日々雑感「点ノ記」

備忘録(心の軌跡)

宝の海に生きたおじちゃんの一生

2011年10月29日 | インポート
昨日、この世での人生を98年間過ごしてきた伯父が亡くなった。

幸いにも、病院での臨終に立ち会う事が出来た。

半年間ほどの入院生活の末の最後だった。

2日前に見舞った時には、言葉を発することは出来なかったが、意識ははっきりしていて、呼びかけるとうなずいてくれていた。

昨日の夕方に「血圧が下がり始めた」という連絡を受け、急遽勤務先から帰途についたが、途中で持ち直したからとの連絡を受けた。

顔だけでも見て帰ろうと思い病院に寄ってみたら、状況を示す機器の波形は弱々しいながらも安定していた。

病室の外の廊下で関係者と雑談をしていたら状況が急変し、1時間もしないうちに臨終となった。

6人の子宝に恵まれたが、子供の中の1人は幼くして亡くなった。

昭和28年の豪雨による大水害で森山町の自宅の裏山が崩れ、家族7人が生き埋めになり、かろうじておじちゃんとおばちゃんは自力で土砂の中から這い出して助かったが、子供5人は土砂の下で亡くなっていたという。

おじちゃんは、私の母の長兄で、若くして亡くなった父親の代わりとなり、うちの母親他の兄弟を養ってきたそうだ。

戦争で2人の兄弟も亡くしている。

豪雨による大水害で5人の子供を亡くしてしまったおじちゃんは、自暴自棄になり放蕩を繰り返し、その支払いのために広かった田畑を切り売りして、最後には住まいだけしか残らないようになってしまったそうだ。

その間に、私のいとこにあたる四女と四男が生まれ、財産が底をついたことにもよるが地道に働いてその後の人生を送ってきたという。

元々は農家であったが、放蕩により田畑を売り払ってしまったので農業は出来ず。出稼ぎなどの季節労働者として働き、生計を立てていたが、ある時期から漁業を始め、養殖海苔の生産で生計を立てるようになった。

諫早湾が「宝の海」であった頃の話である。

真偽のほどは分からないが、そのおじちゃんによれば、諫早湾を「宝の海」と最初に名付けたのはおじちゃんだそうだ。

おじちゃんやおばちゃん、そしてその子供の私のいとこ二人は、家族4人で力をあわせて、海苔生産を主とする漁業に専念していた。

息子(私のいとこ)は、高校生の頃は漁業を営む家族の主力となり、海苔の生産シーズンには高校にもあまり行けないようにして家族の生計を支えていた。

それでもちゃんと高校は卒業している。

そして例のギロチンで有名な諫早湾干拓を契機に漁業を廃業している。

おじちゃんは魚とりなど、海に関わる漁の名人だった。

ウナギの手づかみ漁、寒鮒の網による追い込み漁、アゲマキ取り、シシ外貝取り、海タケ取りなど、諫早湾と諫早干拓内のクリークでの漁獲の名人で、そのおすそ分けをいつもいただいていた。

また、漁業を廃業した後は、稲藁による俵つくりや稲藁による鶴亀の置物つくりに精を出し、それらの完成品を他人にあげるのが趣味だった。

宝の海をテーマにしたテレビ番組にも何回か出ていた。

近年は小浜の温泉に通うのが日課で、車に乗せてくれる人がいる時には車に乗せてもらい、そうでない時には定期券を使ってひとりでバスで通っていた。

脳梗塞で倒れて入院する直前の半年前まで、そのような生活だった。

そのおじちゃんや周りの人達に、海の恵を提供してくれていた「宝の海」諫早湾奥の海域は締め切られて、閉鎖性水域となり、水質が悪化して昔の面影はない。

不可止という個性的な名前の、宝の海に生きたおじちゃんの一生は終わった。



豊田一喜










住む所は選べない

2011年10月28日 | インポート
東北地方の津波被害に遭遇した人たちも、現在タイの国内の広い範囲で進行している洪水被害に遭遇している人たちも、一般的には住むところを選べない人々が多いと思われる。

その地域に先祖から受け継いだ土地や住居があり、またそこからの通勤圏内に収入源となる職場があるなどの理由により、その地域に住む事を余儀なくされている人がほとんどだろう。

日本からタイの国内に進出した企業も、まさか工場が洪水被害に遭って生産がストップし、他国への進出工場の生産にも重大な影響があるとは想像もしなかったことだろう。

人件費が安く作業員の確保が容易であり、海外マーケットの拡充に繋がるというような理由で、他国の同業他社との競争を勝ち抜くために推進してきた事ではあろうが、現状においては裏目に出ている。

タイ国内では今後疫病の発生が必ずあるだろう。

まず飲料水の確保が難しいだろうし、汚れた水の中に長時間浸かって生活を続けるのであるから、皮膚病が発生することは避けられないだろう。

さらにコレラなどの発生、蚊やハエなどの大量発生によりそれらを介した病気の発生などが想像される。

また、国内の農業をはじめとする各種産業に及ぼす影響は膨大なものであることが想像できる。

タイ国にとっては国家的な危機となるだろう。

ある宗教の布教活動をしている人が、聖書に記述されている内容によれば天地を創造された神の意志により、再生できる者たちを選別するために大地震や大津波、更に大洪水などの大災害が起きる時期に既に入っているとのこと。

様々な宗教において、末法思想の類はその宗教に勧誘するための定番ではあるが、現実におこっている事柄を見ると、案外そうなのかもしれないなとも思ってしまう。

日本における大津波災害後の原子力発電関係の企業の姿勢や政府やマスコミの対応にはあきれてしまうしかない。

いまだに、現在の人類では制御が不可能な原子力発電所の再稼動や推進を主張し、実行しようとしている。

彼らは反省して事を改めるという思考力をほとんど持ち合わせてはいないようだ。

夏場の一時期、原子力発電所の稼動が無ければ日本国の電力供給に大きな支障を来たすなどという風呂敷を広げてはみたが、現実にはそのようなことは無かった。

なぜか?

理由は簡単である。

原子力発電所の多くが定期点検などによって停止状態であっても、日本国の電力の供給には支障がなく、電力の供給をストップする事により収入が減少することよりも、既存の発電方法により電力を供給した方が電力会社の利益に繋がるとの判断からであったろうと私は考えている。

原子力発電がなければ計画停電もやむなしとのキャンペーンを、マスコミを使って展開しようとしたが、ほとんど実行されなかったことからも明らかである。

壊れている福島の原子力発電所を、冷温停止状態に今年中をめどに持っていく予定だという。

本当にそのように出来るのだろうか。部外者が誰も中に入って検証している訳ではないので事実は分からない。

壊れた原発の廃炉には30年を要するとマスコミが報じていたが、これとて全面的に信用は出来ない。

廃炉に際しては海外からの技術を仰ぐとのこと。

技術立国としてのプライドはないのだろうか。

私たち庶民は住む所を選べない。

制御不能な原子力発電所からの放射能によって、住まいはあるのに自宅で生活できない人たちが大勢おられる。

明らかに国策による被害者であり、国家と東電は責任を持ってそれらの人々に対して保障をすべきであり、地域の除染を含めた復活に全面的に責任を持つべきである。

話を自分の住んでいる雲仙市で考えてみる。

国策による中央集権化の一環として推し進められてきた平成の大合併のなかで、強引になされた合併によって雲仙市は誕生した。

合併前に膨大な協議をし、合併後の約束事を取り決めての合併であった。

そして合併後の6年間、奥村市長は合併前に協議されて取り決めたことは、それに沿うような方向で進めて行きたいと述べ続けてきた。

住民の代表である雲仙市議会議員の一般質問に対する答弁でも、ひたすらそのように述べておられた。

雲仙市の愛野町に新庁舎を建設するかどうかに関しての答えである。

雲仙市の条例に「本庁舎の所在地は愛野町であるが、暫定的に吾妻町に置き、愛野町に新庁舎を建設する事を合併の理念とする」と要約すればそのように書かれている。

ところが2期目の市長選挙が無投票当選になってからしばらくして、長期政権に対する確信を持ったのかどうかは分からないが、吾妻町舎と千々石町舎を本庁舎として増築し、愛野町に新庁舎を新築する事を断念する旨の発言を議会でしている。

総務省の基準によれば、一般職員一人当たりに必要な基礎面積は4.5平方メートルとなっているのに、雲仙市の庁舎建設における職員一人当たりの必要面積は40平方メートルというとてつもない床面積を提示していた。

40平方メートルといえば、畳にして24枚分の広さである。12坪の床面積が職員一人に対して必要なわけがない。

それをもとに庁舎建設に要する金額をはじき出して住民の代表である人達に新庁舎建設の是非を協議させ、新庁舎は多くのお金が必要であるから造らず、既存の庁舎を増築して活用したほうが良いという答申を出させている。

それを盾に、5億円をかけて吾妻町舎と千々石町舎を増築して本庁舎とするという。

愛野町舎はいずれ数人しか職員がいない小さな小さな役所になっていくことは想像に難くない。

愛野町は雲仙市の交通の要衝であり、ほぼ中心位置にある地理的な条件を無視してのおろかな決断である。

所詮は、ど田舎の貧乏自治体同士の合併のなれの果てだと思うしかないが、正当な積算をすれば10億円程度で建設できる本庁舎すら建設できないような自治体に、将来の展望など望むべくもない。

新庁舎建設のための5億円の基金の積み立てがが既にあり、雲仙市職員に支払われる年間の人件費が25億円だそうだから、その職員の人件費を1割減らして積み立てれば1年間で2億5千万円が捻出でき、それを2年間続ければ5億円が捻出できて、それらを合計すれば10億円は確保できる。

住民サービスや他の事業への影響は皆無で10億円の新庁舎は建設できるのに、最初から造ろうという発想がないから何も出来ない。

無能、無策の典型で、そのような雲仙市には何も期待しようとは思わないが、土地も墓も家も雲仙市にあるので、ここで生活をするしかない。

私のような庶民は、住む所は選べない。












雲仙市の妖怪「タヌリラ」

2011年10月23日 | インポート
 雲仙市には妖怪「タヌリラ」が生息しているらしい。

その配下の太鼓もち集団で金庫番の「イエスマンズ」や「ウラギりーズ」を従えて、毎夜雲仙市内の集会所に出没し、訳の分からない声を発したそうな。

ある集会所では、聴衆の中の1人が述べた感想に対して激高し、聴衆を威嚇したそうだが、それを目の当たりにした多くの聴衆は、頭領としての資質に疑問を感じ、ただただ呆れかえったそうな。

普段はタヌキの様な形相が、その時にはゴリラのような形相だったという。

そのようないきさつで、「タヌリラ」と呼ばれるようになったらしい。

配下の「イエスマンズ」の中には、そのような頭領の下での奉公に疲れ果てて、髪の毛の一部が抜け落ちる病を患っている者もおるそうな。

また、「ウラギリーズ」と呼ばれる太鼓もちの中の1人は、自分が生まれ育ったふるさとを裏切り、6年前に自ら明言した言葉をいともたやすくすりかえて、年長の配下の者たちを追い越して出世頭になっているそうな。

また別の「ウラギリーズ」のひとりは、ふるさとにおった頃は存在が分からないほどにおとなしかったが、頭領の側近に取り立てられてからは、脈絡のない言葉を必要以上に並べてしゃべるようになり、ふるさとの近傍の人たちからは好まれてはいないそうな。

現実とは大きくかけ離れた数字を示して、結果が膨大な数値になるような金額をはじき出し、その金額で民の代表たちに是非を判断させるような手法にて結論を出させ、それを盾に、子や孫の世代に負担を負わせず住民サービスを優先するために苦渋の選択をしたそうな。

だから新しい館(やかた)は作らずに、既存の館(やかた)を増築して使うそうな。

支配する領土の地理的な条件を無視して、領土の中心部には主要な館(やかた)は新設しないで、その両側の地域の古い館(やかた)を増築するそうな。

かくして、雲仙市には中心市街地などという場所は存在しなくなり、企業誘致などは掛け声だけで実体が伴わず、若い衆の働き口の確保が難しくなり、人口は減少していき、妖怪タヌリラとその配下の者たちだけが良い思いをするような地域となって廃れていったそうな。