昨日、この世での人生を98年間過ごしてきた伯父が亡くなった。
幸いにも、病院での臨終に立ち会う事が出来た。
半年間ほどの入院生活の末の最後だった。
2日前に見舞った時には、言葉を発することは出来なかったが、意識ははっきりしていて、呼びかけるとうなずいてくれていた。
昨日の夕方に「血圧が下がり始めた」という連絡を受け、急遽勤務先から帰途についたが、途中で持ち直したからとの連絡を受けた。
顔だけでも見て帰ろうと思い病院に寄ってみたら、状況を示す機器の波形は弱々しいながらも安定していた。
病室の外の廊下で関係者と雑談をしていたら状況が急変し、1時間もしないうちに臨終となった。
6人の子宝に恵まれたが、子供の中の1人は幼くして亡くなった。
昭和28年の豪雨による大水害で森山町の自宅の裏山が崩れ、家族7人が生き埋めになり、かろうじておじちゃんとおばちゃんは自力で土砂の中から這い出して助かったが、子供5人は土砂の下で亡くなっていたという。
おじちゃんは、私の母の長兄で、若くして亡くなった父親の代わりとなり、うちの母親他の兄弟を養ってきたそうだ。
戦争で2人の兄弟も亡くしている。
豪雨による大水害で5人の子供を亡くしてしまったおじちゃんは、自暴自棄になり放蕩を繰り返し、その支払いのために広かった田畑を切り売りして、最後には住まいだけしか残らないようになってしまったそうだ。
その間に、私のいとこにあたる四女と四男が生まれ、財産が底をついたことにもよるが地道に働いてその後の人生を送ってきたという。
元々は農家であったが、放蕩により田畑を売り払ってしまったので農業は出来ず。出稼ぎなどの季節労働者として働き、生計を立てていたが、ある時期から漁業を始め、養殖海苔の生産で生計を立てるようになった。
諫早湾が「宝の海」であった頃の話である。
真偽のほどは分からないが、そのおじちゃんによれば、諫早湾を「宝の海」と最初に名付けたのはおじちゃんだそうだ。
おじちゃんやおばちゃん、そしてその子供の私のいとこ二人は、家族4人で力をあわせて、海苔生産を主とする漁業に専念していた。
息子(私のいとこ)は、高校生の頃は漁業を営む家族の主力となり、海苔の生産シーズンには高校にもあまり行けないようにして家族の生計を支えていた。
それでもちゃんと高校は卒業している。
そして例のギロチンで有名な諫早湾干拓を契機に漁業を廃業している。
おじちゃんは魚とりなど、海に関わる漁の名人だった。
ウナギの手づかみ漁、寒鮒の網による追い込み漁、アゲマキ取り、シシ外貝取り、海タケ取りなど、諫早湾と諫早干拓内のクリークでの漁獲の名人で、そのおすそ分けをいつもいただいていた。
また、漁業を廃業した後は、稲藁による俵つくりや稲藁による鶴亀の置物つくりに精を出し、それらの完成品を他人にあげるのが趣味だった。
宝の海をテーマにしたテレビ番組にも何回か出ていた。
近年は小浜の温泉に通うのが日課で、車に乗せてくれる人がいる時には車に乗せてもらい、そうでない時には定期券を使ってひとりでバスで通っていた。
脳梗塞で倒れて入院する直前の半年前まで、そのような生活だった。
そのおじちゃんや周りの人達に、海の恵を提供してくれていた「宝の海」諫早湾奥の海域は締め切られて、閉鎖性水域となり、水質が悪化して昔の面影はない。
不可止という個性的な名前の、宝の海に生きたおじちゃんの一生は終わった。
豊田一喜
幸いにも、病院での臨終に立ち会う事が出来た。
半年間ほどの入院生活の末の最後だった。
2日前に見舞った時には、言葉を発することは出来なかったが、意識ははっきりしていて、呼びかけるとうなずいてくれていた。
昨日の夕方に「血圧が下がり始めた」という連絡を受け、急遽勤務先から帰途についたが、途中で持ち直したからとの連絡を受けた。
顔だけでも見て帰ろうと思い病院に寄ってみたら、状況を示す機器の波形は弱々しいながらも安定していた。
病室の外の廊下で関係者と雑談をしていたら状況が急変し、1時間もしないうちに臨終となった。
6人の子宝に恵まれたが、子供の中の1人は幼くして亡くなった。
昭和28年の豪雨による大水害で森山町の自宅の裏山が崩れ、家族7人が生き埋めになり、かろうじておじちゃんとおばちゃんは自力で土砂の中から這い出して助かったが、子供5人は土砂の下で亡くなっていたという。
おじちゃんは、私の母の長兄で、若くして亡くなった父親の代わりとなり、うちの母親他の兄弟を養ってきたそうだ。
戦争で2人の兄弟も亡くしている。
豪雨による大水害で5人の子供を亡くしてしまったおじちゃんは、自暴自棄になり放蕩を繰り返し、その支払いのために広かった田畑を切り売りして、最後には住まいだけしか残らないようになってしまったそうだ。
その間に、私のいとこにあたる四女と四男が生まれ、財産が底をついたことにもよるが地道に働いてその後の人生を送ってきたという。
元々は農家であったが、放蕩により田畑を売り払ってしまったので農業は出来ず。出稼ぎなどの季節労働者として働き、生計を立てていたが、ある時期から漁業を始め、養殖海苔の生産で生計を立てるようになった。
諫早湾が「宝の海」であった頃の話である。
真偽のほどは分からないが、そのおじちゃんによれば、諫早湾を「宝の海」と最初に名付けたのはおじちゃんだそうだ。
おじちゃんやおばちゃん、そしてその子供の私のいとこ二人は、家族4人で力をあわせて、海苔生産を主とする漁業に専念していた。
息子(私のいとこ)は、高校生の頃は漁業を営む家族の主力となり、海苔の生産シーズンには高校にもあまり行けないようにして家族の生計を支えていた。
それでもちゃんと高校は卒業している。
そして例のギロチンで有名な諫早湾干拓を契機に漁業を廃業している。
おじちゃんは魚とりなど、海に関わる漁の名人だった。
ウナギの手づかみ漁、寒鮒の網による追い込み漁、アゲマキ取り、シシ外貝取り、海タケ取りなど、諫早湾と諫早干拓内のクリークでの漁獲の名人で、そのおすそ分けをいつもいただいていた。
また、漁業を廃業した後は、稲藁による俵つくりや稲藁による鶴亀の置物つくりに精を出し、それらの完成品を他人にあげるのが趣味だった。
宝の海をテーマにしたテレビ番組にも何回か出ていた。
近年は小浜の温泉に通うのが日課で、車に乗せてくれる人がいる時には車に乗せてもらい、そうでない時には定期券を使ってひとりでバスで通っていた。
脳梗塞で倒れて入院する直前の半年前まで、そのような生活だった。
そのおじちゃんや周りの人達に、海の恵を提供してくれていた「宝の海」諫早湾奥の海域は締め切られて、閉鎖性水域となり、水質が悪化して昔の面影はない。
不可止という個性的な名前の、宝の海に生きたおじちゃんの一生は終わった。
豊田一喜