日々雑感「点ノ記」

備忘録(心の軌跡)

竹の子掘り→竹林整備→畑の草払い

2015年04月26日 | 日記
私が管理している標高20メートルぐらいの所にある孟宗竹林の竹の子は、そろそろ終わりに近付きつつあるようで、近頃は真竹の竹の子が出始めたようです。

孟宗竹の竹の子は、太くてどっしりとした風貌をしていますが、真竹の竹の子は、やや細目のスマートな風貌をしており、竹の子の皮に斑点模様があるようです。

真竹と孟宗竹が混在している所もある竹山なので、3月の中旬頃から5月の下旬頃までは、竹の子掘りが楽しめます。

楽しめるといっても、元々は段々畑だった竹山なので、竹の子を探して掘るのは簡単なのですが、その掘った竹の子を袋に入れて、標高の高いところにある道路まで運び上げるのがかなりの重労働に感じます。

今年は、3月中旬以降、ほとんどの休日に竹の子掘りをして、体力の維持と体重の減量につとめておりますが、先週の土曜日に掛かりつけの病院に血圧の薬をもらいに行った時に体重を量ったら、2ヶ月前の前回よりも2.5kgほど減っておりました。

医者から、体重が減った要因はなんですかと問われたので、「竹の子掘りではないでしょうか。」と言ったら、そのお医者さんは、カルテに「竹の子掘り」と記入しておられました。

一通り手ごろな竹の子を12本ほど掘ったあとで、倒伏している枯れ竹を片付ける「竹林整備」の作業を行ないました。

この作業は、枯れて倒れ掛かっている竹を、適当な長さに手鋸で切断して、法肩のところに揃えて積み上げ、竹林の中の通行がし易いようにするための作業です。

本当は、竹の本数を一坪当たりに1~2本になるように間引きした方がよいのだそうですが、チェーンソウを持っていないので、それはあとからの楽しみに取っております。

枯れ竹を脇の方へ片付けるだけでもすっきりとなり、領土を少しずつ広げているような感じがして、知らず知らずのうちに汗をかいており、結構楽しめます。

とりあえず、本日はそのさわりだけの「竹林整備」をして、残りは連休中の楽しみに取っておきました。

全身を動かして作業をし、汗をかく事は、部屋の中でパソコンの画面を見てする作業がほとんどの日常である自分にとっては、心と体のバランスを保持していく上で、とても重要なことだと思っております。

竹林整備予行演習のあとは、「吾妻・愛野バイパス」の用地として買収された土地の、一部替地として取得した畑の「草払い」を行ないました。

赤土を客土してある畑で、2月の半ば頃に現地を見た時には、草は全然生えていなかったのですが、自然界の植物の生命力はすごい物で、1ヶ月ぐらいの間に畑の全面に満遍なく草が生えておりました。

平成27年3月9日に、必要書類を作成して長崎法務局諌早出張所に提出し、登録免許税の1000円だけで所有権移転登記が完了しましたので、私の土地になっておりました。

自分の土地になったのですから、近隣の農地に迷惑がかからないように、草藪にならないように管理しなければと思い、刈払い機による「草払い」を行ないました。

昨日も、近所の方の葬式への参列が終わってから、3時間ほど「草払い」をしていたのですが終わらなかったので、本日、その残りの作業を行ないました。

昨日の作業の際には、無防備にも、ゴーグルもマスクもせずに作業を行なった結果、赤土の微粒子が鼻の穴に入り込んでおり、メガネの表面にも赤土の土埃が付着しておりました。

その事を踏まえて、本日はゴーグルとマスクと、長靴の上には雪除け用の手甲の様なものを装着して作業を行ないました。

2時間ほどの作業で、繁茂している草の土中の根元から切断する除草作業が完了しました。

昨日の夕方に、知人からいただいたかぼちゃの苗を2本植えておいたのですが、それに水をやって、本日の畑の作業は終了しました。

のどかな日常を過ごす事ができて、幸せを満喫しておりますが、自分の意のままになる国だと勘違いしているおろかな指導者や政治屋さんたちが、そのような平穏で平和を堅持している我が国のあり方を変えようと画策しています。

戦争というのは、合法的な殺し合いであり、正しい殺し方も残虐な殺し方も関係なく、人が人として生きていく根本を否定する愚かな行為でしかありません。

受験競争や選挙運動で勝ち抜くような、勝ち負けの問題ではありません。

国際貢献で自衛隊を海外に派遣したいのであれば、ネパールの地震の災害援助に先頭を切って派遣すべきではと私は思うのですが。

アメリカの意向ではないので、そのようなことには積極的にはならずに、医療チームなどの派遣でお茶を濁すのでしょうね。

18歳から選挙権を与えるようにするのだそうですが、徴兵制への布石と考えるのも穿ちすぎた考え方ではないと私は思います。

選挙権を与えるのだからあなた方は大人なのですよ、だから国家のために命を賭して戦うのが当たり前なのですよ、と。

憲法改正の時の賛成勢力としての数の確保要員としての意味合いも強いように私は思います。

若くて血気盛んな純粋な人たちの多くは、アメリカからの押し付けの憲法だから改正すべきだとか、自分たちの国は自分たちで守る事ができるように軍隊を持ち、交戦権も有するようにしなければならないのだとか、というように考えるのではなかろうかという為政者たちの短絡的な期待。

過去の村山談話において、日本の戦後のあるべき姿は明確に表現されているのにもかかわらず、自分がどのように考えるのかを主張するなどと、過去の反省をなかった物にするがごとき発言は、せっかく日本が国際社会の中で築いてきた外交戦略の成果を台無しにしてしまうような愚かな発言だと私は思います。

過去の反省を踏まえて、現在と未来があるべきは当然過ぎて、それを否定すれば過去と同じ轍を踏むことになっていくでしょう。



豊田一喜







最新の画像もっと見る