川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

三鷹高校長・土肥信雄さん

2008-09-15 15:09:52 | こどもたち 学校 教育
 こんな新聞記事があることを知りました。励ましを受ける思いです。
 

  日刊スポーツ '08人物体験記
 ● 校長先生たった1人の"反乱"
  「言論の自由を守れ!」

 東京・三鷹に気骨のある校長がいる。2年前、東京都教育委員会は、都立学校の職員会議で先生の挙手、採決を禁止した。都立三鷹高校の土肥信雄校長(59)は「現場の言論の自由が奪われている」と抗鐵の声を上げて今も戦いを続けている。現職校長が、都教委に公然と異議を申し立てるのは異例のこと。なぜ校長は立ち上がったか。背景には確固たる信念があった。

●都教委「職員会議での挙手禁止」に異議

 1人ぼっちの「反乱」だった。都教委は06年、職員会議で挙手や採決によって教職員の意向をはかることを「不適切であり、行わないこと」と通知を出した。同年11月の校長会で土肥校長は都教委に「子ともたちに民主主義を教える教職員の言論の自由を奪うのは大きな矛盾。何より生徒と直後触れ合っている教職員の声が反映されないと活性化につながらない」と撤回を求めた。
 人事権を握る都教委に現職校長が反旗を翻すのは極めて異例。降格や異動を恐れたのか、約200人が出席した校長会で賛同した校長は1人もいなかった。都政委の意向は強く、翌07年には通知が守られていないとして4校の校長が厳重注意を受けた。
 今年4月の校長会で土肥校長は撤回を再度求めたがまた1人ぼっち。「通知は校長の権限強化のためというが、本音は校長を言いなりにして、かつて多数決によって職員会議の決定権を握った教職員を完全に管理したいだけ」という。8月には「意見を述べ合い、都民にどちらが正しいか判断してもらう」と公開討論を要求したが、却下された。


●東大・大手商社

 中学・高校時代、サッカーや野球に打ち込むスポーツ少年だった。畜産に興味を覚え、東大農学部に進んだが大字紛争の真っただ中。入学から約1年後には安田講堂事件が起きた。権力構造を批判するクラス討論には参加したが「思想には共慰したが暴力的なことは嫌いだった」。権力構造のトップに立つエリートも養成する東大にいることに矛盾を感じ、中退して紛争にのめり込んでいく学生たち。畜産の夢が捨てきれず、卒業して大手商社に入社したが「思想に共感しながら中退というリスクを負わす、企業に入った後ろめたさを強く感じていました」。
 輸入制限商品だつた牛肉を取り扱ったが、談合の実態に直面。「社会的地位も高い会社がなぜこんなことをしなければいけないのか」と上司に訴えると「利潤の追求のためなら仕方がない。みんなやっていること」と黙殺された。「言いたいことが言えて筋が通る職場にいたかった。自分の居揚所ではないと思った」。2年で退職した。
 30歳で都立高校の教師にになった。「平等や民主主義を考えながら、思想の伝達をしたかった。自由にものを言える場所だとも思った」。教員免許を取得し、小字校勤務を経て、高校の教壇に立った。組合の闘士でもあったが「主張が自分たちの権利獲得ばかりになり生徒のために汗をかかなくなった。中には楽をしたいという思惑まであった。何のために教師になったのか」。自問自答の上、管理職になることを決意した。

●リスクを負う

 2つの信念がある。「リスクを負う」「言論の自由を守る」。東大と会社時代に身をもって得た人生のこだわり。現職校長でありながら、都教委に立ち向かろ姿は、その信念を体現している。
 毎朝昇降口に立ち、生徒に声を掛ける。全国大会出場のサッカー部をはじめ各部活動の合宿先にも顔を出す。多くの生徒の名と顔が一致する。保護者や生徒から信頼も厚く、今回の「反旗」も支持され、市民団体も署名活動を始めた。
 来年3月に定年を迎えるが「もちろん戦い続けます」。嘱託の採用試験を受け現場に立ちながら都教委と向かい合っていくつもり。「(試験は)落とされるかも。妻から『都教委に逆らわなければ嘱託ものんびり続けられたのに』と嘆かれました。それでもいい。落とされたら都教委を問いただすだけ。リスクを負って言論の自由を守り、生徒たちの未来を守る。それでいいんです」。 【松田秀彦】

『日刊スポーツ』(2008/9/8)の原典は見つかりません。

 出典 http://wind.ap.teacup.com/people/2645.html

 この記事だけではなぜ管理職の道を選んだのかはわかりません。しかし、「自己に忠実に生きようとしている人だなあ。」「こういう人は信頼できる」というのがぼくの感想です。
 1960年代末の東大闘争をはじめとする全共闘の運動の基底にあった思想に触発されたからこそ、ぼくの人間として、教員としての生き方に大きな変化が生まれ、70年代以後の自分なりの歩みがありました。
 闘いの渦中にあった人たち自身はその後どんな生き方をしてきたのか、ぼくにはよく見えません。とくに「公教育解体」などのスローガンを叫んでいたと思われる人々がすすんで我が子を「有名」私学に通わせるなどということは僕には理解できないことです。
 先日亡くなったぼくの後輩のお連れ合いは当時、あるセクトの活動家だったそうですが、今は東大教授で政府のどの分野かの相談役(?)です。その後輩については卒業以来出会うことが一度もなかったのでどういう生き方をしてきたのか皆目見当がつきません。葬式には元大臣などが来て弔辞を述べたそうです。「畏れ多くも」天皇からの「おことば」もあったといいます。ぼくからは遠い世界の人になっていたのです。

 人生ですから変化はつきものです。ただ、かつて親しく交流したことがあるものとしてはどこかでその人の人生にふれ、聞いておきたいことがあったなあと思わないわけではありません。

 若い頃の自分のあり方をずうっと心に留めて、今、自分に出来る闘いに生きようとする土肥さんの話を読んで、ぼくはこういう人の友達でありたいと思うことしきりです。

 27日には横須賀で故郷の「室戸岬会」があります。終わったら土肥さんの話を聞きに行こうと思っています。

http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/9bd9900614c3472901a478b1cba8a545 集会案内