川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

アテルイの里

2009-04-25 04:43:12 | 出会いの旅
 これから山形県北部・秋田県を訪ねる「羽州花の旅」に出発です。昼前には酒田に着きます。都立北高校87年入学の李さんは中国黒竜江省から帰国(?)した際、お祖母ちゃんの故郷・酒田に住んだといいます。

 「私が通っていたのは、酒田市の宮野浦小学校です。川の向こうです。1982年の6月から1983年4月?(小学校5年生)までです。東京に来てから行ったことがありません。その時の校長先生と担任先生、姉と弟の担任、売店のおばさん皆
が優しかった印象が残っています。」

 82年といえば27年も昔のことですが、地図で見ると最上川の河口部と言うべきところに今もその学校はあります。近くに飯森山公園があり一度は訪ねようと思っていた南洲神社が此処にあります。
 短い間ではあっても李さんにとっては最初の「日本」です。どんな思い出が刻まれているのでしょう。そんなことを想像しながらこの辺りも歩いてみたいと思います。

 菅原幸助さんの卒業した大山小学校は鶴岡市の羽前大山駅の近くです。92年夏、北高校の庄司さん姉妹とお祖母ちゃんの故郷・鶴岡を訪ねたことがあります。こうしてみるとこの町も何だか身近に感じられます。

 「満州建国の父」と言われた石原莞爾(いしわらかんじ)が鶴岡の出身だと菅原さんに教えて貰いました。庄内と「満州」は太い線でつながっていたのです。菅原さんも石原の影響を受けて「満州」に夢を抱いたとのことです。鶴岡にも行けるかなあ。


 以下は5年前の文章です。「奥羽」と言われる地方を旅した時の忘れられない記憶です。今回金沢の柵は再訪できるかな?

 「川越だより」は多分30日までお休みです。ごめんなさい。



 わらび座とアテルイの里(「列島ところどころ」⑤ 『木苺』116号)

                     鈴木啓介
 
 劇団わらび座が運営する田沢湖芸術村(TEL 0187-44-3316)の無料宿泊券があたったのを機に、03年10月に秋田・岩手・宮城と蝦夷(えみし)の世界を訪ねた。

わらび座劇場での『アテルイ』公演は終了していたが、妻が旧知の茶谷十六さんに民族芸術研究所を案内してもらった。日本の津々浦々の民謡や民族芸能の蒐集の宝庫である。朝鮮通信使を劇化した“つばめ”の制作にかかわって韓国各地の民族芸能も多数採録されている。
わらび座の本拠がここにうつされて以来30余年、こうした地道な研究を土台にして、民衆に依拠した演劇活動がつづけられてきたのであろう。自分たちの知恵と労力で建てられたという練習場が今は研究所として役立っているのだが、風雪に耐えてしっかりと大地に根をはってきた古木を思わせる風情がある。
ぼくよりはいくらか先輩になるが茶谷さんたちのこの北国での営為は人間の可能性というものをまざまざとみせてくれて、感動する。


4泊5日の旅で訪ねた蝦夷の故地は次の通り。

保田柵跡 秋田県仙北町(0187-69-2397)。800年ごろに造営された朝廷側の柵とみられる。

金沢柵跡 秋田県横手市(0182-37-3510)。蝦夷系清原氏の本拠地。後3年の役で陥落。 

鳥海柵(とのみのさく)跡 岩手県金ヶ崎町。蝦夷系安倍氏の本拠地。前9年の役で1062年陥落。

胆沢(いざわ)城跡 岩手県水沢市。胆江地方攻略の拠点(鎮守府)として802年造営開始。

えさし・藤原の郷 岩手県江刺市(0197-35-7791)。藤原三代の建造物を再現した公園。

中尊寺 (略)

達谷窟(たっこくのいわや) 岩手県平泉町北沢(0191-46-4931)。

多賀城 宮城県多賀城町市川。8C初、陸奥の国府と鎮守府がおかれ、蝦夷攻略の最大拠点。

 予習なしの行きあたりばったりの旅で、保田柵などは名前すら聞いたことがなかった。地図でみつけて寄ってみたのだが、その規模は予想外に大きく公園のように整備されていた。
秋田県教委のつくった説明パネルもあったが史観が「中央」寄りで、蝦夷の側からの視点がほしいと抗議(?)する地元の人らしい青年が印象に残った。
これにくらべればかつて「日高見(ひたかみ)国」とよばれたという岩手県南部の水沢・江刺地方(胆江地方というらしい)の人々の姿勢ははっきりとしているように思われた。私たちが泊まった「サンピア金ヶ崎」という国民年金宿泊施設にも「アテルイの里」と書かれていたし、地ビール“アテルイ”というのまである。

胆沢城跡は胆沢川が北上川にそそぐあたりにあるが、今なお発掘調査の途上であるらしい。政庁南門跡の近くに水沢市埋蔵文化財調査センター(水沢市佐倉 0197-22-4400)があり、展示室が立派な博物館となっている。
ここでは『鎮守府胆沢城と蝦夷の世界探訪』というパンフレットをいただいた。「アテルイの里情報―見なおそう古代、見つめよう次代」というサブタイトルがついていて、胆江地方の蝦夷の世界を歩くよりどころとなる。
また、副所長の伊藤博幸さんがシリーズで『阿弖流為(①~⑥)』というわかりやすい小論文を書いて、私たちの啓蒙をしてくれている。
これらの文書や旅の見聞に刺激されて、帰ってから『蝦夷・アテルイの戦い』(久慈力・批評社)を読み、さねとうあきらさんの『赤いシカの伝説』(花伝社)を再読した。

百済系とみられる桓武天皇がしかけた「蝦夷征伐」という名の胆江地方侵略戦争のすさまじさ。やはり渡来系の坂上田村麻呂が副将軍として派遣された第二次征東(794年)の際、動員された朝廷軍は何と「軍士10万人、軍監16人、軍曹18人」だという。
アテルイの名が『続日本紀』に初めて登場するのは789年だが、彼は部族ごとに形成された蝦夷戦士集団の連合軍を編成し、陽動作戦とゲリラ作戦でこの侵略軍と13年間にわたって戦い抜いたという。
 征夷大将軍となった田村麻呂が胆沢城造営中の802年4月15日、アテルイは蝦夷戦士500余人を率いて投降。朝廷は8月13日河内国で処刑(大阪府枚方市片埜神社にアテルイの首塚といわれるものがあるという)。
 

中尊寺から多賀城方面に向かう途中で達谷窟を訪ねた。坂上田村麻呂が達谷窟を根城に良民を苦しめる「悪路王」を討ち、蝦夷平定は毘沙門天(びしゃもんてん)の加護と感じ、毘沙門堂を建てたという。
 夕方で窟の奥は確認できなかったが、洞窟をふさぐように清水寺の舞台のような巨大な堂宇が建っていた。傍に「別当常住」という人の名でこう記してあった。

「この頃、征夷大将軍坂上田村麻呂公を中央からの侵略者、悪路王こそそれに抗した郷土の英雄とする考えがあるが、これはおかしい。悪路王は民衆を苦しめ、それを救ったのが田村麻呂であり、大将軍こそ東北古代史の英雄である」(概容)。

『アテルイの里情報』には「東北各地に多くの田村麻呂伝説が残り、田村麻呂が征伐したエミシとして“悪路王”や“赤頭”などが登場しています。アテルイの名前は歴史に埋没し、悪者として脚色された姿をとどめています」とある。
 ぼくは明日わらび座のミュージカル『アテルイ』を池袋で見る。
(04.2.7.)