本霊異記』の「矢幡(ヤハタ)神」や『源氏物語』玉(タマ)鬘(カズラ)巻の「ヤハタの宮」のように「八幡」は訓読であったが、のちに神仏習合して仏者の読み「ハチマン」、音読に転化したと考えられる。

「幡(はた)」とは「神」の寄りつく「依り代(よりしろ)」としての「旗(はた)」を意味する言葉とみられる。八幡(やはた)は八つ(「数多く」を意味する)の旗を意味し、神功皇后は三韓征伐(新羅出征)の往復路で対馬に寄った際には祭壇に八つの旗を祀り、また応神天皇が降誕した際に家屋の上に八つの旗がひらめいたとされる。託宣をよくする神としても知られる。

石清水八幡宮は多くの荘園を有したため、それらの土地に八幡神信仰が広まった。


朝廷との関係
北九州の豪族国造宇佐氏の氏神だったが、数々の奇端を現して大和朝廷の守護神とされた。


隼人出兵
養老4年(720年)、隼人の乱が勃発し、朝廷はこれを鎮圧しようとして宇佐八幡に神託を仰いだ。すると八幡神は、「我(われ)征(ゆ)きて降(くだ)し伏(おろ)すべし」と自ら征討に赴いたという。


東大寺大仏建立
天平勝宝元年(749年)聖武天皇が国家のシンボルとして奈良の大仏を建設するとき、宇佐八幡神は天皇と同じ金銅の鳳凰をつけた輿に乗って入京し、これを助けた。


宇佐八幡宮神託事件
神護景雲3年(769年)、天皇の位を狙っていた道鏡は、称徳天皇によって道鏡を次の皇位継承者に指名させようとして、「道鏡を皇位に付ければ天下は太平になる」旨の託宣が宇佐神宮からあったと宣言した。しかし、朝廷は和気清麻呂を宇佐神宮に遣わし、神意を確認したところ、「無道の者掃除(そうじょ)すべし」との託宣が下り、和気清麻呂は宇佐八幡の託宣を受けて道鏡の目的は達成されなかった。(宇佐八幡宮神託事件)


承平天慶の乱
天慶2年(939年)の藤原純友・平将門の乱(承平天慶の乱)では調伏が石清水八幡宮で祈願され、平定後に国家鎮護の神としての崇敬が高まった。そのため、石清水八幡宮への天皇・上皇の行幸・御幸は、円融天皇以来240回にも及んだ。

なお、『将門記』によれば、平将門は八幡大菩薩の神託を受けて「新皇」を称したという。


皇祖神として
八幡神は応神天皇の神霊とされたことから皇祖神としても位置づけられ、『承久記』には「日本国の帝位は伊勢天照太神・八幡大菩薩の御計ひ」と記されており、天照皇大神に次ぐ皇室の守護神とされていた。

誉田八幡宮の創建と応神天皇とのつながりが古くから結び付けられ、皇室も宇佐神宮(宇佐八幡宮)や石清水八幡宮を伊勢神宮に次ぐ第二の宗廟として崇敬した。


武家との関係
清和源氏は八幡神を氏神として崇敬し、日本全国各地に勧請した。源頼義は、河内国壷井(大阪府羽曳野市壷井)に勧請して壷井八幡宮を河内源氏の氏神とした。また、その子の源義家は石清水八幡宮で元服し自らを「八幡太郎義家」を名乗った。

治承4年(1180年)、平家追討のため挙兵した源頼朝が富士川の戦いを前に現在の静岡県黄瀬川八幡付近に本営を造営した際、奥州からはるばる馳せ参じた源義経と感激の対面を果たす。静岡県駿東郡清水町にある黄瀬川八幡神社には、頼朝と義経が対面し平家追討を誓い合ったとされる対面石が置かれている。

源頼朝が鎌倉幕府を開くと、八幡神を鎌倉へ迎えて鶴岡八幡宮とし、御家人たちも武家の主護神として自分の領内に勧請した。それ以降も、武神として多くの武将が崇敬した。また室町幕府が樹立されると、足利将軍家は足利公方家ともども源氏復興の主旨から、歴代の武家政権のなかでも最も熱心に八幡信仰を押し進めた。

平将門は『将門記』では天慶2年(939年)に上野(こうずけ)の国庁で八幡大菩薩によって「新皇」の地位を保証されたとされている。このように八幡神は武家を王朝的秩序から解放し、天照大神とは異なる世界を創る大きな役割があり、武家が守護神として八幡神を奉ずる理由であった。


神仏習合(八幡大菩薩の号)
僧形八幡神東大寺の大仏を建造中の天平勝宝元年(749年)、宇佐八幡の禰宜の尼が上京して八幡神が大仏建造に協力しようと託宣したと伝えたと記録にあり、早くから仏教と習合していたことがわかる。天応元年(781年)朝廷は宇佐八幡に鎮護国家・仏教守護の神として八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の神号を贈った。これにより、全国の寺の鎮守神として八幡神が勧請されるようになり、八幡神が全国に広まることとなった。後に、本地垂迹においては阿弥陀如来が八幡神の本地仏とされた。

平安時代以降、武士の尊崇をあつめて全国に八幡神社が勧請されたが、本地垂迹思想が広まると、僧形で表されるようになり、これを「僧形八幡神(そうぎょうはちまんしん)」という。

明治元年(1868年)神仏分離令によって、全国の八幡宮は神社へと改組されたのに伴って、神宮寺は廃され、本地仏や僧形八幡神の像は撤去された。また仏教的神号の八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)は明治政府によって禁止された。宇佐八幡宮や石清水八幡宮の放生会は、それぞれ仲秋祭、石清水祭へと改めさせられた。鶴岡八幡宮は現在でも6月に蛍放生祭、平成16年(2004年)からは加えて9月に鈴虫放生祭と年2回実施している。

しかし神仏分離後も八幡大菩薩の神号は根強く残り、太平洋戦争末期の陸海軍の航空基地には「南無八幡大菩薩」の大幟が掲げられ、航空機搭乗員(特に特攻隊員)の信仰を集めたりもした。


全国の八幡宮・八幡神社
八幡神を祀る神社は八幡宮(八幡神社・八幡社・八幡さま・若宮神社)と呼ばれ、その数は1万社とも2万社とも言われ、稲荷神社に次いで全国2位である。一方、岡田荘司らによれば、祭神で全国の神社を分類すれば、八幡信仰に分類される神社は、全国1位(7817社)であるという。


総本社
宇佐神宮八幡神社の総本社は大分県宇佐市の宇佐神宮(宇佐八幡宮)である。元々は宇佐地方一円にいた大神氏の氏神であったと考えられる。農耕神あるいは海の神とされるが、柳田國男は鍛冶の神ではないかと考察している。欽明天皇の時代(539年 - 571年)に大神比義という者によって祀られたと伝えられる。

宇佐八幡宮の社伝『八幡宇佐宮御託宣集』などでは、欽明天皇32年(571年)1月1日に「誉田天皇広幡八幡麿」(誉田天皇は応神天皇の国風諡号)と称して八幡神が表れたとしており、ここから八幡神は応神天皇であるということになっている。

また今の福岡県の飯塚市大分(だいぶ、嘉穂郡旧筑穂町)にある大分宮(大分八幡宮)は宇佐神宮の本宮であり筥崎宮の元宮であると宇佐八幡宮の由緒書き「八幡宇佐宮御託宣集」に書かれてもいる。


以上は、ウィキペディアによる「八幡神社」の解説。



いろいろな歴史やいわれがある神社であることが分かる。

皇祖神であるということは、明治天皇以降の天皇家一族の顔写真が祀ってあることから納得できる。

上記の解説から、日本における宗教体系の変遷が見えるし、大方の家に神棚と仏壇が並存していることにも納得がいく。


本日は、その八幡(はちまん)神社の「おくだり」前の注連縄(しめなわ)作りに出掛けた。

お寺さんでは、そのお寺に繋がっている人達を門徒や檀家と呼び、神社ではその神社に繋がっている人たちを氏子と呼ぶ。

私の家は、真宗大谷派の光西寺の門徒であり、八幡神社の氏子でもある。



檀家と門徒と氏子に関して、橋本正信さんという人は、以下のような解説をしておられる。

 門徒とは「一門の徒輩」ということで、仏教各宗派でも使われておりましたが、現在は浄土真宗の信者を指す言葉となっております。
 檀家とは、梵(ボン)語のダーナパティという言葉から生まれたもので、元の意味は布施をする人のことです。

 日本では鎌倉時代以後に使われだした言葉で、信者の所属する寺院を檀那寺と呼び、寺に所属する者を檀家と呼んで世襲的に寺院を維持する体制を作りました。

 檀家という言葉が広く使われだしたのは江戸時代からで、宗旨人別帳、あるいは宗門改人別帳と呼ばれるものを寺院が作成し、管理する制度(いわゆる檀家制度)が徹底されたためです。

 江戸幕府は1660年以後、寺院に対して、檀家の各人がキリシタンでないことを証明し、檀家の武士や庶民の家の戸主・家族・奉公人・出入りの行商人などについてもその名前、年齢、所属の寺などを記した戸籍台帳のようなものを備え付けるよう命を下しました。

 寺院はこの台帳を元として、個人が自分の寺の檀家でありキリシタンでないこと、また、檀家の者の住居移転や奉公・結婚・旅行などの際には、寺請証文と呼ばれる証明書を発行しました。つまり寺院は、幕府の庶民支配機構の末端の役割を果たしたのでした。

 またこの台帳は、庶民から職業の選択や、転居・結婚などの自由を奪いました。
 そして、権力者にとって権力を維持するための身分制度の徹底といった政策を実施するには有効な手段でした。

 つまり、江戸時代の寺院は権力者の側に立ち、権力を維持する道具として利用され、差別を温存する役割を担ってきたのでした。それが檀家制度なのです。

 この制度は明治の廃藩置県と共に廃止されましたが、寺と檀家の寺檀関係は残り、宗教が「家の宗教」という認識で現在も続いております。

 余談ですが、明治政府は檀家制度を廃止した代わりに、氏子制度という神社との関係を強制しました。また、それまで決して家の中にはなかった神棚を祀ることも強制し、国家神道・戦争の道を突き進んで行ったのです。

 浄土真宗は「家の宗教」から出発する教えでなく、個の救いが家の宗教となり社会一般に広まることを願っておりますので、檀家という家を単位とする言葉を極力用いませんでした。

 そして、浄土真宗の教えを信仰する者すべてが、寺でなく宗門の大事な個であるという意味で「門徒」と呼んできたのです。門徒の門は宗門・一門の門という意味です。

 どの言葉もそうですが、特に檀家という言葉の裏には重く悲しい歴史があります
 私は江戸幕府の封建制と、差別である身分制度を象徴する言葉が「檀家」であると考えております。

 何も知らずに檀家という言葉を使っておられたなら、これからは使わないようにしましょう。特に浄土真宗の方でしたら、「門徒」という立派な言葉があるのですからなおさらです。


ということだそうだ。


また、以下は注連縄(しめなわ)についての解説。

 神祇辞典(大正13年東方出版)

 シメナハ(注連縄・標縄・七五三縄)

社殿の四周、又は、民家の門戸等に懸けわたして、内外を區劃する標(しるし)の縄。
もと尻久米縄(端出之縄)といひて、
藁の尻を断ち切らずして、そのまま込め置きたる縄の義なりと云ひ、
又、占有の義にして、縄を延べてある地域を我が領となすによる名なりとも云ふ。
略して「シメナワ」とも「シメ」とも云ひ一に日御綱とも云ふ。
之を飾るを注連飾と云ふ。手力男ノ神、天照大御神を天ノ石窟より引き出し奉りし時、布刀玉ノ命、尻久米縄を以て、これより内に還り入り給ふなかれと云いし故事に基づき、後世、神事には凡てこの注連を引渡す習ひとなれり。
注連縄には、その形によりて、
前垂れ注連・鼓の胴・大根注連・牛蒡注連・輪飾り豊年等の種類あり。
何れも新しき稲藁を左綯いに縒りて作り、これに紙垂(シデ)を挿みて垂る。
「しめの子」の数、紙垂の向方等、種々の方法を唱ふるものあれど、必しも拘泥すべきにあらず。
又、各社古来の慣行によるものもあり七五三のしめの子を
七は天神七代の形、五は地神五代 三は三貴子に象ると云ひ、七五三は併せて十五也、天道は十五にして成る也、など言へるもあれど、神道名目類聚抄に、或説曰縄は正直の儀、端を出すは質素の體なり、、、
七五三等の数の事は、後人の附會なりと云へるを信ずべしとなす。
その懸方は、綯い始めたる方を本とし、上位(神前に向かいて右)になして懸くるを本義とす。
注連縄は神事の神聖を保つ表徴として、最、人目を引く物なるにより
神社等にありては、平素、常に新しきを懸くる注意、肝要なりとす。


以上は、注連縄に関する解説。


八幡神社の氏子の中から、15名ほどで、「おくだり」の前準備として、3つある鳥居や、本殿前の注連縄(しめなわ)などを、新しいものに架け替えるための作業を行なった。

稲藁を「わらじごろ」という木製の道具でたたいて柔らかくし、縄にする時によりやすくする作業をする者、高い木の枝にロープをかけて、そのロープの先端にしめなわを結び付けてよっていく作業をする者、よりあがったしめなわの飛び出している藁をカットする者などに手分けして作業を進めた。

朝の8時から始めて、午後3時前には飾り付けまで完了した。

昼前ぐらいから雨が降り出したが、作業が出来ないほどの雨でもなかった。

昼食はカツ丼の出前を皆でいただいた。

日当として6千円ももらった。

「おくだり」の寄付金として、氏子一戸当たり5千円の徴収があっていた。

9月30日に、「おくだり」と「おのぼり」を一日で済ませるということに今回は決まっている。

以前は、農業を主とする就労形態だったが、現在は勤めに出る就労形態に状況が変わって来ており、神社のお祭りに二日間を費やすことに無理が生じるようになったことから、一日で済ませてしまうという事に今回は決まったという。

また、そのための準備作業や、おくだり当日の神輿(みこし)担ぎや道具持ちなどをする人には、日当を出さなければ人が集まらないような状況になっているという。

本来の趣旨から外れてきているように思うが、これも時代の流れか。

「わらじごろ」という道具を使っての「藁打ち」という貴重な体験が出来た。


豊田一喜







とどめの一撃

2012年09月20日 | インポート
民主党は、自らの身に、とどめの一撃を放ってしまった。

以下は本日の毎日新聞記事より。

原発ゼロ閣議決定見送り
ふらつく政府方針

 30年代の原発ゼロを目標とした「革新的エネルギー・環境戦略」の閣議決定が見送られ、同戦略は発表からわずか5日で見直しに含みを持つ曖昧な位置づけになった。

発表時に歓迎した原発反対の住民からは一転して落胆の声が上がり、原発とともに町づくりを進めてきた立地自治体も、コロコロと方針を変える政府に振り回されかねず、困惑と不信感を強めている。

以上は、本日の毎日新聞記事より転写。


現在の人類の手で制御できない危険物を、ゼロにするという当たり前の事を決める事が出来ない政府などいらない。

のど元過ぎればなんとやらで、事故(人為的な瑕疵も含まれているので事件といった方が適切かもしれない)の記憶が薄まったところで、デタラメな事を推し進めようと画策している一部の既得権益者集団に迎合するような、おろかな政府などいらない。

日本人が、よほど愚かな民族ではない限り、次の国政選挙では、そのような判断がなされるはずである。

長崎と広島に投下された原子爆弾を、5000発程度作る事が可能な材料が、日本国には保有されているそうだ。

周辺国の脅威に備えて、原子爆弾の材料を大量に保有しているのが国策だとすれば、歴史上唯一の被爆国として間違っている。

本物の庶民の目から見れば、既に死に体に見える民主党ではあるが、自らの身に、さらにとどめの一撃を放ってしまったように思う。

プルトニュームの保有量などに関しては、下記のサイトが詳しい。

下記のサイトでは、たくさんの文字情報や映像情報のリンクが張ってある。

その中の映像情報のひとつに、「ニュースの深層」という番組の収録映像がある。

東京大学生産技術研究所副所長の渡辺正教授が語る「地球温暖化の真相とは」という解説は、非常に分かりやすい。

http://blog.livedoor.jp/hardthink/srchives/51878293.html

情報操作に騙されてはいけない。




豊田一喜




ひがんばな(彼岸花)

2012年09月19日 | インポート
通勤途上のあちこちで、彼岸花の赤色が、ちらほらと見られるようになった。

稲穂が実りかけた季節に、その姿を決まった場所で、毎年必ず見せてくれる。

その赤い花が開く頃には、熱かった夏の記憶も少しずつ薄れて、肌寒さを感じる時間帯も、わずかではあるが訪れてくる。

海水浴場などの海辺は、祭りの後の静寂のようなたたずまいになり、物思いにふけるには恰好の場所になる。

沈み行く夕陽を眺めながら、人生を振り返るも良し、お腹がすいたならば、きょうの夕飯のおかずは何だろうかと思いをめぐらせるも良し。

私の思索は、絶対に後者になると思うが・・・・・・・。

それよりももっと大切な事がある。

海といえば魚釣りに結びつく。

結びつくという漢字がくれば「結の浜」を連想する。

結の浜防波堤での小魚釣りが、「おいで、おいで」をしている。

最近はしばらく、魚釣りには行っていない。

しばらくといっても、10日間程度。

9月30日までで禁漁期間に入る、諫早市高来町の境川でのヤマメ釣りにも、今シーズンの最後に行ってみたいし、諫早市飯盛町の結の浜防波堤にも行ってみたいが、今週の週末はよんどころなき用事が入っている。

行けるとすれば、来週の週末ぐらいになる。


武田鉄矢さんの「贈る言葉」という歌の歌詞は、卒業式を意識して作った歌ではなくて、夕暮れ時に、自分から逃げてゆく片思いの彼女の背を見て作った失恋の記録歌なのだそうだ。

彼は、失恋するたびに、失恋した相手の女性を思い、作詞をしたのだという。


以下は、贈る言葉の歌詞。

暮れなずむ町の 光と影の中
去りゆくあなたへ 贈る言葉
悲しみこらえて 微笑むよりも
涙かれるまで 泣くほうがいい
人は悲しみが 多いほど
人には優しく できるのだから
さよならだけでは さびしすぎるから
愛するあなたへ 贈る言葉

夕暮れの風に 途切れたけれど
終わりまで聞いて 贈る言葉
信じられぬと 嘆くよりも
人を信じて 傷つくほうがいい
求めないで 優しさなんか
臆病者(おくびょうもの)の 言いわけだから
はじめて愛した あなたのために
飾りもつけずに 贈る言葉

これから始まる 暮らしの中で
だれかがあなたを 愛するでしょう
だけど 私ほど あなたのことを
深く愛した ヤツはいない
遠ざかる影が 人込みに消えた
もう届かない 贈る言葉
もう届かない 贈る言葉

武田鉄矢作詞・千葉和臣作曲

上の歌詞の中で、

これから始まる 暮らしの中で
だれかがあなたを 愛するでしょう
だけど 私ほど あなたのことを
深く愛した ヤツはいない

というフレーズは、失恋したほとんどの人が抱いた事がある想いだと思う。

自分の遠ざかる若かりし頃の記憶の引き出しの中にも、そっとしまってあるような気がする。


ウィキペディアによれば、彼岸花の花言葉は、

「情熱」「独立」「再会」「あきらめ」。

「悲しい思い出」「想うはあなた一人」「また会う日を楽しみに」。

なのだそうだ。

武田鉄矢さんの「贈る言葉」を花でイメージするとすれば、彼岸花の歌と言っても、大きくははずれていないように思う。


以下は、ウィキぺディアによる彼岸花に関する解説。

ヒガンバナ(彼岸花、学名 : Lycoris radiata)は、ヒガンバナ科ヒガンバナ属の多年草である。クロンキスト体系ではユリ科。リコリス、曼珠沙華(マンジュシャゲ、またはマンジュシャカ サンスクリット語 manjusaka の音写)とも呼ばれる。学名の種小名 radiata は「放射状」の意味。

特徴
全草有毒な多年生の球根性植物。散形花序で6枚の花弁が放射状につく。

道端などに群生し、9月中旬に赤い花をつけるが、稀に白いものもある。その姿は独特で、夏の終わりから秋の初めにかけて、高さ30 - 50cmの枝も葉も節もない花茎が地上に突出し、その先端に包に包まれた花序が一つだけ付く。包が破れると5 - 7個前後の花が顔を出す。花は短い柄があって横を向いて開き、全体としてはすべての花が輪生状に外向きに並ぶ。花弁は長さ40mm、幅約5mmと細長く、大きく反り返る。

開花終了の後、晩秋に長さ30 - 50cmの線形の細い葉をロゼット状に出す。葉は深緑でつやがある。葉は冬中は姿が見られるが、翌春になると枯れてしまい、秋が近づくまで地表には何も生えてこない。つまり開花期には葉がなく、葉があるときは花がない。

人里に生育するもので、田畑の周辺や堤防、墓地などに見られることが多い。特に田畑の縁に沿って列をなすときには花時に見事な景観をなす。湿った場所を好み、時に水で洗われて球根が露出するのを見かける。なお、山間部森林内でも見られる場合があるが、これはむしろそのような場所がかつては人里であったことを示すと見るべきである。

また、日本に存在するヒガンバナは全て遺伝的に同一であり、三倍体である。故に、種子で増えることができない。中国から伝わった1株の球根から日本各地に株分けの形で広まったと考えられる。

有毒性
全草有毒で、特に鱗茎にアルカロイド(リコリン、ガランタミン、セキサニン、ホモリコリンなど)を多く含む有毒植物。誤食した場合は吐き気や下痢、ひどい場合には中枢神経の麻痺を起こして死にいたることもある。

水田の畦や墓地に多く見られるが、以下のような目的の為に人為的に植えられたためと考えられている。前者の場合ネズミ、モグラ、虫など田を荒らす動物がその鱗茎の毒を嫌って避ける(忌避)ように、後者の場合は虫除け及び土葬後、死体が動物によって掘り荒されるのを防ぐため、ただしモグラは肉食のため、ヒガンバナに無縁という見解もあるが、エサのミミズがヒガンバナを嫌って土中に住まない。そのためにこの草の近くにはモグラが来ないともいう。

有毒なので「農産物ではない」つまり年貢の対象外とされたため、救荒作物として田畑や墓の草取りのついでに栽培された。

鱗茎はデンプンに富む。有毒成分であるリコリンは水溶性であるため、長時間水に曝せば無害化が可能であるため、救飢植物として第二次世界大戦中などの戦時や非常時において食用とされた事もある。また、花が終わった秋から春先にかけては葉だけになり、その姿が食用のノビルやアサツキに似ているため、誤食してしまうケースもある。

鱗茎は石蒜(せきさん)という生薬名であり、利尿や去痰作用があるが、有毒であるため素人が民間療法として利用するのは危険である。ちなみに、毒成分の一つであるガランタミンはアルツハイマー病の治療薬として利用されている。

名前
彼岸花の名は秋の彼岸ごろから開花することに由来する。別の説には、これを食べた後は「彼岸(死)」しかない、というものもある。上記の飢餓植物としての面から一考する価値はあると思われる。別名の曼珠沙華は、法華経などの仏典に由来する。また、"天上の花"という意味も持っており、相反するものがある(仏教の経典より)。仏教でいう曼珠沙華は「白くやわらかな花」であり、ヒガンバナの外観とは似ても似つかぬものである(近縁種ナツズイセンの花は白い)。『万葉集』にみえる"いちしの花"を彼岸花とする説もある。「路のべの壱師の花の灼然く人皆知りぬ我が恋妻は」(11・2480)また、毒を抜いて非常食としている事もあるので、悲願の花と言う意味もあるが一般的には危険である。

異名が多く、死人花(しびとばな)、地獄花(じごくばな)、幽霊花(ゆうれいばな)、剃刀花(かみそりばな)、狐花(きつねばな)、捨子花(すてごばな)、はっかけばばあと呼んで、日本では不吉であると忌み嫌われることもあるが、反対に「赤い花・天上の花」の意味で、めでたい兆しとされることもある。欧米では園芸品種が多く開発されている。園芸品種には赤のほか白、黄色の花弁をもつものがある。日本での別名・方言は千以上が知られている[4]。

また、韓国ではナツズイセン(夏水仙)のことを花と葉が同時に出ることはないから「葉は花を思い、花は葉を思う」という意味で「相思華」と呼ぶが、彼岸花も同じく花と葉が同時に出ることはないので彼岸花も相思花と呼ぶことが多い。

日本では上記の「花と葉が同時に出ることはない」という理由から「葉見ず花見ず」とも言われる。

学名のLycoris(リコリス)とはギリシャ神話の女神、海の精:ネレイドの一人、Lycoriasの名前からとられたもの。


その他
季語・花言葉
秋の季語。
花言葉は「情熱」「独立」「再会」「あきらめ」。
「悲しい思い出」「想うはあなた一人」「また会う日を楽しみに」。

迷信
花の形が燃え盛る炎のように見えることから、家に持って帰ると火事になると言われている。

以上は、ウィキペディアによる彼岸花の解説。



以上の説明を読めば、

鱗茎はデンプンに富み、有毒成分であるリコリンは水溶性であるため、長時間水に曝せば無害化が可能であるため、救飢植物として第二次世界大戦中などの戦時や非常時において食用とされた事もある、ということから、田んぼのあぜ道などで多く見かけることにも納得が出来る。

また、毒成分の一つであるガランタミンはアルツハイマー病の治療薬として利用されているということなど興味深い。


彼岸花の咲く季節は、いろいろな感傷に浸る時間を連れてくる。



豊田一喜



アークタンゼントと測設のはなし

2012年09月18日 | インポート
サイン(sin)、コサイン(cos)、タンゼント(tan)などという用語は、私たちが高校生の頃には高校1年生の数学で出てきていた。

直角三角形の各辺の比を表す記号で、角度や距離(辺の長さ)を扱う仕事では、必ず必要な基礎知識となる。

角度や距離(辺の長さ)を扱う仕事といえば、そのひとつとして「測量」がある。

初歩的な幾何学の知識があれば、基本的な測量作業の計算はほとんど出来てしまう。

サイン(sin)、コサイン(cos)、タンゼント(tan)のそれぞれの逆数の事を、セカント(sec)、コセカント(cosec)、コタンゼント(cotan)という事ぐらいまでは覚えている人がほとんどだとは思う。

ところが、アークサイン、アークコサイン、アークタンゼントとなると、「なにそれ?」と言う人も増えてくるのではないかと思う。

記号で示せば、sin,cos,tanの表記の右上の方に、小さな-1(マイナス イチ)を付けた記号になる。

sinのマイナス1乗、cosのマイナス1乗、tanのマイナス1乗というように表記した記号が、それぞれアークサイン、アークコサイン、アークタンゼントという呼び方をする。

例えば、アークサイン0.5=30度0分0秒であり、アークコサイン0.5=60度0分0秒であり、さらにアークタンゼント1.7320504・・・=60度0分0秒になる。

要するに、アークサイン○○や、アークコサイン○○や、アークタンゼント○○の、○○の中に表示する数値になるような角度を表す記号である。

別の言い方をすれば、サインの値やコサインの値や、タンゼントの値が○○になるような角度を表している。

アークサイン○○や、アークコサイン○○や、アークタンゼント○○が示す角度の値は、関数電卓などによって容易に求める事が出来る。

あるいは、三角関数真数表があれば、比例挿入計算のみで、それらの角度を求める事が出来る。

測量座標系におけるX座標差(縦座標差)とY座標座(横座標差)が分かれば、アークタンゼント(Y座標差÷X座標差)にて、座標北からの方向角を知る事が出来る。

道路の設計などでは、計画する道路中心線などの所要地点の座標値が計算されて与えられるので、ある基準点における、別の、方向の基準となる基準点からの水平角と水平距離を計算して、所要の道路中心線などの測設(杭打ち)を行う事が出来る。

測設とは、座標値や方向や標高値等が定義されている計画された何等かの点を、現地に打設する事をいう。

例えば、A点を、ある測設点を測設するための基準点とし、B点をそのA点から視準できる方向の基準点とし、C点を測設点とすれば、A点におけるB点の方向角は、A点とB点の座標差から計算できる。

同じくA点におけるC点の方向角もA点とC点の座標差から計算する事ができる。

それらの方向角を加減する事によって、A点からB点方向を基準とした場合の、C点方向の水平角が計算できる。

A点とC点の水平距離は、A点とC点の座標差から、三平方の定理によって計算する事が出来る。

そのようにして計算された水平角と水平距離を用いて、トータルステーションなどの測距機能と測角機能を使い、測設すべき点を現地に打設する事が出来る。

私たちが発掘作業をやらせてもらっている大村市竹松遺跡の、20メートルピッチに打設してある頭が赤色のプラスチック杭も、そのような方法で現地に測設してある。

雑学的な知識として、以上のような事を知っていれば、何かの時に役に立つかもしれない。



豊田一喜


洗脳的教育の効果

2012年09月17日 | インポート
隣国で、洗脳的教育を受けた人たちが、デモと称して暴徒となり、破壊や略奪を行なっている。

デモ行進は正当な意思表示の方法として認める事はできるが、破壊や略奪は犯罪である。

そのような暴徒の破壊や略奪行為を、取り締まらない、あるいは取り締まれない国家のあり方には不信感を抱かざるを得ない。

日本製品の不買運動を扇動しているが、その事によって自国の経済や生産活動に大きな影響が及ぶという事を類推する思考能力は無いのだろうか。

中国国内に生産施設を構え、地元の人々を雇用し、地域に貢献しようとして中国人に対する奨学金制度まで創設して協力しているような日本企業の建物を破壊し、品物を略奪するなどという暴挙は許されることではない。

破壊や略奪の証拠として、映像が残っている。

犯罪は犯罪として厳しく取り締まり、処罰すべきだ。

体制に対してくすぶっている不満を、領土問題にすりかえてしか意思表示ができないように、国家から厳重に取り締まられているような人々も哀れではある。

我が国においても、洗脳的教育効果が戦前までは存在していて、悪い敵国としての認識を持たされ、戦場にかり出されていた歴史がある。

現人神をいただき、各家庭にはその肖像写真が祀られていた。

台風16号が通り過ぎ、我が家の被害は直径が3cm程度のイチジクの木の枝が2本折れただけの軽微なもので、平成3年の台風17号と19号の時のように、屋根瓦が飛散するような被害は無かった。

長崎市内では、県庁の建設予定地も水に浸かったようだが、それでもそこに建設する事を強行するのだろう。

現在の県庁舎の場所が、災害に見舞われた時には一番機能的な場所だと私は思う。

隣国の暴動は、台風の様に、とりあえずは通り過ぎるのを待つしか術がないように思う。

それにしてもひどすぎる。




豊田一喜








台風に対する備え

2012年09月16日 | インポート
今までに経験した事が無いような超低気圧の台風が近付きつつある。

平成3年9月14日に襲来した台風17号と、その2週間後に襲来した台風19号によって、我が家には大きな被害があった。

今回の台風16号は、その時の気圧と比べても、相当低い気圧のままで私たちの地域の近くを通過するらしい。

予報では、長崎県の西方を通過する時点でも935ヘクトパスカルぐらいだという事になっている。

相当に猛烈な風が吹く事が予測される。

風が吹き出してから、台風に対する備えのために外に出て作業をするのは非常に危険だ。

なので、朝から、雨戸の付いていない2階の北側と南側の窓に、台風に対する備えのために準備しているコンパネを装着した。

それから、庭に出ている植木の鉢を小屋の中にしまいこんだ。

後は雨戸を閉めるだけ。

9月17日の午前8時から9時頃が、長崎県に最接近する模様。

被害がなるべく少ないように、ただただ祈るしか術が無い。


以下は、ウィキペディアによる平成3年の台風17号と台風19号の記録。

台風17号
9月11日に日本の南海上で発生した第17号は発達しながら北上を開始し、13日には中心気圧955ミリバールの勢力で沖縄県に接近、那覇市では午前8時に57.4m/sという当時歴代5位となる最大瞬間風速を観測した。
沖縄通過後は東シナ海へ進み、14日午前5時30分ごろ長崎県長崎市付近に上陸した。
上陸時は中型(「中型」の表現は2000年に廃止)で中心気圧は955ミリバールと13日後に上陸した台風第19号と比較して劣る勢力だったにも関わらず、台風の進路となった佐賀県佐賀市では午前6時すぎに観測史上最高となる54.3m/sの最大瞬間風速を観測するなど、九州北部一帯で40~50m/s級の暴風が吹き荒れた。
さらに、雨量も記録的で福岡県前原市では1時間の雨量が147mmを記録するなど、九州地方では台風第19号を凌ぐ暴風と降水が観測された地域があった。
この大雨は西日本だけでなく、甲信越地方まで及んだ。
台風は午前中のうちに福岡市から山口県沿岸を通過した。
日本海沿岸部を北東進し、夜には新潟県新潟市付近に再上陸し、同日21時に山形県米沢市付近で温帯低気圧に性質を変え、翌日には太平洋に抜けた。

被害
特に風による被害が九州で発生した。
佐賀市で観測された54.3m/sの最大瞬間風速は、2週間後に上陸した台風第19号を凌ぐ風速である。
水稲への被害の他に、梨などの果物が暴風で落とされる被害が深刻であった。
また、風倒木の被害も出た。
その13日後には台風第19号が再び上陸し、さらなる被害を出す結果となった。
全国で11人の命が失われた。


台風19号
1991年9月16日にマーシャル諸島の西海上で発生し、9月23日にはフィリピンの東海上で中心気圧925hPa、最大風速50m/s(100knot)の大型で非常に強い台風となった。
9月26日に宮古島の東海上で北東方向に進路を変え、9月27日に長崎県佐世保に上陸し、山口県をかすめたあと日本海上を猛スピードで進み、翌日朝に北海道に再上陸した。
台風は北海道に上陸後、オホーツク海へ進み、同日15時に温帯低気圧へと性質を変えて、日本から遠ざかった。
九州上陸時の中心気圧940hPaは、昭和46年台風第23号以来約20年ぶりで、1951年の統計開始以後では史上5番目に低い(2005年現在)。
北海道再上陸時の中心気圧は955hPaであった。
さらに、台風が勢力を保っていた上、日本海を速い速度で北上する最悪な進路を取ったため、各地で暴風が吹き荒れた。
阿蘇山で最大瞬間風速60.9m/s、広島市で58.9m/s、輪島市で57.3m/s、青森市で53.9m/sを記録するなど、最大瞬間風速は26箇所、最大風速は12箇所で観測記録を更新した。
非公式ながら、鹿児島県下甑島の航空自衛隊ヘリ基地の観測で、27日の13時過ぎに最大瞬間風速88m/sを記録した。
日本全土に被害を及ぼし、死者62名、負傷者1,261名が出た。
保険支払額は、史上最高の5,679億円に達した。


以上は、ウィキペディアによる平成3年の台風17号と19号の記録。


その台風よりも規模の大きい台風16号が接近しつつある。

厳重な警戒をした方が良い。


平成24年9月16日 午後2時43分

豊田一喜





おすそ分け(御裾分け)と山分け

2012年09月15日 | インポート
「語源由来辞典」によれば、おすそ分けは以下の様になっている。

 おすそ分けは、「裾分け」に接頭語の「お(御)」が付いた語。

「裾分け」の形では、1603年の「日葡辞書」に見られるのが古く、「お裾分け」は近世後期から見られる。

「すそ(裾)」は、衣服の下端の部分から転じて、主要でない末端の部分も表す。

そこから、品物の一部を下位の者に分配することを「裾分け」というようになり、下位の者に限らず、他の人に一部を与えることを「おすそ分け」というようになった。

以上は、「語源由来辞典」による。




ウィキぺディアによれば、以下の様になっている。

 御裾分け(おすそわけ)は、「裾分(すそわ)け」の丁寧語である。

お福分けとも。

他人から貰った品物や利益の一部などを、さらに友人や知人などに分け与えること。

「すそ」とは着物の裾を指し、地面に近い末端の部分というところから転じて「つまらないもの」という意味がある。

よって、本来目上の人物に使用するのは適切ではない。

一方、お福分けは「福を分ける」意味であるゆえ目上の人物に使用しても失礼に当たらないとされている。

また、類義語に「山分け」があるが、この語には、一部ではなく均等に振り分ける意味が含まれる。

「お裾分けに預かる」 は、英語では receive a share of ~ 。

以上は、ウィキペディアによる。



英語での(レシーブ ア シェアー オブ ~)では、日本語の持つ機微が伝わらないようには思う。

直訳すれば、~の分け前を受け取るというところだろうか。





長崎県議会で、大きな風呂敷が広げられたようだ。

以下は、その大きな風呂敷の中身を披露した、毎日新聞の記事。


県議会:新幹線など大型公共工事 今後10年間、経済効果1兆2000億円や雇用9万人を期待--中村知事が答弁 /長崎
毎日新聞 9月13日(木)15時4分配信

 中村法道知事は12日、22年度ごろの開業見通しとなった九州新幹線長崎ルートなど大型公共事業について「県内には1兆2000億円に上る経済効果と9万人を超える雇用機会が確保されると期待している」と述べた。

県議会一般質問で、下条文摩左議員(自民)への答弁。

 知事は「開業までに県内で展開が見込まれる主な大型公共事業は6000億円を大きく上回る規模となる」とした。

例示したのは、新幹線建設・県内分3700億円
▽JR連続立体交差430億円
▽西九州自動車道1080億円
▽長崎多良見-芒塚インターチェンジの4車線化310億円
▽島原道路1060億円
▽県庁舎移転新築300億円超。
その他にも、事業費は明らかになっていないが、国際コンベンション施設建設、県立図書館新築、長崎市役所移転新築などの計画・構想があり、県内は今後10年間、公共工事ラッシュとなる見込みだ。

 下条議員は「県の公共事業費は近年、1000億円を割り込んでいるが、この6000億円超が今後10年間で均等に上乗せされると、年1400億~1500億円となる」と強調。

「地場企業優先を大原則にした事業展開を」と要望した。【阿部義正】
〔長崎版〕

9月13日朝刊


以上は、大きな風呂敷の中身を紹介した毎日新聞の記事。


上記の記事によれば、中村法道長崎県知事は、今後10年間、経済効果1兆2000億円や雇用9万人を「期待」しているのであって、そのようになるのだとは一言も言っていない。

期待しているだけであるということを、そのようになると勘違いしないようにした方が良い。


しかし、知事がそのような期待をしているのだから、私たち庶民も長崎県民なので、そのおすそ分けに預かれるかも知れないという期待をしてもよいのかも知れない。

ただ気になるのは、長崎県においては、公共事業による成果である干拓地の耕作権を、一部の既得権益者であり某国会議員たちの身内が名を連ねていた会社が得ていたというような事例もあるということで、一部の階層による富の独占は長崎県の専売特許的に見られているようだから、くれぐれもそのようなことにはならないように期待しておきたい。

九州新幹線長崎ルートなど大型公共事業による経済効果を、一部の階層で「山分け」することなく、私たち庶民にも「おすそ分け」がある事を期待したい。

私たち大村市竹松遺跡の発掘調査アルバイト作業員も、現にそのおすそ分けの末端に位置しているのだと解釈できるのかもしれない。

今後10年間、いろいろな分野におけるその「おすそ分け」の仕事で、糊口をしのいで行けたならばと思っている。

ただし、平成20年12月に「シンクながさき」という財団法人ながさき地域政策研究所が公開している「新大村駅開業による経済波及効果の推計」によれば、以下のような内容になっている。

新大村駅開業に伴う総合的な経済効果としての純効果は、約4億8000万円~約3億8000万円となるそうだ。

プラス効果としては、時間短縮効果と地域価値向上効果で、6億3000万円~5億3000万円であり、マイナス効果としては、消費流出(ストロー効果)が約1億5000万円となり、差し引き純効果は、約4億8000万円~約3億8000万円になるということ。
それらの内容の詳細は、下記にて公開されている。

http://www.city.omura.nagasaki.jp/file/temp/645824.pdf

長崎県知事が広げた風呂敷の中身が、大きすぎるのかどうかの判断材料にはなるのかもしれない。


豊田「一喜


10万円超え

2012年09月14日 | インポート
月末締めの翌月15日払いの大村市竹松遺跡のアルバイト代金の合計金額が、101,700円になるという給料明細書を昨日手渡された。

出勤日数が17.0日で、そのうちの1日は雨のために1.0時間の勤務だったから、合計勤務時間は113.0時間になっている。

1日7.0時間の勤務日が16日間と、雨の日に早帰りした日の1時間の勤務実績になる。

勤務可能な日には全て出勤したので、満勤した作業員のひとりではある。

時間給が900円だから、総支給金額が101,700円となり、控除されるのが雇用保険の508円と所得税の3,500円となっており、差し引き支給額が97,692円になっている。

6月4日から働かせてもらっていて、6月と7月は雨天のために仕事が休みになる日が多かったので、それぞれの月の給料は10万円をはるかに下回る金額だった。

給料の総額が10万円を超えたのは8月分が初めてとなる。

本日はその給料の銀行振り込み予定日である。

普段は1本100円の発泡酒だが、今日はちょっと奮発して、本物のビールでも買ってみようかと思っている。

本物の庶民である私たちのささやかな幸福感。

世襲で政治家になったような非庶民の人たちには理解できないだろうし、まず味わう事が出来ないような些細な事による幸福感。

それを哀れと思うか素敵なことだと思うかは、それぞれの感受性の持ち方次第。

私たち本物の庶民には、貧乏と引き換えに、幸福を感じる種を神様はたくさん与えてくださっているのかもしれない。

10万円超えの給料で、また1ヵ月間、飢えずに、日本国憲法に謳ってある、健康で文化的な最低限度の生活が出来る。


豊田一喜








命日

2012年09月12日 | インポート
父が59歳で他界してから満27年が経つ。

27回目の父の命日になるが、特別に何かをすることもなく、ずいぶんと時間が過ぎたのだなと思う程度になってきた。

今年の8月で27歳になった長男が生まれてから、1ヵ月程度で浄土へ旅立った。

2週間の入院生活で、あっけなく死んでしまった。

大阪に住んでいた頃だったが、母からの電話で、あまり好ましくない病気で父が入院したという事を聞いた。

子供は私を含めて4人いるが、4人とも母からの電話を聞いて、急遽長崎の実家に駆けつけた。

入院先の病院で、その4人の子供が交代で、病院に泊り込んで付き添った。

結果は承知していたが、少し早すぎる一生だった。

私の、大阪で暮らしていtた家族は、妻と2人の娘と生まれたばかりの長男だったが、入院中の父に、生まれて1ヵ月足らずの長男の顔を見せる事が出来た。

男系の孫が生まれてくれた事に、安堵して旅立ったのかもしれない。

生まれて初めての喪主をつとめる事になったが、人様の葬式にも出た事がなったような年代だったので、田舎のしきたりも分からずに、近隣の手伝ってくださった方々に対して、かなり失礼な振る舞いをしたようにも思う。

葬儀を終えて、一度家族5人で大阪に帰ったが、妻と3人の子供たちは、1月もしないうちに母が1人で暮らしている長崎の私の実家に帰すことにした。

その後5ヶ月近くの大阪での会社員としての単身での生活を経て、私も長崎に帰って実家にて航空写真測量の事務所を開業する決心をした。

紆余曲折があり、現在は大村市竹松遺跡の発掘アルバイト作業員として働かせてもらっている。

27年間という時の流れが、色々な悲しかった出来事やつらかった出来事などの記憶を薄めてくれる。

時間の経過は心の薬にもなる。



豊田一喜



労基法の私の解釈など

2012年09月10日 | インポート
労基法によれば、その組織の正社員の通常の1日の勤務時間の75パーセント以上の勤務時間働き、なおかつ1ヶ月の勤務日数の75パーセント以上の勤務をする者に対しては、パートタイマーやアルバイトという雇用形態に関係なく、雇用主は強制的に、雇用される者を厚生年金と健康保険に加入させなければならないとされている。

その場合には、雇用主は、雇用される者の厚生年金と健康保険の掛け金の半額を負担しなければならない仕組みになっている。

既に公的な年金を受給している雇用される者に対しては、健康保険のみの強制加入と、その半額負担が雇用主に課される事になる。

私たち、大村市竹松遺跡でアルバイト作業員として、2ヶ月ごとの雇用契約の更新をして働かせてもらっている場合にはどのようになるのか。

午前9時から午後5時までの勤務で、昼休みの1時間を差し引くと実働7時間だから、正社員の通常の1日の勤務時間の75パーセント以上の勤務時間は働かせてもらっている。

もうひとつの条件である、1ヶ月間の勤務日数はどうなっているのか。

6月と7月は、平日の雨天による作業中止のために休みが多かったので、正社員の勤務日数の75パーセント未満しか勤務していない。

8月はどうか。

正社員の方々の本来の勤務日数は、土曜日・日曜日を除いて23日間になる。

私たちの勤務実績は、雨天等による休みなどのために、勤務可能な日数を満勤した人でも、8月の合計で16日と1時間の勤務である。

23日×0.75=17.25日となり、16日と1時間では正社員の勤務日数の75パーセントよりも少ない勤務日数となるので、雇用主には、雇用される者に対して、厚生年金と健康保険の強制的加入をさせる義務は生じない。

要するに合法であるから、厚生年金の掛け金と健康保険の掛け金の半額を負担する必要性も生じない。

その論法で9月の勤務可能な日数を推定してみる。

正社員の方々の本来勤務すべき日数は、合計で19日間となる。

19日×0.75=14.25日となる。

9月10日の時点で、勤務できる日数6日のうち、既に2日間は休んでいるので、勤務実績は4日間になっている。

9月11日以降で、勤務の可能性がある日数が13日間ある。

合わせると17日間になる。

17日-14.25日=2.75日

9月の残りの17日間のうち、3日間ほど天候障害その他の理由にて勤務が出来なければ、9月の勤務実績は14日間となり、正社員の方々の勤務日数の75パーセント未満の勤務実績となるので、雇用主は強制的に、雇用される者を厚生年金と健康保険に加入させなければならないとする法には抵触しない事になる。

すなわち合法となる。

また、8月・9月の2ヶ月間の雇用期間の契約なので、仮にその平均勤務日数が適用されるものとすれば、8月の勤務実績において1.11日の勤務日数の蓄えがあるので、9月には14.25日+1.11日で、勤務可能な日数は15.36日になるという解釈も成り立つ。

すなわち、9月に15日と2.5時間程度働いても、正社員の方々の平均勤務日数の75パーセント未満の勤務日数となり、雇用主は強制的に、雇用される者を厚生年金と健康保険に加入させなければならないとする法には抵触しない事になる。

という推定を私はしているが、果たして結果はどのようになるのだろうか。

厚生年金と健康保険に加入させない雇用契約なので、合法的なあり方としては、そのような選択肢しかないはずだと私は解釈している。


6月4日から大村市竹松遺跡のアルバイト作業員として使ってもらうようになってから、3ヶ月という期間が経過した。

現場代理人氏の都合による交代により、今朝の朝礼は先週までのそれとは雰囲気が違っていた。

「きょうも1日安全作業でお願いします。」というお決まりの、竹松遺跡の発掘現場で働く私たちや組織体にとってはとても重要な言葉が聞けなかったからだろうか。

また、終礼の時の「今日も1日ご苦労様でした。ありがとうございました。」という言葉が、一日の疲れを払拭していたようにも思うが、終礼もいつ終わったのか分からないようなうちに終わっていた。

あらためて言葉の持つ力というものを考えさせられた。



豊田一喜