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日々雑感「点ノ記」

備忘録(心の軌跡)

告知(遺跡発掘作業員の募集等について)

2012年08月31日 | インポート
大村市竹松遺跡の発掘アルバイト作業員の新規募集ならびに追加募集があるという告知。

私たちが働かせてもらっている区域の竹松遺跡の発掘作業員の追加募集の情報が、来週の月曜日にハローワークで公開されるそうです。

雇用主は大成エンジニアリング株式会社です。

20名程度の追加募集だそうです。

ハローワークから紹介状を出してもらって応募すれば、面接の日程については、雇用主の大成エンジニアリング株式会社から連絡があるという事です。

楽しくて、快適な職場です。

私なんか毎日の通勤が楽しくてたまりません。

様々な職業を経験された人たちとの交流が出来ますし、婚活の場にもなるかも・・・・・。

58年間の今までの人生の中で、このように楽しい気分で職場に通える仕事は経験した事がありません。

年齢制限は無いそうです。

時間給が900円で、交通費の支給はありません。

体重を減らす事が出来る可能性があって、お金がもらえて、日光浴まで出来て骨が丈夫になり、雨が降ると休みで、土日祝祭日も休める晴耕雨読の生活が出来る職業です。

来年の2月いっぱいぐらいまでは、解雇されるような事をしない限り契約の更新がしてもらえる可能性がある職場です。

応募は早い者勝ちのようですから、月曜日の朝一番にハローワークへ行った方が良いと思います。

現在、竹松遺跡の発掘作業に従事している作業員の知り合いの方がいれば、その方にこっそりと口ぞえを頼んでおけば有利になるかもしれません。

これは私の勝手な推測ですので誤解なきように。


もうひとつの竹松遺跡の発掘作業員の募集告知は、今週の8月27日の入札で落札した扇精光株式会社が、竹松遺跡の新幹線路線予定区域の遺跡発掘作業員を、およそ100名募集しているという情報です。

条件は、おそらく私たちが働かせてもらっている大成エンジニアリング株式会社の雇用条件と同じだと思われますが、こちらの募集情報は、今週から既にハローワークにアップされているという事です。

100名といっても、早目に応募しないと締め切られてしまう可能性があるので、なるべく早めに応募された方が良いと思います。

ちなみに私たちが働かせてもらっている大成エンジニアリング株式会社が、5月の下旬頃に竹松遺跡の発掘作業員の募集をかけたところ、200人の募集枠が、ハローワークに情報がアップされた3日後には満杯になったようです。

これからの季節は暑さも落ち着いてきて、快適な外の作業環境になってくるものと思われます。

黙っていてはお金は手に入りません。

たとえ500円のお金でも道端には落ちてはおりません。

働き口を見つけて働けば、飢えて死ぬ事はありません。

選り好みせずに、採用してもらった職場でまじめに働けば、私たち庶民は生きていけます。

稼いだ収入の中での生活を心がければよいだけの話です。

庶民の目線での政治などと、世襲で議員になったような政治屋がよく使うフレーズですが、彼らに本当の庶民の目線などありはしません。

なぜならば、本当の庶民を経験した事が無いからです。

くれぐれも騙されないようにしましょう。

本物の庶民である私たちの年収分以上の金額を、月収としてもらっておりながら、それでも政治には金がかかるから足りないなどとうそぶいているような輩には、私たちのような本物の庶民の気持ちなどをおもんばかることなど永久に無理ですから、そのような輩の発する言葉にはくれぐれも騙されないようにして、来る国政選挙等に際しては、ささやかな一票を投じる事にしましょう。

以上は、選挙の投票に対する心構えに関する私からの告知でした。


豊田一喜










電子基準点

2012年08月29日 | インポート
雲仙市愛野町の展望台の近辺にも、国土地理院が管理している電子基準点がある。


以下は、ウィキペディアによる「電子基準点」に関する説明文。

電子基準点(でんしきじゅんてん)とは測量における基準点、観測点の一つである。

国土地理院は精度の高い測量網、地殻変動を監視するシステムとしてGPS連続観測システム(GEONET:GPS Earth Observation Network System)を構築した。電子基準点は、その観測点(GPS連続観測点)である。

「電子基準点データ提供サービス」によって観測データが「基準点成果等閲覧サービス」によって成果値が提供されるなど、国土地理院のサービスによって様々な観測データ・結果を照会できる。

2007年現在、日本全国におよそ1,200地点存在する。

高さはおよそ5mの金属製。

とくに夏季などは金属標の南を向いた側でのみ僅かながら熱膨張が生じるとされ、それを回避するための覆いを順次整備している。

なお金属標が水準点の標石などと比べ高所にあるのはGPS信号の受信を容易にしつつマルチパスの影響を除去すること、および受信機への悪戯の防止のためである。

GPS衛星からの電波を受信する。

24時間連続観測、観測センターへのリアルタイムデータ送信。

地殻変動による位置変動の解析可能精度は1cm以下。

基礎部に金属標(電子基準点付属金属標)が埋設してある。順次この金属標に対し水準測量がかけられ、一部は二等水準点として成果が公表されている。


以上は、ウィキペディアによる「電子基準点」に関する説明文。

最近、中国や韓国との間で、島の領有権に関してもめている。

国土の陸地に関する情報管理管轄役所は、国土交通省国土地理院であろうと思われる。

国土の地殻変動を監視するシステムとしてGPS連続観測システムを整備しているという事であるから、そのような大義名分を掲げて、領土問題でもめている島に電子基準点を設置するというのも効果的かも知れない。

ただし、戦時中に海外の占領地において、命がけで地図作りの測量をされた陸地測量部の測量師の方たちのような、使命感に燃えている国土地理院職員氏たちがいればの話ではあるが。

領土は領海とも連動しているので、小さな島といえども重要な存在である。

国土の狭い日本にとってはなおさらのことだ。

友好関係を保つことと、正当な権利を主張する事を遠慮することとは同義ではない。

毅然とした態度で臨まないと、何をされても黙している国家であると勘違いされてしまう。

日本の領土の中でなされた犯罪行為に対しては、日本の法律に則って正当に罰するべきである。

何のために高額な税金を投入して、自衛隊や海上保安庁の存在があるのかということをきちんと認識した方が良いと私は思う。

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豊田一喜












制限付一般指名競争入札(大村市竹松遺跡)

2012年08月28日 | インポート
平成24年8月27日に、大型の制限付一般指名競争入札が実施されたことがインターネット上で公開されている。

以下はその公開された情報のコピー。

県教育庁新幹線文化財調査事務所 【8月27日】
平成24年度九州新幹線西九州ルート(長崎ルート)埋蔵文化財発掘調査委託業務〔竹松遺跡(路線)〕(一般競争)〈発掘調査面積5000m2〉
大村市竹松町〔竹松遺跡(路線)〕
  扇精光(株)・(株)三基竹松遺跡(路線)特定埋蔵文化財発掘調査共同企業体 1回落 140,000,000 円
【指名 1 社】 扇精光(株)・(株)三基竹松遺跡(路線)特定埋蔵文化財発掘調査共同企業体


指名が1社での制限付一般競争入札という仕組みが私のような凡人には理解が難しいが、その事業によっておそらく50名から100名程度の雇用が創出される事になるだろう。

長崎県内の冷え切った求職環境にとっては、とても好ましいことだと私は思う。

九州新幹線の予定路線区域の発掘調査で、5000平方メートルの広さの区域という事だから、私たちがアルバイト作業員として6月から使ってもらっている竹松遺跡の発掘調査現場の半分の面積になる。

来年の3月14日までの契約期間となっているので、私たちが使ってもらっている竹松遺跡の発掘作業とほとんど同じ期間で発掘調査が実施される事になる。

竹松遺跡周辺の昼間の人口が、また増える事になるだろう。

扇精光株式会社といえば、長崎県内では随一の優良な測量設計会社である。

測量機器やパソコンなどの販売なども行なっており、関連する様々な分野の優秀な技術者を多数擁している。

扇精光株式会社の事業開発室が、諫早市津久葉町の長崎ソフトウエアセンターの建物の中にあった頃、航空写真測量の実務指導をして欲しいと依頼されて、阪神淡路大震災の発生する前の年からその年にかけて1年間ほどお世話になった事がある。

航空写真測量の撮影計画の立て方、空中三角測量のための新設標定点の配置位置の選定方法、対空標識の設置方法、簡易水準測量の実務、現地調査の実務、解析図化機を使っての細部図化作業の実務、編集作業の実務など、航空写真測量による地図作成技術に関する一連の流れを指導させてもらった。

写真測量の分野においては、最近の10年間ほどの技術革新は急激で、20年ほど前の技術と比べると夢のような便利さへと変貌している。

パソコン上で稼動するデジタルステレオ図化機の出現によって、容易に地上の三次元座標が取得できるようになった。

内部定位、相互標定、対地(絶対)標定という手順を経てステレオモデルを復元し、そのステレオモデル上で三次元データを取得する際に、取得するそれぞれの地物等に、画層(レイヤー)、線種(スタイル)、線色(カラー)、線の太さ(ウエイト)という属性を設定できるので、後々のデータの利活用の中身が多様化できるようになった。

アナログ式図化機による細部図化の時代と比較すると、まさに夢のような図化機の出現であり、デジタルカメラによる画像データを直接取り込んで作業が出来るので、撮影フィルムの現像などという手順が省略できるようになり、経費的な面や工程的な面での縮減に寄与している。

遺跡の発掘現場における遺構の三次元データの記録保存のためには、現在のデジタルカメラとデジタルステレオ図化機を用いる方法によれば迅速で正確な正射影データの取得が可能であるが、竹松遺跡においてはそのような技術は活用されてはいないようだ。

平成24年度九州新幹線西九州ルート(長崎ルート)埋蔵文化財発掘調査委託業務という名称の公共事業によって、6月からの分も含めて、合計で300人近い失業者の雇用が創出される事になるものと思われる。

地場産業の少ない地方においては、公共事業がらみの事業が、多くの地域住民の生活の糧を提供してくれることに繋がる。

ありがたいことだと思う。

本日の大村市竹松遺跡の発掘アルバイト作業は、台風の影響による雨のために休みだった。

8月は天候障害も無く、満勤出来るかもしれないと思っていたが、自然の気象状況には抗う(あらがう)ことは出来ない。

私たちは、気象状況制限付一般無競争作業に従事させてもらっているアルバイト作業員である。



豊田一喜
















湖州六花紋鏡(こしゅうろっかもんきょう)

2012年08月27日 | インポート
大村市竹松遺跡の発掘現場で、先週の金曜日に掘り上げられた鏡の正式名称は、「湖州六花紋鏡」(こしゅうろっかもんきょう)というのだそうだ。

本日は午後3時30分より、月に一度の安全講習が作業員の休憩棟であった。

その講習の終わりごろに、先週の金曜日に掘り上げた鏡について、調査員の方が説明してくださった。

中国の宗の時代に製造された「湖州六花紋鏡」が、日本の鎌倉時代に宗の国から伝来したものではなかろうかという調査員氏の見解だった。

その当時は、陰陽道(おんみょうどう)による占いに用いるために、鏡は多用されていたそうだ。

ずっと以前の毎日新聞の日曜版の小説で、安部清明(あべのせいめい)という陰陽師(おんみょうじ)を題材にしたものがあった。

その小説を読んで以来、陰陽師(おんみょうじ)や陰陽道(おんみょうどう)という言葉に興味を持っていたが、アルバイト作業先の職場でその言葉を聞く事になるとは思ってもいなかった。

調査員氏は、その鏡がそこから出土した背景等に関して、これからの発掘成果も含めて考察して行くことこそが考古学の本質であると言っておられた。

これからの発掘作業において出土するであろうかすかな手がかりから、推理し、分析し、蓄積してきた知識を総動員して結言を導き出すという事になるのだろう。

最終的な報告書を読ませてもらう楽しみが出来た。

既に700年から800年前の土層まで掘り下げているという事になるのだろうし、一部の発掘区域においては既に縄文、弥生時代の土層まで掘り下げている所もあるらしい。

今後において、どのような手がかりの遺物や遺構が出てくるのか、とても興味深い。



豊田一喜








早起きは三文の得(徳)

2012年08月26日 | インポート
朝の6時より、千鳥川左岸の堤防の法面に作られている花壇の除草作業に出た。

つつじの木が60cm間隔ぐらいに植えてある花壇で、4月に町内会総出で除草作業をしていたのだが、雑草が50~60cmぐらいの丈になるまで生長していた。

今回の除草作業は、水田の耕作組合が主体となって行なう除草作業という事で、水辺の環境整備の一環として補助金が出るということ。

総勢15名での除草作業だったが、前日に雑草の根元に散水してくれていたので簡単に草をかがることが出来た。

草の中に作っていた腰切れ蜂の巣を、町内会長さんが私のために取っておいてくれた。

ヤマメ釣りの餌として蜂の幼虫は使う事が出来るが、町内会長さんはヤマメ釣りが私の趣味であるという事を知っている。

貰って帰った蜂の巣は、ビニール袋に包んで、蜂の幼虫が羽化しないように事務所の冷蔵庫にしまった。

除草作業は予定通りに2時間ほどで完了した。

補助金が出るので、1時間当たり1000円の報酬がもらえるとのこと。

思いがけず、2000円分の仕事をした事になる。

1000円床屋に2回は行く事が出来る金額を稼いだ事になる。

早起きは三文の得(徳)ならぬ早起きは2000円の得となった朝だった。



豊田一喜









休養日

2012年08月25日 | インポート
朝も遅くまで眠っていられる仕事が休みの日の一日は、何となくぼんやりとした時間の過ごし方になる。

本能のおもむくままに惰眠をむさぼり、何か食べたい時に食べ、何をするでもなくうろうろとしていると、あっという間に昼になってしまう。

小屋で飼っている猫の「もえ」ちゃんと語らい、家の脇を流れる千鳥川の川藻の間で泳いでいる小魚たちを眺め、畑のイチジクの実の熟れ具合を確かめたりと、時間に追われることなく過ごせる贅沢な時がゆったりと流れてゆく。

それも、普段の緊張できる時間があればこそ味わう事が出来る、弛緩した精神の状況下における至福の時となる。

午後は体のおもむくままに昼寝をし、飽きるほど眠って目が覚めてからパソコンでニュースなどを読む。

そうこうしているとあっという間に午後4時ごろになり、外に出て日陰になった庭を歩いてみる。

今年は庭の柿の木の実が、地面にたくさん落ちている。

鈴なりになっていた青い実のうちのかなりの数が、コンクリートの地面に落ちてしまっている。

何かの自然災害に備えて、種を保存するための対処のためなのだろうかなどと思ったりもする。

最近はずいぶんと長い間、私たちが住んでいる地域では台風の直撃は受けてはいない。

できれば永久にそうであって欲しいとは思うが、なかなかそういうわけにも行くまい。

夕方になり、妻が職場の研修で雲仙に出かけているので、夕食の仕度をする。

きょうもまた、簡単に出来るマカロニサラダを作ってみた。

熱湯をくぐらせた玉ねぎのスライス、塩でもんだキュウリの薄切り、ソーセージ、手でちぎったレタス、塩を一つまみ入れて4分間茹でたマカロニを、混ぜやすいように鍋に入れてから、マヨネーズ、甘酢、めんつゆを加えて和える。

それで完成。

作り置きしてあったゴーヤの炒め物を冷蔵庫から出し、朝のみそ汁の残りを暖めて、ご飯をつぐ。

仕事が休みで図書館に行っていた息子も丁度帰ってきたので、母と3人で夕食にした。

何となくゆったりと流れた、取り立てて何もしなかった休養日だった。


豊田一喜


六花鏡の出土

2012年08月24日 | インポート
3日ほど前から、大村市竹松遺跡の発掘現場で、鏡の一部が掘り出されつつあるという話を聞いていた。

現場で見たら、現代の鏡の様に私には思えた。

その鏡の表の面は、昨日までに全貌を現していた。

梅の花の6枚の花びらをかたどったような形状で、普通に光っていた。

その鏡の裏側には、もしかしたら紋様や文字が彫りこまれているかもしれないと調査員の方が言っておられた。

2日ほど前に、その鏡の近くで会話をされていた調査員の方たちの話し声が耳に入った。

おひとりの調査員の方が、鏡に緑青が付いていないので比較的新しい年代のものではなかろうかという見解を述べられて、それに対して別の調査員の方は、緑青が付いていなくても古い年代だった鏡の出土例もあるというような見解を述べられていた。

それぞれの調査員の方の蓄積された知識に基づく、いろいろな用語や地名が会話の中に登場して興味深い。

いろいろな学問の基礎は、基本的な事柄の記憶から始まるのだと思うが、考古学の基本はまさに膨大な記憶の蓄積なのだろうなと思った。

他の場所では若い調査員の方が、ピットから出てきたオレンジ色の土の塊に付いている溝状のものを見て、壁土などを補強するために土の中に組み込んでいた竹か木の痕跡であろうという事を言っておられた。

アマカワという言葉を20年以上前の長崎市興善町遺跡の発掘現場で教えてもらった事がある。

土管などの継ぎ目などの水漏れを防止する為に、そのアマカワを塗って固めるのだという。

オレンジ色のしっくいのような、現在のコンクリートのような役目のもので、竹松遺跡のピットのひとつから出てきたものとよく似ていた。

柱跡と推定される穴から出てきたので、柱の基礎を安定させて、土中の木材の腐食を予防するために用いられていたアマカワではなかろうかと思った。

また、掘っ立て柱建物跡の柱が立っていたと推定されるピットからは、土の年代測定のための試料(サンプル)を少しだけ掘り出してビニール袋に入れておられた。

私たちは指示されて、そこの位置の三次元座標を取得するための測量を行なった。

本日は、その六枚の花びらをかたどったような鏡を掘り出すという事だった。

作業が終了する4時半頃にその掘り出し作業は始まった。

調査員と作業員の合計10名ほどが見守る中でその作業は行われた。

調査員の方が、鏡の本体を慎重に土からはずし、その鏡の裏側になっていた土を、小さなバールを金槌代わりに使い、平コテでその土を器用に剥ぎ取って、崩れないようにして慎重に、底に綿のような物を敷き詰めたプラスチック製のタッパーに保管されていた。

正確かどうかは判らないが、聞く所によるとその鏡は13世紀ごろのものではないかということだ。

終礼の時に県の方から、その鏡を来週には展示して見せてくれるという説明があった。

六花鏡(ろっかきょう)というらしいが、県の方がかなり喜んでおられたようなので、出土物としてはかなり貴重な物なのだろう。

来週の現場での楽しみが出来た。



豊田一喜













通り雨のために退避

2012年08月23日 | インポート
大村市竹松遺跡の発掘現場では、昨日も今日も、午後4時より少し前から雲行きが怪しくなり、間もなくしてから土砂降りの雨が降った。

昨日は大雨の前兆として雷の音が聞こえ出したので、大雨になる事態を見越して早目に退避し、早めに休憩棟の中での終礼があって解散という事になった。

作業員の方々が各自の通勤車に乗り込んで車の出番を待っていたら、その直後から大雨が降り出したので、車通勤の作業員の方々は雨に濡れることも無く帰路につく事が出来た。

作業員の帰路の通勤車輌の誘導をしていた調査員の方々の中には、雨にぬれながら誘導をしていた方もおられたようだった。

自転車やバイクで通勤されている作業員の方々は、タイミングが悪く、帰路につき始めた頃から大雨になり、びしょ濡れになられたはずだ。

昨日は、雇用主の適確な判断で、土砂降りの通り雨を、作業現場では回避できた。

本日も3時の休憩時間のあと頃から、西の空の雲行きがあやしくなり、早めの現場からの退避の指示があったが、退避の準備をしていた時に、南の方角からの雨雲が急接近して、発掘現場はまたたく間に土砂降りの大雨に包まれた。

休憩棟へ荷物などを運んでいた作業員のほとんどはびしょ濡れになっていたが、休憩棟に戻ってしばらくしたら通り雨は通過し、お日様が見えるようになっていた。

全員そろっての終礼は行なわれず、外や休憩棟でハンドマイクによる解散の指示があり、それぞれの作業員がが帰路についていた。

調査員や作業員の中の一部の人たちは、通り雨に全然濡れてはいなかったが、その人たちは現場の中の休憩用テントの中に一時退避していた人たちだった。

通り雨のために、早めに現場を退避した2日間だったが、それぞれの結果は違った形になった。

この季節だから、びしょ濡れになっても健康上への影響はさほど無かったことと思うが、このような事象が冬などの寒い季節にあったならば、結構きついだろうと思った。

一時的ではあったが、少しまとまった雨が降った地域もあった様で、恵みの雨に感じられた人もいたものと思う。

このような事を繰り返しながら、季節は秋に染まって行くのだろう。

もう少しすれば、炎天下での作業を懐かしく思い出すような気候になって行くのだろう。



豊田一喜







「幻の芋 くりまさり」焼酎

2012年08月22日 | インポート
昨日、姉の家族4人と妹の家族3人の合計7人で、関東の方から、墓参りなどを兼ねて尋ねてきてくれた。

昼間は大村市竹松遺跡の発掘アルバイト作業員の仕事をやらせてもらっているので、墓参りに同行する事はできなかったが、夜の食事は共にする事が出来た。

妹の息子と娘に会うのは、かなりの年数ぶりで、特に甥の方は身長が私よりもずっと大きくなっていて、顔立ちは若かった頃の妹にそっくりで、勤めから帰ってきた妻などは、久し振りに見る甥を私の妹かと思ったというほど妹に似ている。

産直品売り場のアルバイトをしながら通信制の高校3年生をやっている18歳の彼が、そのアルバイトで稼いだお金で、「幻の芋 くりまさり」焼酎という720ml入りの焼酎を、私にお土産として持って来てくれた。

その甥の心遣いが、何よりも嬉しかった。

「幻の芋 くりまさり」焼酎の説明書きには以下の様な表示になっている。

「栗より味が勝る」とされることから「くりまさり」と称され、江戸時代から神奈川県平塚市大野地区で栽培されてきましたが、栽培が難しく生産量が減少しました。

市場にはほとんど出回る事の無い幻の芋を絶えさせてはいけないーーーーそんな想いが詰まった深みのある幻の芋焼酎「くりまさり」をご賞味下さい。

となっている。

販売元が平塚酒販協同組合となっており、製造元は長野県佐久市の芙蓉酒造協同組合となっている。

今度の金曜日の夜には、甥の心遣いをじっくりと味合わせてもらおうと思っている。

その甥が、小学生の頃に家族で我家に遊びに来てくれた事がある。

家の裏の千鳥川で、ふたりで鮒釣りをして遊んだ時に、甥の竿に大きい鮒がかかった。

小さかった甥は、その大きい鮒に水中で程よく遊んでもらい、一生懸命に取り込もうとしたが、竿のしなりと鮒の重さで上げる事が出来ない。

「おじさん、僕には無理です」と言って私に竿を渡して、その鮒を釣り上げた時の情景が、今でも記憶に残っている。

甥は訳あって通信制高校で勉強する事になったが、その18歳の甥が私よりも大きくなって、自分で働いて稼いだお金で、私にと、お土産を買って来るという心遣いができるようになっている事がとても嬉しくもあり、そのように成長してくれていることに安心もした。

妹の娘である21歳の姪は、お人形さんのような長い付けまつげをしていた。

その長い付けまつげをしないと人前に出る事はできないといっていた。

自まつげでも普通の人よりも長めのまつげで可愛いので、22歳になるまでにその付けまつげをしないでも人前に出られる事が出来るように努力しようねと約束をした。

お酒好きだった義兄は、糖が出ているという事で、元看護婦の厳しい姉の食事制限の管理下にあり、お酒は一滴も飲まなかったが、妻が朝の出勤前に作っておいた手作りの饅頭を3個も食べたと嬉しそうに語っていた。

姉と妹は、我が家の母親の血統を忠実に引き継いでいるらしく、2人とも私と同じように、会うたびに横方向に寸法が伸びている。

お互いに気をつけようねというしか言葉が見つからない。

姉の娘である姪は、看護士の仕事をしており、カロリーゼロという表示の炭酸飲料などの表示について説明してくれた。

5キロカロリー未満のカロリーの含有量であれば「カロリーゼロ」という表示が許されているのだという事を教えてくれた。

姉の息子である甥は、今回はレンタカーの運転手役で、大村空港から長崎市内のホテルや義兄の実家の諫早市や私たちが住んでいる雲仙市などに移動する際に、7人分の命を預かる大役を引き受けていた。

姉の家族は、私たちの家族と違って、色々な海外暮らしの経験がある。

甥も、イギリスでしばらく1人暮らしをしていた事がある。

義兄の仕事の関係で、家族でインドネシアに暮らしていたこともあるし、義兄はフィリピンで、姉はネパールで暮らしていたこともある。

私はといえば、海外旅行など一度も行った事がないし、行こうとも全く思わない。

若い頃に、航空写真測量の仕事で、サウジアラビア、フィリピン、インドネシア、ペルー、インドの国の基本地図となる縮尺2万5千分の1の地形図の作成作業の末端で働かせてもらったこともある。

日本国の開発途上国に対する国際援助の一環としての政府開発援助により、日本の国内の大手航空写真測量会社が受注した、それぞれの国における基本地図作りの作業として、現地での基準点測量、対空標識の設置、簡易水準測量、現地調査、測量用の航空写真撮影などの現場作業の成果を使い、日本の国内で地図化する仕事をやらせてもらった事がある。

航空写真とその現地関連資料により、航空写真測量用の精密立体図化機の中で、海外の地理や地形を三次元の立体空間として認識する事が出来る。

そのような三次元空間の投影像を見ながら仕事をしていると、あたかも自分がその地へ行った事がある様な心持になる。

そのせいかどうかは分からないが、金銭的に余裕がないこともあり、海外旅行をしてみたいなどと思った事は一度も無い。

日本の中でも、四国と沖縄には行った事が無い。

狭い行動範囲の中で暮らせていれば、それで充分だと思える。

本日の夜の8時頃には、姉の家族と妹の家族は、無事に東京の八王子市と神奈川県の平塚市に着いたという連絡があった。

貰ったお土産のお返しは、諫早市森山町の草野菓子屋さんで作っている「あげまきもなか」と「まるぼーろ」にした。



豊田一喜














夜明け前のオリオン座

2012年08月21日 | インポート
夜明け前の午前3時頃に、東の方角の空を眺めると、雲仙普賢岳の上空の、比較的低い所にオリオン座が輝いている。

周辺の4つの大きめに輝いている星と、その中央付近に、丁度地面に対して垂直に見えるような配列で、縦に3個の小さめの星が輝いている。

オリオン座は、ギリシア神話の優秀な狩人オリオンの姿を表したものだそうだが、今頃の夜中の3時頃には、横に置いた鼓(つづみ)のように私には見える。

地球から見れば無限遠と見做してもよいような位置に、それぞれの星は存在しているのであろうし、またそれぞれの星相互の位置関係も、気の遠くなるように離れた位置関係にあるはずだ。

だけれども地球から見れば、地球の自転によって、ほぼ北極星を中心にして回転しているようには見えるが、その星たちの相互関係はいつ見ても変わりはしない。

大昔の人たちは、そのような星たちの配列の星座に、人の形や動物の形や物の形などを当てはめて親しんできた。

そのような星座の中で、私が知っていてすぐに見つける事が出来るのは、オリオン座と、Wの形をしたカシオペア座と、ひしゃくの形をした大熊座の北斗七星と、そのカシオペア座と北斗七星との相互関係から見つける事が出来る北極星ぐらいなものだ。

その中でも北極星は、地球から見れば、ほぼ極北の無限遠と見做してもよいような位置に存在するので、地球の自転や公転によってもほぼ動くことも無く、ほとんど同じ場所にいるように見える特異な星である。

正確に言えば、地球の南極から北極を結ぶ延長線に対して、視半径で1度ぐらいの角度は動いているということ。

北極星を望遠鏡で捉えて、その望遠鏡を固定していれば、1点(極北方向)に固定している星ではなくて、時々刻々と北極星の位置が少しずつ動いている事を確認できる。

また、北極星と一般に呼ばれている星は、1つの星に対する呼称ではなくて、5000年とか1万年とかいう時間のうちに、極北方向に一番近くなる異なる星に対する呼称である事が調べてみてわかった。

以下はインターネットで公開していた北極星に関する知見。

北極星(今は、こぐま座のポラリス星)は、季節に関係なく昼でも夜でも地軸の北方向延長線上にあって北半球で夜になれば街中でも(たぶん)見つけることができます!

これはポラリス星が約400光年も離れたところにあって、地球が公転し太陽の周囲程度の位置ではほとんど角度が変わらないほど離れているからです!

車などで走っていて道沿いの景色は流れていくほど変わるのに遠くの山が見えなくなるには相当の距離を移動しなければいけないのと一緒です。

ただ、地球にも歳差運動(首ふり運動やコマ現象)というのがあって、徐々に北極星の位置は変わって行きます。

約五千年前は「りゅう座のトゥバーン」でしたし、今後一万年以上経てば「こと座のベガ」が天の北極に近いです!

まぁ今は「こぐま座のポラリス星」にメッチャ近い方向を地軸が向いていますので、よほどの天文現象がない限り今地球上の人達が北極星の位置が変わっていく様子は見れることなく死んでしまうでしょうから確かめようがないですが…

ということのようだ。

北極星は、特殊な測量で使うこともある。

以下は、測量専門学校国土建設学院で天文測量を教えて頂いた恩師安藤五郎先生が、天文測量の授業用に執筆された「天文測量」という冊子に記載されている文章の一部抜粋。

視通障害が多く又その除去が困難になった最近の平地部で多角測量のための与方向角が得られないことはしばしば経験することである。

このようなとき、トランシットと腕時計・ラジオがあれば簡単に方向角を得ることができる。
(方向角=方位角+真北方向角)

以上は一部抜粋した説明文章。

その冊子が作られたのは1971年3月となっている。
50年以上前に書かれたものだ。

要するに測量では、未知点(基準点)の座標値を求めるための基準点測量である多角測量の与点となる基準点において、方向の基準となる基準点が必要であるが、そのような基準点が多角測量の出発基準点や終着基準点において視通できない場合に、北極星の方位角観測という天文測量によって、出発基準点や終着基準点の方向角を求める事が出来るということである。

測量専門学校に通っていた秋頃の季節の夜に、学校に集まって、北極星の方位角観測の実習があった。

各班別に、JJYというラジオの時報を聞きながら、トランシット(測角儀)の望遠鏡の十字線の交点で、北極星を捉えた瞬間の時刻や方向取り付け点との水平角等の必要観測数値を記録する。

そのようにして記録した数値を基にして方位角を計算し、提出成果品としたものが、卒業時に各自に返却され、その返却されたおよそ40年近く前の実習成果品が今でも手元にある。

測量士の国家試験に合格するまでは、実家の長崎には帰らないという誓いを立てて、18歳の時に東京の測量専門学校に旅立って、一生懸命に勉学に励んでいた頃の記録品でもある。

16歳の高校2年生の時に、測量士補の国家試験には合格していたが、測量士の国家試験は17歳の時から毎年受験し、4回目の挑戦である20歳の時に、やっと合格する事が出来た。

測量専門学校を卒業してから、公共測量などの実務経験が実質2年以上あれば、国土地理院への申請により測量士の資格を得る事はできる仕組みにはなっていたが、自分としてはそのように安易な方法での資格取得では納得できないと思っていた。

測量士の国家試験の受験資格は、年齢、性別、実務経験などの制限は無く、日本国籍を有していること、禁治産者等ではないことというぐらいで、ほとんど誰にでも受験資格はある。

測量という仕事を、自分の生涯の仕事と決めていたので、もらい物のような資格の取得は本意ではなかった。

だから国家試験による測量士の合格という事にこだわった。

要するに、諸般の事情にて測量専門学校で学ぶ事が出来ない人たちと、同じ土俵の上で測量士になりたかった。

測量士の国家試験に合格したので、田舎を出てから2年半たった頃の秋に、誓い通りに初めて帰省した。

諫早からは島原鉄道に乗り、愛野駅で降りて荷物を下げて徒歩で実家に帰ったが、帰る時刻を父には伝えていた。

自宅が視野に入る頃から、父親が待ち遠しそうに、庭先に出て自分の方を見ているのがわかった。

誇らしくて、嬉しくてたまらない帰省だった。

59歳で他界した父親が49歳の頃の出来事。

夜明け前のオリオン座から、38年前の出来事まで連想してしまった。



豊田一喜













炎天下を好む理由

2012年08月20日 | インポート
炎天下で作業をさせてもらえる事がとても楽しく思える。

理由は簡単である。

お金を貰いながら日光浴が出来るから。

ずっと以前に体の調子が芳しくなくて、病院に行ってレントゲンを撮られた事がある。

体のどこの具合が芳しくなかったのかは忘れてしまった。

若かりし頃は、パンチパーマをかけて、着る物といえばどこに出かける時もブルゾン風の作業服の上下を着ていた。

一般的には、絶対に肉体労働者だと思われるような風体をいつもしていた。

そのような頃に医者に行った。

そのレントゲン写真を見て、医者としての経験が豊富と思われるような医師は私に言った。

「あなたは部屋の中の仕事を長くしているでしょう」と。

どうして分かるのですかと尋ねると、「骨がスカスカで女性の骨のようですよ」と言われた。

男性がそのような骨になるのは、日光にあまり当たらない仕事をしている場合が多いのだと言う。

見事に言い当てられてしまった。

その当時は、自宅の別棟の事務所まで、歩いて10秒もかからないような距離を歩き、仕事は部屋の中にこもりっきりで、航空写真測量の精密立体図化機で、自治体などが使う地図の原図を図化する仕事を生業としていた。

ほとんどお日様に当たる事の無いような毎日だった。

熟練した医者の眼力に、感心してしまった。

その時に、毎日20分間の日光浴をするように心がければ、スカスカの骨の密度は改善されて健康体になれるというアドバイスを受けた。

その頃より、生活の中で、極力お日様に当たる時間をとるように努めた。

今の大村市竹松遺跡のアルバイト作業では、お金を貰いながら、日光浴が長時間できている。

楽しくないわけが無い。

また、お日様に当たりながら仕事をさせてもらっているので、体のあちこちにまとわり付いている脂分を燃焼できているような気分にもなれる。

炎天下で動き回ると、熱中症になる可能性があるというが、充分な睡眠と、適度な水分補給と、塩分補給を心がけていれば、ほとんど心配しなくてもよいような体に生んでもらっている。

私にとっては、作業をさせてもらいながら、日光浴もさせてもらっているという感覚で臨んでいる。

体重も減らす事が出来て、骨も丈夫になれて、お金ももらえる。

縁あって、こんな素敵な仕事に就く事が出来て、幸せに思える日々を送らせて貰っている。

直前の他社の面接試験で、落としてくれた面接官にも感謝したい。



豊田一喜








夏休み

2012年08月19日 | インポート
9日間という、大村市竹松遺跡発掘アルバイト作業員としてのお盆休みが過ぎようとしている。

過ぎてみれば、あっという間の9日間だったように思える。

大人になってから初めて、夏休みのような日々を過ごさせて貰う事が出来た。

小学生の頃の夏休みには、お寺の庭に集っての朝のラジオ体操から始まり、セミ採り、カブトムシ・クワガタムシ採り、川遊び、ムツゴロウかけ、ハゼ釣り、アゲマキ採り、シシ貝採りなどの遊びで毎日が忙しかった。

宿題の夏休みの友などは、そのうちにやればいいさというぐらいの気持ちで、ほとんど手付かずのままで8月の下旬を迎えるのが毎年のことだった。

油蝉の鳴き声が聞こえるようになる頃の夕方には、夏休みの友もやってない、夏休みの作品も作っていないことにあせりを感じ始め、「よし、あしたから取り組もう」と思いはするのだが、その日になるとまた、「よし、あしたから取り組もう」という風に考える、自分に非常に甘い自分がいた。

そのようにして、40日間近くはまたたく間に過ぎて行っていたように思う。

そしていよいよ8月の30日や31日になると、泣きべそをかきたい様な気持ちで夏休みの友などの宿題と向き合い、親に手伝ってもらって何等かの夏休みの作品を作っていた。

9月1日の登校日が、金曜日や土曜日の場合には、学校の先生も心得たもので、そのような夏休みの宿題の提出期限を翌週の月曜日までという事にしてくれていた。

そのような時には、土曜日の午後や日曜日に、必死になって宿題をしなければならないような子供時代だった。

今回の9日間の「夏休み」の間にも、しておきたい事が山の様にあった。

事務所や自宅の壁のペンキ塗りもそのひとつで、休みの前に愛野町のナフコに行って、1斗缶入りのペンキと塗装用具を購入していた。

子どもの頃の自分と同じ自分がいた。

「明日からしよう」という自分に非常に甘い自分がいて、諸般の用事(昼寝なども含む)に時間を取られてペンキ塗りは出来なかった。

9日間のうちの1日は、魚釣りにも行きたかったが、それも出来なかった。

2ヶ月に1回の、病院での診察と薬もらいには行って来たので、とりあえず健康管理の面の準備は出来た。

そのようにして、大人の「夏休み」は、あっという間に終わってしまった。

明日からはまた、炎天下での楽しいアルバイト作業が始まる。



豊田一喜







久し振りの裁縫

2012年08月18日 | インポート
久し振りという言葉が頭に付くタイトルの日記が2日間も続くと、大村市竹松遺跡のアルバイト発掘作業員の中の約1名は、そろそろかなという思いでおられたかもしれない。

そうです。

やっと、そのそろそろという事になりました。

この事は、私とその人にしか分からない話。

諸般の事情で忙しくて、なかなか裁縫をする時間が取れなかったが、先週の木曜日にほころびた作業ズボンを繕うために、きょう久し振りの裁縫をした。

6月の初めに、腰に下げる携帯用のお茶入れケースを作るために、安全帯のフックを入れる袋にマジックテープを縫い付けて、そのケースからお茶のペットボトルが落ちないような加工を施した。

その時に裁縫をしたが、そのとき以来の裁縫だった。

作業ズボンの右足の内側が、20cm程度ほころびていたので、その部分を本返し縫いで縫う事にした。

最初の関門は、針穴に糸を通すことだった。

一回目と二回目は不通で、三回目にやっと通す事が出来た。

高校生の時にやっていたスポーツのせいで、太ももが普通の人よりも少し大きめで、ズボンがほころびやすいので、サイズが大き目のズボンを購入するようにはしている。

典型的な胴長、短足の体型なので、長さがかなり余り、ズボンの丈を合わせる時にカットする分量がかなり多い。

それでも、両手も両足も普通に動くので、そのような健康体で生んでくれた親には感謝している。

ズボンの太ももの内側は、しゃがんだりすると突っ張ってほころびやすい。

だから、二重糸で縫う事にした。

小学校の高学年の頃の家庭科の時間に、裁縫と調理の事を少しだけ学んだ。

裁縫では、ミシンの使い方や色々な手縫いでの縫い方や刺繍の仕方を教えてもらった。

私たちの組の担任教師は男性だったので、その当時、独身で気性が荒いといわれていた隣の組の担任の女性教諭O先生が家庭科は教えてくれた。

うわさでは厳しい先生だというように聞いてはいたが、家庭科の授業では優しい先生だった。

布の縫い方の基礎を習った後には、暖簾(のれん)を各自で作る事になった。

布地の購入から各自でしなければならなかった。

当時の愛野町には三軒の呉服屋さんがあったが、そのうちの一軒は同級生の女の子の家だったので、その店で布地を購入する事にした。

暖簾にクレヨンで絵を描いて、それをアイロンの熱で定着させるという方法で仕上げるという事になっていた。

だから、暖簾にどのような絵を描くのかという事から決めておかねば、どのような色の布地にするのかは決められない。

夏の季節に合うように、涼しげな海の海藻の間を、熱帯魚が泳いでいる絵にしようと決めていたので、青に近い水色の布地を購入した。

暖簾として裁断し、必要部分を手縫いしてからクレヨンで熱帯魚と海藻の絵を描き入れた。

それをO先生の所に持って行くと、アイロンを先生が当ててくれて、描いた絵を布地に定着させてくれた。

そして描いている絵をほめてくれた。

調理実習では、ほうれん草のバターいためを作り、味噌汁も作り、ご飯も炊いた。

そしてそれをみんなで食べた。

多分おいしかったと思う。

そのようにして教えてもらった事柄が、その後の自分には非常に役に立っている。

中学生の頃からの農繁期における夕飯の準備係の時に役に立ったし、東京の測量専門学校に通う時の自炊の時にも役立った。

今思えば、義務教育の期間に教えてもらったことや高校生の時に教えてもらったことは、もっと真剣に貪欲に学んでおけばよかったとつくづく思う。

英語などがその典型例である。

単語のスペルと発音と意味を覚えているだけでも、役に立つ場面が、かなり多く現れる。

今からでも遅くは無いとは思うが、残念ながら記憶力の箱のフタが少し開いているらしく、覚えた事はその箱の中から次々に蒸発して流出して行くように忘れて行く現状である。

家庭科や技術家庭の授業には、比較的真剣に臨んでいたので、その後の人生の色々な場面で役に立っている。

作業ズボンのほころびを、小学生の頃に習った本返し縫いで丁寧に繕いながら少し楽しめた、久し振りの裁縫だった。

8月20日から再開される、竹松遺跡発掘アルバイト作業員としての作業用ズボンの準備はできたが、少し油断していたら減り始めていた体重が元に戻りつつある。

明日は、お日様の下で体を慣らしておこう。




豊田一喜














久し振りの役場

2012年08月17日 | インポート
久し振りに雲仙市役所愛野総合支所(旧愛野町役場)に行った。

愛野町と書いて、正しくは「あいのまち」と読む。

近隣自治体と県に騙されて合併した雲仙市愛野町ではあるが、ここに生まれ、ここで育ち、ここに帰ってきた者としてはここで暮らして行くしかない。

ド田舎の役所ゆえ、ちょっとした書類を取るのにも平日にしか処理してもらえない。

都市域の役所では休日でも処理できる事が、雲仙市役所では平日にしか処理できない。

その処理できない理由をうまく考えている。

前もって伝えてもらっていれば郵送にて処理することも出来ますよという。

明らかに首長と役場職員と、議会議員の、公的機関とはなんぞやという意識の希薄さに起因するものと思われる。

自分たちの休日を基準にして公共的なサービス業務を考えている。

そこには、公共的なサービスを受ける勤労者世帯の一般住民の生活スタイルに関する配慮は皆無である。

市内で徴収できる税金のほとんどが、役所職員の給料として消費されている。

既得権益という言葉があるが、それを最も日常的に享受しているのは役所職員と議会議員である。

明治維新の近代的な国家建設時から連綿と続いている官僚主導の政治によって、じわじわと巧妙に、形式的な議会というフィルターを通すことによって引き上げてきた公務員の給与体系によって、高額の報酬という既得権益を享受し続けている。

役所職員のやっている仕事に対する対価が高額すぎる。

民間企業では業績が低迷して企業の収入が減ると、給料を引き下げたり、人員整理をするなどして組織体としての企業の存続を図る。

役所や議会議員は全く違う。

どのように自治体の財政状況が悪かろうとも、職員や議員の報酬を引き下げようとはしない自治体が一般的である。

極論ではあるかもしれないが、全国の自治体が夕張市のような財政再建団体になってしまわなければ、この国の公務員天国は解消されないのかもしれない。

公務員改革を真剣に考えて実行できる政治組織が政権を取らなければ、何も変える事は出来はしない。

きょう、雲仙市役所愛野総合支所の庁舎に入ってまず感じた。

薄暗い。

節電をしているのだろう。

末端の役所職員の方々は、そのようにして節約を心がけている。

そのような経費の節約はしないよりはした方が良い。

しかし、根本的には給料そのものの受給体系を変えて行かなければ何も変わりはしない。

生活スタイルも物価も違う中央の公務員の給与体系に、何でド田舎の役所職員や議会議員までもが合わせる必要があるのだろうか。

その必然性は全く無い。

合併特例債という巧妙な借金を使わせる事によって、合併した自治体の財政状況を悪化させ、その行き着く果てはさらに大きな地域での合併をしなければ自治体が立ち行かなくなるという流れを作りあげて行くのであろう事は容易に推測できる。

たまたま平日に、アルバイト作業が休みだったから必要な処理が出来た。

普通に生活する空間としては、ド田舎の雲仙市は非常に良いところではあるが、こと役所の公共的サービス業務に関しては、都市域と比べてド田舎そのものであり不便である。

このようなことも、役所職員の既得権益のうちのひとつであるといえる。

くそ熱い夏の夜の、アルバイト作業員のひとりごと。



豊田一喜








久し振りのマイクロステーション

2012年08月16日 | インポート
本当に久し振りに「マイクロステーション」を使ってみた。

マイクロステーションといっても、「超微細な駅」という意味ではない。

三次元データが扱えるCADソフトの名称である。

よんどころなき事情により、DXFという形式のCADデータを預かって、そのデータに少しだけ情報を加えて扱いやすいデータにするという作業を、趣味ですることになった。

DXFやDWGという拡張子が付くCADデータは、オートキャドというソフトで開く事が出来るし加工することもできる。

自分のパソコンにはオートキャド2000というソフトが入っているので、預かったデータを開いてみた。

開けた。

しかし、英語版なのでその後のデータ加工の操作手順がさっぱり分からない。

そこで、久し振りの「マイクロステーションJ」の登場となる。

マイクロステーションの日本語バージョンである。

データの拡張子は.dgn(ディージーエヌ)である。

説明書も表示も日本語なので、私にも理解できるし、実作業の仕事で使っていたので、ある程度は習熟できていた。

マイクロステーションで基本的なシードファイル(種ファイル)を指定して、作業単位などを設定し、ファイルを開けば作業環境が整った状態となる。

保有している写真測量のデジタルステレオ図化機が、マイクロステーションバージョンなので、必要に迫られて使いこなしていた。

ただし、そのソフトの豊富な機能のうちのほんの一部だけの、マッピング(地図作成)に必要な機能に関してのみである。

マイクロステーションの機能のほとんどを理解して使いこなせるようになるには、残された私の人生の時間を全てつぎ込んでも、私の能力では無理だと思う。

それほど多岐にわたる、いろいろなすばらしい機能を有しているソフトである。

マイクロステーションに限らず、キャドソフトには、様々な形式(拡張子)のデータがインポートできたりエクスポートできたり出来るようになっている。

マイクロステーションには、DXF形式のデータもインポートできるようになっている。

シードファイルを指定し、作業環境などを設定して、必要範囲の方眼線を座標値から描入した.dgnファイルを開き、預かっている.dxf形式のファイルを指定してインポートしてみた。

開いていた.dgnファイルの中に、そのデータは表示された。

線のウエイトやスタイルに関する情報は、一部において互換がうまくいっては無かったが、それはマイクロステーションの要素の属性の変更機能を使えば修復できた。

かくして、久し振りのマイクロステーションによる趣味の作業は、記憶を手繰り寄せながら、なんとなく楽しみながら行う事が出来た。

頭も体の一部も、使わないと退化する。



豊田一喜