9月20日(金)
起き抜けに宿近くの散歩。善知鳥神社がある。「うとう」神社と読むらしい。説明書きにこうある。
善知鳥神社は現在の青森市が昔、善知鳥村と言われた頃、奥州陸奥之国外ヶ浜鎮護の神として、第十九代允恭天皇(いんぎょうてんのう)の御世に日本の国の総主祭神である天照坐皇大御神(あまてらすすめおおみかみ)の御子の三女神を、善知鳥中納言安方が此の北国の夷人山海の悪鬼を誅罰平定して此の地を治め、その神願霊現あらたかな神々を祭った事に由来している。また、坂上田村麻呂の東北遠征の大同二年(807)に再建された。
散歩中の人に聞いても「善知鳥 」をなぜ「うとう」と読むのか、またその意味もわからない。「北国の夷人山海の悪鬼を誅罰平定」とあるから、平安朝の頃「えみし」といわれた先住民を虐殺・平定したあと創建されたのだろうか。
縄文文化の研究が進み、東北の地の先住民の精神文化の豊かさが解明されている中で「夷人」「悪鬼」だの「平定」だのとよくもいえるものだ。この神社を支えている人々の精神はどうなっているのだろう。
旧青森港桟橋にいって係留されている八甲田丸を見学。急行に乗って来て「終着駅青森」のホームから我先にと走った記憶が蘇る。朝の陽光に包まれた港から陸奥湾の風光を楽しむのは多分初めてだろう。桟橋から下北半島に向かう観光船に長い行列が出来ていた。今度はこれを利用して妻の母を仏ヶ浦に案内してやろうと思う。
三内丸山遺跡
巨大な縄文遺跡の発掘あとを公園のようなものにして無料開放している。僕が疲れていて元気がなかったせいかもしれないが、「縄文の風」はどこにも吹いていない。縄文の時代の森や川や海の気配はどこにもなく、人々の生活の息吹も感じられない。ただ展示物が並んでいるだけ。修学旅行の高校生の眠気を覚ます魅力はなさそうだった。早々に退散。
この日の午後は八甲田山のロープウェイ山頂駅付近に広がる散策路を歩く。湿原の展望台でひるね。絶景。目もくらむ城ヶ倉大橋を経て十和田湖温泉泊まり。
21日(日)
奥入瀬渓流から十和田湖・休屋へ。今度の旅で初めての曇り空。乙女の像まで湖畔を歩く。昔来たときとは場所が違っている?
昼過ぎ、二戸市堀野の雅代さんを訪ねる。18歳の時に別れて以来27年がたったが全然変わっていない。3人の子どもたちのうち二人は高校を出て東京で働いている。高校生の三男は今日、バスケットの試合で県南の一関らしい。
妻の車で町はずれの景勝地にある田舎料理店「四季の里」に行き昼食。この地方の名物(?)せんべい汁を食べる。夫君の故郷に来て十余年、子育てと労働に明け暮れてきた日々。あと一息で子育てが終わる。これからの長い人生に一抹の不安を感じているようだ。何を生きがいにしていくのか。もともと積極的に友達を作っていく方ではない。妻がいろいろとアドヴァイスをする。四半世紀の月日が流れたとはとても思えない。
こぶの木神社の祭礼
来る途中で出会った祭を見に行くことにする。新幹線二戸駅のある石切所地区のこぶの木神社の祭礼だが度肝を抜かれた。金勢様(男根)を載せた輿(こし)が先触れとなって練り歩いたあとを老若男女多くの人々にひかれた山車が進む。
http://www.igr.jp/Column/kobunoki/kobunoki.htm
神社に行ってみた。参道の民家の軒先につるされている行灯に川柳らしきものが書かれている。健康なエロスの発露。それを臍(へそ)出しルックの女子高校生の一団が声を出して読んで行く。性の営みがこんなにもあけすけに語られる祭りの風景が今の日本にもあったのだ。
神社には飴色に輝く素晴らしい金精様が安置されている。家族(?)につれてきて貰ったおばあちゃんが当屋のおじさんに勧められて手を伸ばしていいこいいこしている。僕も丁重にさわらせて貰って御利益を祈った。
このお祭りでは金精様を模した指輪やイヤリングが販売され人気を博しているらしいが、今年は祭りに間に合わなかったという。残念がっている人の声があった。
二戸駅前のバスターミナルには数台の山車が整列し、その前の広場で様々な出しものが披露されている。僕は地べたに腰を下ろして各層市民からなる吹奏楽団の演奏をきいた。土・日と二日続きでこの地区の文化活動の成果がこの野外で交流されているのだ。新幹線の駅はおおいがこのように地域の人々と直接つながっている風景はそうはあるまい。
九戸城址
後ろ髪を引かれる思いで九戸城址に向かう。二戸市の中心・福岡町にある。思ったより広大な城跡であり、歩き尽くすのは僕には少し難儀。秀吉の天下統一に最後に立ちはだかった九戸政実(くのへまさざね)の居城だという。
近年、ここを故郷とする高橋克彦という人が『天を衝く(つく)』(講談社文庫)という長編小説を発表して政実のことを書いている。妻は前に読んでいるが旅行の前はあわただしく読み返すことが出来なかったらしい。
「荒城の月」の詩碑があったので読んでいるとこのあたりに住む田村さんが九戸城と豊臣軍の決戦について丁寧に解説してくださった。
九戸城址 http://www.bunka.pref.iwate.jp/pls/cult/kwd_detail?keyno=F000000192
九戸城の戦い http://www.bunka.pref.iwate.jp/rekishi/rekisi/data/azuchi_1.html
謀略によって降伏した政実は宮城県の栗駒山麓で約束に反し、処刑されたという。僕はこれらすべての史実に無知であり、田村さんと妻のやりとりに耳を傾けているだけだったが、ここにも栗駒の名が出てきたので妙に興味がわいてきた。このたびの地震で大きな被害を受けた栗駒山麓への思いは先に書いたことがあるが、政実を祀る神社があると聞き尋ねる理由がまた一つ増えたのである。『天を衝く』も読まねばなるまい。
それにしても6万もの秀吉の軍勢がこの城を取り囲んだというのだから驚きである。土井晩翠がこの城跡に立って「荒城の月」を詠んだとするのもむべなるかな。しかし、晩翠の詩碑は土にまみれ古城の一隅に放置されている。説明版一つ無い。
二戸になぜ九戸城址があるのかもわかった。この城は江戸時代初期には福岡城といわれたが南部が盛岡城を築くと廃城となる。近年城址の整備に当たり、福岡城址とする意見もあったが政実の戦いに因み九戸城址と命名されたという。田村さんのお話は穏やかな口調だがふるさとを深く愛し、政実を追慕する気持ちがこもっているようだった。夕暮れの古城址でお別れをして、私たちは今宵の宿「天台の湯」に向かった。
ここにはかなり遅くなってからだが、雅代さんのお連れ合い正行さんが迎えがてら来てくださった。二十歳過ぎに東京に出て働いているときにふたりは結ばれた。人の多いところは苦手らしく故郷に帰って仕事をしているが、その活動範囲は北は大間崎から南は盛岡付近にまで及ぶという。
僕のイメージする岩手人は隣のおじさんとKさんから構成されているが、正行さんも地味だが率直で親しみやすい岩手人だと思った。今は酒を酌み交わすわけには行かないがいつかまた出会える日があればどんなに嬉しいだろう。練習試合帰りの息子さんが待つ堀野の家に向かう二人と握手して別れる。今日は本当にありがとう。
起き抜けに宿近くの散歩。善知鳥神社がある。「うとう」神社と読むらしい。説明書きにこうある。
善知鳥神社は現在の青森市が昔、善知鳥村と言われた頃、奥州陸奥之国外ヶ浜鎮護の神として、第十九代允恭天皇(いんぎょうてんのう)の御世に日本の国の総主祭神である天照坐皇大御神(あまてらすすめおおみかみ)の御子の三女神を、善知鳥中納言安方が此の北国の夷人山海の悪鬼を誅罰平定して此の地を治め、その神願霊現あらたかな神々を祭った事に由来している。また、坂上田村麻呂の東北遠征の大同二年(807)に再建された。
散歩中の人に聞いても「善知鳥 」をなぜ「うとう」と読むのか、またその意味もわからない。「北国の夷人山海の悪鬼を誅罰平定」とあるから、平安朝の頃「えみし」といわれた先住民を虐殺・平定したあと創建されたのだろうか。
縄文文化の研究が進み、東北の地の先住民の精神文化の豊かさが解明されている中で「夷人」「悪鬼」だの「平定」だのとよくもいえるものだ。この神社を支えている人々の精神はどうなっているのだろう。
旧青森港桟橋にいって係留されている八甲田丸を見学。急行に乗って来て「終着駅青森」のホームから我先にと走った記憶が蘇る。朝の陽光に包まれた港から陸奥湾の風光を楽しむのは多分初めてだろう。桟橋から下北半島に向かう観光船に長い行列が出来ていた。今度はこれを利用して妻の母を仏ヶ浦に案内してやろうと思う。
三内丸山遺跡
巨大な縄文遺跡の発掘あとを公園のようなものにして無料開放している。僕が疲れていて元気がなかったせいかもしれないが、「縄文の風」はどこにも吹いていない。縄文の時代の森や川や海の気配はどこにもなく、人々の生活の息吹も感じられない。ただ展示物が並んでいるだけ。修学旅行の高校生の眠気を覚ます魅力はなさそうだった。早々に退散。
この日の午後は八甲田山のロープウェイ山頂駅付近に広がる散策路を歩く。湿原の展望台でひるね。絶景。目もくらむ城ヶ倉大橋を経て十和田湖温泉泊まり。
21日(日)
奥入瀬渓流から十和田湖・休屋へ。今度の旅で初めての曇り空。乙女の像まで湖畔を歩く。昔来たときとは場所が違っている?
昼過ぎ、二戸市堀野の雅代さんを訪ねる。18歳の時に別れて以来27年がたったが全然変わっていない。3人の子どもたちのうち二人は高校を出て東京で働いている。高校生の三男は今日、バスケットの試合で県南の一関らしい。
妻の車で町はずれの景勝地にある田舎料理店「四季の里」に行き昼食。この地方の名物(?)せんべい汁を食べる。夫君の故郷に来て十余年、子育てと労働に明け暮れてきた日々。あと一息で子育てが終わる。これからの長い人生に一抹の不安を感じているようだ。何を生きがいにしていくのか。もともと積極的に友達を作っていく方ではない。妻がいろいろとアドヴァイスをする。四半世紀の月日が流れたとはとても思えない。
こぶの木神社の祭礼
来る途中で出会った祭を見に行くことにする。新幹線二戸駅のある石切所地区のこぶの木神社の祭礼だが度肝を抜かれた。金勢様(男根)を載せた輿(こし)が先触れとなって練り歩いたあとを老若男女多くの人々にひかれた山車が進む。
http://www.igr.jp/Column/kobunoki/kobunoki.htm
神社に行ってみた。参道の民家の軒先につるされている行灯に川柳らしきものが書かれている。健康なエロスの発露。それを臍(へそ)出しルックの女子高校生の一団が声を出して読んで行く。性の営みがこんなにもあけすけに語られる祭りの風景が今の日本にもあったのだ。
神社には飴色に輝く素晴らしい金精様が安置されている。家族(?)につれてきて貰ったおばあちゃんが当屋のおじさんに勧められて手を伸ばしていいこいいこしている。僕も丁重にさわらせて貰って御利益を祈った。
このお祭りでは金精様を模した指輪やイヤリングが販売され人気を博しているらしいが、今年は祭りに間に合わなかったという。残念がっている人の声があった。
二戸駅前のバスターミナルには数台の山車が整列し、その前の広場で様々な出しものが披露されている。僕は地べたに腰を下ろして各層市民からなる吹奏楽団の演奏をきいた。土・日と二日続きでこの地区の文化活動の成果がこの野外で交流されているのだ。新幹線の駅はおおいがこのように地域の人々と直接つながっている風景はそうはあるまい。
九戸城址
後ろ髪を引かれる思いで九戸城址に向かう。二戸市の中心・福岡町にある。思ったより広大な城跡であり、歩き尽くすのは僕には少し難儀。秀吉の天下統一に最後に立ちはだかった九戸政実(くのへまさざね)の居城だという。
近年、ここを故郷とする高橋克彦という人が『天を衝く(つく)』(講談社文庫)という長編小説を発表して政実のことを書いている。妻は前に読んでいるが旅行の前はあわただしく読み返すことが出来なかったらしい。
「荒城の月」の詩碑があったので読んでいるとこのあたりに住む田村さんが九戸城と豊臣軍の決戦について丁寧に解説してくださった。
九戸城址 http://www.bunka.pref.iwate.jp/pls/cult/kwd_detail?keyno=F000000192
九戸城の戦い http://www.bunka.pref.iwate.jp/rekishi/rekisi/data/azuchi_1.html
謀略によって降伏した政実は宮城県の栗駒山麓で約束に反し、処刑されたという。僕はこれらすべての史実に無知であり、田村さんと妻のやりとりに耳を傾けているだけだったが、ここにも栗駒の名が出てきたので妙に興味がわいてきた。このたびの地震で大きな被害を受けた栗駒山麓への思いは先に書いたことがあるが、政実を祀る神社があると聞き尋ねる理由がまた一つ増えたのである。『天を衝く』も読まねばなるまい。
それにしても6万もの秀吉の軍勢がこの城を取り囲んだというのだから驚きである。土井晩翠がこの城跡に立って「荒城の月」を詠んだとするのもむべなるかな。しかし、晩翠の詩碑は土にまみれ古城の一隅に放置されている。説明版一つ無い。
二戸になぜ九戸城址があるのかもわかった。この城は江戸時代初期には福岡城といわれたが南部が盛岡城を築くと廃城となる。近年城址の整備に当たり、福岡城址とする意見もあったが政実の戦いに因み九戸城址と命名されたという。田村さんのお話は穏やかな口調だがふるさとを深く愛し、政実を追慕する気持ちがこもっているようだった。夕暮れの古城址でお別れをして、私たちは今宵の宿「天台の湯」に向かった。
ここにはかなり遅くなってからだが、雅代さんのお連れ合い正行さんが迎えがてら来てくださった。二十歳過ぎに東京に出て働いているときにふたりは結ばれた。人の多いところは苦手らしく故郷に帰って仕事をしているが、その活動範囲は北は大間崎から南は盛岡付近にまで及ぶという。
僕のイメージする岩手人は隣のおじさんとKさんから構成されているが、正行さんも地味だが率直で親しみやすい岩手人だと思った。今は酒を酌み交わすわけには行かないがいつかまた出会える日があればどんなに嬉しいだろう。練習試合帰りの息子さんが待つ堀野の家に向かう二人と握手して別れる。今日は本当にありがとう。