川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

北朝鮮⑦朝鮮総連(中)

2009-04-15 07:12:09 | 韓国・北朝鮮
 夜来の雨が上がり抜けるような青空です。この詩を思い出します。
 
 送元二使安西  (元二の安西に使するを送る)

          王維

  渭城朝雨浥軽塵   渭城(いじょう)の朝雨(ちょうう)軽塵(けいじん)をうるおす
  客舎青青柳色新   客舎青々(かくしゃせいせい)柳色(りゅうしょく)新たなり
  勧君更尽一杯酒   君に勧む更に尽くせ一杯の酒
  西出陽関無故人   西のかた陽関(ようかん)を出ずれば故人なからん 



 昨夜、室戸から嬉しい電話がありました。大阪に住む美智子さんの久しぶりの故郷訪問ということで松山から将史さん夫妻も駆けつけています。何よりも嬉しいのは姪(めい)が来たというので桂子おばさんが我が家に来てくれたことです。近くに住んではいますが長く闘病中のため暫くこのような席にも出られなかったのです。よっぽど嬉しかったのでしょう。
 電話を通して歌舞音曲の賑やかな様子が伝わってきます。父が逝って一年半、我が家に久しぶりににぎわいが戻ってきたのです。妻と二人で、故郷の親戚の一人一人と順番に会話しました。桂子おばさんから力強い励ましを受けました。


 以下は昨日の続き。

 朝鮮学校・朝鮮総連と私  高英起

■北朝鮮の民主化へ~RENK闘争の日々~
その後、RENKは「緊急行動ネットワーク」という名称通り、様々な行動をします。我々は、まず声を挙げて、北朝鮮の実情を世間に知らしめて、この問題に関心を持ってもらうしかないと。そのためにはカラダを張ってでも抗議行動をするべきだ。そして北朝鮮当局に、こういうふうに北朝鮮を批判している勢力があるんだということをアピールするべきだと朝鮮総連本部に抗議行動をしたり集会やデモをしました。
 一番効果的だったのが、当時、頻繁に日本に訪れていた北朝鮮の高官に対する直接デモでした。あの手、この手を尽くして北朝鮮の要人が来る日程に合わせて、ビラを配ったり、トラメガを使って抗議行動をしました。新幹線で来るとなったら新幹線の駅まで迎えに行って、垂れ幕で北朝鮮の民主化を訴える。港に船がつくとなったらモーターボートをチャーターして会場で抗議行動をする。どこへ行ってもゲリラ的にどこからか出現して少人数にも関わらず、抗議行動をするRENKに対して朝鮮総連や北朝鮮当局はさぞかし、苦い思いをしたことでしょう。「海上抗議行動」を敢行した我々の内部では「陸上戦と海上戦は偉大なる勝利で制覇した。残るは空中戦だけ。次は空からの抗議行動だ!」というような勇ましい声もありましたが、残念ながら空からの抗議行動は実現するに至っておりません。抗議行動をする中で一番ビックリしたのは、黄長(ファン・チャンヨプ)さんの韓国亡命です。実はあの方が、京都で講演している真横で、我々が大きい抗議行動したんです。その翌日か、翌々日に亡命したって聞いた時は、ビックリして、勝手に「俺たちの抗議行動に黄長(ファン・チャンヨプ)氏が突き動かされた!」(笑)なんて勝手に解釈してました。後日談によると実は黄長氏は、中国ではなく、日本での亡命を望んでいたが、RENKがしつこくつきまとうので、総連も警備を強化せざるを得なくなり、結果として黄氏が自由になれず、日本での亡命を断念したとの事です(笑)。
 いずれにせよ、直接抗議行動を通じて、わずかながらも北朝鮮の実状に目を向ける方も多くなり、手応えを感じながら北朝鮮の民主化を叫んでいました。

■ 日本での運動の限界~中国東北地方で北朝鮮民主化を叫ぶ~ 
 RENKは北朝鮮の民主化を訴えてますが、一番最初のきっかけは北朝鮮の食糧事情が悪化しており、このままでは餓死者も出るかも?という李英和さんの主張が出発点です。もちろん、その悪化の原因は故金日成と金正日の独裁体制に起因するということで、民主化をうったえることになりますが、きっかけは食糧問題です。そして、李さんの分析は見事に当たり、94年頃から北朝鮮で餓死者が出るようになります。その事実が、メディアを通じて徐々に人の目に触れるようになって来たことから、RENKの中で日本という限定された地域での活動の限界が議論されるようになりました。特に以前、この学習会でも講師をされたアジアプレス所属のジャーナリスト、石丸次郎さんの北朝鮮の生の情報は、我々に飢餓に苦しんでいる北朝鮮の人々を助けなければいけないという重要性を感じさせました。とは言っても直接北朝鮮に行くこともできない現状の中で、李英和さんや石丸次郎さんから誰かが中国吉林省延辺に長期滞在して北朝鮮難民の支援や実状を調べる作業が必要だという提案がされたのです。その提案に立候補したのが僕でした。
当時、僕は大阪市の水道局に勤めていました。不景気で公務員ということで周りから羨まれる立場でしたが、もっと広いフィールドで自分の北朝鮮を見る目を養いたいという強い願望があり、結果的に水道局を辞めて、延辺に旅立つことにしました。長期に滞在するわけですから、しっかりとした理由が必要ですので、一応表向きは留学生という形で、留学することになりました。
今でこそ、延辺をはじめとする中朝国境はニュースなどにもよく出ているし、そんなに特別な都市ではないのですが、当時は、恥ずかしながら僕自身中国東北地方の北方の延辺って、どういう都市かわからないし、北朝鮮の工作員もウヨウヨしているという話もあったので、僕が延辺で脱北者と会ったり、支援をしている中で、何か自分の身に起きるんじゃないかということを思ったりもしました。そんな話をウチの連れ合いとする中で、何か自分の身に起こった時のために忘れ形見が欲しいなあという話になって、延辺に旅立つまでにがんばって子どもを作ろうという話になりました。せっせと励んだ挙句(苦笑)、幸い延辺に立つ直前にウチの妻が妊娠しました(テレ笑い)。しかし、いざ妊娠したとなるとさすがに焦りも生じたのですが、なんとか子どもの顔を見れるように帰ってこようと自分自身を奮い立たせて旅立ちました。
 延辺大学には語学留学生という形で所属しました。僕は3年間朝鮮学校に通ったので、朝鮮語の基礎は、ある程度あったんですけど、3年間で学んだ朝鮮語の基礎なんて大したことはないし、朝鮮学校って確かに朝鮮語で授業をしていますが、そんなに語学のレベルは高くないんで延辺大学の留学生活で朝鮮語を学びながら、地元の協力者と手を結びながら、脱北者の支援と調査を始めました。
 実際に中朝国境で学生生活と活動という二重生活をする中で、もっとも衝撃的だったのが、北朝鮮の子どもたちの惨状でした。僕が滞在した1997年と1998年は、もっとも脱北者が多かった時期と言われています。たとえば、町の中心の市場に行く度に、所謂『コッチェビ』と言われる北朝鮮の子供を見かけました。中国には中国人の浮浪児もたくさんいるんですが、明らかに北朝鮮の浮浪児とは違うんです。何が違うかというと、まず年齢と体格が合っていないんですね。年齢を聞くと、12歳と言うんですけど、どう見ても幼稚園児くらいの年齢にしか見えないんです。あと、皮膚病にかかっていたり、体のバランスが非常に悪い、頭だけが異常に大きかったりとか、後でお医者さんに聞いたら、病気ではなくて、栄養失調でそうなるらしいんです。
そういう子供たちに毎日のように会う。子供たちを見つける度に、近くで買ったパンとか、飯など食わせながらいろいろ聞いていくんですけども、子供たちの口から出てくる状況というのが、悲惨な状況で、初めて北朝鮮の悲惨な状況というのを、自分の目で見て、聞いたというのを感じました。

■想像を絶する北朝鮮の飢餓地獄
飢餓、飢餓といっても、なかなか僕ら日本に住んでいたら、想像できないと思います。食べ物がなくなって亡くなっていく、それだけでも想像できないと思うんですよ。どうやって死んでいくんかなっていうのは、なかなか想像できないと思います。子供たちに話しを聞くと、食べる物がなくなっていくだけが、直接の死因じゃないと。食べる物がなくなることによって、栄養失調になって体力なくなって死んでいくだけではなくて、感染症や病気にかかりやすくなって死んで行く。さらに衝撃的だったのは、そういった話を子どもたちがさりげなく話をする。もちろん両親が死んだという話しになれば涙ながら話す子どももいましたが、それ以外の子どもは近所の人が死んだの親戚が死んだのという話を日常会話のように話す。それだけ飢餓が一般的だったということですね。そういった子どもたちの証言を日本に伝えるわけですが、当時、日本の中ではそういった証言に対して、そういう悲惨な話をすれば韓国人や旅行者がお金をくれるから、大げさに言ってると反論するような人もいたらしいです。子どもたちに話を聞くときは裏取りのために同じ事をしつこく聞いたりするのですが、ほとんどの子どもが首尾一貫して、事実をありのまま話していました。中には、それらの子どもは北朝鮮の子どもではなくて、中国の子どもだというような滑稽な反論もありましが、中国人いわゆる漢族の浮浪児はいても、朝鮮語を話せる朝鮮族の浮浪児は本来ほとんどいない。さらに僕は北朝鮮の子どもに話を聞くときに必ず、金日成と金正日の誕生日を聞いていました。この二つを淀みなく答えられるのは北朝鮮で育った人間ぐらいしかいてません。子どもたち以外の脱北者にもたくさん逢いましたが、みな悲惨な生活を送っていました。
その後、野田正彰(精神病理学者、関西学院大学教授)さんというお医者さんが、フィールドワークとして、北朝鮮の脱北者の心理状況を知りたいということで、一緒に中朝国境で脱北者の話を聞く機会があったんですけど、子どもたちの背が低かったり、成長していないのは、飢餓によるものだが、もし彼らが今後、ある程度栄養状態が改善されて、満足に食べられたとしても、確実に障害は残って、完治はしない。そして飢餓の傷跡は、10年、20年どころか下手をすれば100年かかるかもしれないと指摘された時は、改めて僕自身「あ~北朝鮮の問題に取りかかるのが遅すぎたなぁ~」と思いましたが、少しでも状況を改善するために改めて北朝鮮は民主化されるべきだと思いました。(つづく)