日々雑感「点ノ記」

備忘録(心の軌跡)

阿久根市の良識

2009年05月31日 | インポート
鹿児島県阿久根市の市長選挙で竹原信一氏が再選された。

阿久根市民の方々の、利権構造の受益者対そうでない人々という構図の投票結果に近いのではないかと私は認識している。

竹原氏を市長の座から失職させた、阿久根市議会議員の人たちに対する拒否の結果だという事もできるだろう。

竹原信一氏が主張している「市役所職員の報酬が、阿久根市の一般市民の報酬と比べて高すぎる」、「市議会議員も年収400万円に見合うような仕事はしていない」という考え方が、我が国の公務員(特別職の公務員も含む)の報酬の有り方に対する標準となる事を望む。

市長と職員の関係を、会社の社長と社員の関係に例えて、「社長が社員の批判ばかりするべきではない。協力しながら進むべきだ」と主張していた人も居たそうだが、乱脈経営を社員と社長が何の問題意識も無く共にやっていたのでは、その組織は破綻してしまう。

民間のまともな組織であれば、とっくの昔に職員の報酬の見直しをやっていて当然であるが、長い時間をかけてお手盛りの仕組みを造り上げてきた人々にとっては、なんとしてでもそのような既得権益を離したくはないはずだ。

そのような人々にとっては、竹原信一氏の主張は煙たかったことだろう。

案の定、既得権益の組織の人たちは、旧態然とした、国の組織の幹部職員を対抗馬に据えるという選挙方針を選択して、竹原氏を組織的に除外しようと画策した。

しかし、阿久根市の市民の多数は、竹原氏の主張に賛意を示した。

阿久根市の良識が、全国に波及する事を望む。


豊田かずき



拓く 諫早干拓30年のあゆみ

2009年05月25日 | インポート
平成7年2月発行の冊子の表題である。

発行は高田勇氏が理事長の(財)諫早湾地域振興基金となっている。

旧諫早干拓入植後30年を記念して作られ、今から14年前に印刷された、入植後のいろいろな情報が満載された記念誌だ。

そのような冊子が、なぜ私の手元にあるかは以下の理由による。

その記念誌の編集委員をしていた、旧諫早干拓の入植者2世のひとりであるH君と私は、愛野中学校、諫早農高農業土木科と同窓生であり、その記念誌の編集途上で私の所に相談に来た。

干拓の歴史を見る事が出来る、航空写真のような史料はないかということだった。

そこで私は、昭和20年代初頭にほぼ日本全域を米国極東空軍が撮影した航空写真があることや、昭和30年代以降には、国土地理院が地形図の作成や国土基本図の作成用に地区を決めて周期的に撮影している撮影成果があり、お金を出せば誰でも購入する事が出来るという事を教えた。

そしてそれらの成果の購入の手続きをしてあげる代わりに、その記念誌が出来上がったら一部いただきたいという事を伝えておいた。

約束どおりにH君は完成した記念誌を一部届けてくれた。

というわけで、「拓く 諫早干拓30年のあゆみ」という表題の冊子が私の手元にある。

その冊子のページを繰ってみると、2ページを使って、旧諫早干拓着工以前の昭和22年4月17日撮影の成果など、4枚の旧諫早干拓の歴史の変遷を記録した航空写真が掲載されている。

三ツ島が、まさに3つの島として認識できる頃からの写真もある。

日本を占領した米国極東空軍が、日本を統治する目的で撮影した成果である。

今はそれらの撮影成果は日本に移譲されていて、誰でも購入する事が出来る。

更にページを繰っていくと「入植から30年。農政転換のうねりの中で今―。」というページがある。

森山町干拓入植者との座談会の内容をまとめた、興味深い内容だったので、その全文をここに公表しておく。


入植から30年。農政転換のうねりの中で今―。

農業生産のこと
入植に至るまで

 諫早干拓が干陸を見、入植が始まったのは昭和38年だった。

それに先立ち昭和37年には土地の配分が行なわれ、入植者は県内一円から、地元増反者は吾妻町、愛野町、森山町(当時は森山村)、諫早市から募集された。

特に入植者の選定に当たっては厳しい条件が設けられており、それを満たさなければ入植を許可されなかったらしい。
その条件とは以下の通りである。

a. 協業経営を理解し、協同性のある者。
b. 既存の財産は一切処分し、完全入植できるもの。
c. 心身健全にして農作業に耐え得る農業就農者が2人以上いること。
d. 一年間の生活費及び営農に要する経費など持参金を有する者。

応募者90余名の中からこの条件を満たすことのできる46名が選抜され、翌昭和38年5月に晴れて入植壮行式の日を迎えることになった。


 入植壮行式(昭和38年5月28日)

佐藤知事、諫早共栄干拓農協協同組合委員ら関係者約100人が出席してとり行われた。
その席で知事は「協業経営の良きモデルになってもらいたい」との期待を込めて大型トラクター(フォードソン)2台を共栄干拓組合に贈呈した。


 入植初期の農業

当時の農業情勢の中で、自立経営農家になる事を目指して入植者に配分された土地面積は1戸当たり3haだった(55,000円/10aで買い入れ、土地代金は、3年据置の25年償還で、平成3年12月で全員の償還が完了している)。

営農形態は、水稲作による「協業経営」だった。

農作業はすべて共同で行なわれ、作業時間は朝8時から午後5時までと決められていた。

また、作業の出欠については名札を利用して確認をとり、欠席した場合は給料から差し引かれていた。

入植初年度には水稲が約70haが作付けされ、田植はトラクターによる直播と、手植えの2本立てで行なわれたが、慣れない干拓水田であることもあってその年の田植は1ヵ月ほどかかっている。

しかし収穫は大型コンバインが導入されて短期間で終了し、おまけに収量が反当り470kgという記録的な豊作であったことで入植者にとっては忘れられない年となった。

次の年からは、播種、追肥、除草にヘリコプターが導入されさらにオートメ化農業が進展し、共同経営も定着するかに思われたが、実際の入植者の間では“手作業が多い” “共同作業に自分がついていけない” “人にかまってばかりいられない” “気心のしれた人がいなくて打ち解けきらない”といった不満を抱く人が増え始めてきており、共同経営は2年目にして早くも大きな危機を迎えていた。

3年目になるとほとんどの面で共同体は崩壊し、次第に個人経営へと移行していくこととなった。


 その後の農業

個人経営になると各戸で作業をするため、それぞれの家で農機具が必要となり、土地代の他に機械代の借入金が増えることになった。

それでも何とか個人経営をやっていくだけの条件整備が整って、「さあ、これから・・・・・」というその矢先に減反政策(昭和45年)が打ち出され、水田農業は冬の時代を迎える事となった。

減反による収入減は農家の生活を圧迫し、水田作だけでは生計を維持しきれないところまで追い込まれた入植者の中には、その減収分をカバーするために農外に職を求める人が増えてきて、次第に農業から離れていく人が出始めた。


 現在の農業

入植して30年が経過した現在、専業農家といえるのは半数以下になっている。

干拓営農も少し様変わりを見せている。

干拓の1部に導入されたプリンスメロンのトンネル栽培は味の良さも手伝って市場での評価も上々で、森山町の特産品として広がりも見せ、昭和58年には県下でも有数のアムスメロンの一大生産団地(施設面積2ha)が形成されるに至った。

その後もトマト、イチゴ、ニラ等の施設野菜の導入が進むなど、より生産性の高い水田農業が展開されるようになった。

また、入植者の中にはれんこん栽培にチャレンジする10戸の意欲的な農家が出てくるなど干拓農業も新たな局面を迎えているようである。


 生活のこと

核家族での入植、しかも、共同作業のため、幼子の面倒は他人にまかせなければならなかった。

しかし、近くに保育所や託児所もなく、出産前の婦人に面倒見てもらったり、隣町(愛野町)の保育所に入所させ、汽車で送り迎えしたりした。

ある日、子供が用水路に落ちるという事故が発生したことから、ぜひ、近くに保育所をということで役場に陳情し、昭和39年の田植期からやっと共栄干拓公民館に託児所ができた。

最初は、田植期だけの季節的な託児所であったが、一年中農繁期のような忙しさだったので、そんな臨時的な託児所では不十分であったため、婦人部を中心に村立(当時は森山村だった)の保育所設置を訴えて、昭和42年春に念願の保育所が設置された。

 
 自転車

子供の送迎や、住宅から離れた圃場へいくまでの時間短縮のため、婦人同士助け合いながら自転車に乗る練習をし、朝夕の定刻には銀輪部隊が列をなし農道を駆け巡るまでになった。

やがて、バイク、自動車へと発展していった。


 住宅

入植当時、県の設計した団地サイズの住宅には風呂がなかった。

愛野町の銭湯にいったり、行水したりして不便な生活であった。

形が同じ家がいくつも並んでいるので酔っぱらって自分の家を間違える者もいたとか。

その後、自分で建増しして風呂も部屋も整えてきた。


 干拓周辺の人々との係わり

「干拓のもん」と区別されてみられた感覚がある。

森山町土着の人は、当時、共栄干拓地での水稲栽培に難しさを感じ、増反の予定をやめた人々もいた。


 入植二世のこと

入植当時子供だった、あるいはそこで生まれた二世は、小さい頃から共に遊び学んだこともあって、いっそう結びつきが深まった感がある。

社会情勢は干拓の水稲経営だけでは食べていけないような方向へ進み、農業以外に就職した二世が増加した。

現在は、ほとんどが第2種兼業農家で、専業は10戸ほどになり施設野菜や畜産、あるいはレンコンを導入した米麦との複合経営である。


 終わりに

諫早湾干拓室の話によると、入植希望者はかなり多いらしい。

現在、適地がない農家が住居から離れた場所に増反し、良好な農業経営をしている例は確かにある。

しかし、その場合は、土地の条件がよく、そこで収穫する作物の生産技術が確立しているからにほかならない。

そのような土地と比較して、排水、塩害等、干拓地は困難な条件が多い。

入植者の農業経営を確立させるために、工事と並行して、干拓地にあった、もちろん時代のニーズにあった作物の農業技術を開発することは、土地を造成する国、県にとっては当然の義務である。

そして、リスクを負って入植した人々が、そこで快適に生活できるようにまちを整えるのも当然である。

森山の共栄干拓の入植者は、保育所も住宅も自分たちで整えていった。

30年近くなって、やっと落ち着いて暮らせるようになった。

二世の人たちも規模拡大や兼業による生活の安定を図りそれぞれの農業形態を生み出している。

大きく様変わりするであろう明日の農業を適確に捕え、大規模農業の確立か、非農家への転換か、個々の思いの中で諫早湾干拓への期待は大きい。


以上、「拓く 諫早干拓30年のあゆみ」より転記。


入植住宅に風呂がなかったことや、入植当初は社会主義的農業形態を目指していたこと、結果として入植後30年の時点において、旧諫早干拓入植者の中の専業農家はおよそ5分の1に減ってしまったこと、一貫性のない国家の農業政策に入植農家の人たちも翻弄されてきたことなどが興味深く読み取れる内容になっている。

そしてまた我が国の農政は、その轍を踏もうとするおろかな政策を打ち出している。

農地面積の大規模集積化という大義名分で、会社努めや役所勤めをしながら小規模で兼業農家を営んで日本の農業生産の基礎を支えている農業形態を排除しようとしている。

一部の農政官僚の天下りポストの確保や農政官僚たちの仕事の確保のためであろうと考えられる農業政策を打ち出し、自分たちの保身を目指しているであろう事を感じる。

農地面積の大規模集積化の斡旋・取りまとめをするような組織を作るとか、農業規模の拡大のために農家の共同体化を推進するとか、それぞれにもっともらしい理由付けをして、強引にそれを推し進めようとしている。

結果は見えている。
旧諫早干拓の入植者の方々の30年の歴史がそれを証明している。

国家の農政に従えば、あまり良い結果にはならないことを。


豊田かずき


ゆすら梅の季節

2009年05月20日 | インポート
庭のゆすら梅の赤い実が熟しかけている。

数個の実を採って、口に入れて噛み潰すと、甘酸っぱい味が広がる。

残った種はそこら辺に吐き飛ばす。

真紅のなでしこの花も満開で、黒アゲハチョウが花々の周りを飛び交いながら蜜を吸っている。

水仙の花や白藤の花はとっくの昔に終わっていて、ジャスミンの花が少しだけ残っている。

松の木も自己流で適当に剪定したし、趣味のヤマメ釣りにも5月になってから4回も行けた。

ユリのつぼみや、少しだけ開きだした紫陽花が、次の季節への移ろいを待っている。

もう少したつと梅雨に入り、やがては台風が襲来する季節になっていく。

庭のゆすら梅の実が赤く色づく今頃が、一番暮らしやすい季節の様に感じる。

私にとっては55回目の夏が近付いて来ている。

考えてみれば、四季の移ろいを経験できるのは、長く生きられる人でもたかだか100回以内程度。

その内の貴重な1回だと思えば、この時間の移ろいが、とてもいとおしく感ずる。


豊田かずき



釣り日和

2009年05月18日 | インポート
昨日は、明け方から午前中にかけて、かなり強い雨が降った。

このような日は、絶好のヤマメ釣り日和になる。

雨で川の水が増水し、警戒心の強いヤマメの採餌活動が活発になり、釣りやすい環境となる。

ということで、昨日の午後は今シーズン4回目のヤマメ釣りに出掛けた。

今シーズン4回目というより、5月になってから4回目という方が正しい。

諫早市高来町の境川におけるヤマメ釣りの解禁は3月1日になっているが、4月いっぱいは仕事が忙しく、土日返上で作業場に缶詰の日々を送っており、ヤマメ釣りどころではなかった。

作業が完了してからのヤマメ釣りに行ける日を思い描きながら、ただひたすらに航空写真測量による三次元データの取得作業に専念していた。

4月いっぱいでやっとその作業が完了し、5月からは待望のヤマメ釣りに使える時間ができてきた。

連休期間中に3回、そしてきのうと、4回目のヤマメ釣りだった。

通常の外での遊びは、晴天の日が良いと相場が決まっているが、ことヤマメ釣りに関しては、大雨の直後か、小雨模様あるいは曇天の日の方が釣果が安定している。

大雨の直後で川の水が増水して、小雨模様か曇天であれば理想的である。

ただし、雨に濡れた石の上を歩く時には滑りやすいので、細心の注意が必要となる。

ヤマメは、地方によってはその呼び名を「アメノウオ」と呼ぶところもあるぐらいに、雨が降ると湧くように動き回る性質を持った渓流魚らしい。

だから私は、雨降りの日に雨合羽を着てヤマメ釣りをする事が多い。

雨合羽を着てまでヤマメ釣りをしている趣味人はめったにいない。

だから、雨の日のヤマメ釣りのフィールドは自分だけの貸しきり状態となり、結果として良い釣果がついてくる。

高来町の境川では、協力金という名目の入漁料を徴収して、そのお金でヤマメの稚魚の放流事業を行なっているが、稚魚の放流はしなくとも、天然のヤマメが産卵している事を、釣りを通して確認する事が出来る。

体長3cmにも満たないような新子が、自分の体調より長いミミズに食いついて釣針にかかることもある。

そのような時は、大きくなってからまた会おうといって川に離すことにしている。

これから梅雨時にかけて、羽化した水生昆虫などを捕食して、ヤマメは肥大化していく。

我が家の夕餉の食卓に、ヤマメのから揚げや塩焼きがのる事が多くなる季節が近付いている。


豊田かずき



かいらい(傀儡)政権?

2009年05月17日 | インポート
鳩山由紀夫氏が、124票対95票の29票差で、民主党の党首に選出された。

一部のマスコミや評論家は、小沢一郎氏の「傀儡政権」ではないかと表現している。

また、「小沢氏の秘書の違法献金事件」などという表現をしている、偏向した表現の論調まで出ている。

さらに、「説明責任」などという表現を用いて、あたかも小沢一郎氏が政治献金に関して説明をしていないかのごとき言い回しをしている、おかしな人たちがいる。

小沢一郎氏は、政治献金に関して、「現行の法律に則り適切に処理し、全て間違いなく届け出ている」という充分な説明をしている。

説明責任を果たしていないと主張するマスコミや評論家は、情報公開制度によって政治献金の報告書の入手は可能なのだから、それを入手して視聴者に公表してから、自らの論を進める必要があると私は思う。

もともと、おかしな逮捕劇に端を発している一連の流れである。

恣意的な情報操作を画策した人たちが、自分たちの既得権益を守るためにやったのではないかと推察されるような、公平性に欠ける公権力の行使であるように私の目には映る。

それにまんまと乗せられて、世論を換えてしまうマスコミや国民の情けなさを痛感する。

そのようなおかしな逮捕劇が、いずれは自分たち国民の側へ向かってくるかもしれないという危機感を、本来ならば抱くはずの所だが、それと真逆の反応をしてしまう、支配階層にとっては非常に都合のいい国民性だといえよう。

きちんとした判断能力があれば、小沢一郎氏に対する支持率、ひいては民主党に対する支持率は上昇傾向だったはずなのに、情報操作に乗せられて、簡単に世論が変えられてしまう。

民主党が主張している「無駄の排除」や「公務員改革」は、既得権益を得ている組織の人たちにとっては都合の悪いことである。

それを、公権力やマスコミや評論家などを使って、何が何でも阻止しようとしている構図に思える。

きちんとした判断能力が国民に備わっていたならば、小沢一郎氏や民主党の支持率の低下もなかっただろうし、結果として小沢一郎氏が民主党党首を辞任する必要もなかったはずだ。

今回の民主党の党首選挙は、僅差で鳩山氏が勝利するという出来レースだったとは思うが、そのような事をせざるを得ない状況に追い込んでしまった、情報操作に簡単に踊らされてしまう世論にこそ問題があるように私は思う。

今後の民主党が、一部のマスコミや評論家がいう小沢一郎氏の傀儡政権だというのは間違っており、本来ならば小沢一郎氏が引っ張っていくはずの政党が、世論の動向に抗しきれずにやむを得ず形を変えて存続するのだと解釈したい。

ただ、今回の小沢一郎氏の辞任劇の裏で、政権奪取をめざそうとする民主党の内部において小沢おろしが画策された事の方が、民主党に対する期待感を薄れさせてしまう。

目指している政策を実行できたならば、私たち国民にとっては理想であるが、その前に内輪もめをしているようでは、果たして政権奪取ができるのか疑問の残る所だ。

しかし、鳩山由紀夫党首には期待するところが多くある。

マスコミに媚びない姿勢を持っており、経験に裏打ちされた弁舌の確かさは、聞いていて安心できる。

彼が総理大臣になれるかどうかは、世論が、今後の既得権益組織からの情報操作に翻弄されるか否かにかかっているといえるだろう。


豊田かずき



南島原市役所では「紛失」というそうだ

2009年05月04日 | インポート
市役所が徴収する市県民税と国民健康保険税が未納になっていたので、それらの未納世帯に出向いて徴収して、領収書を発行していたにもかかわらず、担当市役所職員が正規の収納済みの手続きをしていなかったことが、再度督促通知を受け取った市民からの苦情によって発覚したそうだ。

以下は4月15日付けの毎日新聞記事。

南島原市が、07年に徴収した4人分の市県民税など税金33万8900円を未納扱いのまま、紛失したとして処理していたことが、同市への取材で分かった。

税を受け取った後の事務手続きのミスとして、市は昨年8月11日付けで担当した2職員を戒告処分にした。

市総務部によると、07年6月に市役所窓口で支払われた市県民税1人分15万8000円と同8月に3人の家庭を回って徴収した市県民税と国民健康保険税計18万900円。

昨年2月以降に4人から「支払ったのに督促通知が来た」と苦情が寄せられ、発覚。

4人は領収書を受け取っていたが、市には納付の控えはなかった。

いずれも担当の男性職員が税金を受け取っていながら、パソコンなどでの納付手続きを怠ったものと見ている。

昨年7月に副市長を委員長とする分限懲戒審査委員会を開き、職員に事情聴取した上で着服はなく、紛失したと判断。
処分を決めた。

2人の職員は紛失分を弁済した。


以上毎日新聞記事。


新聞記者も、言葉を選びながら、客観的事実として記事にしているように読み取れるが、私は単純に、そのような事を世間一般では「着服」というのではないかと思う。

仮に市役所内部で、33万8900円の現金が紛失したのであれば、内部あるいは外部の人間による盗難の可能性があり、警察に介入してもらって捜査するのが筋であろう。

2人の職員は紛失分を弁済したとあるが、弁済しなければならない理由があったから弁済したと考えられる。

支払った人が領収書を保管していたから良かったようなものの、もしも領収書を「紛失」したり破棄したりしていたならば、支払われた税金は闇の中に消えて、誰かの懐に入ってしまっていたのではなかろうか。

結論が先にありきの、身内にあまい、形式だけの分限審査委員会だったように思ってしまうが、「弁済すれば許される」という類の問題ではないはずだが。

他にも南島原市には、自分のふるさとに至る鉄道の存続に関してさえも力を発揮しようともしなかった国会議員や、他人からの借金を踏み倒して自己破産し、迷惑を掛けながらも県会議員を続けている人など、世間の常識では首を傾げたくなるような「人材」がおられる様だ。



豊田かずき