平成7年2月発行の冊子の表題である。
発行は高田勇氏が理事長の(財)諫早湾地域振興基金となっている。
旧諫早干拓入植後30年を記念して作られ、今から14年前に印刷された、入植後のいろいろな情報が満載された記念誌だ。
そのような冊子が、なぜ私の手元にあるかは以下の理由による。
その記念誌の編集委員をしていた、旧諫早干拓の入植者2世のひとりであるH君と私は、愛野中学校、諫早農高農業土木科と同窓生であり、その記念誌の編集途上で私の所に相談に来た。
干拓の歴史を見る事が出来る、航空写真のような史料はないかということだった。
そこで私は、昭和20年代初頭にほぼ日本全域を米国極東空軍が撮影した航空写真があることや、昭和30年代以降には、国土地理院が地形図の作成や国土基本図の作成用に地区を決めて周期的に撮影している撮影成果があり、お金を出せば誰でも購入する事が出来るという事を教えた。
そしてそれらの成果の購入の手続きをしてあげる代わりに、その記念誌が出来上がったら一部いただきたいという事を伝えておいた。
約束どおりにH君は完成した記念誌を一部届けてくれた。
というわけで、「拓く 諫早干拓30年のあゆみ」という表題の冊子が私の手元にある。
その冊子のページを繰ってみると、2ページを使って、旧諫早干拓着工以前の昭和22年4月17日撮影の成果など、4枚の旧諫早干拓の歴史の変遷を記録した航空写真が掲載されている。
三ツ島が、まさに3つの島として認識できる頃からの写真もある。
日本を占領した米国極東空軍が、日本を統治する目的で撮影した成果である。
今はそれらの撮影成果は日本に移譲されていて、誰でも購入する事が出来る。
更にページを繰っていくと「入植から30年。農政転換のうねりの中で今―。」というページがある。
森山町干拓入植者との座談会の内容をまとめた、興味深い内容だったので、その全文をここに公表しておく。
入植から30年。農政転換のうねりの中で今―。
農業生産のこと
入植に至るまで
諫早干拓が干陸を見、入植が始まったのは昭和38年だった。
それに先立ち昭和37年には土地の配分が行なわれ、入植者は県内一円から、地元増反者は吾妻町、愛野町、森山町(当時は森山村)、諫早市から募集された。
特に入植者の選定に当たっては厳しい条件が設けられており、それを満たさなければ入植を許可されなかったらしい。
その条件とは以下の通りである。
a. 協業経営を理解し、協同性のある者。
b. 既存の財産は一切処分し、完全入植できるもの。
c. 心身健全にして農作業に耐え得る農業就農者が2人以上いること。
d. 一年間の生活費及び営農に要する経費など持参金を有する者。
応募者90余名の中からこの条件を満たすことのできる46名が選抜され、翌昭和38年5月に晴れて入植壮行式の日を迎えることになった。
入植壮行式(昭和38年5月28日)
佐藤知事、諫早共栄干拓農協協同組合委員ら関係者約100人が出席してとり行われた。
その席で知事は「協業経営の良きモデルになってもらいたい」との期待を込めて大型トラクター(フォードソン)2台を共栄干拓組合に贈呈した。
入植初期の農業
当時の農業情勢の中で、自立経営農家になる事を目指して入植者に配分された土地面積は1戸当たり3haだった(55,000円/10aで買い入れ、土地代金は、3年据置の25年償還で、平成3年12月で全員の償還が完了している)。
営農形態は、水稲作による「協業経営」だった。
農作業はすべて共同で行なわれ、作業時間は朝8時から午後5時までと決められていた。
また、作業の出欠については名札を利用して確認をとり、欠席した場合は給料から差し引かれていた。
入植初年度には水稲が約70haが作付けされ、田植はトラクターによる直播と、手植えの2本立てで行なわれたが、慣れない干拓水田であることもあってその年の田植は1ヵ月ほどかかっている。
しかし収穫は大型コンバインが導入されて短期間で終了し、おまけに収量が反当り470kgという記録的な豊作であったことで入植者にとっては忘れられない年となった。
次の年からは、播種、追肥、除草にヘリコプターが導入されさらにオートメ化農業が進展し、共同経営も定着するかに思われたが、実際の入植者の間では“手作業が多い” “共同作業に自分がついていけない” “人にかまってばかりいられない” “気心のしれた人がいなくて打ち解けきらない”といった不満を抱く人が増え始めてきており、共同経営は2年目にして早くも大きな危機を迎えていた。
3年目になるとほとんどの面で共同体は崩壊し、次第に個人経営へと移行していくこととなった。
その後の農業
個人経営になると各戸で作業をするため、それぞれの家で農機具が必要となり、土地代の他に機械代の借入金が増えることになった。
それでも何とか個人経営をやっていくだけの条件整備が整って、「さあ、これから・・・・・」というその矢先に減反政策(昭和45年)が打ち出され、水田農業は冬の時代を迎える事となった。
減反による収入減は農家の生活を圧迫し、水田作だけでは生計を維持しきれないところまで追い込まれた入植者の中には、その減収分をカバーするために農外に職を求める人が増えてきて、次第に農業から離れていく人が出始めた。
現在の農業
入植して30年が経過した現在、専業農家といえるのは半数以下になっている。
干拓営農も少し様変わりを見せている。
干拓の1部に導入されたプリンスメロンのトンネル栽培は味の良さも手伝って市場での評価も上々で、森山町の特産品として広がりも見せ、昭和58年には県下でも有数のアムスメロンの一大生産団地(施設面積2ha)が形成されるに至った。
その後もトマト、イチゴ、ニラ等の施設野菜の導入が進むなど、より生産性の高い水田農業が展開されるようになった。
また、入植者の中にはれんこん栽培にチャレンジする10戸の意欲的な農家が出てくるなど干拓農業も新たな局面を迎えているようである。
生活のこと
核家族での入植、しかも、共同作業のため、幼子の面倒は他人にまかせなければならなかった。
しかし、近くに保育所や託児所もなく、出産前の婦人に面倒見てもらったり、隣町(愛野町)の保育所に入所させ、汽車で送り迎えしたりした。
ある日、子供が用水路に落ちるという事故が発生したことから、ぜひ、近くに保育所をということで役場に陳情し、昭和39年の田植期からやっと共栄干拓公民館に託児所ができた。
最初は、田植期だけの季節的な託児所であったが、一年中農繁期のような忙しさだったので、そんな臨時的な託児所では不十分であったため、婦人部を中心に村立(当時は森山村だった)の保育所設置を訴えて、昭和42年春に念願の保育所が設置された。
自転車
子供の送迎や、住宅から離れた圃場へいくまでの時間短縮のため、婦人同士助け合いながら自転車に乗る練習をし、朝夕の定刻には銀輪部隊が列をなし農道を駆け巡るまでになった。
やがて、バイク、自動車へと発展していった。
住宅
入植当時、県の設計した団地サイズの住宅には風呂がなかった。
愛野町の銭湯にいったり、行水したりして不便な生活であった。
形が同じ家がいくつも並んでいるので酔っぱらって自分の家を間違える者もいたとか。
その後、自分で建増しして風呂も部屋も整えてきた。
干拓周辺の人々との係わり
「干拓のもん」と区別されてみられた感覚がある。
森山町土着の人は、当時、共栄干拓地での水稲栽培に難しさを感じ、増反の予定をやめた人々もいた。
入植二世のこと
入植当時子供だった、あるいはそこで生まれた二世は、小さい頃から共に遊び学んだこともあって、いっそう結びつきが深まった感がある。
社会情勢は干拓の水稲経営だけでは食べていけないような方向へ進み、農業以外に就職した二世が増加した。
現在は、ほとんどが第2種兼業農家で、専業は10戸ほどになり施設野菜や畜産、あるいはレンコンを導入した米麦との複合経営である。
終わりに
諫早湾干拓室の話によると、入植希望者はかなり多いらしい。
現在、適地がない農家が住居から離れた場所に増反し、良好な農業経営をしている例は確かにある。
しかし、その場合は、土地の条件がよく、そこで収穫する作物の生産技術が確立しているからにほかならない。
そのような土地と比較して、排水、塩害等、干拓地は困難な条件が多い。
入植者の農業経営を確立させるために、工事と並行して、干拓地にあった、もちろん時代のニーズにあった作物の農業技術を開発することは、土地を造成する国、県にとっては当然の義務である。
そして、リスクを負って入植した人々が、そこで快適に生活できるようにまちを整えるのも当然である。
森山の共栄干拓の入植者は、保育所も住宅も自分たちで整えていった。
30年近くなって、やっと落ち着いて暮らせるようになった。
二世の人たちも規模拡大や兼業による生活の安定を図りそれぞれの農業形態を生み出している。
大きく様変わりするであろう明日の農業を適確に捕え、大規模農業の確立か、非農家への転換か、個々の思いの中で諫早湾干拓への期待は大きい。
以上、「拓く 諫早干拓30年のあゆみ」より転記。
入植住宅に風呂がなかったことや、入植当初は社会主義的農業形態を目指していたこと、結果として入植後30年の時点において、旧諫早干拓入植者の中の専業農家はおよそ5分の1に減ってしまったこと、一貫性のない国家の農業政策に入植農家の人たちも翻弄されてきたことなどが興味深く読み取れる内容になっている。
そしてまた我が国の農政は、その轍を踏もうとするおろかな政策を打ち出している。
農地面積の大規模集積化という大義名分で、会社努めや役所勤めをしながら小規模で兼業農家を営んで日本の農業生産の基礎を支えている農業形態を排除しようとしている。
一部の農政官僚の天下りポストの確保や農政官僚たちの仕事の確保のためであろうと考えられる農業政策を打ち出し、自分たちの保身を目指しているであろう事を感じる。
農地面積の大規模集積化の斡旋・取りまとめをするような組織を作るとか、農業規模の拡大のために農家の共同体化を推進するとか、それぞれにもっともらしい理由付けをして、強引にそれを推し進めようとしている。
結果は見えている。
旧諫早干拓の入植者の方々の30年の歴史がそれを証明している。
国家の農政に従えば、あまり良い結果にはならないことを。
豊田かずき